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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

バチカンが聖書なる書物を偽作したわけ

平成21年6月23日

この記事は、キリスト教を信じない人のためのものです。
信仰を持たれている方には、不愉快な思いをする可能性があることを、
予め申し上げておきます。


拙著
『聖書と易学』
をお読みの方から、
ときどきこんな質問をいただく。

なぜ、イエス・キリストという架空の人物を主人公にした物語を作り、
聖書なる書物を偽作する必要があったのか?

これまではメールで個別に、私の見解を述べていたのだが、
誰でも検索すればすぐ読めるようにと、
今回、日記に書くことにした。


○ バチカンが『聖書』なる書物を偽作したわけ

なぜローマは『聖書』なる書物を偽作したのか?
世界史の教科書では、イエス・キリストは実在の人物とされ、
キリスト教会が主張するキリスト教の歴史を、
恰も史実であるかのように描いている。
果たしてそうなのだろうか?

私は『聖書と易学』の中で、
そのキリスト教会が主張する歴史認識にメスを入れ、
イエスは架空の人物、
今伝わる『聖書』は中国の易学者のアドバイスにより、
中国古典を参考に、西暦300年代頃に偽作されたものだった、
と述べたわけだが、
では、バチカンが偽作に至る経緯はどういうことだったのだろうか。
これについては、未だ不明な点もある。
したがって本の中では触れなかった。
しかし、重要なことである。
そこで、現段階では、あくまでひとつの推測に過ぎないが、私の考えを書いておく。


○ 『聖書』偽作に至る経緯

原初キリスト教は、そもそも大した教義も持たない宗教だった。
始まりがいつなのかは、定かにはわからない。
恐らくは、イエスが登場したとされる時代よりも、かなり後のことで、
活動が活発になったのは、西暦200~300年あたりのことだろう。

宗教団体というより、西暦70年のユダヤ滅亡後、
ローマ政府の支配から逃れるための革命を目的とした集団、
として始まったのだろう。
その革命の輪が徐々に広まり、
いつしかローマの民衆にも支持者が増えていった。
しかし統制の取れた集団ではなく、全体としてのまとまりはなく、
無秩序なテロが頻発するようになった。

そこでローマ政府は、彼等を懐柔させるための施策を思案した。
当初は武力で鎮圧しようとも考えたが、
特定の首謀者がいるわけではないので、ターゲットが選定できない。
困った・・・。
と、その頃、たまたま中国からの旅人がやって来て、
武力鎮圧より、彼等の宗教を利用するほうが得策だとアドバイスした。

ローマには、すでに、お前たちの信仰する宗教の教典が伝わっている、
それによると、
お前たちが今やっていることは間違いだ、これを読んで目を覚ませ、
と言って、偽作した『聖書』を差し出した。

革命集団の人々は、そのローマで見せられた『聖書』をホンモノだと信じ、
そこに書かれているイエスなる人物が、
かつて本当に実在したのだと思い込み、ローマに従うことにした・・・。


○ マタイ24章にある預言の意味

マタイ24章には、
この世の終わりには、キリスト(救世主)と称する人々があちらこちらに出現する、
といったことが書かれているが、
これは、ローマに反抗する革命集団の人たちのことを、
そう表現したのだった。

実際、彼等は「我こそはキリストだ!」と叫んで同士を集め、
闘争を繰り返していた。
聖書偽作チームは、それをヒントに、この終末論を書き下ろしたのだ。

彼等はこの終末論を読むと、
今がこの世の終わりであってほしくはない、と願うようになり、
ローマの思惑どおり、革命運動は下火になった。

ローマがこのように、
彼等の反政府運動を逆手に取って利用し、
新しい宗教を作ろうとしたのは、
文化文明の進化などにより、
従来のミトラ教では、
国を統治する能力が薄れてきたということもあるだろう。
ミトラ教には快楽主義的な要素があり、
それが国力を落とす原因にもなっていた、
とも言われている。
だからこそキリトス教では、
厳格な男尊女卑と禁欲主義が採用されたのだろう。
男尊女卑を社会に根付かせるもっとも大事なものが、
愛と結婚に他ならない。


