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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

地風升 爻辞

46 地風升 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、允升、大吉、

初六(しょりく)、允(まこと)とせられて升(のぼ)る、大吉(だいきち)なり、

初六は升(のぼ)り進むの時に当たって、下卦巽順の主、成卦の主、進み升るの主爻である。
今は升の時なので、初六は、六五の君のところに升り、朝覲するへぎであるが、柔弱巽従の主なので、隣の九二の諸侯に比して居る。
九二は陽剛にして権勢盛大である。
したがって、このまま九二に比従し、遂に六五の君所に升り朝覲することを忘れる時には、升の卦の義に違い、甚だ凶である。
もとより初六は、九二に密比するを以って、衆爻より、九二に比従するかと疑われる。
しかし、初六は成卦の主にして、升り進むの主爻なので、決して六五の君所に升り朝覲することを忘れ怠る者ではない。
これを以って、終に衆爻の疑い散じて、その忠信の志を允(まこと)とされる。
これは升り進むの大いに善なる者である。
だから、允とせられて升る、大吉なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、孚乃利用禴、无咎、

九二(きゅうじ)、孚(まこと)あれば乃(すなわ)ち禴(やく)を用(もち)うるに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、

升(のぼ)り進むの時に当たって、九二は剛中の才徳を以ってして、六五柔中の君に相応じている。
これは、宜しく六五の君所に升り朝覲し、国家を輔弼して、忠信誠実の孚を尽くすべき爻であることを意味する。
と同時に、九二が忠信の孚を以ってしてするべきは、神明を祭ることである。
そもそも、よく孚有って神明を祭る時には、供え物が豊厚でなくても、神明は必ず感じ格(いた)って、咎のないものである。

この卦は、二五陰陽相応じていて、五は天位に在るので神明の象とし、二は下に位するので祭主の象である。
これは沢地萃の六二、沢水困の九二とその義は同じことである。
ただし、この地風升の卦の中にては、ただ九二九三の爻のみ陽剛にして、その勢い甚だ強盛である。
また、六五の君と六四の宰相とは、共に陰柔にして、その威は軽く権も薄い。
これを以って、ややもすれば九二の剛臣は、上に叛いて忠信の孚を尽くさない惧れ疑いもある。
としても、人はこれを欺くとも、神明は欺かないものである。
まして神明は、忠信至誠でなければ、感じ応じ来り格ることはないのである。
そして、神明も感じ格るような忠信至誠の人であれば、君に叛くことがあるはずがない。
したがって、これに誠敬を用いて神明を祭る如くにして、君に叛くことがないようにと、諭しているのである。
だから、孚あれば乃ち禴を用うるに利ろし、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、升虚邑、

九三(きゅうさん)、虚邑(きょゆう)に升(のぼ)るがごとし、

今、升り進む時を得て、九三の爻は、剛明の才力が有るので、六五の君に升り朝覲することは、上に一陽剛の抑え阻む者もないので、恰も虚邑(人のいない村)に進み行くが如くに容易い。
だから、虚邑に升るがごとし、という。
ただし、この九三の爻もまた下卦の極に居て、陽剛にして勢い強く、過剛不中なので、その勢いに任せて富強を恃(たの)み、六五の君を犯し凌ごうとする志が有る時もある。
その時には、大いに咎が有るものである。
そこで、六五に升り朝覲することが最も容易であることを教示することで、決して君に叛くことがないよう諭しているのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六四、王用亨于岐山、吉、无咎、

六四(りくし)、王(おう)用(もち)いて岐山(きざん)に亨(すすめまつ)る、吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、

王とは周の先王のことを指すのだが、個人は特定していない。
岐山とは周の故郷であって、ここで亨祀するのは殷の世の諸侯だった時のことである。
諸侯でありながら王と称するのは、周の天下になった後に、先君をみな王と追号したからである。

もとよりこの爻の辞は、周公旦(文王の子で、殷を滅ぼした武王の弟、孔子の生国魯の国祖)が周の天下になった後に書いたものであり、王と追号するの礼を以ってこれを王と称したのであって、実際は殷の臣にして方伯だったときの事なので、六四の臣位の爻の辞としているのである。

