
コロナウイルス感染を防ぐため、欧米では外出禁止令で出ている。
しかし日本では、外出自粛要請に止まっている。
日本人は法的な拘束力のない要請でも、ちゃんと従おうとするからだ。
一方の欧米では、法的拘束力のない要請は、ほとんど聞こうとしない。
なぜ、こうも違うのか。
それは日本人には、欧米人にはない、「上を敬う」という思いがあるからだろう。
日本には敬語というものがある。
例えば日本語では、先生の発言を、先生が仰った、と言うが、
英語ではThe Teacher said.である。
これをもう一度に日本語に訳せば、先生が言った、ということである。
「仰った」という敬意を込めたニュアンスは消えてしまう。
要するに、英語には敬語表現がないのだ。
したがって彼等は、日常生活の中で、目上の人を敬うという気持ちがないのだ。
これは英語だけではない。
イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、中国語や韓国語など、
ほとんどの言語が同様だという。
だからそういった国々では、
法的な拘束力のない要請は、政府からのものだとしても、
真剣に受け止めようとしないのだろう。
敬う気持ちがあれば、法的な拘束力がなくても、従おうとするのだが……。
逆に言えば、法治国家には敬う気持ちなどは必要なく、
法律で脅して民衆を従わせることが正義なのだ。
だから民衆も法律を盾に脅されなければ従わないのだ。
どっちがよいと思うかは、人それぞれだろうが、
中国古典の『論語』が絵に描いた餅になってしまった中国や韓国と違って、
日本ではその精神が今も生き続けている。
これは、この日本語の敬語表現があるという特殊性ゆえではないかとも思う。
法律で縛るのではなく、礼を以って敬うことで、世の中を緩やかにまとめ、
貧富の差が少なく、優しさに溢れた心豊かな社会を作ることが、
孔子の理想だったわけだが、
日本人のものの考え方の根本は、この『論語』にあると言っても過言ではないと思う。
もう少し言うと、その『論語』の奥には「易」の理論があるのだが、それはまた別の話。
とにかく、そんな思いから私は、最近新たに『漢文として楽しむ論語』というサイトを作った。
もちろん書き下しと現代語訳、解説も添えてあるので、誰でも楽しめると思う。
よろしければ↓ご覧くださいませ。
『漢文として楽しむ論語』
しかし日本では、外出自粛要請に止まっている。
日本人は法的な拘束力のない要請でも、ちゃんと従おうとするからだ。
一方の欧米では、法的拘束力のない要請は、ほとんど聞こうとしない。
なぜ、こうも違うのか。
それは日本人には、欧米人にはない、「上を敬う」という思いがあるからだろう。
日本には敬語というものがある。
例えば日本語では、先生の発言を、先生が仰った、と言うが、
英語ではThe Teacher said.である。
これをもう一度に日本語に訳せば、先生が言った、ということである。
「仰った」という敬意を込めたニュアンスは消えてしまう。
要するに、英語には敬語表現がないのだ。
したがって彼等は、日常生活の中で、目上の人を敬うという気持ちがないのだ。
これは英語だけではない。
イタリア語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、中国語や韓国語など、
ほとんどの言語が同様だという。
だからそういった国々では、
法的な拘束力のない要請は、政府からのものだとしても、
真剣に受け止めようとしないのだろう。
敬う気持ちがあれば、法的な拘束力がなくても、従おうとするのだが……。
逆に言えば、法治国家には敬う気持ちなどは必要なく、
法律で脅して民衆を従わせることが正義なのだ。
だから民衆も法律を盾に脅されなければ従わないのだ。
どっちがよいと思うかは、人それぞれだろうが、
中国古典の『論語』が絵に描いた餅になってしまった中国や韓国と違って、
日本ではその精神が今も生き続けている。
これは、この日本語の敬語表現があるという特殊性ゆえではないかとも思う。
法律で縛るのではなく、礼を以って敬うことで、世の中を緩やかにまとめ、
貧富の差が少なく、優しさに溢れた心豊かな社会を作ることが、
孔子の理想だったわけだが、
日本人のものの考え方の根本は、この『論語』にあると言っても過言ではないと思う。
もう少し言うと、その『論語』の奥には「易」の理論があるのだが、それはまた別の話。
とにかく、そんな思いから私は、最近新たに『漢文として楽しむ論語』というサイトを作った。
もちろん書き下しと現代語訳、解説も添えてあるので、誰でも楽しめると思う。
よろしければ↓ご覧くださいませ。
『漢文として楽しむ論語』
令和2年(2680年)3月28日


