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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

雷天大壮 爻辞

34 雷天大壮 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、壮于趾、征凶有孚、

初九(しょきゅう)、趾(あし)に壮(さか)んなり、征(ゆ)くは凶(きょう)たること有孚(ちがいな)し、

初九は大壮の始めにして、足の位に居る。
およそ身を動かそうとするときは、必ず、まず足を動かすものである。
だから、趾に壮んなり、という。
もとよりこの卦は、すでに大壮であり、この爻は過剛不中にして、なおかつ乾の進むの卦の一体に居る。
これは、進むに専ら壮んな者である。
このようなときには、冷静さを失い、必ずや災いに罹ってしまうに決まっている。
だから、征くは凶たること有孚し、という。
有孚は、まことあり、と読むのが普通だが、その意味するところは、違いない、決まっている、といったことなので、ここは、ちがいなし、と読む。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、貞吉、

九二(きゅうじ)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

およそ大壮の諸陽剛は、みな剛強に過ぎる者である。
しかし、ひとりこの九二の爻だけは陽剛ではあっても陰の位に居て、しかも、乾の進むの一体に在るとしても中の徳を得ているので進むに過ぎる失はない。
これは実に大壮の時に処することの善なる者である。
だから、貞しくして吉なり、という。
この貞吉の二文字は、この爻の徳と、教戒とを合わせた辞である。
そもそも易の基本は、陽剛を貴び、陰柔を嫌うところにある。
しかし、そなに中にあっても、却って陽剛を戒めて、陰柔を勧める卦がある。
天水訟、沢風大過、離為火、そしてこの雷天大壮の四卦である。
この四卦は、剛に過ぎる時には忽ち必ず禍害を挽き出すので、一に柔静の道を用い守れと教え戒めるのである。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、小人用壮、君子用罔、貞、羝羊触藩、羸其角、

九三(きゅうさん)、小人(しょうじん)は壮(そう)を用い、君子(くんし)は用(もち)いること罔し、貞(かた)くすれば(あやう)し、羝羊(ていよう)の藩(かき)に触(ふ)れ、其(そ)の角(つの)を羸(くる)しましむるがごとし、

羊という動物は、猛獣ではないが、よく物に触れることを好むところがある。
そんな羊の性格を、才徳がなく、ただ志のみ強壮な者に喩える。
藩とは、牧場の柵といったものである。
今、九三の爻は、大壮の時に当たって過剛不中にして、また乾の進むの卦の極に居る。
これは、ただ剛強をのみ専らとする者である。
この爻の位置に当たる人は、小人ならば、人を軽んじ侮り、他を凌ぎ犯し、或いは己が富豪、権勢、智計、詐譎(さけつ=いつわり)などを頼みに、それぞれ頼むところの壮(いきお)いを欲しいままにする。
しかし、ひとり君子だけは、そのようなことはしない。
そもそも、内を省み外を修め、言行を慎み、道義を大切にする者であれば、人を凌ぎ他を侮るようなことは、しないものである。
だから、小人は壮を用い、君子は用いること罔し、という。
もし、自らを修め謙り抑えることなく、その剛強を壮んにし、富豪を壮んにし、権勢を壮んにし、智計を壮んにし、姦計を壮んにし、そのまま改めないときには、至って危険である。
だから、貞くすればし、という。
およそ、内省外修の鍛錬もなく、己の才能力量をも客観的に計らず、ただその強壮の志気にのみ任せて、勝手な思い込みで行動する時には、人に在っても事に在っても、たちまち必ず嗜められて苦しむものである。
喩えば、羝羊(雄羊)がその性質は柔弱だが、その志気のみ剛強にして、好んで柵に触れ、さらに進もうとしてもその力が弱いので柵を倒して進むこともできず、また退こうとしても、そのツノが柵にひっかかって退くこともできず、進退窮まる難儀をし、百計しても脱することができないようなものである。
これは、窮迫の甚だしいことを形容したものである。
過剛不中にして、志気が強壮であることの弊害は、まさにこれに極まる。
だから、羝羊藩に触れ、其の角を羸しましむるごとし、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九四、貞吉、悔亡、藩决不羸、壮于大輿之輹、

九四(きゅうし)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、悔(く)い亡(ほろ)びん、藩(かき)决(ひら)きて羸(くる)しまず、大輿(たいしゃ)之(の)輹(とこしばり)に壮(さか)んなり、

前後の爻では、みな、羊という字があるが、この九四の爻では、羊という字はない。
しかし、藩决きて羸しまず、とあるのは、言うまでもなく羊のことである。
これは、乾為天の九四の爻に、龍とは言わなくても、或躍在淵と言う辞だけで、それが龍のことであるとわからせているのと、同様である。
さて、この九四は、もとより陽剛ではあるが、陰の位に居るので、九三の過剛よりはその剛壮の義は少なく薄いので、羊の字を減じて、その義を示しているのである。
九四は大壮の時に当たって、陽爻ではあっても陰の位に居るので、その志は弱く、剛壮に過ぎることはない。
なおかつ、不中ではあるが剛柔の宜しきに適い、不正ではあるが陰陽和合するという義もある。
以上の衆義は、みな大壮の時に処することの善なる者である。
だから、貞しくして吉なり、悔い亡びん、という。
この爻に悔いがあるとする根拠は、不正であることである。
また、その悔いが亡ぶとする根拠は、剛柔が調い適っているからである。