さて、この六四の先王は、柔順にして正を得ている。
これは、よく天子を奉載し、諸侯を懐柔し、賢哲を尊尚し、己を虚しくして誠を尽くす者であって、なおかつ升の時に当たっては、その誠実の至りが、神明に升り達する者である。
だから、王用いて岐山に亨る、吉なり、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━


六五、貞吉、升階、

六五(りくご)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、階(かい)に升(のぼ)らしめん、

六五は升の時に当たって、柔中の徳を以って君位に居る。
これは位階の極にして、更に升り進むべきところはない。
とすると、後は諸侯を升って来させるだけである。
諸侯を升って来させるとは、諸侯が来服して升り朝覲することを指す。
この時に当たって六五の君は、よく己を虚しくして、その徳を貞正にして諸侯と接すれば、外藩遠鎮の諸侯も悉く来て陛階に升り来服するものである。
だから、貞しくして吉なり、階に升らしめん、という。

そもそもこの卦は、全体は二陽四陰にして、その二陽は下卦に在る。
したがって、上に威権は薄く、下に勢力盛んな時である。
これを以って、二三の両陽剛が君家を軽んじ君所に朝覲しないことを恐れる。
この時に臨んでは、六五の君は、勉めてその徳を貞正にして、天下に待するのがよい。
そうしていれば、外藩の諸侯、遠鎮の強臣も、自然にその徳に感じ化して、君所に升り、朝覲するものである。
吉とは、九二と九三の両陽剛が升り来て朝覲することを指す。
升階とは、九二と九三の方伯等が朝覲して玉階に升ることを指す。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六、冥升、利于不息之貞、

上六(じょうりく)、升(のぼ)るに冥(くら)し、不息(やまざ)るの貞(つね)あるに利(よ)ろし、

上六の爻は、升り進む時に当たって卦の極に居て、なおも升り進もうとする。
これは、名利に耽って止まることを知らない者である。
そもそも升るの道は、その節に止まるを貴しとする。
それでもなお厭うことなく、升り進んで止まり休むことを知らないのならば、それは升の道に冥(くら)いからである。
だから、升るに冥し、という。
升るに冥ければ、悔吝に至り凶害を得ること必定である。
常に貞正を心がけ、止まる時を知ることが大事である。
だから、不息るの貞あるに利ろし、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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沢地萃 爻辞

45 沢地萃 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、有孚不終、乃乱乃萃、若号一握為笑、勿恤、往无咎、

初六(しょりく)、孚(まこと)有(あ)れども終(お)えず、乃(すなわ)ち乱(みだ)れ乃(すなわ)ち萃(あつ)まる、若(も)し号(さけ)べば一握(いちあく)して笑(わら)いを為(な)さん、恤(うれ)うる勿(なか)れ、往(ゆ)くは咎(とが)无(な)し、

今、四陰が二陽に萃(あつ)まる時に当たって、初六は九四の正応である。
しかし、四は臣、五は君であり、君を捨ててまでして、正応の九四の臣に萃まるのは、孚の道ではない。
したがって、初六に孚が有り、九五に萃まろうと欲しても、正応の九四に萃まらざるを得ないのだから、九五に萃まろうと欲する孚を遂げ終えることは不可能である。
だから、孚有れども終えず、という。
このように、初六はその志を遂げられないので、心が乱れ、半ば九四に萃まろうとしつつ、それでも半ば九五に萃まることを欲する。
だから、乃ち乱れ乃ち萃まる、という。

今は九四に隔てられて、九五の君に萃まることはできなくても、志を堅固にして九五に萃まることを欲し、それがために叫ぶに至る如くであれば、必ずいつかは九五に謁見して、喜び笑うことができるものである。
だから、若し号べば一握して笑いを為さん、という。
一握とは、相手と会って握手をすることを指す。

