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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

山風蠱 爻辞

18 山風蠱 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、幹父之蠱、有子、考无咎、終吉、

初六(しょりく)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、子(こ)有(あ)れば、考(亡父=なきちちも)咎(とが)无(な)し、(あやう)けれども終(つい)には吉なり、

幹とは木の幹(みき)のことにして、枝葉花実はこの幹の力ひとつで維持されているのである。
したがって、よくその任に堪え、その事を行う義とする。
今、蠱のときに当たり、初六は子にして、父の蠱=失敗を後から修復する者である。
初六は陰爻なので、その性質柔弱にして才力不足ではあるが、幸いに蠱の初めに当たるので、その敗れは未だ大きくはない。
したがって、陰柔であっても、その任に堪えられるのである。
だから、父之蠱れに幹たり、という。
およそ、事の大小となく、失敗するときは、何らかの咎が有るものである。
しかし、よく蠱れに幹たる子が有れば、その父親が失敗して命を落としても、その後を修復して治め補い繕い、亡き父もその咎を免れることを得るのである。
しかし子がいないときは、誰もなかなかその失敗を修復してはくれないので、その咎は永く消えることがないものである。 だから、子有れば、考も咎无し、という。
考とは亡父のことを指す。
この爻は蠱の初六なので、その失敗は浅く小さいものだが、同時に初六は陰柔なので、これを修復して治めるには艱難労苦するので、さもある。
しかし、怠慢なくよく務める時には、終に成功を得て吉となるものである。
だから、けれど終には吉なり、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、幹母之蠱、不可貞、

九二(きゅうじ)、母(はは)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、貞(かた)くす不可(べからざる)べし、

母とは六五の爻を指して言う。
今、蠱のときにして、九二の子は剛中の才徳が有り、六五の母に相応じている。
これは、九二の剛中の子が六五の母に仕えて孝行している象義である。
ところがこの母は、寡母=未亡人であることをよいことに、蠱惑壊乱を好む傾向があり、その室に安んじていない。
それをこの子は、よく修めるのである。
だから、母之蠱れに幹たり、という。
母に蠱惑壊乱の行いがあるときに、子としてこれを諌めないのは大義を害することではあるが、強いて諌めるときには愛を損ない親しみを失うものである。
とすると、強行に意見したり行動を規制するのではなく、しばらくは従容として恭敬と親愛を以って接し、自然に感じ化して、自ら改めるように持って行くしかない。
未亡人となり、心の拠り所を失った寂しさは計り知れないものがある。
恭敬と親愛を込め、時間をかけて少しずつ諌めるしかないだろう。
だから、貞くす不可べし、という。
この場合の貞は、正論に固執して強く眉を顰めて何が何でも早急に諌めようとすることを指す。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、幹父之蠱、小有悔、无大咎、

九三(きゅうさん)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、小(すこ)しく悔(くい)有(あ)れども、大(だい)なる咎(とが)は无(な)し、

九三もまた子である。
陽剛の才が有り、よく父の失敗した後を修める者である。
だから、父之蠱れに幹たり、という。
ただ、九三は剛に過ぎているので、ややもすれば物事をやり過ぎてしまう傾向がある。
したがって、やり過ぎが多少問題を生じ、少し悔いが残る。
としても、陽剛なので、全体としては、終にはよく失敗を建て直し修め得るので、大なる咎には至らないのである。
だから、小しく悔有れども、大なる咎は无し、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六四、裕父之蠱、往見吝、

六四(りくし)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに裕(ゆる)めり、往(な)すこと見吝(いやしめ)らる、

六四は陰柔不才にして、父の蠱を見ながらも、これを修復することに緩慢怠惰で、遂には修復できない者である。
だから、父之蠱れに裕めり、という。
子としてその父の失敗を修復しないで放置して平然としていれば、不孝の子として、何処に往き何をするにしても、軽蔑されるものである。
だから、往すこと見吝らる、という。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六五、幹父之蠱、用誉、

六五(りくご)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、用(もち)いて誉(ほまれ)あり、

六五は君であるが、同時に先君の子であり、柔中の徳が有り、九二剛中の賢臣と陰陽正しく応じている。
したがって、よく九二剛中の賢者を用いてこれに委ね任せて、己が徳を輔弼せしめ、以って父=先君の失敗の後を修復して治める者である。
だから、父之蠱れに幹たり、用いて誉あり、という。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上九、不事王矦、高尚其事、

上九(じょうきゅう)、王矦(おうこう)に事(つか)えず、其(そ)の事(こと)を高尚(こうしょう)にす、

上九は蠱の卦の終わりである。
蠱の壊乱は、初六の無位庶人の爻よりして六五の君位の爻に至って、天下国家の大小上下の事、既に修復して、今は平らかに治まったときである。
上九の爻にては、もはや修復するべきところの蠱れはない。
そもそも上九の爻は、陽剛にして才力が有るとともに全卦の極に居るので、乱を撥(はら)い、業を修めるところの大力量大手段を具えた爻であり、天下は壊乱し、百姓は塗炭に堕ちて水火に苦しんでいた。
その億兆の痛悩を傍観するに忍びなく、初より五に至るまでの撥乱修治のときに当たっては、その才力を発揮して天下の壊乱を修め、災厄を祓い救ったのである。
そして今、すでに五の君位の爻に及びて、天下の蠱敗も悉く修復され、人々は富貴栄達の恩賞を受けるときに至ったのである。
しかし上九は、不中不正であるとともに、ニ五君臣の外の高く卦極に艮(とど)まり居るので、平時の治世には疎い者である。
要するに、平時治世の富貴の中での仕官は不得手なのである。
とすると、自らの短所をよく省みて、富貴安楽の封禄は辞して仕えるべきではない。
仕えれば失態もあり、せっかく壊乱を救い修めた功績も色褪せることになろう。
したがって、褒美にあずからず、急流勇退し、功を遂げて身は退き、天の道に順がい、王侯にも仕えず、その事跡を高尚なものにするのがよい。
だから、王矦に事えず、其の事を高尚にす、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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水上 薫

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(C) 学易有丘会


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