
63 水火既済 爻辞
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○
初九、曳其輪、濡其尾、无咎、
初九(しょきゅう)、其(そ)の輪(わ)を曳(ひ)く、其(そ)の尾(お)を濡(ぬら)せば、咎(とが)无(な)し、
水火既済と火水未済の二卦は、その義が地天泰と天地否の二卦とほぼ同じなのである。
まず、地天泰の卦の義は、下卦三爻を泰中の泰とし、上卦三爻を泰中の否とする。
また、天地否の卦の義は、下卦三爻を否中の否とし、上卦三爻を否中の泰とする。
今、水火既済と火水未済の二卦も、これと同様なのである。
既済と未済の二卦に、内外の時を分かつことは、離を明とし、坎を険みとするからである。
これは、泰否の乾を有余とし、坤を不足とするの義と同類である。
その中についても、既済は既に成った卦にして、下三爻は既済中の既済である。
したがって、このときは正しく守ることを以って上策とする。
もし少しでも進み動く時には、忽ち既済中の未済に向かい進み、外卦坎の険みの陥るという義が有る。
これを以って、下卦三爻にては、一に止まり守るの道を教えている。
また、未済の下三爻の場合は、未済中の未済にして、進み動いて未済中の既済に向かうという義は有るが、その時が未だ至らないので、既済の成功を得ることは難しい。
したがって、こちらも静かに守り、その時の至るのを待つべきだと教えている。
およそ天下の事は、敗れと乱れとに至りやすくして、その勢いは高い山から石を落とすようなものである。
また、成ると治まるとには致し難いもので、その功は険しい坂を登るようなものである。
したがって、既済にては、その敗れや乱れを恐れて、止まり守るべきことを教え、未済にては成ると治まるとの致し難さに、静かに時を待つべきことを教えているのである。
このような象義意味があるので、既済と未済の初二の爻には、共に進むことを戒めているのである。
さて、この爻の辞には、まず、其の輪を曳くとあるが、これは車の輪を曳くことである。
古代の車というものは、人や馬や牛が曳いて動かすわけだが、そのときに、前より長柄を曳けば進み、後ろから輪を曳けば止って進めないようにできている。
また、獣が水を渉(わた)るときには、必ずその尾を上げて、水に濡れないようにするものである。
もし、その尾を上げず、垂れたままで水に濡らすのであれば、疲労していて水を渉る気力がないのである。
初九は内卦離の文明の一体に居ると共に、今は既済中の既済の時である。
妄りに動き進む時には、忽ち既済中の未済に向かうの義がある。
これを慎み守ることは、例えば車の輪を曳き止められたり、獣が尾を濡らして渉ることを断念するのと同様にすることであって、そうしていれば、咎はないのである。
だから、其の輪を曳く、其の尾を濡らせば、咎无し、という。
これは、車と獣とを以って、初爻義に喩えたのである。
なお、濡らすとあるのは、既済の済の字に水を済(わた)るという義があることによる。
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九三━━━
六二━ ━○
初九━━━
六二、婦喪其茀、勿逐、七日得、
六二(りくじ)、婦(ふ)其(そ)の茀(かざし)を喪(うしな)う、逐(お)うこと勿(なか)れ、七日(なのか)にして得(え)ん、
九五は夫の位であり、六二は妻の位であり、上卦坎は中男の象であって二はその主であり、下卦離は中女の象であって二はその主である。
したがって、坎離の主であることと二五の位であることを以って夫婦の義としているのである。
六二の婦は九五の夫に陰陽相応じているとしても、三四の両爻が二五の夫婦の間を隔てているので、速やかに相遇うことはできない。
例えば、車に茀がなくて、用に堪えないようなものである。
だから、婦其の茀を喪う、という。
茀とは、婦人が乗る車の蔽い飾りのことであって、礼節を大事にする婦人はこの茀がなければ、車には乗らないものなのである。
今、茀を喪うとは、九五の方に進み行くことができないことの喩えにして、六二に動かずして守ることを教えているのである。
とは言っても、六二は中正を以って九五の中正なる者に陰陽正しく応じている。
例えしばらくは三四のために隔て遮られるとしても、邪は正に勝てるものではないので、時が至れば、必ず相遇えるのである。
だから、逐うこと勿れ、七日にして得ん、という。
得るは喪うに対する語にして、茀を得て遇いに行けるようになることを示している。
七日は一卦が終わるの義であって、一爻を一日として六日で一卦が終わり、七日目は新たな卦の始まりとなるのである。
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九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━
九三、高宗伐鬼方、三年克之、小人勿用、
