2679.12.19
先日、ラムのステーキを食べた。
ジンギスカンもラムだが、その日は西洋風にステーキにした。
特に意味があるわけではない。
なんとなく、である。
が、ラムを食べるといつも思うことがある。
ラムは仔羊の肉だが、仔羊から連想するのはキリスト教だ。
キリスト教では、人間は神の仔羊だとされている。
なぜ、人間は神の仔羊なのか。
それはキリスト教が、羊飼いの生活をこの世界全体に擬えて作った宗教だからだ。
神とは羊飼いのことなのだ。
羊飼いは自分が管理する羊に対して絶対的な権力を以って支配する。
家畜だから当然のことだ。
その羊飼いが管理する最も大切なものが仔羊だ。
だから仔羊を人間に擬え、神の仔羊と言ったのだ。
飼われている羊にとっては、羊飼いは絶対唯一の存在である。
だから一神教となった。
普通、羊は群れで行動するが、臆病なので、ちょっとしたことに怯え、突然暴走することがある。
が、やがてはその暴走は収まり、再び飼い主に従順で穏やかな群に戻る。
聖書神話のよくあるパターン、人間はしばしば神に反抗するが、やがては神の元に戻る、という構図がこれである。
そんな羊を羊飼いがひとりで管理するのは大変だから、放牧のときには犬を使う。
犬は羊飼いの指示どおりに群が動くよう、吠えて巡って羊たちを促す。
そんな犬の様子から、神の使いとして人間に指示を出す天使という存在が考案された。
新約ヨハネの黙示録には、天使がラッパを吹くという場面が何ヶ所かあるが、
犬が吠えて羊の群を誘導することがヒントなのだろう。
しかし、羊飼いがどんなに頑張って羊を管理しても、野生の肉食動物、狼が常に羊を狙っている。
特に仔羊は狙われやすい。
昼間は狼も人間を警戒しているから、放牧地で群からはぐれた仔羊あたりを狙うだけだが、
夜になれば、牧場の柵を越えて群に近づいてくる狼もいる。
したがって、羊飼い(神)から仔羊(人間)を奪い取ろうとする狼は、羊飼いからすれば最高に憎い存在だ。
だからその狼への憎しみを以って、悪魔というものを作り出したのだ。
悪魔というと夜のイメージがあるのも、このためだ。
そして、神と悪魔の対立構造を作り上げた。
聖書では、神はこの世界と人間を創ったとしているが、
その神が創り上げた世界に、なぜか神が創っていない悪魔というものが登場する。
悪魔とは何なのか、神が創ったものではない悪魔がなぜ存在するのか、宗教学では永遠の疑問ともされている。
しかし神と悪魔は、そもそも羊飼いと狼の関係から考案されたに過ぎないのだ……。
考えれば考えるほど、バカバカしい宗教だ。
無神論で、なおかつキリスト教に忖度しない立場で聖書を読めば、こう考えるのが普通だと思う。
しかしマスコミでは、こういう考察は一切流さない。
日本神話の尊厳を傷つけるような仮説は平然と流すのに……。
何やらキリスト教に忖度しているかのようだ。
としても、私はそんなマスコミは気にせず、
独自の無神論の視点でキリスト教を解剖し、平成17年に五月書房から本にして出した。
が、その後、五月書房は倒産し、廃刊となったので、
今は私のサイト内にその本の内容を、
聖書の作者は古代中国の易学舎だった!というタイトルでアップしている。
令和元年12月19日
よろしければご覧ください。