初六は九五の応位ではないので、強いて往けば咎が有りそうにも思えるが、今は萃の時であって、臣を以って君に萃まるのである。
何の咎もないに決まっているのであって、往くこと躊躇して憂い恤うることは何もない。
だから、恤うる勿れ、往くは咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、引吉、无咎、孚乃利用禴、

六二(りくじ)、引(ひ)けば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)あらば乃(すなわ)ち禴(やく)を用(もち)うるに利(よ)ろし、

今、四陰が二陽に萃るの時に当たって、初は四の正応にして、三は四の正比である。
これはみな九五の君に萃まれない、あるいは萃まらない者である。
そんな中、この六二のみ柔順中正にして、四に応じず比せず、九五の君に正応している。
これは、吉にして咎のないことである。

しかし、六二は下卦に在って大臣の位に居る。
その下卦坤の同体中の初と三とを引き連れて九五の君に萃まらず、初や三を九四の権臣に萃まらせるのは、下に在る大臣の職任においては、咎のあることである。
したがって、六二の大臣は、同じ下卦坤の体中にある初と三の二陰爻を引き連れて九五の君に萃まらせることこそが、吉にして咎のないことなのである。
だから、引けば吉なり、咎无し、という。

禴とは薄い祭りのことである。
六二は中正にして君に孚の有る者である。
君に孚の有るときは、必ず神にも孚を以って接する。
孚が有って祭祀するのであれば、供え物が少ない薄い祭りであっても、神明は必ず感じ格(いた)るものである。
だから、孚あらば乃ち禴を用うるに利ろし、という。

そもそも神とは、集ればそこに在り、散ればそこにいないものである。
この沢地萃は集るの卦なので、神霊を集めて祭祀を行うことにも言及する。
爻において見れば、五は天神の位にして、二は五の応位なのでその祭主とする。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、萃如嗟如、无攸利、往无咎、小吝、

六三(ろくさん)、萃如(すいじょ)たり嗟如(さじょ)たり、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、往(ゆ)くは咎(とが)无(な)し、小(すこ)しく吝(はずか)し、

萃の道は、九五に集るのを正とする。
これを以って、六三もまた、九五に萃(あつ)まろうと欲するが、九四に隔てられる上に、五は三の応比ではないので、直ちに集るのが難しい。
萃如として九五に集りたくても、障害があって集れず、嗟如として憂い歎いているのである。
だから、萃如たり嗟如たり、という。
このまま九五に集らず、上って九四に比する時には、萃の時の道に違う。
道に違うことが、よいわけがない。
だから、利ろしき攸无し、という。
もし、六三が九五に往き萃まる時には、応比の位ではないが、臣を以って君に萃まるのだから、咎はない。
だから、咎无し、という。
もとより六三は、陰柔不中正なので、心は弱く、九四に親比している。
そこで、初めより、憤然として志を決して、九五に萃まることは不可能なので、後に往きて九五に萃まろうとする。
しかし、そういう態度は、辱められ、後ろ指をさされるというもの。
だから、小しく吝し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九四、大吉、无咎、

九四(きゅうし)、大吉(だいきち)なり、咎(とが)无(な)し、

この卦は九四と九五の二陽爻が、ともに剛明の才徳が有る。
このように、君上と宰相とがともに剛明ならば、天下の臣民はその徳化に服従しないはずがない。
万民は悉く君徳に萃まるものである。
これこそ、大吉である。
大吉とは、大いに得るという義であって、大いに民心を得る、ということである。
大いに民心を得たら、公正を以って国家のため君のために尽くすことが大事である。
そうすれば、咎はない。
もし、九四が民心を得るを以って、これを己の徳、己の功と自負し、自家の威権を盛んに張り、君の家を蔑視する意が有れば、これは大悪大凶の道である。
だから、大吉なり、咎无し、という。

上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五、萃有位、无咎、匪孚元永貞、悔亡、

九五(きゅうご)、萃(すい)のとき位(くらい)を有(たも)つ、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)とせられ匪(ざ)れども元(おお)いに永(なが)く貞(つね)あれば、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、