九三(きゅうさん)、高宗(こうそう)鬼方(きほう)を伐(う)つ、三年(さんねん)にして之(これ)に克(か)つ、小人(しょうじん)は用(もち)うる勿(なか)れ、
高宗とは、殷中興の賢主のことであり、鬼方とは遠方の夷狄の国の名である。
この爻は下卦の終わりにして、既済中の既済より、既済中の未済に移ろうとする改革の際である。
したがって、時運の変遷について、書いている。
殷は中期の頃に、一旦その徳が衰えたのは、既済の未済に移ろうとすることである。
そこで高宗は奮い起ち、再び殷の徳を中興させたのである。
この事跡が、この爻の功徳に合うので、これを引いて喩えて、辞としたのである。
高宗は、殷に服従しない鬼方を征伐することにしたが、相手は手強く、長い戦いの末、漸くこれに勝った。
だから、高宗鬼方を伐つ、三年にして之に克つ、という。
三とは多数の義にして、三年とは、功を成すことの艱難なことを示している。
高宗の賢徳を以ってしても、中興は大変なことだったのである。
こんな難事業は、小人にはとてもできない。
だから、小人は用うる勿れ、という。
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九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
六四、濡有衣袽、終日戒、
六四(りくし)、濡(あかみち)に衣袽(いじょ)有(あ)らば、終日(しゅうじつ)戒(いまし)めよ、
六四は内卦既済中の既済はすでに終わり、既済中の未済に移ったところである。
この卦は水を渡ることも意味する済の字を卦名に使っている上に、六四の爻はニ三四の中卦と四五上の上卦との二つの坎の水の間に挟まれていると共に、三四五の中卦離の舟の象が有るを以って、舟の義を借りて、その象義を発しているのである。
今、六四は既済の内外の変革するの地に居て、二つの坎の水の間に挟まり在るので、その恐怖が多いことは、例えばボロ舟に乗るようなものである。
したがって、常にボロ舟であることを戒め、不慮のトラブルに対処できるようにしておかないと、何かの拍子に、忽ち舟は転覆して溺れるかもしれない。
だから、濡に衣袽有らば、終日戒めよ、という。
濡とは、滲み漏れることを指す。
衣袽とは、舟が漏れて浸水したときに、その漏れた個所を塞ぐために使うボロ布のことである。
古代には、舟に乗るときは、いつ浸水があっても対処できるように、漏れを塞ぐためのボロ布は常備しておくものだった。
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九三━━━
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初九━━━
九五、東隣殺牛、不如西隣之禴祭、実受其福、
九五(きゅうご)、東隣(とうりん)に牛(うし)を殺(ころ)すは、西隣(せいりん)之(の)禴祭(やくさい)に、実(み)あって其(そ)の福(ふく)を受(う)くるに如(し)かず、
九五は既済の時の君の位である。
君上が世を治めるの道は、孝より先はない。
その孝の道は、終わりを慎み、遠きを追う時は、民の徳も厚く帰すものである。
その遠きを追うというのは、鬼神祭亨の道のことである。
としても、治世承平の君主は、必ず驕奢尊大になる弊が生じやすく、誠敬の道を怠りやすいものである。
およそこれは、古今の世の情態にして、これが乱世を招き来たす通弊である。
そこで、周公の東西両隣の祭祀の豊と倹とを喩えとして、教え戒める。
神明に仕え祭ることは、誠と敬(つつし)みを主として、供え物はあくまでもこれに添えるだけのものである。
世を治めるの道もまたこのようでなければいけない。
驕奢の虚飾を防ぎ止め、誠実と敬恭との質実を尽くして、天命を恐れ慎むに在る。
だから、東隣に牛を殺すは、西隣之禴祭に、実あって其の福を受くるに如かず、という。
牛を殺すとは生け贄を供えるということ、禴祭とは質素な祭りのことである。
余談だが、我が皇国の神の教えも、質素正直の四字を以って標幟としているのである。
伊勢の神宮の宮殿がとても質素に造られているのは、華靡を憎んで素朴を貴んでいるからであって、その質素正直を貴ぶ気風を脈々と保ち続けてきたからこそ、今日の皇室と日本の繁栄があるのである。
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初九━━━
上六、濡其首、、
上六(じょうりく)、其(そ)の首(くび)を濡(ぬ)らす、(あやう)し、
上六の爻は、既済全卦の終わりにして、すでに未済へ移ろうとする時である。
今、上六は外卦坎の険みの極に居て、なおかつ人体で言えば首から上の位置に当たっている。
これは、上六が坎の水を済(わた)ろうとして、坎の険みに陥り、首を没するの象である。
首を水の中に没すれば呼吸ができなくなり、危険である。
