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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

薨去とご逝去

平成28年10月27日

三笠宮崇仁親王殿下が薨去あそばされた。
謹んで哀悼の意を表します。

しかしNHKの報道姿勢には腹が立つ。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161027/k10010746021000.html?utm_int=news_contents_news-main_001

正しくは三笠宮崇仁親王殿下であり、薨去だ。
宮内庁の発表を敢えて言葉を変えて報道するのは公共放送のやることではない。
http://www.kunaicho.go.jp/

先般の譲位の件もだが、まるでGHQの指令に基づく言葉の言い換えみたいだ。
占領はとっくの昔に終わったはずなのに。
あっ、私が言っているのはあくまでも受信料で運営されるNHKの報道姿勢であって、
民間放送や新聞がどう書こうと構わない。



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GHQの検閲

平成28年10月3日

今日は、母が生前、よく話していたGHQの検閲のことを書く。
記憶の中に放置しておくと、だんだんとぼやけてしまう可能性もあるので、
ここに書くことにした。

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私の母は昭和2年、東京市芝区三田四国町というところに生まれた。
現在の東京都港区のNTT三田支店の裏あたりだ。
高等女学校、略して高女のときは芝園橋から都電に乗って水道橋まで通っていた。

入学当初は未来に夢を描ける時代だったが、
昭和19年、高女の最高学年の5年生の頃には、
学校での授業は少なくなり、勤労奉仕ばかりの毎日になったという。

パラシュートを縫ったり、慰問袋を作ったり、いろんなことをやらされたが、
そんな中で特に面白かったのは、
軍司令部での暗号解読の仕事だったという。
無線通信で送られて来る意味不明のカタカナ文を乱数表と照合して解読する。
逆にこれから送信しようとする文章を乱数表と照合して暗号化する。
右も左もよくわからない女学生でも解読できる簡単な暗号を、
日本軍は使っていたわけだ。

こんな簡単な暗号で無線送受信していたら、
傍受したアメリカ軍に簡単に解読され、情報が筒抜けになるのは目に見えている。
こんなことで戦争に勝てるのだろうか?
と、思いつつも、言われるままに母は仕事をこなしていたとのこと。

が、やがてそんな母の思いが当たり、というか薄々誰もが感じていたようだが、
とにかくどんどん戦況は悪化し、
ついに昭和20年、高女卒業の年の3月10日、
墨田区の深川辺りが大空襲を受け、甚大な被害を受けた。
いわゆる東京大空襲である。
この空襲を受けた地域は電話が不通になり、情報が錯綜し、大混乱になった。
この事態を重く考えた軍部は、さらなる空襲が起きたときの対策として、
都内の電話局を守ることを最優先とした。

すぐ近くに大きな電話局がある母が住んでいた地域は、
程なく強制疎開が決定した。
焼夷弾が投下されて火災が発生しても電話局まで延焼しないよう、
近隣の木造家屋をすべて打ち壊して更地にするのである。

その打ち壊しの範囲内に母の一家が住んでいた家はあったのだ。
理不尽だが、軍の命令には逆らえない、スズメの涙ほどの立ち退き料を貰い、
家財道具をまとめて滝野川区(現在の北区滝野川)の親戚を頼って引っ越した。

ところが引っ越して一週間ほどした頃、
旧宅のあった芝付近は大きな空襲を受けて焼け野原になり、
電話局も全焼して結局機能を失った。
あのまま住んでいたら、突然の空襲で命からがら逃げ出すところ、
ほんの少しでも荷物を持ち出せたし、お金も貰えたしと、
強制疎開になったことを、幸運だったとちょっと喜んだ。

が、それも束の間、一ヶ月もしないうちに引っ越した滝野川も空襲で焼け、
滝野川の親戚の一家と一緒に調布の親戚のところに身を寄せた。
幸い調布の親戚の家付近は空襲もなく、8月15日の終戦を迎えた。

終戦を迎えても、帰る家はないので、
母は暫くその調布の家に居候しながら、仕事を探した。
まだ世の中は混乱しているので、なかなか仕事は見つからなかった。
そんなとき知り合いから、
共益商社という楽譜の出版社で求人しているけど・・・、
と、誘いがあった。
子供の頃から音楽が好きだったのでその社名には馴染みがあったこともあり、
早速面接を受けたら、簡単に採用された。

といっても編集などの重要な業務ではなく、誰にでもできる下働きである。
それでもちゃんとした会社で仕事ができる喜びとともに、
調布から毎日電車で通うことになった。

最初は各社員のためのお茶汲みやら買い物などの雑用ばかりだった。
が、慣れるにしたがって仕事の幅は広がり、
著者のところへ原稿を貰いに行ったりゲラを届けたり、
締め切り間際で忙しくて人手が足りないときには簡単な校正も担当するようになった。

そうこうしているうちに、ある意味、とても重要な仕事を任されるようになった。
といっても知識や技術が必要な仕事ではない。
言わばズブのシロウトでもできる簡単なことだけど、とても重要な仕事である。

当時の日本はアメリカ軍GHQにより占領されていた。
その中で出版社が本を出すには、絶対やらなければいけない面倒な手続きがあった。
GHQに検閲済みのハンコを貰いに行く仕事である。
このハンコがなければ出版できないのだ。
無視して出版すれば捕まりその出版社には業務停止命令が下るのだ。
新しい日本に相応しい本以外は出版を認めない、そういう時代だったのだ。

