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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

風雷益 爻辞

42 風雷益 爻辞

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、利用為大作、元吉、无咎、

初九(しょきゅう)、用(もち)いて大作(たいさく)を為(な)すに利(よ)ろし、元吉(げんきち)なり、咎(とが)无(な)し、

今、下を益すという時に当たって、初九は陽剛の才徳が有り、正を得て、なおかつ成卦の主爻にして、内卦震の主である。
さて、下を益すというにも二途が有る。
ひとつは、家毎に食料や金銭を配布することである。
しかし、こんなことは、無尽蔵の財でもなければ、継続的に続けられるものではない。
したがって、こういうことを以って、下を益すとは言えない。
本当に下を益すと言えることは、例えば水害対策をしたり、新しい農法や技術を導入したりといったように、民が生活し働くための基本的な環境整備をすることである。
このように、民の生活に有益な事業を行うことが大事なのであって、これを大作と言う。
だから、用いて大作を為すに利ろし、という。
この事業により、民が豊饒になれば、まさに大善の吉であるとともに、こうしてこそ、益の時の宜きに適い、咎はないのである。
だから、元吉なり、咎无し、という。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、或益之、十朋之亀、弗克違、永貞吉、王用亨于帝、吉、

六二(りくじ)、之(これ)に益(ま)すこと或(あ)れば、十朋(じっぽう)之(の)亀(き)も、違(たご)うこと弗克(あたわじ)、永(なが)く貞(つね)あれば吉(きち)なり、王(おう)用(もち)いて帝(てい)に亨(すすめまつ)る、吉(きち)なり、

今、下を益すの時に当たって、六二は柔中の徳を以って九五剛中の君に応じている。
これを以って九五の君は、六二の忠臣に委ね任せて、下を益そうとし、六二の忠臣は、よくこの君命にしたがって、下を益すことに勤め励む。
だから、之に益すこと或れば、という。
之とは天下万民を指す。
上の驕奢を省き損(へら)して、それを下民のために使うことである。
このような態度であるのならば、十朋の霊亀に問い質すとも、善であり吉であることに、間違いない。
だから、十朋之亀も、違うこと弗克、という。
これは、大善の吉だ、ということを込めた賛辞である。

このように下民を賑わし益すことは、間断があってはいけない。
永く続けてこそ、意味がある。
だから、永く貞あれば吉なり、という。

かつて周の先王は、至仁の政を以って下民を賑わすに当たり、自身の誠敬の志と、下民悦楽の情とを以って、上帝に亨った。
そうすることで、多くの福を得たのである。
だから、王用いて帝に亨る、吉なり、という。
この王とは、周の先王のことである。
帝は上帝のことで、上帝とは、天の運行を司る最高の神であり、天帝などとも呼ばれる。
ともあれ、下民を賑わし益すのであって、王も胸を張って上帝に亨ることができるのである。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、益之用凶事、无咎、有孚中行、告公用圭、

六三(りくさん)、之(これ)を益(ま)すに凶事(きょうじ)を用(もち)うるとも、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)有(あ)って中行(ちゅうこう)ならば、公(こう)に告(こく)して圭(けい)を用(もち)うべし、

この六三には善悪二つの面がある。
六三は陰柔不中正にして内卦震の震動の極に居る。
これが悪い方に影響すれば、妄りに動いて利益を求めようとしているものとする。
これは道を失うことの甚だしい者である。
しかし、今は益の時なので、何かを益さないといけない。
その六三の行動に問題があるのなら、六三にとって好ましくないこと=凶事=罰を益し与えたとしても、それを咎める人はいない。
だから、之を益すに凶事を用うるとも、咎无し、という。

ところで、三爻と四爻は全卦の中ほどの位置である。
六爻が行列して進んでいるとすると、六三は先走らず遅れず、中ほどを行っていることになる。
とすると、六三は問題を起こす場合もあるが、このように静かにみんなに従って慎ましく孚信を以って中ほどを行っている場合もある。
これが第二の面であって、もし、そうであるのなら、これを誉め、六四執政の大臣は九五の君公に告げて、褒美=賞を与えるべきである。
だから、孚有って中行ならば、公に告して圭を用うべし、という。
圭とは賞のことである。

ともあれ、六三は、陰柔不中正にして内卦震の極にいるので、良い事も悪い事もしてしまうのである。
悪い事は罰し、良い事には褒美を与え、良し悪しをきちんとすることが大事なのである。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六四、中行告公従、利用為依遷国、

六四(りくし)、中行(ちゅうこう)をもって公(こう)に告(もう)して従(したが)わる、依(よ)ることを為(な)し、国(くに)を遷(うつ)すに用(もち)うるに利(よ)ろし、

六四は柔正を得て宰相の位に居るので、よく中行の道を以って公に告げる者である。
したがって、その言葉を聞き入れてもらえる。
だから、中行をもって公に告して従わる、という。

そもそも今は、下を益すべき時なので、下民を賑わし益して、国の基を強くするのが大事である。
下民に疾苦するところがあれば、速やかに救済して安からしめるべきである。
常に、民が飢えや寒さの患いのないようにしないといけない。
それが宰相の職であり任である。

そもそも国を開き、民人を安堵させ、足らし益して繁昌させることは、国都とするべき適切な場所を得ることである。
もし、国都とするべき場所がないときは、民が依り頼むところを失うことである。
もとより国都を建てることは、民の利便性を図り、その居に安堵させることを目的としているのである。
したがって、その国都が、民にとって不便で引っ越したいと思うようなところであれば、その時宜に中して、国都を下民が安堵する場所に遷すのもよい。
これは下を益すということの中でも、最も大なることである。
だから、依ることを為し国を遷すに用うるに利ろし、という。


