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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

沢火革 爻辞

49 沢火革 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○

初九、鞏用黄牛之革、

初九(しょきゅう)、鞏(かた)むるに黄牛(こうぎゅう)之(の)革(つくりかわ)を用(も)ってすべし、

鞏とは、革で結び束ねることで、強固の義である。
黄牛とは、柔順の喩えである。
革(つくりかわ)とは、動物の皮で作った布や紐のことで、堅固にして変動しない義である。

もとより革の全卦総体の義は、改革変更である。
しかしながら、各爻について微細に論じるときには、内卦の離の夏が終わって外卦の兌の秋に変革するという象義なので、内卦三爻の中にあっては、まだ改革してはいけない時である。

今、初九の爻は、内卦の初めであるを以って、そのまだ改革してはいけない時である。
したがって、初九はその志を執ること正しく柔順にして、鞏固(きょうこ)に戒め、柔順な牛の皮革でしっかりと拘束されているかのように、妄りに改革変動してはけいないのである。
だから、鞏むるに黄牛之革を用ってすべし、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━

六二、已日乃革之、征吉、无咎、

六二(りくじ)、已(ならんずる)日(ひ)をまちて、乃(すなわ)ち之(これ)を革(あら)たむべし、征(なすこと)あらば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、

※已(い)の字は、もともとは十干=甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の己(き)の字だった。
それが、朱子学以後は己に似ている已(い)の誤りだとして解釈が施されるようになった。
したがって、中州も已として解釈している。

已日とは、改革するべき日のことをいう。
これは、今はまだタイミングが悪い、なお暫く改革するべき時を待って、それから改革せよ、ということである。
そもそも六二は、内卦離の火の中心にして、改革する主体の爻である。
しかしながら、未だ内卦の中に在るを以って、忽ちに改革するべき時と位には至っていない。
したがって、今動けば咎も有るが、時を待って改革すれば、咎はないのである。
だから、已日をまちて乃ち之を革たむべし、征あらば吉なり、咎无し、という。
征(なすこと)というのは、改革することを指す。

※己日(きじつ=つちのとのひ)として解釈すると、
己(つちのと)の日(ひ)なり、乃(すなわ)ち之(これ)を革(あら)たむ、征(なすこと)あらば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、
と読むことになる。
今は己(き=つちのと)の日だから、改革に相応しい辛(かのと)の日は間近である。
六二は内卦離の明るさの卦の中心なので、明らかにする、という意がある。
したがって、そろそろ、改革を公表し、準備を本格的に開始すれば、その改革は成功し、咎はない、ということになる。
その意味で、己日なり、乃ち之を革たむ、征あらば吉なり、咎无し、という。
この解釈の場合の征(なすこと)は、本格的な改革の準備を指す。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━

九三、征凶、貞、革言三就、有孚、

九三(きゅうさん)、征(ゆ)けば凶(きょう)なり、貞(かた)くすれば(あやう)し、革言(かくげん)三(み)たび就(な)りて、孚(まこと)とせらるること有(あ)らん、

征くとは、改革することを指す。
九三も内卦の中の爻なので、まだ改革するべき時ではないことをいう。
時が至らないのに、妄りに改革すると、必ずその事は成らず、却って咎を生じるものである。
しかし九三は、過剛不中なので、焦って改革しようとする傾向がある。
その焦る志を改めずに固執し、時を犯して改革するのは、危険な道である。
だから、征けば凶なり、貞くればし、という。

さて、九三は、内卦が終わり、まさに外卦に移ろうとする幾(きざ)しが有る。
したがって、その事の勢いは止むを得ないものがあるが、そんな勢いだけでは、他人は賛同しない。
しかし、その終始を計算し、良し悪しを審らかに察し、なお再三にこれを質し明かし、その義が必定であることを納得できれば、誰もが賛同するものである。
だから、革言三たび就りて、孚とせらるること有らん、という。
三たびとは、何度もくり返し、ということであるが、爻について言えば、初爻にて一たび就り、二爻にて二たび就り、この三爻で三たび就り、初二三の内卦中にて三たび就りて外卦四に至って、改革の時を得るのである。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

九四、悔亡、有孚改命吉、

九四(きゅうし)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、孚(まこと)とせらるること有(あ)って命(めい)を改(あらた)めれば吉(きち)なり、