母はゲラ刷り原稿ができ上がると、それを持って新橋のGHQに持参し、窓口で提出する。
あっちこっちの出版社が来るので、提出すると暫く順番待ちをする。
時には半日以上待たされることもあったとか。
それでもやがて名前を呼ばれ、検閲済みのハンコが押された原稿が渡される。
そしたらそれを持って社に帰る。
社では、まあ問題はないだろうと思っていても不安はあり、
検閲済みのハンコが押された原稿を、社員一同の目で確認すると、
これで出版できる、と喜び合ったそうだ。

その頃の共益商社では、子供向きの雑誌も出していて、
徐々に売り上げを伸ばしていた。

そんなあるとき、
その雑誌のゲラをGHQに持参したところ、
思いがけず、検閲でハンコが貰えなかった。
かつての日本軍の雄姿を称えたりする内容ではない。
まだ混乱の続くその当時のありのままの姿を記事にしただけである。

あるお寺が戦災孤児を集めて面倒をみていた。
住職はその孤児たちに、読み書きなどを教えるとともに、
境内や近隣地域の清掃やその時々の手伝いをさせ、
近所の家々からお布施として頂く米や野菜でみんなの食事を作って暮らしていた。
そんな孤児たちがくじけそうなとき、
みんなで童謡を歌って励まし合っていた。
みんなで歌うと元気が出るんだ、と孤児たちは明るく話していた。

だいたいこんな内容で、
そのお寺の境内で住職と孤児たちが集う写真が一枚ついていたとのことだった。

この内容のどこが悪いのだろう?
当時はあっちこっちのお寺や神社で同様に戦災孤児の面倒をみたりしていて、
特に珍しいことを書いたわけではなかった。
ゲラの原文は、今ここにまとめて書いたものと違い、
とても感動的に書かれていて、
編集部一同、この記事はその号のメインになるできだし、
内容的にも、検閲を通過しないはずがない、と自負していた。

ところがGHQはノーと言ったのだ。

理由の説明はなく、内容を訂正する指示と、その訂正に合うような別の写真が一枚添えられていた。
このとおりに書き直し、写真もこれを使うこと。
指示どおりに書き直さず、この原稿をボツにして新たな別の記事に差し替えることは許可しない。

その書き直しとは、お寺を教会に、童謡を讃美歌に、というふうに改めることである。
写真はどこかの教会に牧師と子供たちが集っている写真だった。

要するに、
お寺や神社が慈善活動をしていることは記事にしてはならない、
ということだったのである。

社に戻ってその指示書を読んだ編集部一同は、口惜しさに身体を震わせた。
これが戦争に負けるということなんだ。
これからはアメリカの占領政策のために嘘を書かないといけないのか・・・。

その頃は歌舞伎も上演が禁止されていたわけだから、
未来から俯瞰していれば、まあ仕方がないといったように写る面もある。
しかし現実に突き付けられた当時は、計り知れない辛さがあったことだろう。

どんな辛い気持ちになってもGHQの指示は絶対である。
不満を言えば即発刊禁止になるだけだ。
仕方なく指示書のとおりに書き換え、添付された写真に差し替え、
再度ゲラを提出し、漸く検閲を通過し、出版にこぎつけた。
しかしこの事件以後、社内の雰囲気はどことなく暗くなった。

それでも仕事をしないわけにはいかない。
次の号には、GHQからクレームがつかないように、
お寺や神社、日本の伝統文化と関係する記事は一切控えて、
あたりさわりのない記事だけにした。
ところが、しばらくして、また検閲を通過できず、指示書が来た。

積極的にキリスト教の記事を書け、というもので、
アメリカの子供たちが教会で歌う様子などを書いた冊子と写真が添えてあった。

仕方なくその冊子と写真で、キリスト教会の紹介記事を書き、
漸く検閲を通過した。

どうやらGHQの占領政策の目標のひとつは、日本をキリスト教国にすることだったらしい。
そのために、国民をお寺や神社から引き離す必要があったようである。
結果的にキリスト教国にはならなかったが、
その後の日本人の、特に都市部の生活からお寺や神社が縁遠くなったのは、
この占領政策によるところが大きいのかもしれない・・・と言うと大袈裟だろうか。

ともあれ、日本の身の丈に合った子供たちの現実を伝えることを目的とした雑誌だったのに、
余儀なく内容が変わってしまった。
編集部の人たちもだんだんとやる気がなくなり、
惰性で雑誌を出しているようになった。
それに合わせて売り上げも落ちて行った。

そしてついに廃刊となり、社の業績は危険な状態になった。
従業員には退職が勧めれ、母を含めて多くの人たちは会社を辞めた。
昭和二十四年のことである。
社長としては倒産を覚悟したのだろう。

その後の共益商社のことは、母は正確には把握していなかったが、
しばらくして倒産したとのこと。
持っていた版権は全音楽譜出版が引き取ったらしい。

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以上が母から聞いた話だが、
当時のGHQの検閲は戦前の日本軍による検閲より、はるかにえげつなかったような印象を受けた。
戦前は軍部の提灯持ちだった朝日新聞が、戦後コロっと論調を変えたのも、
GHQの検閲によって、強引に変えさせられたのだろう。
戦後を生き残った出版社は、真実を伝えることではなく、
GHQの言いなりになることで、
やっとやっと生き延びたわけである。

そして、その影響は今も続いているような気もするが・・・。

剣呑剣呑



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