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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

シュガーベイビーラヴ

平成20年8月28日

たまには音楽の話でも・・・。

この夏は暑かった。
その暑さを避けるため、昼間、時間があるときは、カラオケ屋によく行った。
私がよく歌うのは、まぁ古い曲が大半なわけで、
でも、なるべく老いも若きもが知ってる曲を歌うように心がけている。
そんな中で、行くとほぼ必ず歌うのが、
以前にも日記に書いたサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」だ。
この曲は、昔から好きななので、このブログのタイトルにも使わせてもらった。
しかし、バラード系ばかり歌っているわけではない。
「明日に架ける橋」は、だいたい最後のほうで歌う。
そういう雰囲気の曲だしね。
では、最初は何を歌うのか、というと、
ザ・ルベッツの「シュガーベイビーラヴ」だ。
「明日に架ける橋」よりは新しいが、それでもやはり古い曲だ。
しかし、CMやドラマの中で使われたり、アニメのテーマソングにもなっていたりするので、
ルベッツというバンドの名は知らなくても、歌い出せば、ああ、あれか、といったカンジで思い出してくれる。

ラーハー トゥビララー トゥビララーアー・・・、という甲高い裏声が印象的な曲だ。

実は、私は裏声を出すのが好きなのだ。
で、この曲は、私の限界ギリギリの高さ(音名で言えばG)の裏声を使う。
それが、心地よいのだ。
その限界一杯の裏声がキレイに出ると、その日一日気分がよいのだ。
そして、この曲はまた、占い師が歌うに相応しい面もある。
途中にセリフが入るのだが、そのセリフがとてもよいのだ。

People Take my advice.If you love someone. Don't think twice.

訳すと、
「みんな!アドバイスをしよう、もし君が誰かを好きになったら、とにかく、くよくよしないことだよ」
ということだ。

この曲は、
若く初々しい恋は、素直に自分の思いを相手に伝えられなくて、みんな躓いたり落ち込んだりする、
といったことを歌っている。
そんな中での、このセリフなわけだが、
悩みのアドバイスとして、私がよく言うのも、やはり「くよくよしないように」ということなのだ(^^;
そんなことからも、この歌が気に入っている。

そもそも人生なんて、何をするにも、思ったとおりにやってみれば、よいのだ。
くよくよして、ナーバスになってしまえば、上手く行くものも上手く行かない。
ダメ元で当たって砕ける。
それが大事。

ということで、ルベッツのシュガーベイビーラヴを、お聞きください。




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風火家人 爻辞

37 風火家人 爻辞

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○

初九、閑有家、悔亡、

初九(しょきゅう)、閑(ふせ)ぎて家(いえ)を有(たも)たば、悔(く)い亡(ほろ)びん、

初九は家人の卦の初めなので、家を有(たも)つの始めに当たる。
しかも、陽剛の才が有り、正を得ている。
そもそも家を有つの道は、邪を去り正に基づき、奢靡(おごり)を閑(ふせ)ぎ、倹約を守るに在る。
ただし初九は不中なので、往々過失有り、悔いることも有る。
しかし、剛正の才が有るので、よく防閑(ふせ)ぎ守るので、その悔いも亡び消えるのである。
だから、閑ぎて家を有たば、悔い亡びん、という。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━

六二、无攸遂、在中饋、貞吉、

六二(りくじ)、遂(と)ぐる攸(ところ)无(な)し、中饋(ちゅうき)に在(あ)り、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

六二は陰偶にして妻の位であるとともに、中にして正を得ている。
なおかつ陰爻が陰位に在ることによる柔順を以って、内卦離明の主爻として九五中正の夫に応じている。
これは、妻として、素晴らしい者である。
そもそも婦女の道は、一人の夫に従って終わる者にして、専ら制し、自ら遂げるという義はない。
だから、遂ぐる攸无し、という。
男女夫婦が家を治める道は、丈夫は外に出て事を行い業を務め、婦妻は内に守り、その職は中饋に在るのみである。
中とは、内に在って守る義と、内卦中爻の象義とを兼ねていて、饋とは、料理を作り食事の世話をすることである。
だから、中饋に在り、という。
婦女がこのようにして、なお身の節操を守ることが貞正であれば、それこそが吉というものなのである。
だから、貞しくして吉なり、という。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━

