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明日に架ける橋

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沢地萃 爻辞

45 沢地萃 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、有孚不終、乃乱乃萃、若号一握為笑、勿恤、往无咎、

初六(しょりく)、孚(まこと)有(あ)れども終(お)えず、乃(すなわ)ち乱(みだ)れ乃(すなわ)ち萃(あつ)まる、若(も)し号(さけ)べば一握(いちあく)して笑(わら)いを為(な)さん、恤(うれ)うる勿(なか)れ、往(ゆ)くは咎(とが)无(な)し、

今、四陰が二陽に萃(あつ)まる時に当たって、初六は九四の正応である。
しかし、四は臣、五は君であり、君を捨ててまでして、正応の九四の臣に萃まるのは、孚の道ではない。
したがって、初六に孚が有り、九五に萃まろうと欲しても、正応の九四に萃まらざるを得ないのだから、九五に萃まろうと欲する孚を遂げ終えることは不可能である。
だから、孚有れども終えず、という。
このように、初六はその志を遂げられないので、心が乱れ、半ば九四に萃まろうとしつつ、それでも半ば九五に萃まることを欲する。
だから、乃ち乱れ乃ち萃まる、という。

今は九四に隔てられて、九五の君に萃まることはできなくても、志を堅固にして九五に萃まることを欲し、それがために叫ぶに至る如くであれば、必ずいつかは九五に謁見して、喜び笑うことができるものである。
だから、若し号べば一握して笑いを為さん、という。
一握とは、相手と会って握手をすることを指す。

初六は九五の応位ではないので、強いて往けば咎が有りそうにも思えるが、今は萃の時であって、臣を以って君に萃まるのである。
何の咎もないに決まっているのであって、往くこと躊躇して憂い恤うることは何もない。
だから、恤うる勿れ、往くは咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、引吉、无咎、孚乃利用禴、

六二(りくじ)、引(ひ)けば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)あらば乃(すなわ)ち禴(やく)を用(もち)うるに利(よ)ろし、

今、四陰が二陽に萃るの時に当たって、初は四の正応にして、三は四の正比である。
これはみな九五の君に萃まれない、あるいは萃まらない者である。
そんな中、この六二のみ柔順中正にして、四に応じず比せず、九五の君に正応している。
これは、吉にして咎のないことである。

しかし、六二は下卦に在って大臣の位に居る。
その下卦坤の同体中の初と三とを引き連れて九五の君に萃まらず、初や三を九四の権臣に萃まらせるのは、下に在る大臣の職任においては、咎のあることである。
したがって、六二の大臣は、同じ下卦坤の体中にある初と三の二陰爻を引き連れて九五の君に萃まらせることこそが、吉にして咎のないことなのである。
だから、引けば吉なり、咎无し、という。

禴とは薄い祭りのことである。
六二は中正にして君に孚の有る者である。
君に孚の有るときは、必ず神にも孚を以って接する。
孚が有って祭祀するのであれば、供え物が少ない薄い祭りであっても、神明は必ず感じ格(いた)るものである。
だから、孚あらば乃ち禴を用うるに利ろし、という。

そもそも神とは、集ればそこに在り、散ればそこにいないものである。
この沢地萃は集るの卦なので、神霊を集めて祭祀を行うことにも言及する。
爻において見れば、五は天神の位にして、二は五の応位なのでその祭主とする。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、萃如嗟如、无攸利、往无咎、小吝、

六三(ろくさん)、萃如(すいじょ)たり嗟如(さじょ)たり、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、往(ゆ)くは咎(とが)无(な)し、小(すこ)しく吝(はずか)し、

萃の道は、九五に集るのを正とする。
これを以って、六三もまた、九五に萃(あつ)まろうと欲するが、九四に隔てられる上に、五は三の応比ではないので、直ちに集るのが難しい。
萃如として九五に集りたくても、障害があって集れず、嗟如として憂い歎いているのである。
だから、萃如たり嗟如たり、という。
このまま九五に集らず、上って九四に比する時には、萃の時の道に違う。
道に違うことが、よいわけがない。
だから、利ろしき攸无し、という。
もし、六三が九五に往き萃まる時には、応比の位ではないが、臣を以って君に萃まるのだから、咎はない。
だから、咎无し、という。
もとより六三は、陰柔不中正なので、心は弱く、九四に親比している。
そこで、初めより、憤然として志を決して、九五に萃まることは不可能なので、後に往きて九五に萃まろうとする。
しかし、そういう態度は、辱められ、後ろ指をさされるというもの。
だから、小しく吝し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九四、大吉、无咎、

九四(きゅうし)、大吉(だいきち)なり、咎(とが)无(な)し、

この卦は九四と九五の二陽爻が、ともに剛明の才徳が有る。
このように、君上と宰相とがともに剛明ならば、天下の臣民はその徳化に服従しないはずがない。
万民は悉く君徳に萃まるものである。
これこそ、大吉である。
大吉とは、大いに得るという義であって、大いに民心を得る、ということである。
大いに民心を得たら、公正を以って国家のため君のために尽くすことが大事である。
そうすれば、咎はない。
もし、九四が民心を得るを以って、これを己の徳、己の功と自負し、自家の威権を盛んに張り、君の家を蔑視する意が有れば、これは大悪大凶の道である。
だから、大吉なり、咎无し、という。

上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五、萃有位、无咎、匪孚元永貞、悔亡、

九五(きゅうご)、萃(すい)のとき位(くらい)を有(たも)つ、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)とせられ匪(ざ)れども元(おお)いに永(なが)く貞(つね)あれば、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、

四陰が二陽に萃まるときに当たって、四は臣の位なので、これを萃め有(たも)つときには、国家のためではなく、自分のためでしかないのであって、大いに咎がある。
しかし、この五は君の位なので、これを萃め有(たも)つのは国家のためでもあるのであって、何の咎もない。
だから、萃のとき位を有つ、咎无し、という。
とは言っても、九四の大臣は威権を盛んにして、君と民との間に在るので、九五の君の徳言徳行はきちんと下民に通じない。
これを以って下民は、九五に恵心が有ることを知り難く、君を信頼できず、なかなか孚としない。
これは、九五にとっては、悔いの残ることである。
そうであっても九五は、大いに永く貞常の徳を有して、民を恵む志が間断ない時には、下民もいつかは君徳を孚として、九四の門に集まっていた者も悉く九五に萃まり来るものである。
孚とされれば、悔いは亡ぶ。
だから、孚とせられ匪れども、元いに永く貞あれば、悔い亡ぶ、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上六、齎咨涕洟、无咎、

上六(じょうりく)、齎咨(せいし)涕洟(ていい)すれば、咎(とが)无(な)し、

齎咨涕洟とは、歎き悲しみ泣く様子である。
今は萃の時である。
上六は陰柔不中にして、兌口の主である。
したがって、強いて九五の君に比し萃まろうとする。
これは、重陰不中姦佞の小人であって、巧言令色を以って君上に取り入って信用を得、君寵を利用して威勢を逞しくしようと画策する者である。
しかし、この九五は剛健中正なので、よく徳を守って姦佞陰邪の小人を防ぎ斥ける。
これを以って上六の小人は、君辺に萃まる必要のない者とされる。
上六は、このときに当たって己の身の安泰を求めるのならば、巧言令色佞媚姦謀を以って人を欺き身を立てようとして道に背き義に悖ることの宿罪前非を痛く悔いて、厳しく改め、嘆き悲しみ泣き、正しきに復(かえ)ることである。
そうすれば、これ以降は罪咎を免れるというものである。
もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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