
46 地風升 爻辞
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○
初六、允升、大吉、
初六(しょりく)、允(まこと)とせられて升(のぼ)る、大吉(だいきち)なり、
初六は升(のぼ)り進むの時に当たって、下卦巽順の主、成卦の主、進み升るの主爻である。
今は升の時なので、初六は、六五の君のところに升り、朝覲するへぎであるが、柔弱巽従の主なので、隣の九二の諸侯に比して居る。
九二は陽剛にして権勢盛大である。
したがって、このまま九二に比従し、遂に六五の君所に升り朝覲することを忘れる時には、升の卦の義に違い、甚だ凶である。
もとより初六は、九二に密比するを以って、衆爻より、九二に比従するかと疑われる。
しかし、初六は成卦の主にして、升り進むの主爻なので、決して六五の君所に升り朝覲することを忘れ怠る者ではない。
これを以って、終に衆爻の疑い散じて、その忠信の志を允(まこと)とされる。
これは升り進むの大いに善なる者である。
だから、允とせられて升る、大吉なり、という。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━
九二、孚乃利用禴、无咎、
九二(きゅうじ)、孚(まこと)あれば乃(すなわ)ち禴(やく)を用(もち)うるに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、
升(のぼ)り進むの時に当たって、九二は剛中の才徳を以ってして、六五柔中の君に相応じている。
これは、宜しく六五の君所に升り朝覲し、国家を輔弼して、忠信誠実の孚を尽くすべき爻であることを意味する。
と同時に、九二が忠信の孚を以ってしてするべきは、神明を祭ることである。
そもそも、よく孚有って神明を祭る時には、供え物が豊厚でなくても、神明は必ず感じ格(いた)って、咎のないものである。
この卦は、二五陰陽相応じていて、五は天位に在るので神明の象とし、二は下に位するので祭主の象である。
これは沢地萃の六二、沢水困の九二とその義は同じことである。
ただし、この地風升の卦の中にては、ただ九二九三の爻のみ陽剛にして、その勢い甚だ強盛である。
また、六五の君と六四の宰相とは、共に陰柔にして、その威は軽く権も薄い。
これを以って、ややもすれば九二の剛臣は、上に叛いて忠信の孚を尽くさない惧れ疑いもある。
としても、人はこれを欺くとも、神明は欺かないものである。
まして神明は、忠信至誠でなければ、感じ応じ来り格ることはないのである。
そして、神明も感じ格るような忠信至誠の人であれば、君に叛くことがあるはずがない。
したがって、これに誠敬を用いて神明を祭る如くにして、君に叛くことがないようにと、諭しているのである。
だから、孚あれば乃ち禴を用うるに利ろし、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━
九三、升虚邑、
九三(きゅうさん)、虚邑(きょゆう)に升(のぼ)るがごとし、
今、升り進む時を得て、九三の爻は、剛明の才力が有るので、六五の君に升り朝覲することは、上に一陽剛の抑え阻む者もないので、恰も虚邑(人のいない村)に進み行くが如くに容易い。
だから、虚邑に升るがごとし、という。
ただし、この九三の爻もまた下卦の極に居て、陽剛にして勢い強く、過剛不中なので、その勢いに任せて富強を恃(たの)み、六五の君を犯し凌ごうとする志が有る時もある。
その時には、大いに咎が有るものである。
そこで、六五に升り朝覲することが最も容易であることを教示することで、決して君に叛くことがないよう諭しているのである。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━
六四、王用亨于岐山、吉、无咎、
六四(りくし)、王(おう)用(もち)いて岐山(きざん)に亨(すすめまつ)る、吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、
王とは周の先王のことを指すのだが、個人は特定していない。
岐山とは周の故郷であって、ここで亨祀するのは殷の世の諸侯だった時のことである。
諸侯でありながら王と称するのは、周の天下になった後に、先君をみな王と追号したからである。
もとよりこの爻の辞は、周公旦(文王の子で、殷を滅ぼした武王の弟、孔子の生国魯の国祖)が周の天下になった後に書いたものであり、王と追号するの礼を以ってこれを王と称したのであって、実際は殷の臣にして方伯だったときの事なので、六四の臣位の爻の辞としているのである。
さて、この六四の先王は、柔順にして正を得ている。
これは、よく天子を奉載し、諸侯を懐柔し、賢哲を尊尚し、己を虚しくして誠を尽くす者であって、なおかつ升の時に当たっては、その誠実の至りが、神明に升り達する者である。