九三、家人嗃嗃、悔、吉、婦子嘻嘻、終吝、

九三(きゅうさん)、家人(かじん)に嗃嗃(かくかく)たりとも、悔(く)いあらためれば、(あやう)けれども吉(きち)なり、婦子(ふし)に嘻嘻(きき)たらば、終(つい)には吝(はずか)し、

九三は過剛不中である上に、内卦離火の炎の極に居る。
そのために、九三はその家人を治めるに、厳酷叫喚することが烈火のごとくであり、このようであれば、人間関係が悪くなる。
家を治めることが厳刻に過ぎて、寛裕(ゆるやか)な取り計らいがないときには、必ず家人は親和せず、その家は齊(ととの)い難きものである。
したがって、自らその厳酷に過ぎる失を省み察して、これを悔い改めることが大事である。
そうすれば、いところはあるが、なんとか吉の道を得られるものである。
だから、家人に嗃嗃たりとも悔いあらためれば、けれども吉なり、という。
嗃嗃とは、厳刻に過ぎる様子である。

また、九三は下卦離火の極に居るとしても、中卦(ニ爻~四爻)坎水の主でもあり、なおかつ、過不中の爻である。
とすると、何事にも、中なる道を得ることは難しい。
家人を治めることが厳酷に過ぎることもあれば、逆に、愛に溺れ情に流されて、その節を失うに至ることもある。
そもそも坎の卦は、一陽の男子がニ陰の婦女の中に陥っている象である。
したがって、坎を愛に溺れ、情に流されている象とし、中卦坎水の主であるこの爻を、愛に溺れ情に流される者ともするのである。
今、この九三は坎の主にして、六二の陰爻に比し、六四の陰爻にも比している。
これは右と左にニ陰を抱えて寵愛に溺れる象である。
このように愛に溺れ、情に流され、平生嘻嘻として娯楽戯笑ばかりに耽り、婦子に溺れ甘やかせば、必ず家政の括りは解けて、再び縛り直すことはできないほどに堕落してしまう。
これは後代までに謗りを残す鄙吝の至極である。
だから、婦子に嘻嘻たらば、終には吝し、という。
嘻嘻とは、目先の喜びを以って甘え甘やかす様子である。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

六四、富家、大吉、

六四(りくし)、家(いえ)を富(と)ます、大(おお)いに吉(ちき)なり、

六四は柔正を以って宰相の位に居り、なおかつ上卦巽の従うの卦の主である。
したがって、よく君主に従い、民を懐柔存撫して、以って国家を富ませる者である。
だから、これが家人の卦であり卦名に家という字があることから、家を富ます、という。
もとより富ますの道は、大にしては一国一天下、小にしては一家の義である。
また、一家を以ってすれば、六四は一家の老(家老)である。
国に在っては一国の宰相である。
これを以って、家を富まし、国を富まし、天下を富ますというのであって、
その吉であることは、これより大なることはない。
だから、大いに吉なり、という。


上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

九五、王*假有家、勿恤、吉、

*假は、通本は假とするが、中州は彳に叚という字だとする。
しかしこの字は、JIS規格にもユニコードにもないので、*假(仮の旧字体)で代用しておく。

九五(きゅうご)、王(おう)家(いえ)を有(たも)つに*假(いた)る、恤(うれ)いる勿(なか)れ、吉(きち)なり、

王とは九五のことである。
九五は、国に於いては王であり、家に在っては夫だが、その大なる者を挙げて王とする。
その九五は剛健中正にして、六四に比し、六二に正応している。
これは、よく国政を内外の大臣に委任して、家を有つに至ることができるという義である。
もとよりこの卦は家人であるを以って、国天下と言わずに家とする。
天下を治める根本は、身を修め家を齊(ととの)えるに始まる。
家がすでに齊えば、必ず国は治まる。
何の憂恤(うれい)ることが有ろう。
だから、王家を有つに*假る、恤いる勿れ、吉なり、という。