上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、有孚恵心、勿問元吉、有孚恵我徳、

九五(きゅうご)、恵心(けいしん)に孚(まこと)有(あ)れば、問(と)うこと勿(なか)れ、元吉(げんきち)なり、我(わ)が徳(とく)を恵(けい)とするに有孚(ちがいな)し、

今、上を損(へら)し、下を益すの時に当たって、九五の君は、剛健中正の徳が在り、孚信誠実で、よく自分を省み、華靡を止め、下民を益し厚くすることを専らとする者である。
そもそも君上に、よく恵心が有り、兆民を益し厚くすることがこのようならば、これこそ君徳の最上にして、大善の吉であることは、問わずとも自明である。
だから、恵心に孚有れば、問うこと勿れ、元吉なり、という。

君上の徳が、すでにこのようであるのならば、下民は必ずやその君徳を恩沢仁恵として感謝するものである。
君上の徳こそが、下民にとっては恵なのである。
だからね我が徳を恵とするに有孚し、という。


上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、莫益之、或撃之、立心勿恒、凶、

上九(じょうきゅう)、之(これ)を益(ま)すこと莫(な)くして、之(これ)を撃(う)つこと或(あ)り、心(こころ)を立(た)つること恒(つね)勿(なか)ればなり、凶(きょう)なり、

上九は不中正の志行にして、上を損(へら)して下を益すというこの時であっても、その身は益の全卦の極に居て、道を失い、利を貪るの念が甚だしい者である。
したがって、下に益すことは考えず、自身の利益のみを求め貪るのである。
これは、時に悖(もと)り、道に逆(さから)い、人に背(そむ)くことである。
このような人物なので、他人もまた上九に味方することはなく、却って寇として撃つ者も出てくる。
だから、之を益すこと莫くして、之を撃つこと或り、という。

およそ、利を貪ることの甚だしい者は、進退共に利に由らないことはない。
不仁を恥じることなく、不義をも畏れず、直接の利が見えなければ勤め励むことのない小人である。
したがって、その心志、心の立ち様は変動して定まることがない。
これは恒常のない人である。
人として常の徳を失ってしまうのは、言うまでもなく凶である。
だから、心を立つること恒勿ればなり、凶なり、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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山沢損 爻辞

41 山沢損 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○

初九、已事遄往无咎、酌損之、

初九(しょきゅう)、事(こと)を已(や)めて、遄(すみや)かに往(ゆ)けば咎(とが)无(な)し、酌(しゃく)して之(これ)を損(へら)すべし、

今は損のときだから、何かを損(へら)すべきである。
初九は、陽剛の才徳があり、六四柔正の爻と陰陽正しく応じている。
そこで初九は、自身の私事を止めて損し、自身の才徳を以って、速やかに六四の応爻を助けるべきである。
もし、応爻の六四を助けず、私事を専らとする時には、咎を免れ難い。
だから、事を已めて、遄かに往けば咎无し、という。

そもそも応爻の六四は、執政宰相の位に居るが、陰柔不才である。
これは、たとえば疾(やま)いを抱えているようなものである。
一方の初九は、無位卑賤の爻ではあるが、陽剛の才徳が有り、正を得ている。
とすると、これは、在下の賢者であって、その疾いを救う者である。
疾を救うには、速やかでなければいけない。
四の五の言っていると、手遅れにもなる。
もとよりその疾いを救うの道は、マニュアルに従って緩急軽重の勢いを審らかにするとともに、時宜の斟酌が大事である。
もし、粗暴にして徒に疾いを攻めるだけでは、その疾いは損るとしても、体力がもたないこともある。
逆に、慎重過ぎて、疾いを治療できずに悪化させてしまうこともある。
よくその疾いを観察して、攻めるも守るも、進むも退くも、特にその中を得ることが大事である。
人事においての、人の不足を補い驕奢を損す道も、またこの疾いの治療のようにするべきである。
余分なところを損らし、足りないところを補い、中正に適うことを尚ぶのである。
だから、酌して之を損らすべし、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━

九二、利貞、征凶、弗損益之、

九二(きゅうじ)、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、征(な)すは凶(きょう)なり、弗損(へらさず)して之(これ)を益(ま)せよ、

九二は剛中の才徳が有り、臣の位に居る。
これは、自ら民を掌(つかさど)り治めるところの大臣である。
今は損の時にして、何かを損(へら)すべきときではあるが、その損すにも、正と不正との二途が有る。
下を損し、民の財を損して害を生じるは、不正の道である。
だから、辞の初めにこれを戒めて、貞しきに利ろし、という。

征は往と同じく、為すことが有る義にして、今は損の卦、損の時なので、為すこととは下を損して上に益すことである。
下を損して上の驕りを益すことは、道義的によくない。
だから、深くこれを戒めて、征すは凶なり、という。

そもそも下民を損し、財を剥ぐ時には、その国は滅亡に近いものである。
とすると、損の時だとしても、下を損さずに、上に益すことを考えるべきである。
上の財源のために、民に重税を科して民の財を損すのではなく、上が当面は倹約をして、下を損さないようにすることである。
そうすれば、民は自ら豊饒になり、民が豊饒ならば国は富むものである。
国が富み、民が豊饒ならば、君にとっては計り知れない利益があるものである。
今、九二は在下の大臣にして、民を直接に知り掌る任に当たっている。
だから、九二に戒めて、弗損して之を益せよ、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━

六三、三人行、則損一人、一人行、則得其友、

六三(りくさん)、三人(さんにん)行(い)けば、則(すなわ)ち一人(ひとり)を損(へら)し、一人(ひとり)行(い)けば、則(すなわ)ち其(そ)の友(とも)を得(え)る、