九四は、已内卦を過ぎて、外卦に移ったときである。
これは、離の夏が去って秋に移り、火が去って金に遷ったことである。
したがって、すでに改革するべき時が至ったのである。
およそ改革するの道とは、これまでは大きな障害が有ったのを、今改革することで、その障害を除き去って利益があるという義をいう。
障害が取り除かれ、利益があれば、それまでの悔いは亡ぶというもの。
だから、この爻の全体終始の義を統べて、まず、悔い亡ぶ、という。

しかし、改革は容易なことではない。
その改革を断行する人の資質が問われる。
その人がその志を執り行うに、公明正大にして天性自然の順の道に符合し、外は天下の人が悉くみなその公正に感じ化して、心服すれば、即ち改革しても、咎無くして吉なのである。
もし、その哀心に毛髪の先ほども私意私情が有り、天下の人々が一人も心服しないのに、強いて革命するときには、咎有りて凶である。
要するに、多くの人々から孚とされる改革でなければいけないのである。
だから、孚有って命を改めれば吉なり、という。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

九五、大人虎変、未占有孚、

九五(きゅうご)、大人(たいじん)は虎(とら)のごとくに変(へん)ず、未(いま)だ占(うら)なわざれども有孚(ちがいなし)、

九五は、今改革の時に当たって、君の位に居る。
もとより剛健中正にして、大人の徳が有り、その仁政を以って民を化する者である。
したがって、虎の毛が夏のから冬の毛に変革して、その模様が美しく鮮やかになるように、その人徳が威厳正しく美しく輝くのである。
大人の徳が、燦然として輝けば、下民は自然にその徳化に感じ服すものである。
これが吉であることは、占わなくても、決して疑う余地がない。
だから、大人は虎のごとくに変ず、未だ占なわざれども有孚、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

上六、君子豹変、小人革面、征凶、居貞吉、

上六(じょうりく)、君子(くんし)は豹(ひょう)のごとくに変(へん)ず、小人(しょうじん)は面(つら)を革(あらた)む、征(ゆ)くは凶(きょう)なり、貞(つね)に居(お)れば吉(きち)なり、

上六は、改革の至極の爻である。
この時に当たって、君子は、豹の毛が夏から秋へと変革して麗しくなるように、その徳が輝く。
九五は陽爻なので大人と言い虎と言い、この上六は陰爻なので、君子と言い豹と言う。
虎は陽の獣、豹は陰の獣なので、九五陽爻を虎、上六陰爻を豹とする。
大人が虎のごとくに変じ、君子が豹のごとくに変じれば、小人もその徳風に感化されるものである。
小人の悪に習い私に染まることは、すぐに中心より感じ発して革めることは、少ない。
まずは、君子の徳に従って、その面色より、少しずつ革めるものである。
だから、君子は豹のごとくに変ず、小人は面を革む、という。

さて、事を改革した後は、その改革したことをよく貞固に守るのが大事である。
しばしば改革する時は、民は翻弄されて、何に従ったらよいのかわからなくなる。
これは、凶の道である。
だから、征くは凶なり、貞に居れば吉なり、という。
征くとは、しばしば改革をすることを指す。

なお、近代においては、君子豹変という言葉を、君子は変わり身が早い、という意に解釈することが多いが、それは誤りであって、正しくは、ここに書いたとおりである。
変わり身が早い、とするのは、魏の王弼の注釈によるもので、王弼は卦爻の象を無視して、辞を解釈しているから、このようなことになった。
そもそも象を無視して解釈したのでは、象を立てて占う意義がない。
しかし、象を無視することで、逆に初心者にも意味がわかりやすい、ということはある。
そのために、易を知らない人たちは、安易に王弼の解釈を用いてしまうのだろう。
ただし、取り違えた解釈なので、深く易を勉強するときに、混乱を招きやすい。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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水上 薫

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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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水風井 爻辞

48 水風井 爻辞

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、井泥不食、旧井无禽、

初六(しょりく)、井(せい)泥(ひじりこ)にして食(くら)われず、旧井(きゅうせい)に禽(くるまき)无(な)し、

旧井とは、すでに廃止された井戸のことにして、壊れ埋もれたままになっている井戸のこと。
禽とは、釣瓶を取り付ける軸のことで、これがないと水を汲むことができない。

およそこの卦にては、三陰爻を井の様態とし、三陽爻を水泉とする。
井は、静にして動かないので、陰爻をその様態とする。
これに対して水泉は、湧き出て汲み取るものなので、始終活動の用が有る。
したがって、活動という意がある陽爻を水泉とする。