上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

上九、有孚威如、終吉、

上九(じょうきゅう)、孚(まこと)有(あ)って威如(いじょ)たれば、終(おわ)りに吉(きち)なり、

上九は家を有つの極である。
家を有つの道は、第一に孚信を主とし、威厳を以って行われることを要とする。
信あれば、人はよく親和し、威厳を失わなければ、人はよくこれを敬重する。
このように、親和と威厳を以って家人に臨むときには、家を齊(ととの)え治めることによる功績も、期待できるものである。 だから、孚有って威如たれば、終りに吉なり、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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地火明夷 爻辞

36 地火明夷 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○

初九、明夷于飛、垂其翼、君子于行、三日不食、有攸往、主人有言、

初九(しょきゅう)、明夷(めいい)のとき于(ここ)に飛(と)ぶ、其(そ)の翼(つばさ)を垂(た)れん、君子(くんし)于(ここ)に行(ゆ)けども、三日(みっか)まで食(くら)わず、往(す)る攸(ところ)有(あ)れば、主人(しゅじん)言(ものいい)有(あ)らん、

この卦は、離明な者が坤暗な者に傷(やぶ)られ、内卦は外卦のために傷やれ、下の三爻は上の三爻のために傷やれる義とする。
もとより明夷は、破敗(やぶ)れの時であって、卦中の六爻はともにみな傷られる義があるのだが、内卦三爻は、とくにその傷れが痛大な者とする。
そこで、内卦三爻の爻辞には、みな句首に、明夷のとき、とあり、その傷れの甚だしいことを示している。
今、初九の爻は六四に害応されるので、六四のために傷られる者である。
さて、八卦の離は、上下の陽を翼、真中の陰を胴体として、飛鳥という義があるが、内卦はその離である。
初九はその飛鳥の翼に当たる。
また、初九は最下の爻なので、垂れ下るの象とする。
これは、初九が傷れの時に当たって、安居することができないので、飛び去ってその傷害を避けようと欲するが、卦の初なので遠く去ることもできない様子である。
鳥が翼を垂れて、遠くに飛べないに。
だから、明夷のとき于に飛ぶ、其の翼を垂れん、という。
続く君子以下の部分は、この義を直ちに人事について示したものである。
初九は安居することはできないので、行き去って傷害を避けようと欲するが、明夷の初めなのでそれはできないばかりか、却って傷害を増し、悩みを加え、その困窮の甚だしさは何日も食事ができないほどに至る。
だから、君子于に行けども、三日まで食らわず、という。
三は多数の義である。
このようなときに何かを為そうとしても、結局は傷害を受けるだけで、どうにもならない。
だから、往る攸有れば、主人言有らん、という。
主人とは初九を指し、傷れを受ける主であることを示す。
言有らんとは、忠告を受けるということであって、ここでは、傷れが有るという義である。
これは、水天需の九二、天水訟の初六に小有言とあるのと、同様である。
ともあれ初九は、居ることも行くこともできず、ひたすら時が過ぎるのを待つしかないとき、なのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━