四陰が二陽に萃まるときに当たって、四は臣の位なので、これを萃め有(たも)つときには、国家のためではなく、自分のためでしかないのであって、大いに咎がある。
しかし、この五は君の位なので、これを萃め有(たも)つのは国家のためでもあるのであって、何の咎もない。
だから、萃のとき位を有つ、咎无し、という。
とは言っても、九四の大臣は威権を盛んにして、君と民との間に在るので、九五の君の徳言徳行はきちんと下民に通じない。
これを以って下民は、九五に恵心が有ることを知り難く、君を信頼できず、なかなか孚としない。
これは、九五にとっては、悔いの残ることである。
そうであっても九五は、大いに永く貞常の徳を有して、民を恵む志が間断ない時には、下民もいつかは君徳を孚として、九四の門に集まっていた者も悉く九五に萃まり来るものである。
孚とされれば、悔いは亡ぶ。
だから、孚とせられ匪れども、元いに永く貞あれば、悔い亡ぶ、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上六、齎咨涕洟、无咎、

上六(じょうりく)、齎咨(せいし)涕洟(ていい)すれば、咎(とが)无(な)し、

齎咨涕洟とは、歎き悲しみ泣く様子である。
今は萃の時である。
上六は陰柔不中にして、兌口の主である。
したがって、強いて九五の君に比し萃まろうとする。
これは、重陰不中姦佞の小人であって、巧言令色を以って君上に取り入って信用を得、君寵を利用して威勢を逞しくしようと画策する者である。
しかし、この九五は剛健中正なので、よく徳を守って姦佞陰邪の小人を防ぎ斥ける。
これを以って上六の小人は、君辺に萃まる必要のない者とされる。
上六は、このときに当たって己の身の安泰を求めるのならば、巧言令色佞媚姦謀を以って人を欺き身を立てようとして道に背き義に悖ることの宿罪前非を痛く悔いて、厳しく改め、嘆き悲しみ泣き、正しきに復(かえ)ることである。
そうすれば、これ以降は罪咎を免れるというものである。
もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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天風姤 爻辞

44 天風姤 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、繋于金柅、貞吉、有攸往見凶、羸豕、孚蹢躅、

初六(しょりく)、金柅(きんじ)に繋(つな)がるべし、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、往(な)す攸(ところ)有(あ)らば凶(きょう)に見(あ)わん、羸豕(るいし)、孚(まこと)に蹢躅(てきしょく)たり、

この爻の辞は、三節に分かれている。
まず、初めより貞吉までを一節とする。
金とは陽剛の喩え、柅とは糸を紡ぎ巻く道具のことであり、金柅で九二を指す。
さて、九二の金柅に依頼(よりかか)るべき者は初六にして、これは陰柔の糸である。
小人が君子に仕えることや、妻が夫に仕えることは、糸が柅に巻きつくときのように、柔順に仕えることを道とする。
九二は金柅であり、初六は糸である。
したがって、初六が柔順の道を以って、固く九二の金柅に繋がり巻きつき、よく貞正を守る時は、吉の道である。
だから、金柅に繋がるべし、貞しくして吉なり、という。
要するに、この一節は、初六の陰柔の小人なり妻なり糸なりが、九二の君子なり夫なり金柅なりに柔順に仕え従うべきことを教えているのである。

続く見凶までの一節は、君子に教え戒める辞である。
この卦は、陰が浸(すす)み長じて陽を消し尽くす時の始まりである。
陰が長じて陽が消されることは、五陽の君子の消害されることであり、君子にとっては凶である。
だから、往す攸有らば凶に見わん、という。
往す攸とは、陰が浸むことを言う。
陰が浸むことあれば、陽に君子は凶に見う、ということである。
要するに、この一節は、初六の陰爻を、今はたったの一本だと侮らず、深く怖れるべきことを示しているのである。