だから、王用いて岐山に亨る、吉なり、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━
六五、貞吉、升階、
六五(りくご)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、階(かい)に升(のぼ)らしめん、
六五は升の時に当たって、柔中の徳を以って君位に居る。
これは位階の極にして、更に升り進むべきところはない。
とすると、後は諸侯を升って来させるだけである。
諸侯を升って来させるとは、諸侯が来服して升り朝覲することを指す。
この時に当たって六五の君は、よく己を虚しくして、その徳を貞正にして諸侯と接すれば、外藩遠鎮の諸侯も悉く来て陛階に升り来服するものである。
だから、貞しくして吉なり、階に升らしめん、という。
そもそもこの卦は、全体は二陽四陰にして、その二陽は下卦に在る。
したがって、上に威権は薄く、下に勢力盛んな時である。
これを以って、二三の両陽剛が君家を軽んじ君所に朝覲しないことを恐れる。
この時に臨んでは、六五の君は、勉めてその徳を貞正にして、天下に待するのがよい。
そうしていれば、外藩の諸侯、遠鎮の強臣も、自然にその徳に感じ化して、君所に升り、朝覲するものである。
吉とは、九二と九三の両陽剛が升り来て朝覲することを指す。
升階とは、九二と九三の方伯等が朝覲して玉階に升ることを指す。
上六━ ━○
六五━ ━
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初六━ ━
上六、冥升、利于不息之貞、
上六(じょうりく)、升(のぼ)るに冥(くら)し、不息(やまざ)るの貞(つね)あるに利(よ)ろし、
上六の爻は、升り進む時に当たって卦の極に居て、なおも升り進もうとする。
これは、名利に耽って止まることを知らない者である。
そもそも升るの道は、その節に止まるを貴しとする。
それでもなお厭うことなく、升り進んで止まり休むことを知らないのならば、それは升の道に冥(くら)いからである。
だから、升るに冥し、という。
升るに冥ければ、悔吝に至り凶害を得ること必定である。
常に貞正を心がけ、止まる時を知ることが大事である。
だから、不息るの貞あるに利ろし、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初六━ ━○
初六、允升、大吉、
初六(しょりく)、允(まこと)とせられて升(のぼ)る、大吉(だいきち)なり、
初六は升(のぼ)り進むの時に当たって、下卦巽順の主、成卦の主、進み升るの主爻である。
今は升の時なので、初六は、六五の君のところに升り、朝覲するへぎであるが、柔弱巽従の主なので、隣の九二の諸侯に比して居る。
九二は陽剛にして権勢盛大である。
したがって、このまま九二に比従し、遂に六五の君所に升り朝覲することを忘れる時には、升の卦の義に違い、甚だ凶である。
もとより初六は、九二に密比するを以って、衆爻より、九二に比従するかと疑われる。
しかし、初六は成卦の主にして、升り進むの主爻なので、決して六五の君所に升り朝覲することを忘れ怠る者ではない。
これを以って、終に衆爻の疑い散じて、その忠信の志を允(まこと)とされる。
これは升り進むの大いに善なる者である。
だから、允とせられて升る、大吉なり、という。
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六五━ ━
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九三━━━
九二━━━○
初六━ ━
九二、孚乃利用禴、无咎、
九二(きゅうじ)、孚(まこと)あれば乃(すなわ)ち禴(やく)を用(もち)うるに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、
升(のぼ)り進むの時に当たって、九二は剛中の才徳を以ってして、六五柔中の君に相応じている。
これは、宜しく六五の君所に升り朝覲し、国家を輔弼して、忠信誠実の孚を尽くすべき爻であることを意味する。
と同時に、九二が忠信の孚を以ってしてするべきは、神明を祭ることである。
そもそも、よく孚有って神明を祭る時には、供え物が豊厚でなくても、神明は必ず感じ格(いた)って、咎のないものである。
この卦は、二五陰陽相応じていて、五は天位に在るので神明の象とし、二は下に位するので祭主の象である。
これは沢地萃の六二、沢水困の九二とその義は同じことである。
ただし、この地風升の卦の中にては、ただ九二九三の爻のみ陽剛にして、その勢い甚だ強盛である。
また、六五の君と六四の宰相とは、共に陰柔にして、その威は軽く権も薄い。
これを以って、ややもすれば九二の剛臣は、上に叛いて忠信の孚を尽くさない惧れ疑いもある。
としても、人はこれを欺くとも、神明は欺かないものである。
まして神明は、忠信至誠でなければ、感じ応じ来り格ることはないのである。