六二、明夷夷于左股、用拯、馬壮吉、

六二(りくじ)、明夷(めいい)のとき左(ひだり)の股(もも)を夷(やぶ)らる、用(もち)いて拯(すく)え、馬(うま)壮(さか)んなれば吉(きち)なり、

明夷のときに当たって、六二は六五に害応され、そのために大に傷害を受ける。
六五は君、六二は臣である。
なおかつ六二は、内卦離明の主爻にして、中正柔順の徳が有る。
しかし六五は、坤暗陰昧の君主なので、却ってこれを傷害する。
これは、この卦が明夷であるからこそのことである。
そしてその六二は、中正にして、国家股肱の臣である。
だから、明夷のとき左の股を明夷らる、という。
左とは陰弱の義を示す。
六二は臣位だからであって、右=利き手=剛強の義と対比しているのである。
これは、非常に急変のときであって、六二の賢臣は居ながら徒に傷害を待つのではなく、速やかに逃れ去り、傷害を救うことが肝心である。
だから、用いて拯われよ、馬壮んなれば吉なり、という。
馬は迅速なもの、馬壮んなりとは、その逃れ去ることが迅速にして、傷害の及ばないうちに、速やかにせよ、という警鐘である。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━

九三、明夷于南狩、得其大首、不可疾貞、

九三(きゅうさん)、明夷(めいい)のとき于(ここ)に南狩(なんしゅ)す、其(そ)の大首(たいしゅ)を得(え)ん、疾(と)く貞(ただ)しくせんとす不可(べから)ざれ、

明夷の時に当たって、九三と上六は、相害応して、それがために傷られる。
そもそも明夷の卦象は、上卦の三陰爻を以って、共に下卦の三爻を暗まし傷るものである。
その中にあっても、上六の爻は魁悪首領である。
およそ明を蔽い暗ます者は、上なるより甚だしい者はなく、また、悪を為し害を為すことも、上に在るほど重くして大である。
したがって、上六を魁悪首領とするのである。
また、三は陽剛なので、他を除くべきの任である。
初爻を北とし、上爻を南とする。
今、上六は南に在り、至って暗いを以って、賢明者を暗まし傷るという象がある。
天下万悪の主は、自身は陰暗昏蒙を以って、明者を毀い、賢者を傷るより大なるはない。
賢者を傷(そこ)ない、明を晦(くら)ます者は、人に非ず。
したがってこれを禽獣に比す。
禽獣が稼穡を害し、民の憂いを作すのと、この上六が賢明を晦まし傷なうのとは、その罪責は同等である。
この上六の禽獣を南狩して誅戮すれば、必ずその魁首を獲て功績が有る、と九三に教え示すのである。
だから、明夷のとき于に南狩す、其の大首を得ん、という。
狩とは上六を禽獣に比しての辞、大首とは上六がその猛勢盛大なことを言う。

さて、上六は卦極に在って威を振るい、勢いを盛んにして、その党与もまた多い。
したがって、九三がこれを征伐するのは、簡単にはできない。
よく相手と自分の能力を計算熟慮した上で、行うべきである。
もし、慌てて急遽場当たり的に行うときには、却って大なる傷害を招くことになる。
だから、疾く貞しくせんとす不可らざれ、という。
疾は迅速急遽の義である。
ここでの貞は、征伐してその罪悪を正す、ということである。
したがって「疾く貞しくせんとす不可らざれ」は、「迅速に征伐してはいけない、熟慮してから事に当たれ」という意である。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

六四、入于左腹、獲明夷之志、于出門庭、

六四(りくし)、左(ひだり)の腹(はら)に入(い)り、明夷(めいい)之(の)志(し)を獲(え)たり、于(ここ)に門庭(もんてい)を出(いで)よ、

明夷の象は、全卦について観るときは下卦三爻が傷害を被る者とし、上卦三爻が、これを傷害する者とする。
しかし爻について観ると、上卦の四五の二爻も、また傷害を被る者とし、六爻中でただ上六のみ、傷害する者とする。

さて、この六四は、明夷の時に当たって、傷害する主である上六と、一卦の内に連なり居る。
これは、人の腹中に入り、その心志を知るようなものである。
だから、左の腹に入り、明夷之志を獲たり、という。
この六四は、賢を傷(そこな)い、明を夷(やぶ)るところの上六の宗族内戚にして、その心腹を知る者である。
そして、すでにその心腹を知っているのならば、速やかにその宗族内戚の門庭を出て、傷害を避けるべきである。
だから、于に門庭を出よ、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