だから、其の首を濡らす、し、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初九、曳其輪、濡其尾、无咎、
初九(しょきゅう)、其(そ)の輪(わ)を曳(ひ)く、其(そ)の尾(お)を濡(ぬら)せば、咎(とが)无(な)し、
水火既済と火水未済の二卦は、その義が地天泰と天地否の二卦とほぼ同じなのである。
まず、地天泰の卦の義は、下卦三爻を泰中の泰とし、上卦三爻を泰中の否とする。
また、天地否の卦の義は、下卦三爻を否中の否とし、上卦三爻を否中の泰とする。
今、水火既済と火水未済の二卦も、これと同様なのである。
既済と未済の二卦に、内外の時を分かつことは、離を明とし、坎を険みとするからである。
これは、泰否の乾を有余とし、坤を不足とするの義と同類である。
その中についても、既済は既に成った卦にして、下三爻は既済中の既済である。
したがって、このときは正しく守ることを以って上策とする。
もし少しでも進み動く時には、忽ち既済中の未済に向かい進み、外卦坎の険みの陥るという義が有る。
これを以って、下卦三爻にては、一に止まり守るの道を教えている。
また、未済の下三爻の場合は、未済中の未済にして、進み動いて未済中の既済に向かうという義は有るが、その時が未だ至らないので、既済の成功を得ることは難しい。
したがって、こちらも静かに守り、その時の至るのを待つべきだと教えている。
およそ天下の事は、敗れと乱れとに至りやすくして、その勢いは高い山から石を落とすようなものである。
また、成ると治まるとには致し難いもので、その功は険しい坂を登るようなものである。
したがって、既済にては、その敗れや乱れを恐れて、止まり守るべきことを教え、未済にては成ると治まるとの致し難さに、静かに時を待つべきことを教えているのである。
このような象義意味があるので、既済と未済の初二の爻には、共に進むことを戒めているのである。
さて、この爻の辞には、まず、其の輪を曳くとあるが、これは車の輪を曳くことである。
古代の車というものは、人や馬や牛が曳いて動かすわけだが、そのときに、前より長柄を曳けば進み、後ろから輪を曳けば止って進めないようにできている。
また、獣が水を渉(わた)るときには、必ずその尾を上げて、水に濡れないようにするものである。
もし、その尾を上げず、垂れたままで水に濡らすのであれば、疲労していて水を渉る気力がないのである。
初九は内卦離の文明の一体に居ると共に、今は既済中の既済の時である。
妄りに動き進む時には、忽ち既済中の未済に向かうの義がある。
これを慎み守ることは、例えば車の輪を曳き止められたり、獣が尾を濡らして渉ることを断念するのと同様にすることであって、そうしていれば、咎はないのである。
だから、其の輪を曳く、其の尾を濡らせば、咎无し、という。
これは、車と獣とを以って、初爻義に喩えたのである。
なお、濡らすとあるのは、既済の済の字に水を済(わた)るという義があることによる。
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六二、婦喪其茀、勿逐、七日得、
六二(りくじ)、婦(ふ)其(そ)の茀(かざし)を喪(うしな)う、逐(お)うこと勿(なか)れ、七日(なのか)にして得(え)ん、
九五は夫の位であり、六二は妻の位であり、上卦坎は中男の象であって二はその主であり、下卦離は中女の象であって二はその主である。
したがって、坎離の主であることと二五の位であることを以って夫婦の義としているのである。
六二の婦は九五の夫に陰陽相応じているとしても、三四の両爻が二五の夫婦の間を隔てているので、速やかに相遇うことはできない。
例えば、車に茀がなくて、用に堪えないようなものである。
だから、婦其の茀を喪う、という。
茀とは、婦人が乗る車の蔽い飾りのことであって、礼節を大事にする婦人はこの茀がなければ、車には乗らないものなのである。
今、茀を喪うとは、九五の方に進み行くことができないことの喩えにして、六二に動かずして守ることを教えているのである。
とは言っても、六二は中正を以って九五の中正なる者に陰陽正しく応じている。
例えしばらくは三四のために隔て遮られるとしても、邪は正に勝てるものではないので、時が至れば、必ず相遇えるのである。
だから、逐うこと勿れ、七日にして得ん、という。
得るは喪うに対する語にして、茀を得て遇いに行けるようになることを示している。
七日は一卦が終わるの義であって、一爻を一日として六日で一卦が終わり、七日目は新たな卦の始まりとなるのである。
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九五━━━
六四━ ━
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初九━━━
九三、高宗伐鬼方、三年克之、小人勿用、
