
先日、たまたまネット上で、
天保年間に描かれた歌川国芳の東都御厩川岸之図についての記事を見た。
向かって右の傘の上に千八百六十一番と書いてあるのだが、この意味を探るものだ。
この数字は貸し傘の番号ということだが、千八百本も貸し傘を用意する店があるのだろうか?
普通では有り得ない数なのだから、何か、暗号的な意味があるのではないか?
歌川国芳が亡くなったのは文久三年、西暦に換算すると1861年になる。
とすると、自分の死期を予知していて、
なおかつ当時からすでに西暦を知っていて、こんな数字を書いたのではないか?
といったオカルト・ファンタジーな考察で締め括られていた。
歌川国芳には別に、スカイツリーであるかのような塔を描いた作品もあり、
それがそんなファンタジーな考察を生み出したのだろう。
専門家が見れば、スカイツリーのような塔は、実際は井戸掘りの櫓に過ぎないとのこと。
だったらやはり、,
傘の数字も、死期を予知してそれを西暦で書いたなんていうファンタジーもあり得ない、
というものだ。
しかしこの数字についての解説を施した専門家がいないので、
言いたい放題になっている、
といったところだ。
そこで私が、僭越ながら専門家に代わって、
この数字の地に足をつけた解説を施してみることにした。
実はこの数字の意味は、
現代のアカデミズムの手法ではなく、江戸時代の人々の価値観で考えれば、
すぐピンと来ることなのだ。
江戸時代によく読まれていた書物の中に吾妻鏡という鎌倉時代の日記がある。
その吾妻鏡の中に、
建仁元年八月に、関東地方に大雨大風で、甚大な被害を被った、
という記事がある。
今で言う台風のことで、
現代でも歴史上の台風として、この記事は必ず取り上げられるほど重要なものである。
その建仁元年は西暦1201年になる。
しかしそう認識するのは現代人であって、
現代のアカデミズムもそこで思考がストップしてしまう。
だからわからないのだ。
江戸時代の人々は、建仁元年が西暦1201年だなんてことは知らない、
知ったとしてもどうでもよいことなのだ。
江戸時代の人々にとっては、西暦1201年ではなく、皇紀1861年なのだ。
傘の数字の1861=千八百六十一と皇紀1861=千八百六十一年、
見事に一致するではないか!
念のため付け加えると、
皇紀とは、日本書紀の神武天皇即位年を起点とする暦法で、
その神武天皇即位年は西暦紀元前660年だから、
西暦に660加算すると皇紀になる。
もっとも皇紀という呼称は、
明治になって西暦との混同を避けるために付けられたものであって、
幕末までは神武以来○○〇〇年、といったふうに使われていたのだが、
ここでは便宜上、皇紀と呼ぶことにした。
そもそも江戸時代までの文献等の意味不明な数字は、
神武以来の年数すなわち皇紀で何かを伝えようとしている可能性が、
最も高いのものなのだ。
しかしそのことを無視し、西暦一辺倒で歴史を考察するのが、現代のアカデミズムなのだ。
だいたい幕末までは、西暦で何かを伝えようとするのは、隠れキリシタン以外は有り得ないのだ。
キリスト教は、良識ある人々からは、耶蘇の如き邪教として嫌われていたのだ。
が、とにかく国芳は、
吾妻鏡で読んだその皇紀1861年=建仁元年の大雨大風を思い出しつつ、絵筆を動かしたからこそ、
ふと、この1861という数字を描き入れてみたくなったのではないだろうか。
当時、この絵を見た人々にしても、
最初は意味不明だけど、暫くこの数字を眺め、あれこれ考えているうちに、
やがて吾妻鏡の大雨の記事を思い出してニヤっとし、
つい財布の紐を緩めてしまった、
という面もあったのではないだろうか。
要するに購買欲をそそるための仕掛けだった、
ということである。
令和3年(皇紀2681年)8月26日