六五、箕子之明夷、利貞、

六五(りくご)、箕子(きし)が明(めい)を夷(やぶ)らるるときは、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

上六は坤の至って暗い極に居って、好んで賢を毀い、明を夷る主である。
例えば、殷末の紂(ちゅう)王のような者がこれに当たる。
今、六五は上六の同体一卦中に在って、しかも上六に近づき親しむ位置にある。
これは親戚同族の義が有る。
殷末で言えば箕子のような者である。

箕子は紂王の叔父に当たる政治家で、その才力はとても優れていた。
しかし、紂王は次第に周囲の諌めなど聞かない暴君となり、民衆から税金を搾り取って苦しめ、自らは酒池肉林を楽しんでいた。
箕子も一緒にと逸楽に誘われた。
賢明な箕子は、そんな紂王をなんとか改心させようと思ったが、誘いを断った上に、諌めるなんてことをすれば、間違いなく自分は殺される。
そこで、仕方なく、表向きには気が狂ったように装い、時が来るのを待ちつつ、隠れて自らの徳を修めることに励んでいた。
気が狂ったことを装うことで、紂王も箕子を仲間にするのは諦め、誘うことも殺すこともなく、時が過ぎた。
そして、ついに民衆とともに蜂起した周の武王によって紂王は殺され、殷は滅び、箕子も自由の身となり、周の武王からもその博識を賞賛された。

六五は、この箕子のように、その行いがどんなに正当であっても、不用意に行えば、たちどころに禍害に至る、という状況なのである。
したがって、外にはよくその明を包み隠し、内にはよくその徳を修め守るべきなのである。
箕子が発狂したフリをして紂王の暴害を避けたように、柔中の徳を以って、その内難を免れるようにするときなのである。
だから、箕子が明を夷らるるときは、貞しきに利ろし、という。
貞しきに利ろし、とは、外には発狂を装っていても、内に修める明徳は、常に磨き続けないといけない、ということである。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

上六、不明晦、初登于天、後入于地、

上六(じょうりく)、明(あか)るからず晦(くら)し、初(はじめ)は天(てん)に登(のぼ)るがごとく、後(のち)には地(ち)に入(い)る、

上六は、至暗の坤の卦の極に居る。
これは、自分は至って暗昧で不明の甚だしい者である。
そもそも自分が不明暗昧な者は、必ず他の暗昧にして自分に阿諛(へつら)って来る者を喜び、明智な賢者を忌み嫌い、晦まし害そうとする。
だから、明るからず晦し、という。
そもそも暗昧な者は、初めは天に登るような猛勢を以って、賢を毀(そこな)い、明を夷るとしても、結局最後には、その勢いも尽きて、忽ち地の下に入り落ちるものである。
例えば、太陽が天空に昇り四方の国々を照らしたとしても、夕方には没して地に入るように。
だから、初めは天に登るがごとく、後には地に入る、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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(2005/04)
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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火地晋 爻辞

35 火地晋 爻辞

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、晋如、摧如、貞吉、罔孚裕无咎、

初六(しょりく)、晋如(しんじょ)たり、摧如(さいじょ)たり、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、孚(まこと)とせらるること罔(な)くして裕(ゆたか)なれば咎(とが)无(な)し、