そして、神明も感じ格るような忠信至誠の人であれば、君に叛くことがあるはずがない。
したがって、これに誠敬を用いて神明を祭る如くにして、君に叛くことがないようにと、諭しているのである。
だから、孚あれば乃ち禴を用うるに利ろし、咎无し、という。
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九三、升虚邑、
九三(きゅうさん)、虚邑(きょゆう)に升(のぼ)るがごとし、
今、升り進む時を得て、九三の爻は、剛明の才力が有るので、六五の君に升り朝覲することは、上に一陽剛の抑え阻む者もないので、恰も虚邑(人のいない村)に進み行くが如くに容易い。
だから、虚邑に升るがごとし、という。
ただし、この九三の爻もまた下卦の極に居て、陽剛にして勢い強く、過剛不中なので、その勢いに任せて富強を恃(たの)み、六五の君を犯し凌ごうとする志が有る時もある。
その時には、大いに咎が有るものである。
そこで、六五に升り朝覲することが最も容易であることを教示することで、決して君に叛くことがないよう諭しているのである。
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六四、王用亨于岐山、吉、无咎、
六四(りくし)、王(おう)用(もち)いて岐山(きざん)に亨(すすめまつ)る、吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、
王とは周の先王のことを指すのだが、個人は特定していない。
岐山とは周の故郷であって、ここで亨祀するのは殷の世の諸侯だった時のことである。
諸侯でありながら王と称するのは、周の天下になった後に、先君をみな王と追号したからである。
もとよりこの爻の辞は、周公旦(文王の子で、殷を滅ぼした武王の弟、孔子の生国魯の国祖)が周の天下になった後に書いたものであり、王と追号するの礼を以ってこれを王と称したのであって、実際は殷の臣にして方伯だったときの事なので、六四の臣位の爻の辞としているのである。
さて、この六四の先王は、柔順にして正を得ている。
これは、よく天子を奉載し、諸侯を懐柔し、賢哲を尊尚し、己を虚しくして誠を尽くす者であって、なおかつ升の時に当たっては、その誠実の至りが、神明に升り達する者である。
だから、王用いて岐山に亨る、吉なり、咎无し、という。
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六五、貞吉、升階、
六五(りくご)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、階(かい)に升(のぼ)らしめん、
六五は升の時に当たって、柔中の徳を以って君位に居る。
これは位階の極にして、更に升り進むべきところはない。
とすると、後は諸侯を升って来させるだけである。
諸侯を升って来させるとは、諸侯が来服して升り朝覲することを指す。
この時に当たって六五の君は、よく己を虚しくして、その徳を貞正にして諸侯と接すれば、外藩遠鎮の諸侯も悉く来て陛階に升り来服するものである。
だから、貞しくして吉なり、階に升らしめん、という。
そもそもこの卦は、全体は二陽四陰にして、その二陽は下卦に在る。
したがって、上に威権は薄く、下に勢力盛んな時である。
これを以って、二三の両陽剛が君家を軽んじ君所に朝覲しないことを恐れる。
この時に臨んでは、六五の君は、勉めてその徳を貞正にして、天下に待するのがよい。
そうしていれば、外藩の諸侯、遠鎮の強臣も、自然にその徳に感じ化して、君所に升り、朝覲するものである。
吉とは、九二と九三の両陽剛が升り来て朝覲することを指す。
升階とは、九二と九三の方伯等が朝覲して玉階に升ることを指す。
上六━ ━○
六五━ ━
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九二━━━
初六━ ━
上六、冥升、利于不息之貞、
上六(じょうりく)、升(のぼ)るに冥(くら)し、不息(やまざ)るの貞(つね)あるに利(よ)ろし、
上六の爻は、升り進む時に当たって卦の極に居て、なおも升り進もうとする。
これは、名利に耽って止まることを知らない者である。
そもそも升るの道は、その節に止まるを貴しとする。
それでもなお厭うことなく、升り進んで止まり休むことを知らないのならば、それは升の道に冥(くら)いからである。
だから、升るに冥し、という。
升るに冥ければ、悔吝に至り凶害を得ること必定である。
常に貞正を心がけ、止まる時を知ることが大事である。
だから、不息るの貞あるに利ろし、という。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
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