さて、初六は陰爻にして、井の底に在る。
これは、水底の泥土の象である。
だから、井泥にして食われず、という。
ほったらかしていたから、そうなったのである。
そして、すでに廃止された井は、その禽もまた壊れているかなくなっているものである。
だから、旧井に禽无し、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、井谷射鮒、甕敝漏、

九二(きゅうじ)、井谷(せいこく)鮒(ふ)に射(そそ)ぐ、甕(もたい)敝(やぶ)れて漏(も)る、

井谷とは、井の中の水が湧き出ている場所、いわゆる水脈のことである。
鮒とは小魚のことであり、初六の陰爻を指している。

さて、初爻の辞は廃止された井戸の様子を書いているが、この九二はその廃止された井戸の汚泥を渫(さら)い尽くしたときの様子であって、新たな泉が少し湧き出して来た様子である。
今、九二の陽爻の水が、僅かに井谷より出て、初六陰爻の鮒に注いでいる象なのである。
だから、井谷鮒に射ぐ、という。
ただし、この爻の義は、その汚泥は渫い尽くして、新たなる泉が鮒に注ぐとしても、未だ十分に満ち足りてはいない。
なおかつ下卦に在って、未だ上体へ出ていないので、多くの人を広く養うほどの用途はない。
わずかに初六の鮒を養うのが精一杯である。

また、上卦坎を水とし、下卦巽を入るとすれば、井の全卦で甕(もたい=水瓶)に水を入れ貯(たくわ)えるという象が有る。
その巽は要するに甕にして、最下の陰の記号が、真中で切れていることから、その底が破れている様子となる。
底が破れている甕に水を入れても、その水は漏ってしまう。
だから、甕敝れて漏る、という。
これは、この爻辞の前半とは別象別義である。
なぜ、別象別義の辞があるのかについては、次のように考察している。
そもそもこの部分は、古くからの卜筮の辞であって、この九二の爻の象義と共通するので、ここに併せて付けた辞ではないだろうか。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、井渫不食、為我心惻、可用汲、王明並受其福、

九三(きゅうさん)、井(せい)渫(さら)えたれども食(く)らわれず、我(わ)が心(こころ)の惻(いたみ)を為(な)す、用(もち)いて汲(く)む可(べ)し、王(おう)明(あきら)かならば並(なら)びに其(そ)の福(ふく)を受(う)けん、

井はすでに九二の爻にて汚泥を渫(さら)い尽くし、今、九三にては、新たなる泉が湧き盈(み)ちる時である。
しかし、九三の陽爻の水が、なお下卦に在って、上に出ようとしない時には、泉の用を為し得ない。
これは、せっかくの泉なのに、汲み用いる人がいない象である。
だから、井渫えたれども食らわれず、という。
これを人事に当て嵌めれば、学業成り熟したのに、未だ挙げ用いられず、職が決まらないようなものである。

さて、このように用いられるべき能力がありながら用いられない人がいるのであれば、それは在上在位者の落ち度であって、心が痛むところである。
だから、我が心の惻みを為す、という。
この部分は、この辞の作者の周公旦が、自らの気持ちとして書いたものである。
したがって、我とは周公旦を指す。
周公旦は、周の武王の弟として、武王に仕えていた。
その経験に基づいて、九五の王者に、次のように勧め告げる。
もし、王者に明智が有るならば、かの渫い治めた在下の賢良を召し挙げて、その井の泉を汲み用いれば、ひとり王者だけが福を受けるのみにあらず、天下の億兆万民が、その井泉の潤沢の福を受けるのだから、積極的に汲み挙げるべきである、と。
だから、用いて汲む可し、王明らかなれば並びに其の福を受けん、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六四、井甃、无咎、

六四(りくし)、井(せい)に甃(いしだたみ)す、咎(とが)无(な)し、

六四は、汚泥を渫い、こんこんと泉が湧き出るようになった井が、再び壊れ、汚泥にまみれないよう、周囲を石畳で固めるときである。
甃(いしだたみ)とは石畳のことである。
だから、井に甃す、という。
当面、井泉を汲むためには、石畳で井を固める必要はないが、将来の劣化を未然に防ごうとするのは、決して無駄ではなく、むしろよいことである。
したがって、咎があるはずがない。
だから、咎无し、という。