この爻の辞は、専ら生卦法を以って、象により書かれたものである。
その生卦法とは、地天泰の交代生卦法である。
地天泰の卦は、下卦の乾の三陽剛はみな同じく連なり進み行く者だが、その乾の三陽剛のうちの九三の一爻だけが独り離れて行った。
それが、この山沢損であり、三人で行こうとしたのに、いつしか一人だけ遠くに離れて行ってしまったのである。
だから、三人行けば、則ち一人を損(へら)し、という。
また、一人だけ離れて行った陽剛の立場で言えば、独り上爻に行き、上卦の一体となり、二陰の友を得たことになる。
だから、一人行けば、則ち其の友を得る、という。

これを、地天泰の上卦坤について言えば、坤の三陰の中の上六の一陰を損して下卦に益したことになり、動いた上六の立場で言えば、独り三の爻へ行き、二陽の友を得たことになる。

とにかく、地天泰の三爻の位置にあった一陽が上爻へ行き、上爻にあった一陰が三爻に来たのが、この山沢損であり、この三爻が動いたことにより、成立したのである。
したがってこの六三こそが、この山沢損の主、成卦の主爻なのであって、陽を損すことの方が陰を益すことよりも重大なので、損すことが主体となっているのである。

また、純陽純陰にては、相交わることはできない。
相交わることがなければ、夫婦の道は絶える。
したがって、互いにこれを損益して、共に陰陽相交わることを得る、という義を示しているのである。
ここでいう友とは、陰ならば陽、陽ならば陰を得ることを指す。
これは、夫の妻を、妻の夫を得るというのと同様である。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六四、損其疾、使遄有喜、无咎、

六四(りくし)、其(そ)の疾(やま)いを損(へら)す、遄(すみや)かなら使(し)めば喜(よろこ)び有(あ)らん、咎(とが)无(な)し、

六四は宰相の位に在って、正を得てはいるが、自身は陰柔にして才力が足りないので、君を補佐して国を治めるのは難しい。
これは、自身に疾病があるようなものである。
しかし今、初九陽剛の賢者が下に在る。
初九は応位なので、呼び寄せれば応じ来るし、国政を補佐させれば、良医が疾病を治すように、国が治まるのである。

およそ疾病があるときは、速やかに治療するべきである。
六四が速やかに初九を呼んで疾いが癒えれば、喜びである。
もし、遅ければその病勢も壮んになり、最早手がつけられなくもなる。
国政も同じである。
国勢が傾き、民心が離れれば、立て直そうとしても、困難である。
そうなれば、大いに咎が有る。
だからこそ、早く手を打てば、疾いも癒えて、咎もないのであり、
其の疾いを損す、遄かなら使めば喜び有りて、咎无し、という。

なお、「疾いを癒す」ではなく「損す」というのは、損の卦、損の時だからである。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六五、或益之、十朋之亀、弗克違、元吉、

六五(りくご)、之(これ)を益(ま)すこと或(あ)り、十朋(じっぽう)之(の)亀(き)も違(たご)うこと弗克(あたわじ)、元吉(げんきち)なり、

十朋の亀とは、とてつもなく高価な亀、という意である。
ここでの朋とは、古代の貨幣単位で、高額を示す。
十朋は、その十倍だから、買うことはできないほど高価な、という意になる。
古代には、亀は霊物にして、よく吉凶を前知することから、卜(ぼく)して吉凶を質す道具とした。

さて、六五の君は柔中にして、下は九二剛中の賢臣に陰陽正しく応じ、なおかつ上九の賢師に比している。
これは、下は臣の補佐を得、上は師に請い益す様子である。
したがって、大いにその徳を益すのである。
君上が大いにその徳を益せば、天下の億兆も大いにその益を承けるものである。
だから、之を益すこと或り、という。
之とは六五の君および天下万民を指す。

このように君民共に益すのであれば、どんな高価で霊験あらたかな神亀霊亀で卜しても、間違いなく大善の吉と出るものである。
だから、十朋之亀も違うこと弗克、元吉なり、という。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

上九、弗損益之、无咎、貞吉、利有攸往、得臣无家、

上九(じょうきゅう)、弗損(へらさず)して之(これ)を益(ま)さしむ、咎(とが)无(な)し、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、臣(しん)を得(え)ること家(いえ)无(な)けん、

損の時に当たって、上九は陽明の賢徳が有り、六五の君に教道して、よく四海を統御させる。
これは、下をも損さず、上をも損さず、また自分も損さずして、人を益す様子である。
このようであれば、何ら咎があろうはずがない。
だから、弗損して之を益さしむ、咎无し、という。

さて、人に何かを教える者は、まず自身がそのことについて貞正であることが大事である。
自分が貞正でなければ、貞正にするべきだと教えても、何の説得力もない。
だから、貞しくして吉なり、往く攸有るに利ろし、という。
往く攸というのは、ここでは教え導くことを意味する。

このようにして教え導けば、その教化を蒙る臣は数多く、その臣の家数を数えようしても、多すぎて数えられないほどである。
もとより君上ひとりをよく教え導けば、その教訓の徳化は四海に溢れ流れ、天下の億兆が、悉く皆、臣のように親しみを以って従うのである。
だから、臣を得ること家无けん、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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雷水解 爻辞

40 雷水解 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、无咎、

初六(しょりく)、咎(とが)无(な)し、

初六は陰柔不才にして、坎の険(なや)みの底に陥っている。
これは、その身に険みが有る者である。
今、険みを解く時の初めに当たって、幸いにも上に九四の応爻が有る。
とすれば、宜しくこの応爻の九四に応じ往き、縋り頼んで、身の険みを解いてもらうべきである。