九三(きゅうさん)、高宗(こうそう)鬼方(きほう)を伐(う)つ、三年(さんねん)にして之(これ)に克(か)つ、小人(しょうじん)は用(もち)うる勿(なか)れ、
高宗とは、殷中興の賢主のことであり、鬼方とは遠方の夷狄の国の名である。
この爻は下卦の終わりにして、既済中の既済より、既済中の未済に移ろうとする改革の際である。
したがって、時運の変遷について、書いている。
殷は中期の頃に、一旦その徳が衰えたのは、既済の未済に移ろうとすることである。
そこで高宗は奮い起ち、再び殷の徳を中興させたのである。
この事跡が、この爻の功徳に合うので、これを引いて喩えて、辞としたのである。
高宗は、殷に服従しない鬼方を征伐することにしたが、相手は手強く、長い戦いの末、漸くこれに勝った。
だから、高宗鬼方を伐つ、三年にして之に克つ、という。
三とは多数の義にして、三年とは、功を成すことの艱難なことを示している。
高宗の賢徳を以ってしても、中興は大変なことだったのである。
こんな難事業は、小人にはとてもできない。
だから、小人は用うる勿れ、という。
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六四、濡有衣袽、終日戒、
六四(りくし)、濡(あかみち)に衣袽(いじょ)有(あ)らば、終日(しゅうじつ)戒(いまし)めよ、
六四は内卦既済中の既済はすでに終わり、既済中の未済に移ったところである。
この卦は水を渡ることも意味する済の字を卦名に使っている上に、六四の爻はニ三四の中卦と四五上の上卦との二つの坎の水の間に挟まれていると共に、三四五の中卦離の舟の象が有るを以って、舟の義を借りて、その象義を発しているのである。
今、六四は既済の内外の変革するの地に居て、二つの坎の水の間に挟まり在るので、その恐怖が多いことは、例えばボロ舟に乗るようなものである。
したがって、常にボロ舟であることを戒め、不慮のトラブルに対処できるようにしておかないと、何かの拍子に、忽ち舟は転覆して溺れるかもしれない。
だから、濡に衣袽有らば、終日戒めよ、という。
濡とは、滲み漏れることを指す。
衣袽とは、舟が漏れて浸水したときに、その漏れた個所を塞ぐために使うボロ布のことである。
古代には、舟に乗るときは、いつ浸水があっても対処できるように、漏れを塞ぐためのボロ布は常備しておくものだった。
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初九━━━
九五、東隣殺牛、不如西隣之禴祭、実受其福、
九五(きゅうご)、東隣(とうりん)に牛(うし)を殺(ころ)すは、西隣(せいりん)之(の)禴祭(やくさい)に、実(み)あって其(そ)の福(ふく)を受(う)くるに如(し)かず、
九五は既済の時の君の位である。
君上が世を治めるの道は、孝より先はない。
その孝の道は、終わりを慎み、遠きを追う時は、民の徳も厚く帰すものである。
その遠きを追うというのは、鬼神祭亨の道のことである。
としても、治世承平の君主は、必ず驕奢尊大になる弊が生じやすく、誠敬の道を怠りやすいものである。
およそこれは、古今の世の情態にして、これが乱世を招き来たす通弊である。
そこで、周公の東西両隣の祭祀の豊と倹とを喩えとして、教え戒める。
神明に仕え祭ることは、誠と敬(つつし)みを主として、供え物はあくまでもこれに添えるだけのものである。
世を治めるの道もまたこのようでなければいけない。
驕奢の虚飾を防ぎ止め、誠実と敬恭との質実を尽くして、天命を恐れ慎むに在る。
だから、東隣に牛を殺すは、西隣之禴祭に、実あって其の福を受くるに如かず、という。
牛を殺すとは生け贄を供えるということ、禴祭とは質素な祭りのことである。
余談だが、我が皇国の神の教えも、質素正直の四字を以って標幟としているのである。
伊勢の神宮の宮殿がとても質素に造られているのは、華靡を憎んで素朴を貴んでいるからであって、その質素正直を貴ぶ気風を脈々と保ち続けてきたからこそ、今日の皇室と日本の繁栄があるのである。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
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上六、濡其首、、
上六(じょうりく)、其(そ)の首(くび)を濡(ぬ)らす、(あやう)し、
上六の爻は、既済全卦の終わりにして、すでに未済へ移ろうとする時である。
今、上六は外卦坎の険みの極に居て、なおかつ人体で言えば首から上の位置に当たっている。
これは、上六が坎の水を済(わた)ろうとして、坎の険みに陥り、首を没するの象である。
首を水の中に没すれば呼吸ができなくなり、危険である。
だから、其の首を濡らす、し、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