なお、六四は陰爻だから、動かないという義があるので、水を説かずに、井に甃すべき時の義とする。


上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九五、井冽、寒泉食、


九五(きゅうご)、井(せい)冽(いさぎよ)し、寒泉(かんせん)食(くら)わる、

冽とは、水が至って清らかな様子を意味する。
寒とは水の徳性である。
寒泉とは、水の至って美にして清らかな状態を称えたのである。

さて、六四にて石畳で固め、今、九五にては、井泉は澄み清く漲って、いよいよ人事の用に供する時である。
だから、井冽し、寒泉食らわる、という。


上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六、井収、勿幕、有孚元吉、
上六(じょうりく)、井(せい)収(なりおわ)るなり、幕(おお)いすること勿(なか)るべし、孚(まこと)有(あ)れば元吉(げんきつ)なり、

収とは、物事が成就したことを言う。
幕とは遮蔽する物である。

九五の爻は、井を汲んで用を為す時である。
今、上六に至っては、すでに功成り終わり、井の口を幕(おお)い蓋する時に当たる。
だから、井収るなり、という。

しかし、功業成り終わって、幕い蓋することは、妄りに人には汲ませず、自家のみでこれを用いようとする吝嗇の道にして、その用は狭く、その徳も小さい。
したがって、その徳用を広大にするならば、幕い蓋をしてはいけない。
誰でもいつでも自由に井の水を汲めるようにしておくべきである。
だから、幕いすること勿るべし、という。

そもそも、井の水を人に惜しまない盛徳こそが、孚であり、これこそ大善の吉と称すべきである。
だから、孚有れば元吉なり、という。


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沢水困 爻辞

47 沢水困 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、臀困于株木、入幽谷、三歳不覿、

初六(しょりく)、臀(いさらい)株木(しゅぼく)に困(くる)しみ、幽谷(ゆうこく)に入(い)る、三歳(さんさい)までも覿(み)ず、

およそ人が立っているときは、臀部は身の中程にある。
そこで、沢天夬の卦では九四の爻にて臀を言い、天風姤の卦にては九三の爻にて臀を言う。
これは、天風姤も沢天夬も、共に人が立って行くことを前提にしているからである。
これに対して、この沢水困の卦にては、臀を初爻にて言う。
およそ、人が座っているときは、臀が底下に在る。
そもそも困は、鉢植えの木を象った文字にして、根底幹枝共に畏縮して、自由に伸びることができない様子である。
株とは、土の上に在る木の根である。

さて、困の時に当たって、初六は陰柔不才にして不中不正であり、なおかつ下卦坎の険(なや)みの底に陥って出ることができない。
これは、木の株に座り、その臀部を傷(やぶ)るようなものである。
だから、臀株木に困しみ、という。
また、上卦の兌は谷とし幽とする卦であり、下卦の坎も穴とし幽とする卦である。
その上、陰爻もまた穴を意味する。
これは、幽谷に入っている様子でもある。
だから、幽谷に入る、という。

その幽谷に入ってしまったような険難に陥ると、初六は陰柔不才なので、自らその険みを脱し、困を免れる力がないどころか、不中不正なので思慮が浅く、容易に脱出の手がかりをすら、明らかに見出せない。
また、易で時間の経過を考えるときは、一年目が初爻、二年目が二爻、三年目が三爻といった具合になる。
このように初爻から数えると、三年目は三爻で、三爻はまだ下卦坎の険難の卦の一体である。
したがって、少なくとも三年目までは、坎の険難を脱出する手がかりすら見出せないのである。
だから、三歳まで不覿ず、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、困于酒食、朱紱方来、利用亨祀、征吉、无咎、

九二(きゅうじ)、酒食(しゅしょく)に困(くる)しむ、朱紱(しゅふつ)方(まさ)に来(き)たらんとす、亨祀(こうし)を用うるに利ろし、征(ゆ)くは吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、

酒とは宴楽の義、食とは頤養の義を指し、心を楽しませることを酒に喩え、身を養うことを食に喩えているのである。
九二は、剛中の才徳は有るが、内卦坎の険(なや)みの主にして、上に応爻の援助はない。
これは、未だ君に知られず、君に遇されていない者である。
したがって、眼前に困苦の民がいても、彼らを賑わし養い、宴楽させることができない。
これが九二の君子の困しみである。
だから、酒食に困しむ、という。