末段の一節は、陰邪小人の利害をいう。
羸とは疲れて弱々しいといった意、豕(いのこ)は汚く躁がしく劣った動物にして初六の小人に喩える。
初六は一陰柔で微弱なので、羸豕=疲れて弱々しい豕、という。
孚は、それに違いないことを言う。
蹢躅とは、無節操に飛び跳ねることであって、その勢いが強壮であることを言う。
初六の豕は、今は疲れているかのように弱々しく見えるが、いつかは浸み長じて元気一杯蹢躅として飛び跳ねるに違いない。
だから、羸豕孚に蹢躅たり、という。
これは、今は至って微弱な初六の一陰であっても、放置していれば、ついには大害を起こす、という喩えであって、君子はそうならないよう、しっかり防御の備えをせよ、と、深く警鐘しているのである。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、包有魚、无咎、不利賓、

九二(きゅうじ)、包(つと)に魚(さかな)有(あ)り、咎(とが)无(な)し、賓(ひん)にも利(よ)ろしからず、

魚は陰物にして初六の象である。
包とは、九二が初六の魚を包み置くという義である。
魚は美味な物にして、小人が佞言甘語を以って媚び諂うことに喩えている。
これは、沢天夬の九五の辞に、上六の小人の佞媚を山羊に譬えているのと同類である。
そもそも小人が姦邪な佞語甘言を以って美味しそうな魚を勧めるとしても、君子がよく自ら守って、その包みは開かず食べないときには、その毒に遇い、禍いに陥ることはない。
今、九二は剛中の徳を以って、その魚を食べず、包まれたままにして置く。
だから、包に魚有り、咎无し、という。
もし、初六の小人を比し親しみ、その魚を食うときには、忽ちに災害の毒を受けることになるのである。
このような小人の陰邪な媚び諂いの魚は、自分が食べないだけではなく、上四陽の君子の賓客にも、決して用いてはいけない。
だから、賓にも利ろしからず、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、臀无膚、其行次且、无大咎、

九三(きゅうさん)、臀(いさらい)に膚(にく)无(な)し、其(そ)の行(い)くこと次且(ししょ)たらば、(あやう)けれども大(だい)なる咎(とが)は无(な)し、

この卦は初六のみが陰なので、他の五陽爻は共にこの初六の一陰を求める。
そこで、落ち着いてその場に居られない。
まるで、臀部に膚肉がなく、座っているのが痛くて、すぐに立ち上がってしまうように。
だから、臀いに膚无し、という。
しかし九三は、初六と応でもなければ比でもないので、行き求める筋合いではなく、行こうとしても、容易には行けない。
無理して行こうとすれば危険である。
このまま諦めれば、多少の気迷いはあったとしても、大きく咎められることはない。
だから、其の行くこと次且たらば、けれども大なる咎は无し、という。

なお、臀无膚、其行次且は、沢天夬の九四と同じであり、この部分の詳解は沢天夬の爻辞の書いているので、ここでは省略する。
ちなみに、この天風姤は、沢天夬を上下転倒させた卦であって、天風姤の九三は、逆方向から見ると沢天夬の九四なのである。
このような関係があると、爻辞に同じ言葉を共有する場合があるのである。


上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九四、包无魚、起凶、

九四(きゅうし)、包(つと)に魚(さかな)无(な)し、凶(きょう)を起(お)こす、

魚は初六の一陰を指す。
九二の辞には、包有魚とあるが、これは初六の魚を食べずに、包の中にそのままにしてあることである。
この九四の場合は、その包の中の初六の魚を食べてしまったのである。
九二は初六の比爻にして、九四は応爻なので、共に小人と親しくする接点がある。
それなのに、なぜ、食べる食べないの違いがあるのか。
それは、九二は剛中の徳が有るので、それが陰邪な媚び諂いによることだと察知し、君子ならば食べるべきではないと考えて止まり、この九四は不中正だから、深く考えずに食べてしまうのである。
初六の小人から魚を貰っても、そのまま手を付けず食べなければ問題ないが、食べてしまえば、魚の毒に当たり、小人の害を被るのである。
だから、包に魚无し、凶を起こす、という。
初六の陰邪な魚を食べることで、自ら凶を起こす、という戒めである。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九五、以杞包瓜、含章、有隕自天、