およそ、他の卦においては、初六の陰柔を以って、九四の権門に応じる者は、媚び諂いを献じる義として、深くこれを咎有りとする。
雷地予、雷風恒、天風姤、雷山小過などの卦の初六の義は、これである。
しかしひとりこの雷水解の初六の爻にては、権門に媚び諂う者とせず、己の身に切迫の険みが有るので、これを在上有力の応爻に依り頼み、その険みから解き救ってもらう義とする。

そもそも陰柔不才の者は、非力であるために、己の身に必至の険みが有る時には陽剛有力の者に頼り従わなければ、その険みを解くことはできないものである。
今、初六は陰柔にして下に在り、九四は陽剛にして上に居る。
また、下の者に険みがあるとき、上の者に救いを求めるのは当然のことである。
まして応爻の九四は、成卦の主爻にして、険みを解く主爻たる者である。
とすると、初六が九四に険みを解いてもらうのに、何の咎があるだろうか。
だから、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、田獲三狐、得黄矢、貞吉、

九二(きゅうじ)、田(かり)に三狐(さんこ)を獲(えもの)す、黄矢(こうし)を得(え)たり、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

田とは田猟=狩猟の義である。
狐とは陰獣にしてよく人を惑わす動物である。
これを以って、阿(おもね)り諂(へつら)い佞媚(ねいび)をもって君上を惑わす姦臣に喩える。

さて、九二の爻は、剛中の才力が有り、六五の君に陰陽正しく応じている。
これは険みを解く任に、よく堪える大臣である。
およそ国家の大なる険みは、阿り諂いする小人が君の左右に寵遇し、日夜に君の明徳を蠱惑するより甚だしいことはない。
そこで九二の剛中の忠臣が、これから険みを解こうとするときには、まず阿り諂い佞媚する小人を遂い斥けて、君の左右を清浄にし、常に賢良の君子が、君主の側に居るようにすることである。
だから、田に三狐を獲す、という。
三は多数の義にして、これは、佞媚にして狐のように人を惑わす姦賊が幾多在るということの喩えである。

黄とは、中央の土の正色にして、中徳の義である。
矢とは、直なことの喩えである。
直を矢と喩えたのは、田(田猟)という言葉に対応したものである。

さて、姦佞の小人を除き去ろうとする者は、まず自身が優れて中直貞正であることが大事である。
自身が中直貞正であれば、その賞罰に偏私の有ることはないので、他人もこれを怨み憤ることはない。
したがって、このようであってこそ、姦邪を除き、険難を解くのに、吉なのである。
だから、黄矢を得たり、貞しくして吉なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、負且乗、致寇至、貞吝、

六三(りくさん)、負(お)い且(か)つ乗(の)れり、寇(あだ)の至(いた)ることを致(いた)す、貞(かた)くすれば吝(いや)し、

負うとは、その物が自分の身の上に在る、ということである。
乗るとは、その物が自分の身の下に在る、ということである。
今、国家の大険難を解くという時に当たって、六三は内卦臣の位の極に居る爻である。
これは、宜しく才力を振るって天下の険みを解き治めるべき位である。
しかし、元来陰柔不才にして、なおかつ不中不正の志行がある者であり、さらには、上には応爻の援けもなく、妄りに九四陽剛の賢者の爻を負い、九二陽剛の明者に乗っている。
と同時に、自身は初六、九ニ、六三の坎と、六三、九四、六五の坎の間に挟まって居る。
これでは、国家の険みを解くことが不可能であるだけでなく、却って自ら自身の険みを重ねる者である。
だから、負い且つ乗れり、という。

また、負うとは、荷ったり担いだりすることにして、小人卑賤者の事であり、乗るとは、君子の器であることを指す。
今、六三の爻は、その身は陰柔不才不中不正にして、負い荷ったりするべき小人卑賤者の志行にして、その身の居所は内卦の極、人臣の上位にして、君子賢人の宜しく居るべきところに居る。
これは、君子の位を犯し、賢人の路を塞いでいることになる。
したがって、他人もまたその禄位を奪おうとする。
だから、寇の至ることを致す、という。
このような人物が、なおも貞固にして悔い改めいときは、吝しいものである。
だから、貞くすれば吝し、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九四、解而拇、朋至斯孚、

九四(きゅうし)、而(なんじ)が拇(おやゆび)を解(と)く、朋(とも)至(いた)りて斯(そ)れ孚(まこと)とせん、

而(なんじ)とは九四を指す。
拇(おやゆび)とは、足の親指のことであって、初六の爻を指す。
これは沢山咸の初六に拇とあるのと同義である。
朋とは、同朋の陽剛のことにして、九二の爻を指す。

今、九四は成卦の主爻にして、陽剛の才力が有り、宰相の位に居る。
これは、解の時に、天下の大険難を解くべきところの任職に当たり、その才力徳量も申し分ない者である。
しかしこの九四の爻には、ひとつ問題もある。
初六陰柔卑賤の小人が、初四応の位であることから、九四の門に親しみ来ることである。
これは九四にとって利益となることではなく、私係の陰累の疑いが有る。
したがって、九四は、よくその私係陰累の初六の応爻の拇を解き去るべきである。
そうすれば、同朋の九二陽剛の賢者が、九四の元にやって来て、その志を同じくして力を輔け合わせて、共に天下の険みを解くことができるのである。
もし、私係陰累の拇を用い親しむことが有るときには、同朋の九二の賢者は、九四の志操を疑って、来て助けることはない。
だから、而が拇を解く、朋至りて斯れ孚とせん、という。