この卦は晋の進み昇るときなので、諸爻みな六五の君のところに進み昇ろうとする象義である。
しかし、九四陽剛の権臣が、六五柔順の君主と下三陰の柔順の臣との中間に横たわって、その威権を逞しくして、不中正の行いを欲しいままにし、下に陰柔を抑え阻み、彼等が六五の君に通じないようにしているのである。
特に初六は、晋の時の始めなので、まず進んで六五に拝謁しようと昇るのだが、それを九四に抑え阻まれる。
だから、晋如たり、摧如たり、という。
摧の字は、抑え阻むという意である。
こんなときの初六の取るべき道は、例え九四の権臣に抑え阻まれても、決して九四に阿諛(へつら)うことなく、貞正に道を守るのを善とするべきである。
だから、貞しくして吉なり、という。
このように、初六は九四に抑え阻まれるので、その志は六五に通じず、六五からは信とされない。
自分の孚信が六五に通じなければ、焦り、煩悶とするのは、人情である。
だとしても、早急に自分の意を通じさせようと画策すれば、いよいよ九四の阻みは強くなり、六五に通じることはさらに難しくなる。
とすると、正しくして寛裕に時を待つしかない。
待っていれば、やがて時が過ぎ、六五に通じることも適うものである。
だから、孚とせらるること罔くして裕なれば咎无し、という。
ここで言う咎无しとは、時が来れば六五に通じることができる、ということである。

なお、この初六と九四は陰陽相応じているが、互いに助け合うという義はなく、むしろ害応であるかのようである。
しかし、九四は下をすべて抑え阻んみ、上に通じないようにしているだけで、初も二も三も同じように抑え阻んでいるのである。
とすると、ことさら初六は九四に害応しているのだ、とは言えない。
害応はその応爻のみを害し寇することである。
このような例は、他の卦にはない。
この火地晋の卦のみの特殊な例である。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、晋如、愁如、貞吉、受茲介福、于其王母、

六二(りくじ)、晋如(しんじょ)たり、愁如(しゅうじょ)たり、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、茲(こ)の介(おお)いなる福(ふく)を受(う)くるに、其(そ)の王母(おうぼ)に于(おい)てせん、

六二は、晋の時に当たって、臣位であることを以って進み昇り、君に拝謁しようとする者である。
しかし九四のために抑え阻まれる。
だから、晋如たり、愁如たり、という。
愁は、憂い悲しむという意である。
だとしても、六二は決して道を枉(ま)げて九四の権門に諛(おもね)り媚び諂うことはない。
君子は貞正にして守り固いことを要する者である。
だから、貞しくして吉なり、という。
王母とは六五を指す。
六五は王位にして陰爻であるので、王母とする。
もとより六二は中正にして、柔順の徳が有る。
今、六五の君に進み昇り拝謁しようとする。
例え一旦は九四に抑え阻まれるとしても、時至ればその忠誠空しからずして、必ず六五の君に通じることを得て、二五共に柔中であるを以って同徳相応じ、以って必ず六五の優待親礼を受けることが有るのである。
だから、茲に介福を受くるに、其の王母に于いてせん、という。

なお、この二と五は、ともに陰柔なので、決して応じるべきところの者ではない。
としても、この卦は晋にして、太陽が地上に出て万物が明らかに進む時を意味しているので、このことから、二五柔中の同徳を以って相応じるの義とする。
これは乾為天の二五、風沢中孚の二五が、共に剛中の同徳を以って相応じるのと同様であり、これらを同徳相応じるの例という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、衆允、悔亡、

六三(りくさん)、衆(もろもろ)に允(まこと)とせらるれば、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、

六三もまた君に進み昇り拝謁することを欲し、同じく九四に抑え阻まれる者である。
しかし六三は、九四陽剛に密比しているので、頗る九四の権門に阿諛(へつら)い比従するかのように見え、衆爻よりこれを疑われる。
このときに六三は、己の貞操を堅固にして、少しも九四の権臣に阿諛(へつら)い比従する意志を持たず、忠誠を六五に尽くすのであるならば、自然に衆爻の疑いは解けて、終に六三の忠信は誠実となる。
したがって、衆人がすでに六三を信実だとする時に、従来疑われていたところの悔いは亡ぶ。
もし、少しでも九四に阿諛う意が有るときには、衆爻の疑いが晴れないばかりか、不忠不義の汚名を受けて、大なる悔いがあることを免れない。
だから、衆に允とせらるれば、悔い亡ぶ、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九四、晋如、鼫鼠、貞、