○ 最も得をするのはローマ人、最も損をするのはユダヤ人

ところで、聖書のキリスト処刑物語は、次のような流れになっている。
ローマのユダヤ総督ピラトは許そうとしたが、
ユダヤの民衆は、
自分たちの子孫がどのような目に遭ってもかまわないから、
とにかくキリストを処刑してほしいと嘆願した。
そこで仕方なく、ピラトは処刑を許可した。

この物語の流れからは、
ローマ人は賢明でユダヤ人は愚かだ、という感想を持つのが普通だ。
そして使徒行録は、ローマに布教されるところで終わいる。

要するに、キリスト教を信仰して最も得をするのはローマ人、
最も損をするのはユダヤ人という構図が、ここに出来上がっているのだ。
したがって、キリスト教を国教とすれば、ローマは安泰なのだ。

また、キリスト教を世界中に布教すれば、
ローマすなわち西洋による世界支配の構図がそこに出来上がるのだ。
だからこの科学文明の世の中になっても、
西洋はキリスト教を大事にしているのだろう。

ちなみに、その後アラブではイスラム教がでた。
なぜ、キリスト教ではダメなのか?
そんなに素晴しい教えなら、
わざわざ別の宗教を作る必要はないではないか。
キリスト教はローマの世界支配のための宗教だから、
信仰すればローマに利用されるだけだ、と彼らは悟ったのだろう。
民族の独立を維持するためには、
敢えて別の価値観で対峙する必要があったのだ。


※ なお、イエス・キリストは架空の人物であって、
今に伝わる『聖書』は偽作されたものだと考えるのは、何も私だけではない。
西洋の神学者の中にも、ときどきいて、近年では、
「キリスト神話」という本が翻訳されている。
キリスト神話-偶像はいかにして作られたかキリスト神話-偶像はいかにして作られたか
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ということで、拙著『聖書と易学』をまだお読みでない方は、
この機会に是非!・・・よろしくお願いします。m(_ _)m
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
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水上 薫

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徳を好むこと色を好む如くに

平成21年6月7日

『論語』に「吾れ未だ徳を好むこと色を好む如くにする者を見ず」という文章がある。
訳すと、
「私はまだ、道徳を好むことを、色事を好むように熱心にする人には、会ったことがない」
といったカンジだ。
確かに、普通は、堅苦しい道徳より色事のほうが好きなものだ。
だからと言って、禁欲主義に走っては、誰もついて来ない。
そこで孔子は、
色事を好むのも構わないが、度を過ごさず、たまには道徳的なことも考えないとね、
といった程度の戒めのつもりで言ったのだろう。

しかし、先日、とある友人が面白い解釈をしてくれた。

色事を好む度合いは人によって違う。
いわゆる好色な人もいれば、淡白な人もいる。
で、ここでは、好色か淡白かということは限定していない。
誰でも、どんな人でも、徳より色を好むというわけだ。
とすると、好色な人よりも淡白な人の方が、
それに比例して徳を好む度合いも低いことになる。
言い換えれば、好色な人ほど徳を好むということになる。

そもそも昔は、徳の高い人は妾が大勢いたものだ。
そして、その妾たちが文句を言わないように振舞わないといけない。
そのために、自然と対人関係を円滑にする術が身につく。
だから、徳が高くなる・・・。

ま、私にはこの解釈が適切か否か判断できないが、
確かに色事は大事だと思う。
色事に興味を示さない人は、物事を堅苦しく考え過ぎ、
煙たい存在になってしまう傾向があるしね。

しかし、色事と言えば、
このブログも、各種業者の書き込みがときどきある。
そういうのは、速攻で削除するようにしているが、迷惑な話だ。

ま、そんなこんなで、
たまには『論語』を読みながら、好きな人と愛をささやき合うのもいいかもね。


論語 (岩波文庫)論語 (岩波文庫)
(1999/11)
金谷 治

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ところで、先日たまたま本屋で、『論語』の解説本を見つけた。
昭和42年頃のラジオで放送されたものを活字にしたものだ。
『論語』の中から、いくつかの文章を取り上げ、
その文章を言ったときの孔子と弟子との様子にも言及していて、
それが文章にリアリティを持たせてくれている。
なかなか面白い。オススメな一冊です!
よろしかったら、↓読んでみてください。

「論語」の話 (ちくま学芸文庫)「論語」の話 (ちくま学芸文庫)
(2008/01/09)
吉川 幸次郎

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