上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六五、君子維有解、吉、有孚于小人、

六五(りくご)、君子(くんし)維(こ)れ解(と)くこと有(あ)り、吉(きち)なり、小人(しょうじん)に孚(まこと)とせらるること有(あ)り、

君子とは、九ニと九四のニ陽剛を指す。
今、ニと四の両大臣は、共に陽剛の才徳が有り、よく天下の険難を解くに堪える者なので、これを称美して君子と言う。
小人とは、ここでは天下の民衆を総称する義である。
これは、在位の君子に対する文言である。

さて、六五は柔中の徳を以って、恭しく君位に居る。
これは天下の険みを解くの主である。
もとより九四陽剛の執政大臣とは陰陽親しく比し、また、九二剛中の賢臣とは陰陽正しく応じている。
とすると六五は、よく人を知り、賢を官にしているのであって、股肱の良臣に委ね任して疑い慮ることがない明主である。

そもそも九二は、すでに三狐の佞人を除き去り、九四は私係陰累の初六の拇を解き去っている。
要するに、ニ四の両大臣は共に偏りなく公正の道を以って天下の険みを解いているのである。
したがって六五の君上は、自分からあれこれ動くことなく、この二人に任せて、見守っているだけでよいのである。
だから、君子維れ解くこと有り、吉なり、という。

およそ民を治める道は、寛仁と威権と兼ね備わるに在るものだが、その中について、なお細かに割論すれば、臣を以って民に臨むには公正を先として威権を主とし、君を以って民に臨むには慈愛を先とし寛仁を主とする、ということになる。
今、九ニと九四の両大臣は、剛明の威権を以って、天下の険みを解き去ることを主としているので、六五柔中の君としては、柔中の仁徳を以って、万民を懐柔することを主とするのがよい。
そうすればね天下億兆の小人は、両大臣の剛明の威権に謹み畏(かしこ)み、反対したり罪を犯したりせず、君上の寛仁に懐き服すものである。
だから、小人に孚とせらるること有り、という。


上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上六、公用射隼于高墉之上、獲之无不利、

上六(じょうりく)、公(こう)用(もち)いて隼(はやぶさ)を高墉(こうよう)之(の)上(うえ)に射(い)る。之(これ)を獲(えもの)にして不利(よろしからざ)る无(な)し、

隼とは、山野を飛び回る肉食の鳥である。
これは、横逆者が権勢を逞しくして、万民を残害するのに喩えている。

そもそも狐というのは、淫獣にして、よく人を蠱惑する者にして、坎の象である。
これは在朝の佞官の内に在る者に喩える。
したがって、九二の爻では狐とあるのである。
対するこの隼は、猛禽類の残虐残害な鳥にして、震の象である。
これは、外藩の暴臣が外に在って人民を残害することに喩える。
そこで、この外卦震の極の上爻の喩え、隼が高墉(こうよう=高い垣)の上に居る象とするのである。
これは、上六の諸侯が、遠い外卦の外藩に居て、王化に服せず、震の威権を振るい逞しくして、万民を残害する象である。
公とは九四の臣を指す。
九二の大臣は、すでに三狐を捕獲し、これで朝家の内の険みは既に解き終わった。
しかし上六の隼は、外国遠方に在って、王民を残害する。
したがって六五の君より九四の大臣に命じて、これを征伐させるのである。
だから、公用いて隼を高墉之上に射る、という。
そして、そもそも九四執政の大臣は、険みを解くための職に居るのであって、王民を残害するところの姦賊を討伐するのは当然のことであって、何ら問題はない。
だから、之を獲にして不利る无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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水山蹇 爻辞

39 水山蹇 爻辞

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、往蹇、来誉、

初六(しょりく)、往(ゆ)けば蹇(なや)み、来(きた)れば誉(ほま)れあり、

往けばとは、進み行くの義、来ればとは、退き守るの義である。
今、蹇難の時に当たって、初六は陰柔不才にして、不中不正である。
さらには、卦の初め、難(なや)みの初めに居るので、少しでも進み為すことがあるときには、その蹇難は益々深い方に向かう。
こんなときは、進み行くのを止め、現状に退き守っていたほうが、却って災いを免れるものである。
だから、往けば蹇み、来れば誉れあり、という。

ここで言う誉れとは、得ることが有るということではなく、蹇難の深いところに陥らなくて済む、といった程度のことである。
要するに、こんな悪い状態なのに、傷口をこれ以上大きくしなかった、ということで誉められるのである。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、王臣蹇々、匪躳之故、

六二(りくじ)、王臣(おうしん)蹇々(けんけん)たり、躳(み)之(の)故(ゆえ)に匪(あら)ず、

王とは九五の爻を指す。
臣とは六二の爻である。
五は君王の定位、二は臣下の定位であり、六二は九五の臣である。
だから、王臣、という。

さて、六二の爻は臣の位に居って、中正は得ているが、今この蹇難の時に出遇い、その身は重険の下に居る。
重険の下とは、二三四の坎、四五六の坎で坎為水とすれば、二はその最下だから、そう言う。
そして六二は、九三の過剛不中にして権勢が有り威力強い者の下に承け逼られている。
もとより六二は陰弱微力なので、その九三の剛強不順の横逆ある者を征服することは不可能である。
ただ、これを憂い悩むのみである。
だから、王臣蹇々たり、という。
ただし、六二の蹇難は、自らの躳のための個人的な憂いではなく、九五の君の家のためにする公義にして、自身が陰柔微弱にして国家の蹇難を救う能力がないことを、憂い蹇(なや)んでいるのである。
だから、躳之故に匪ず、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三、往蹇、来正、