九四(きゅうし)、晋如(しんじょ)たり、鼫鼠(せきしょ)たり、貞(かた)くすれば(あやう)し、

今は晋の時にして、衆爻は皆、六五の君所に進み昇ろうとする。
この時に当たって、六五は陰爻なので威権微弱であり、下卦三爻もまた共に陰柔にして力は弱い。
ひとり九四のみ陽剛にして、不中正であることを以って、上は君を犯し権を弄び、下は衆爻を抑え阻んで上に通じないようにし、位や禄を盗み、国家の民を木中の虫のように害する臣にして、その志行は将に鼫鼠のようである。
だから、晋如たり、鼫鼠たり、という。
鼫はムササビのことで、鼠(ねずみ)とともに害獣である。
そもそも人臣たる者が、このような志行では、身を喪い家を滅ぼすことは目に見えている。
く危険の至極である。
速やかにその志を改め、その行いを正しくして、一に身を以って国に殉(したが)うようにしなければいけない。
さもなければ、禍を免れない。
だから、貞くすればし、という。


上九━━━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六五、悔亡、失得勿恤、往吉、无不利、

六五(りくご)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、失得(しっとく)ともに恤(うれ)うること勿(なか)れ、往(ゆ)けば吉(きち)なり、利(よ)ろしからざる无(な)し、

今は晋の時ではあるが、六五の君は柔弱にして威権は微少(すくな)い。
これを以って九四の権臣が剛強をほしいままにして、君を欺き凌ぎ、法を弄び、威を振るう。
しかも、下に君家を輔佐するべき陽剛の臣はない。
したがって、六五の君は、その様子を悔い歎く。
しかし六五は、柔中の徳が有り、離明の主爻であるを以って、終にはその悔いも亡び消える。
このような時には、六五の君はしばらく時勢を省み察し、自らの心を裕寛(ゆたか)にし、失も得もみな天運のなせるところにして、これを恤えて悶えても無益だと悟り、よく離明柔中の徳を守って、兆民を懐柔安撫するべきである。
だから、失得ともに恤うること勿れ、という。
さて、この時に当たっては、六五の君が頼みにするべきところの者は、ひとり上九の賢者のみである。
しばらくは上九の賢者に頼み、九四権民の威を削り、勢いを殺ぎ、以って天下を治めることこそが、吉を得る道なのである。
だから、往けば吉なり、利ろしからざる无し、という。
この「往けば」とは、上九に頼みに往くことを指す。


上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上九、晋其角、維用伐邑、吉、无咎、貞吝、

上九(じょうきゅう)、晋(しん)のとき其(そ)れ角(かく)なり、維(こ)れ用(もち)いて邑(ゆう)を伐(う)つ、(あやう)けれども吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、貞(かた)くすれば吝(りん)なり、

角は陽発の象にして、威猛な義を言う。
上九は晋の進むの卦の極に居て、陽剛にして威猛盛んな爻である。
だから、晋のとき其の角なり、という。
上九は威猛強盛にして、以って六五の君に比し輔け、かの九四剛強の権臣を征伐する。
だから、維れ用いて邑を伐つ、という。
邑とは九四を指す。
しかし、兵革は危険な道である。
ことに権勢盛んな一大臣を伐つのは、危険を伴う。
とは言っても、君命を奉じて賊臣を誅し、正を以って邪を伐ち、順を助けて逆を討つのである。
だから、けれども吉なり、咎无し、という。
吉とは、得ることが有る、という義である。
咎无しとは、道に違わない義である。
古今和漢の歴史を観ると、このような、威権盛大で横逆跋扈の剛臣を除き去ろうとすることがある。
そんなとき、臨機応変、時勢適中の大権度なく、旧例先格に固執すれば、遂に国家の一大事を誤り、万古の笑いものにもなる。
だから、貞くするは吝なり、と戒める。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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(2005/04)
水上 薫

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