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明日に架ける橋

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イースターとユダヤ人差別

平成29年4月10日

明日は春分後の最初の満月。
ということは今度の日曜は復活祭、イースター。
キリスト教徒たちは、イエスが死後三日目に蘇ったことを祝うとともに、
ユダヤ人に対する憎悪で盛り上がるときだ。

聖書によると、
イエスは最後の晩餐の後に捕縛され、尋問の後、ローマのユダヤ総督ピラトの前に引き出された。
ピラトは、イエスに事情聴取したが、別段悪人だとは思えず、無罪放免にしようと考えた。
ところが、その様子を見ていた大勢のユダヤの民衆は「イエスを殺せ」と口々に叫んだ。
どこが問題なのかピラトはわからず、繰り返し民衆に赦すことを提案したが、民衆は聞く耳持たずだった。
こんな状況下でイエスを無罪放免にすれば、大暴動になりそうな気配である。
ピラトは困り果て、民衆に向かって「すべての責任はお前たちにあるがそれでよいか?」と念を押した。
すると民衆は
「今後我々および我々の子孫にどのような災難が降りかかってもかまわないから、
とにかくイエスを処刑しろ」と嘆願するだけで、収拾がつかなかった。
そこで止むを得ずピラトは、ユダヤの民衆にイエスを引き渡し、そのユダヤの民衆によってイエスは処刑された。
その翌々日の日曜にイエスは復活して弟子たちの前に現れ、
世界に布教せよとの命令を下し、弟子のひとりペテロがローマにキリスト教を伝えたところで聖書は終わる。

賢明なローマ人と愚かで憎むべきユダヤ人。
聖書はそういう構図で締めくくられている。

要するに、ユダヤ人差別の根源は、まさにここにあるのであって、
だからユダヤ人はキリスト教徒から差別され続けてきたのだ。
ピラトとの約束により、ユダヤ人は未来永劫どんなに差別され残虐なことをされても文句は言えないのだ。
有名なバッハのマタイ受難曲にも、このピラトとユダヤの民衆との取引が歌われている。
ドイツでナチスが生まれたのは、人々がマタイ受難曲に感動したからかもしれない。
ナチスの悲劇、ユダヤ人差別を悪いことだと言うのであれば、
欧米キリスト教徒に付和雷同して、今度の日曜をイースターなどと浮かれるのは不謹慎ではないだろうか。

そもそも欧米のキリスト教徒はユダヤ人差別を悪いことだとは思っていない。
悲しいことであり、汝の敵を愛する心を持って接するように心がけはするが、
差別されて当然の民族なのだから何かあっても仕方がない、といったスタンスが本音だ。
だから聖書のその部分の記述を改めることもしないし、イースターも祝うし、マタイ受難曲に感動もするのだ。
ナチスはちょっとやり過ぎただけ、といったふうに受け止められているようだ。

今もときどきネオナチなどという言葉を耳にするが、
キリスト教がある限りユダヤ人差別は続き、いつかまたナチスのような悲劇が起きる可能性も否定はできない。
だから事情を知らない日本の芸能人がナチの制服を着てはしゃいでいたりするのを見かけると非難するのだ。
中東問題も根底にあるのはキリスト教徒によるユダヤ人差別だ。
フリー〇ースンの陰謀なんていうのも、要するにユダヤ人差別から派生したものだ。

日本に住んでいると身近にユダヤ人がいないのでわかりにくいかもしれないが、
イースターのお祭りやマタイ受難曲はユダヤ人差別を永久不変にするためにある、
と言っても過言ではないだろう。
ひとつの民族を差別することではじめて成立する宗教、それがキリスト教なのだ。

だから私はキリスト教を好きにはなれない。
あっ、ゆで玉子は好きだけどね。


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