九三(きゅうさん)、往(ゆ)けば蹇(けん)あり、来(き)たれば正(ただ)し、

九三は蹇難の時に当たって、下卦艮の止まるの主だが、陽爻なので、動き進もうとする意がある。
もし進み行けば、それは上卦坎に進むことだから、忽ち坎の険難に陥るのである。
しかし、退き来たって、本位に艮(とど)まり守るときは、艮止の正を得て蹇難の険みに陥ることはない。
だから、往けば蹇あり、来れば正し、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

六四、往蹇、来連、

六四(りくし)、往(ゆ)けば蹇(けん)あり、来(き)たれば連(つら)なる、

六四は蹇の時に出遇って、外卦坎の険みの一体に居る。
したがって、往き進めば、蹇みは益々深くなるだけである。
しかし、来たり退き守るときは、上は九五の君に比し連なり、下は九三の侯に比し連なる。
これは、そもそも六四の安んじるところである。
六四は宰相の位に居て、陰弱にして蹇難を救う才力はないが、その柔正を得て、九五剛健の君とは陰陽相承け比(した)しむとともに、九三陽剛の諸侯とも比し連なる。
これは、よく上下が連合するところの者として、実に自らよくその位を守るに至れる者である。
だから、往けば蹇あり、来たれば連なる、という。


上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九五、大蹇朋来、

九五(きゅうご)、大(おお)いに蹇(なや)みとすれば朋(とも)来(きた)らん、

九五は蹇難の時の君にして、上卦坎の険(なや)みの主である。
その九五の君の蹇(なや)みとするところは、九三の陽剛の臣が、内卦の主となって勢力強く盛んにして、しかも艮の止まるの主として内卦に艮(とど)まって九五の君のところに上り来ず、なおかつ六二六四の両大臣も、共に陰柔なので、九三を制して君家を補佐するに堪えるほどの能力がないことである。
しかし九五は、剛健中正の徳が有るので、大いに艱難苦労するときには、九三の陽剛の朋(とも)も、遂にはその徳に感化され、自ら九五の元にやって来るものである。
こうなれば、その蹇難も解けて、君臣和合するというものである。
だから、大いに蹇みとすれば朋来たらん、という。

なお、九三は臣下であって、本来ならば九五の朋とは言うべきではない。
それを敢えて朋としているのは、次のようなことからである。
九三は内卦艮の主にして、その内卦艮の極に止まっているとともに、陽剛にして勢い盛んな者である。
したがって、初六と六ニの陰爻は九三に寄り付き、六四の爻もまた九三に比(した)しもうとする意を持つのである。
これでは、九五と九三と、天下に二人の君がいるようなものである。
九五の君は、このときに当たって、妄りに九三に対して敵意を剥き出しにしてはいけない。
九三の勢いは、九五の君に匹敵するものがある。
とすると九五は、剛健中正の徳を修めて、蹇の時の天命に従い、艱難労苦して、恩と威と並び施すしかない。
そうすれば、九三の剛強なる者も、自然にその徳義に感化されて、九五の元に来て、服するというものである。
しかし、勢いのある九三を納得させるには、普段のように君主と臣下として接するのではなく、対等な朋として接することが大事である。
だから、朋と言うのである。


上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上六、往蹇来碩、吉、利見大人、

上六(じょうりく)、往(ゆ)くは蹇(けん)あり来(き)たれば碩(おお)いなり、吉(きち)なり、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、

上六は、陰柔にして蹇難の極に居るので、進めば蹇みがいよいよ深く窮迫に至る。
しかし、退き来れば、九五の碩大の有徳者に付き従って安んじる場所が有る。
だから、往くは蹇あり来たれば碩いなり、という。
往けば蹇難はいよいよ窮迫して凶であるからこそ、退き来て碩大の有識者に付くことをもって、吉とする。
だから、吉なり、という。
そして、九五こそが、剛健中正にして蹇を救うことができる碩大な有徳者なので、その九五の大人に付き従うのが最もよい。
だから、大人を見るに利ろし、という。


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火沢睽 爻辞

38 火沢睽 爻辞

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○

初九、悔亡、喪馬勿逐、自復、見悪人无咎、

初九(しょきゅう)、悔(く)い亡(ほろ)ぷ、馬(うま)を喪(うしな)うとも逐(お)うこと勿(なか)れ、自(おのずか)ら復(かえ)らん、悪人(おじん)を見(み)よ、咎(とが)无(な)し、

初九は睽の初めに居て、九四と応位だが、初四ともに陽剛なので相応じていないので、初爻は九四と睽(そむ)いて親和しない。
このように睽き合っているのは、悔いが残ることである。
しかし九四にしても、この睽の時に当たって、応援を拒んでいれば、何事を為すにも難い。
したがって、終には必ず折れて、初九の応を尋ね、親和を求める。
そうなれば、これまで睽き合っていた悔いは、亡ぶのである。
だから、悔い亡ぶ、という。
要するに、睽くことにより悔いが生じ、和することによってその悔いが亡ぶのであって、初と四は、初めは睽き合っていても、後には和する、ということである。

さて、九四は、三から五の坎の馬の主体である。
四は初の応位にして、本来ならば親和するべき相手なのだが、睽の初めに当たって両剛はともに相手を拒んで親和しない。
その親和しないことは、初爻から見れば、九四の馬を喪ったようなものである。
しかし、九四としても、睽の時にして他にも応援はないので、やがては必ず応爻を慕って親和を初九に求めて来ようというもの。
したがって、初九が逐い探索することなく、九四の馬は自ら復(かえ)り来るのである。
およそ、睽くということの起こりは、疑惑によって成るものである。
すでに睽き乖ける者を、俄かに逐い探索すと、却ってその睽いた者は怪しみ訝り、その情は離れるものである。
しかし、自分は平常心を堅持し、逐い探索することのないときには、彼の疑念も解けて、来たり和するものである。
だから、馬を喪うとも逐うこと勿れ、自ら復らん、という。