九五(きゅうご)、杞(き)を以(も)って瓜(うり)を包(つつ)めり、章(あや)を含(ふく)むべし、天(てん)自(よ)り隕(おつ)ること有(あ)り、

杞とは、瓜を包み入れる容器である。
瓜は初六を指す。
瓜は味わい甘美な物にして、小人が佞語を以って媚び諂うに喩える。
九五の君は、剛健中正にして、初六小人の種々の甘言、媚びた態度を以って瓜を献上するが、その瓜を包みのまま放置して食べない。
だから、杞を以って瓜を包めり、という。
もとよりこの卦は、陰が陽を消し、小人が君子を害するときが来たことを示す卦である。
そういう時運なので、何事の改革や、事業を始め興すにしても、利ろしくない。
したがって、自己の章(魅力)をも内に含んで発露せず、当面は旧徳を守り、時勢を計り考え、小人を抑え斥けることに全力を傾けるべきなのである。
だから、章を含むべし、という。

さて、この天風姤の卦は沢天夬の転倒生卦にして、今、初六の一陰は、沢天夬の上爻の天の位より、この天風姤の初爻の地の位に隕ちて来たという象である。
だから、天自り隕ること有り、という。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上九、姤其角、吝无咎、

上九(じょうきゅう)、姤(こう)のとき其(そ)れ角(つの)なり、吝(りん)なれども咎(とが)无(な)し、

角は、剛強の喩えにして、上九の象である。
今は姤の出遇うという時にして、五陽が共に一陰を求め遇おうとしている。
これは、陰陽の定情である。
ただ、独り上九は、卦の極に在って、初六に応も比もないのは勿論だが、その居り処も初六から至って遠く、その姿は見えもせず、声も聞こえない。
したがって、初六に遇おうと求める気持ちはない。
また、上九の爻は、二五君臣の外に居るのわけだが、それは郊外の鄙びたところに居て、世情に無関心な者である。
その郊外に居て世俗に無関心な様子を喩えて、角という。
角は、頭から突き出ていて、そこは痛みも痒みも感じない。
このように世情から疎いのは、吝ではあるが、そうであるからこそ、初六の一陰の害に交わるという咎もないのである。
だから、姤のとき其れ角なり、吝なれども咎无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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沢天夬 爻辞

43 沢天夬 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、壮于前趾、往不勝為咎、

初九(しょきゅう)、趾(あし)を前(すす)むるに壮(さか)んなり、往(な)すこと勝(か)たざれば咎(とが)ありと為(な)す、

この卦は十二消長のひとつにして、雷天大壮の四陽剛の上に、さらにまた一陽剛を長じた卦象である。
そのために、雷天大壮の義を兼ね帯びてもいる。

さて、この初爻だが、前とは進むの義にして、雷天大壮にまた一陽剛が増し進んだという義を兼ねている。
初九は趾(あし)の位に当たるとともに、陽剛にして、乾の進むの卦の一体に居る。
これは、進むことに専らな様子である。
今は、五陽が同じように進んで一陰を決(さく)り去るの時にして、初九はその始めに居る。
したがって初九は、衆陽の中にても、最も先に進んで上六を誅殺しようと欲する者である。
だから、趾を前むるに壮んなり、という。
趾を進めれば、身もその趾に従って進むので、要するに、身を進めるに壮んなことを示している。
上六を決ることは、五陽の君子の同じく共に願うところなので、初九の進むのを敢えて咎めることはないが、慌てて事を起こし、上六を決り損なったときには、大なる害を生じる。
こうなったら、大なる咎を免れない。
だから、往すこと勝たざれば咎ありと為す、という。
これは、血気に焦って進むに専らなことを深く戒めてのことである。
なお、ここでの「往す」とは、上六を決ることを指す。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、号、莫夜有戎勿恤、