この時に当たって、九五の応位も、また困の時の君上にして、輔弼する臣がいないので、応位の九二に援助を求めて来る。
そもそも、この九二九五は、共に剛中なので、同徳相応じ、九五の君が九二の臣に輔けられる義があるのである。
そこで、九五は九二に援助を求めて招聘する。
朱紱とは天子の飾りにして、九五君位の爻を指す。
だから、朱紱方に来たらんとす、という。

九二が九五の招聘に応じて仕える時には、必ずその徳を庶民に施すことを得て、その従来の志の困窮するところのことは、一時に脱することを得る。
なおかつ、二五が同徳相応じるところの孚信を以って、誠敬を尽くして亨祀する時には、神人共に感じ格(いた)って必ず多福を降し来たし、庶民の困の難(なや)みを済(すく)うことを得るのである。
したがって、招聘に応じて九五に行き仕えることが一番よいのであって、九二と九五が陰陽正しく応じていなくとも、咎はないのである。
だから、亨祀を用うるに利ろし、征くは吉なり、咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、困于石、據于蒺*梨、入于其宮、不見其妻、凶、
*梨は正しくは草冠に梨という字で、茨など棘がある植物のこと。
この字(図形として作成)→ri_toge.gif
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、意味は異なるが音が同じ*梨で代用しておく。

六三(りくさん)、石(いし)に困(くる)しみ蒺*梨(しつり)に據(よ)る、其(そ)の宮(みや)に入(い)りて、其(そ)の妻(つま)を見(み)ず、凶(きょう)なり、

石とは九四を指し、蒺*梨とは九二を指す。
宮とは六三の居所、妻とは上六を指す。

今、困の時に当たって、六三は陰柔不才、不中不正にして、下卦坎の険(なや)みの卦の極に居る。
その上、応爻の援助はなく、九四の陽剛に承け、九二の陽剛に乗っている。
したがって、前に進もうとすれば九四の堅剛な石に遮られて進めず、後ろに退こうとすれば、九二の蒺*梨の鋭利な棘に刺され阻まれて退くこともできず、進退共に窮まっているのである。
これは、困窮の至って甚だしい者である。
だから、石に困しみ蒺*梨に據る、という。

まして六三は、九四の陽に承けると九二の陽に乗るという険みが有るだけではない。
自身の居所の六三の位もまた、坎の険みの極にして、あまつさえ上六の応位の妻が有るとしても、これもまた陰柔にして相応じてはいないので、その妻に会えない。
したがって、安んじるところがなく、援助もない。
困の至極、凶の最大なる者である。
だから、其の宮に入りても其の妻を見ず、凶なり、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九四、来徐々、困于金車、吝有終、

九四(きゅうし)、来(き)たること徐々(じょじょ)たり、金車(きんしゃ)に困(くる)しむ、吝(やぶさか)しけれども終(おわ)り有(あ)らん、

金とは陽剛の喩え、車とは進み行くことの喩えであり、金車とは九二の陽剛を指す。
もとより九四は、執政宰輔の位に居て、陽剛の才が有るとしても、今は困の時に当たって、一人を以って天下の困を済(すく)うことはできない。
そこで、在下の賢者を得て、これと共に力を合わせて、天下の困を済おうと欲する。
しかし今、在下の剛明の才徳がある者は、九二以外にはない。
その九二は下卦坎の険(なや)みの主にして、その身も険みに陥っているので、自家の困の険みも甚だしい。
なおかつ九四の爻とは、応でもなければ比でもない。
したがって、呼んでも来ることは徐々として遅く緩い。
これは九四の困(なや)むところである。
だから、来たること徐々たり、金車に困しむ、という。

そもそも九四は執政の任に当たり、宰相の職に居るわけだが、このような天下の困厄のときに遇って、慌てて済(すく)いを他人に求め、補佐を在下の賢者に乞い、困を済おうとするのは、普段からの備えを怠り、安易なことばかり考えていたからである。
このようであれば、天下後世から吝(いや)しめ笑われるものである。
九四は不中正なので、このような謗りを免れないのである。
しかし、一に天下のために賢者を求め、能力のある者に任せるのだから、その事業を成功させることはできる。
だから、吝しけれども終り有らん、という。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五、劓刖、困于赤紱、乃徐有説、利用祭祀、