また、初九と九四は睽き合っているのだから、相手は悪人であるかのようである。
そもそも人は、疑い睽くの初めは、必ずやその相手に憎しみを持つ。
しかし、すでに疑惑が解けて、和親を求めて来たのなら、こちらもまた臨み見るべきである。
そうしなければ、睽き合ったまま、互いの心は永遠に打ち解けないではないか。
速やかに和親するのに、誰が咎めよう。
だから、悪人を見よ、咎无し、という。

悪人とは、悪い人、という意ではなく、憎い人、である。
そもそも「悪」という字は、「にくむ」という意なのであって、それが後世、いわゆる「悪いこと」という意にも転化したのである。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━

九二、遇主于巷、无咎、

九二(きゅうじ)、主(しゅ)に巷(ちまた)に遇(あ)う、咎(とが)无(な)し、

この爻辞の意は、今は睽の乖き違うという非常の時なので、常礼常道に拘らず、臨機応変に行動せよということである。
これは、坎為水の六四納約自牖とあるのと同様の義である。
主とは六五を指し、二は臣位にして、二五は相応じているわけだが、今は睽のときなので、却って相背くに至る。
そこで六五の君は、九二剛中の臣を疑って、謁見を禁じる。
したがって九二の臣は、六五の君に会うことができない。
会えないことにより、六五の疑いの念は、次第に固く結ばれて解けないまでに至る。
このようなときには、正式に面会を申し込んで会おうとしても、受け入れられず、その志が通じることはない。
とすると、例えば巷=街中を通るときにでも、強引に会うしかない。
今はその情が睽いているとしても、本来は二五陰陽相応じているのだから、一度会えばその睽いている情は忽ち解けて、君臣相和合するものである。
要するに、街中でもどこでも、とにかく会ってさえすれば、その志は通じるのである。
そして、こういう状況であるからには、正式な手続きなしに、巷でいきなり君に会うなどという非礼な行為をしても、咎はないのである。
だから、主に巷に遇う、咎无し、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━

六三、見輿曳其牛、掣其人、而且劓、无初有終、

六三(りくさん)、輿(くるま)其(そ)の牛(うし)に曳(ひ)かれ、其(そ)の人(ひと)に掣(ひ)かれるを見(み)る、而(かみきり)且(か)つ劓(はなきられ)んとすれども初(はじ)め无(な)くして終(おわ)り有(あ)り、

輿は六三のことである。
牛は九四、人は九二のことである。

輿といものは、前から曳(ひ)くときは前に進み、後ろから掣(ひ)くときは後ろに進むものである。
六三は、陰柔の爻にして九二と九四の両剛に比している。
この義を、輿が前に後ろに引かれる様子に喩える。
前に在って曳くのは牛であり、爻にては九四であり、六三に比し親しもうとする者である。
後ろに在って掣くのは人であり、爻にては九二であり、やはり六三に比し親しもうとする者である。
この様子は、六三の応爻の上九が見ている。
上九は六三の正応の夫であり、六三は上九の妻である。
しかし、睽のときなので、その情は背き、今は親密な関係ではない。
なおかつ六三の女子は陰柔不中正であるととともに、二に比し四に比している。
そこで上九は、六三がその正応の自分=上九を捨てて、九二に親しみ、九四と睦まじくしているのではないかと疑う。
これを輿に例えて、まるで、輿が前の牛に曳かれ、後ろの人に掣かれているようだと思い疑い、その不貞不節を怒り嫉んで見ているのである。
だから、輿其の牛に曳かれ、其の人に掣かれるを見る、という。

見るというのは上九が六三と九二九四の様子を見ているのであって、この様子から、上九は六三を厭い憎み、その憎しみ恨みは九二と九四にもおよび、遂には九二と九四の両陽剛を刑誅しようとまで考える。
だから、而(かみきり)且つ劓(はなきられ)んとすれども、という。
而は毛髪を切る刑、劓は鼻を割り裂く刑である。
九四は六三より上位に居るので而とし、九二は六三の下位に在るので劓とする。
而のほうが劓よりも軽い刑罰である。

これは睽のときだからこそのことであって、些細な疑いから睽き合い、ついには他を憎むこと、このようなまでに至るのである。
しかし、あくまでも原因は些細な疑いであって、そんな疑いは、何らかのきっかけさえあれば、解け開くものである。
疑いが解ければ、忽ち陰陽相応じて親和するのである。
だから、初め无くして終り有り、という。
初めは不和でも、終りには打ち解けて和する、すなわち、初めは和することが无くても、終りには和する、ということである。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

九四、睽孤、遇元夫交孚、无咎、

九四(きゅうし)、睽(そむ)きて孤(ひと)りなり、元夫(げんふ)に遇(あ)って交(こもごも)孚(まこと)とすれば、(あやう)けれども咎(とが)无(な)し、

初九と九四とは応位だとしても、共に陽剛なのだから、互いに拒み合って不和となる。
まして今は、睽のときなので、九四より初九に背き、相与しない。
その結果、九四は孤独となる。
だから、睽きて孤りなり、という。
しかし、孤立した状態は好ましくない。これを解決するには、速やかに初九応爻の元夫に相遇って親和するべきである。
初四ともに互いによく孚信がある時には、睽きて孤りとなるさの咎は免れるのである。
だから、元夫に遇って交孚とすれば、けれども咎无し、という。