九二(きゅうじ)、(おそ)れて号(さけ)ぶ、莫夜(ぼや)に戎(じゅう)有(あ)りとも恤(うれ)へ勿(な)し、

今、五陽が並び進んで一陰を決り去る時に当たって、九二は下卦乾の一体に居て陽剛だが、中を得て柔位に居る。
したがって、初九にありがちな軽躁鋭進の失はなく、事に臨んでは惧(おそ)れよく考えてから動く者であり、常に事の不慮を(おそ)れて、予め衆陽剛に号(さけ)び戒めて、その防御を厳しくする用心堅固な者である。
これにより、たとえ莫夜(夕闇の頃)に思わぬ戎事(敵の攻撃)が有っても、驚き恤うることはなく、きちんと迎撃できる。
だから、れて号ぶ、莫夜に戎有りとも恤へなし、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、壮于*頬有凶、君子夬夬、独行遇雨如濡、有慍无咎、

*頬は、正しくは「九頁」をひとつにした字で、九がヘンで頁がツクリ、意味は「つらぼね=頬あたりの骨」。
この字(図形として作成)→tsurabone.gif
しかし、この字はJIS規格にもユニコードにもないので、意味が近い*頬で代用しておく。

九三(きゅうさん)、*頬(キュウ=つらぼね)に壮(さか)んなれば凶(きょう)なること有(あ)らん、君子(くんし)は夬(さく)るべきを夬(さく)る、独行(どくこう)すれば雨(あめ)に遇(あ)うて濡(ぬ)れるが如(ごと)し、慍(うらま)るること有(あ)らん、咎(とが)无(な)し、

今、五陽を以って一陰を決り去る時に当たって、九三は過剛不中にして、下卦乾の進むの卦の極に居る。
これは、進むに鋭尖(えいせん)な者であり、上六を決り去ろうと欲する情が顕然として顔色に露われる。
だから、*頬に壮んなり、という。
九三が短慮性急にしてその怒りの猛々しさを、忽ちに面色に発する様子である。

そもそも兵事は機密を貴ぶものである。
それを、このように怒りを面色に発すれば、敵は必ずその機を察して守りの防備を設け、却って姦謀を巡らして、これを決り去り難くするのみならず、君子を暗ますことすらもある。
だから、凶なること有らん、と戒める。
君子とは、九三の爻を指す。
五陽爻の中、独り九三のみ君子と称するのは、九三は上六の応の位にして、上六を決り去るの主だからである。
なおかつ、上六の小人に対して、応位ではあるが、これに害応して、和同しない義を示しているのである。
だから、君子は夬るべくを夬る、という。
夬るべくとは、もちろん上六を指し、決して和同せず、害応せよという戒めである。

さて、五陽が同じく進むの中で、九三独りが上六に害応しているわけだが、害応しているというのは、要するに九三と上六が陰陽相応じている関係にあるのである。
そこで、このまま九三が独り行けば、他の衆陽爻からは、恰も九三と上六が陰陽相応じて和合してしまうのではないかと疑われる。
だから、独行すれば雨に遇うて濡れるが如し、という。
雨は陰陽の和合した様子を示す。
天(陽)が地(陰)に施す恵みが雨である。

しかし、このように衆陽に疑われ慍れることがあっても、九三と上六は害応であって、応じ和することは決してなく、そもそも九三は上六を決り去るの主である。
決り去った後には、疑いも晴れ、咎もないのである。
だから、慍るること有らん、咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九四、臀无膚、其行次且、牽羊悔亡、聞言不信、

九四(きゅうし)、臀(いさらい)に膚(にく)无(な)し、其(そ)の行(い)くこと次且(ししょ)たり、羊(ひつじ)を牽(ひ)けば悔(く)い亡(ほろ)ぶ、言(げん)を聞(き)いても信(しん)ぜられず、

臀は尻、膚は肌肉=皮のすぐ下の部分のことである。
今、五陽を以って一陰柔を決り去ろうとする時に当たって、九四は陽爻だが陰位に居るので、才徳は有るが志が弱い者である。
したがって、進み行くことを怖れて、止り退こうとも欲する。
しかし内卦の三陽爻が上り進んで、すぐ後ろに逼っているので、九四は怖気づいて退くことはおろか、止り居ることもできない。
例えれば、臀(尻)に膚肉がなく、座ると痛いので、立って歩くしかないような様子である。
とは言っても、進み行こうとしても、志が弱いので、敵を怖れることが甚だしく、足が前に出ない。
だから、臀に膚无し、其の行くこと次且たり、という。
次且とは、行きたくても進めない様子。

そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。

このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九五、*莫陸、夬夬、中行无咎、

*莫の字は、通本は莫のままだが、中州は、それでは象と辞との関係がおかしくなるから誤りだとして、似ている別の字に正して解釈している。
この字(図形として作成)→kwan.gif
小さくてわかりにくいかもしれないが、上の部分は草冠ではなく、真中が切れていて、その下は見ではなく、目の下に兎の字の足の部分を合わせた字形で、カンと読み、意味は山羊の細くて大きい角のこと。
しかし、この字はJIS規格にもユニコードにもないので、音も意味も異なるが、*莫で代用しておく。

九五(きゅうご)、陸(おか)に*莫(かん)あり、夬(さ)くべきを夬(さ)くれよ、中行(ちゅうこう)なれば咎(とが)无(な)し、

*莫は山羊の細い角のうちの、形が大きいものである。
山羊は、外質(見た目)は柔弱で、内性(性格)は悪賢くひねくれているが、食べるとその味は美味い。
これは、上六が、兌の口の主にして佞弁甘語を以って人主の九五の気に入られ、その内性が陰邪にして甚だ悪賢いことに喩えているのである。
陸とは高い原にして、上爻の象である。

今、上六は、陰柔不中にして九五の君に密比し、兌口の主であるを以って、甘言美語を以って君に媚び諂う姦人である。 それでも、君よりも上位に居て君辺に近侍し、君意をよく得ている。
だから、陸に*莫あり、という。

さて、この卦中に、ただ、一陰爻のみ、九五に密比する。
もとより九五も、兌の和悦の卦の一体に在るので、一旦は上六と陰陽親比し、その甘言を信じ、絶大な寵恩を与えてしまう。
そのために国家の勢いが危険になるところだが、幸いに九五の君は、剛健中正の徳が有るを以って、やがてはかの上六の佞邪姦曲なことを悟って反省し、これを斥け、その佞人の語を聞き入れず、ついにはこれに害比して、決り去るのである。
しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上六、无号、終有凶、

上六(じょうりく)、号(さけ)ぶこと无(な)かれ、終(おわ)りに凶(きょう)なること有(あ)らん、

上六は陰柔不中の小人にして、高く上爻に居て甘言佞語を以って君に媚び諂い寵恩を擅(ほしいまま)にし、重陰の姦邪を以って威を振り権を弄し、九四執政の大臣をさえ、畏れて足恭させるに至らせる者である。
その上、自らは、天下に恐れ憂いることは何もないと嘯き、意気揚揚と自負する。
しかし衆陽の君子等は、この上六のために国家が傾くのを静観しているわけにはいかない。
これを王庭に揚げて、王命を以って公明正大に処罰誅殺する。
そのときには、どんなに泣け叫んでも、すでに遅い。
上六は身も家も共に滅亡に至るだけである。
だから、号ぶこと无かれ、終りに凶なること有らん、という。


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☆ キリスト処刑との類似 ☆

ところで、この沢天夬の卦辞や爻辞を読んでいると、『聖書』のイエス・キリスト処刑物語を思い出さないだうか?

初爻はキリスト処刑(決去)を渇望するユダヤの民衆。
三爻は処刑首謀者のユダの行動(裏切り者のユダ)。
五爻は優柔不断なユダヤ総督ピラト。
そして上爻が処刑されるイエス・キリスト・・・。

なぜ、こんなにも共通点があるのだろうか。
易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからだろうか?
いや、そんなことはない。
だから、筮竹で占うことが必要なのだ。
では、このキリスト処刑と沢天夬との一致はどういうことなのか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他ならない。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いかもしれない。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのだ。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことである。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのだ。

拙著『聖書と易学』は、その易の理論がどのようにキリスト教に取り入れられ、あの壮大な『聖書』と呼ばれる書物を作り出したのかを検証したものです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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