九五(きゅうご)、劓(はなきら)れ刖(あしきら)れ、赤紱(せきふつ)に困(くる)しむ、乃(すなわ)ち徐(おもむろ)に説(よろこ)び有(あ)らん、祭祀(さいし)を用(もち)うるに利(よ)ろし、

劓(はなきら)れとは、上に在る者の困難の喩えであって、君上の困である。
刖(あしきら)れとは、下に在る者の困難の喩えであって、下民の困である。
赤紱(せきふつ)は諸侯の飾りにして、九二を指しての喩えである。

今、困の時に当たって、九五は君の位に居る。
そもそも人君の主たる務めは、天下の憂いを以って自身の憂いとし、天下の困苦を以って自身の困苦とすることである。
これを以って、上下の困難厄窮を一身に集め、自身が刑罰を受けているかのように苦しむ。
だから、劓れ刖れ、という。

もとより九五の爻は、剛健中正の徳が有るとしても、今、天命困窮の時にして、とても一人では天下億兆の困を済(すく)うことはできない。
そこで、九二の賢者が下に在るので、援助を求めようとするが、共に陽剛なので、相応じ難い。
これが九五の困(なや)むところである。
だから、赤紱に困しむ、という。

しかし、九五の君からすれば、九二以外に、応位の求めるべき者はいないので、心を専らにし、志をひとつにし、礼を崇(たか)くして、懇ろに九二の賢者を求めるべきである。
そうすれば、九二もまた剛中にして同徳相応じる象義があるので、時間はかかるが、必ずや来て九五を補佐してくれる。
九二が来て、君臣が徳を合わせれば、天下の困窮を済(すく)うことができる。
困窮から済われれば、大いに悦び楽しめる。
だから、乃ち徐に説び有らん、という。

さて、天下に君たらん人は、天下の困窮険難を見ては、一日片時も徒然として空しく過ごしてはいけない。
千慮百計して、以って困を済う方策を求めることは勿論であるが、粉骨砕身して人事人力を尽くしても解決しないことは、天地神明に祈り求めるべきである。
要するに、人事を尽くすだけでは足りないところを、祭祀を行い、天地神明に祈るのであって、今がその時その位なのである。
だから、祭祀を用うるに利ろし、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上六、困于葛藟、于臲*危、曰動悔、有悔往吉、
*危は正しくは兀に危という字で、コツと読み、意味は不安定なこと。
この字(図形として作成)→kotsu.gif
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、意味も音も異なるが似ている*危で代用しておく。

上六(じょうりく)、葛藟(かつるい)に、臲*危(げっこつ)に困(くる)しむ、曰(ここ)に動(うご)けば悔(く)いあり、悔(く)いあらためること有(あ)れば、往(ゆ)きて吉(きち)なり、

葛藟は蔓を延ばす植物のこと。
臲*危は不安定で危険な様子。

上六は、困の全卦の至極に居て、陰柔不才不中にして応の位の援助もない。
したがって、日夜共に居所に困(くる)しんで安んじることができない。
まるで、葛藟が高く樹上へ延び上がったように、不安定で危険である。
喩えれば、上六は陰柔の葛藟にして弱力なので、己が身は自立できない者である。
とすると、九五の剛木に比し絡みつき、己が身を安定させるべきなのである。
そして、その分を守り、そこに止まり居ればよいのだが、陰柔小人の常として、坐の下が暖まれば次第に欲を強くし、どんどん蔓を延ばし、ついには九五の木を離れて、なおも蔓を延ばし続け、手を出し足を垂れて、強い風に吹き動かされ、極めて不安定で危険な状態になるのである。
だから、葛藟に、臲*危に困しむ、という。

今、この困難危険な状態のときに、思慮工夫をしてなんとか打開しようとしても、所詮は陰柔不才であり、自力ではどうすることもできない。
付け焼刃で何かやろうとしても失敗する。
まして、応爻の助けもない。
したがって、妄りに動けば、悔いる結果になるだけである。
だから、曰に動けば悔いあり、という。

そこで上六は、自らの分を省みて、元来陰柔不才にして独立する能力がないことを自覚し、九五の大木に伏し従い居るべきである。
だから、悔いあらためること有れば往きて吉なり、という。
往きてとは、延び過ぎた手足を曲げ縮め、九五を凌がないようにし、深く引き退き、慎み惧れてその分を守り、九五の比の大木の恩を忘ないよう、改心することを指す。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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