なお、初九を指して元夫と言うのは、丈夫というが如くである。
これは、九四より初九を尚び称えているのである。
元は始めの義、夫は丈夫の称であり、陽剛の義である。
睽のときに対処するには、親和することが第一である。
したがって、四より下位の初ではあるが、応爻を尚び親しむという意を示すために、元夫と尊称するのである。


上九━━━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六五、悔亡、厥宗噬膚、往何咎、

六五(りくご)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、厥(そ)の宗(そう)膚(ふ)を噬(か)むがごとし、往(す)ること何(なに)の咎(とが)かあらん、

六五は柔中の徳が有り、君位に在るとしても、睽のときなので、臣民の情は背き離れる。
もとより九二の応は有るが、睽の背くのときなので、六五の君より九二に睽き、謁見をだに許さない。
これは悔いが有ることである。
しかし、物事は睽いたまま終わることはない、いつかは疑惑も解けて和親する。
そうすれば、九二は必ず応じ来て、誠忠を国家に尽くすものであり、そうなれば、睽いた悔いは亡ぶのである。
だから、悔い亡ぶ、という。
この悔亡の二字で、この爻の終始の義を提挙して示しているのであって、以下の文言は九二に対する誤解について書いている。

厥の宗とは、九二の爻を指す。
九二は、実質は臣だが、これを臣と呼ぶ時には、今は睽の時なので、その情意が疎かでよそよそしく、睽き離れることを肯定しているかのような意になる。
したがって、臣ではなく宗と呼ぶ。
宗とは、同宗の義にして親しみを専らとするの辞である。
今は睽のときなので、骨肉の親だとしても、離れ睽きやすいのであって、君臣ならばなおさらであり、だからこそ六五と九二も相睽くのである。
このような状況のときに、九二の忠臣の方から、君に和合を申し出ることは、君臣上下の礼儀もあるので、至って難しい。
だから、九二の爻辞では、主に巷に遇う、咎无し、と、難しくてもなんとか和合するきっかけを作ることを勧めているのである。
しかし、六五の君から九二の臣に和合しようと申し入れることは、君臣の礼節を逸脱することではないので、甚だ容易である。
だから、厥の宗膚を噬むがごとし、という。
膚を噬むとは、火雷噬嗑の六二の爻辞にもある言葉であり、この火沢睽の六五の爻辞にては、君臣の和合が容易なことを示す喩えである。
往るとは、為すべきことが有るという義である。
六五の君は柔中だとしても、陰弱にして、一旦の疑い睽きにより、九二剛中の大忠臣と睽き離れたわけだが、このままではいけない。
今、六五はこれを親しみ和すること、同宗の念を為して、速やかに和合し、篤く親しみ信じて、その国政を輔弼させれば、大いに為ること有るのであって、何の咎があるだろうか。
だから、往ること何の咎かあらん、という。
咎かあらん、というのは、咎があるのではなく、逆に、大いに得ることが有る、という意である。
咎无し、というよりも優れているのである。


上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

上九、睽孤、見豕負塗載鬼一車、先張之弧、後説之弧、匪寇婚媾、往遇雨則吉、

上九(じょうきゅう)、睽(そむ)きて孤(ひと)りなり、豕(いのこ)の塗(ひじりこ)を負(お)い、鬼(おに)を載(の)せること一車(いっしゃ)なるを見(み)る、先(さき)には之(これ)が弧(ゆみ)を張(は)り、後(のち)には之(これ)が弧(ゆみ)を説(はず)す、寇(あだ)するに匪(あら)ず婚媾(こんこう)せんとす、往(ゆ)きて雨(あめ)に遇(あ)えば則(すなわ)ち吉(きち)なり、

上九は六三と正応だが、睽の極に居るので、睽き離れて、その応爻を捨て、自ら孤独となる者である。
だから、睽きて孤りなり、という。
そして上九は、その睽き疑う意が甚だ盛んにして、いつしか六三を憎み見ることが、例えば汚穢(けがらわ)しい豕が、その汚穢しさの上にさらに泥塗を負っているような、不浄不潔の至極と思う。
そう思うと、睽き憎む情はさらに増長し、恐怖心さえも生じて来て、ついには六三を醜鬼のように思う。
鬼というのは、そもそも無形の者である。
それなのに、実際に存在する者と考える。
これは疑い睽く情が極まって、妄想の甚だしい様子である。
もとより鬼は、陰邪にして忌み憎むべき者である。
それが一人ならまだしも、無数無量に変現して、車に満杯に積載していると思い込むのである。
だから、豕の塗を負い、鬼を載せること一車なるを見る、という。
そして上九は、その睽き疑い忌み憎み怖れる妄念により、遂に六三を殺害しようと思い、弧=弓矢を手に取り、すぐにも六三を射ようとする。
しかし、睽の背くということは、そもそも疑念から生じているのであって、その疑惑ということも既に極まれば、豁然と解けるものである。
解ければ忽ち睽く意も止み、害念も絶して、その弓矢も射らずに捨てる。
だから、先には之が弧を張り、後には之が弧を説す、という。

要するに、今は睽の時なので上九は六三を疑い、寇仇の如くに思うが、睽くことが極まって、その疑いが解けて、よく平常心になって考えれば、六三は寇仇ではなく、そもそもは親密な者同志である。
男女で言えば、結婚相手である。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
上九は夫、六三は妻であり、だから婚媾という。

男女が親密になることを、天地陰陽の交わりに擬えると、それは雨である。
今、上九が六三に応じ往き、相親しく和すれば、睽の時は尽き果て、互いに安寧になる。
だから、往きて雨に遇えば、則ち吉なり、という。


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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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