そもそも九四は、陰の位に居て、強壮を主とはしないので、これを以って他人を侮り凌ぐようなことはない。
したがって、その志のままに進み行くことができる。
これは、九三が過剛不中にして強壮を専らにするのとは相反する。
だから九三の、羝羊藩に触れ、其の角を羸します、とあるのと相反して、藩决きて羸しまず、という。
柵が開いていて、進んでも行く手を遮られることはない、ということであって、別の言い方をすれば、大輿の進み行くのに喩えられる。
大輿とは、大きな輿(こし)のことで、ゆっくりと厳かに動く乗り物である。
その輿は、車輪と床を輹(とこしばり)で結びつけていて、その輹を解くと、車輪が外れて動かせない。
しかし、その輹がきちんと結び付けられていて壮んな時には、進み行くのに最適である。
これは、山天大畜の九二が、乾の進もうとするのを、艮に止められ、六五に害応されて、止められるのと相反する。
この大壮の卦の場合は、乾の進み、震の動くの合卦にして、九四は六五に親しみ比して、陰陽和順しているのである。
だから、大輿之輹に壮んなり、という。


上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六五、喪羊于埸无悔、

六五(りくご)、羊(ひつじ)を埸(さかい)に喪(うしな)う、悔(く)い无(な)し、

通本は「埸」を「易」という字とするが、中州は陸績本が「埸」であることと、「易」という字では象と義の関係が不明瞭になってしまうことを根拠に、通本を誤りだとし、「埸」の字として解説している。

羝羊は、牡羊にして強壮を主とする者である。
この爻に羝の字を去り、単に羊とのみ書いているのは、それか強壮ではないからである。
かの九三は過剛不中にして強壮を専らとするので、人と争うこともある。
だから、羝羊を九三に喩え、藩を人が九三を拒むことに喩えたのである。
また、九四は、陽剛だが陰の位に居るので、その志は弱く、その剛壮を専らとせず、陽爻ではあっても、敢えて人を犯し凌ぐことがない者であって、そうであるからこそ、人もまた争い拒むことはないのである。
その様子を、柵が開いていることに喩えたのである。
今、六五は大壮の時に当たるとしても、柔中の徳が有り、なおかつ自己に用いるべきところの剛壮はない。
だから、羊を埸に喪う、という。
埸とは、実質は藩と同じだが、藩の物理的に隔てる柵という意を避けて、単に境界といった意味合いの埸(さかい)としたのである。
また仮に、埸に藩(境界に柵)があっても、自己に剛強の羊がいないときには、触れ苦しむところはない。
そうであるのならば、問題が起きることもないので、悔いることもない。
だから、悔い无し、という。


上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上六、羝羊触藩、不能退、不能遂、无攸利、艱則吉、

上六(じょうりく)、羝羊(ていよう)藩(かき)に触(ふ)れる、退(しりぞ)くこと能(あた)わず、遂(と)げること能(あた)わず、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、艱(くる)しとすれば則(すな)わち吉(きち)なり、

この爻は陰柔である上に、陰の位に居る。
これは、過剛の失は絶対ない者である。
しかし、上六は全卦の極である。
要するに大壮の極処に居るのであって、なおかつ上卦震動の極に当たっている。
これを以って九三の過剛不中な者と、その過失大いに相同じとなる。
だから羝羊と言うのである。
その上六の羝羊は、剛壮の至極なので、柵を角で触れ衝くとしても、もとより陰弱微力なので、藩を倒して進み遂げることは不可能であるとともに、角の曲がった部分が柵の間に挟まり、引き退くこともできない。
その苦しむことは甚だ急切であり、凶である。
だから、羝羊藩に触れる、退くこと能わず、遂げること能わず、利ろしき攸无し、という。
しかし、すでにこの極に至るとしても、その卦極の剛強を捨て、その震の卦極の壮んに動くの義を止めて、その重陰の陰順に従い、艱難苦労して慎み守る時には、これより以後の災いは免れよう。
だから、艱しとすれば則ち吉なり、と戒める。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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天山遯 爻辞

33 天山遯 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、遯尾、、勿用有攸往、

初六(しょりく)、遯(のが)れること尾(あと)なり、(あやう)し、往(な)す攸(ところ)有(あ)るに用(もち)うること勿(なか)れ、

この遯の卦にて、遯(のが)れるというのは、卦象にては四陽爻である。
爻の象にては、六二を除く他の五本の爻すべてが皆遯れる者とする。
したがって初六もまた遯れ去る者とする。
しかし初六は六爻の最後尾に居るので、前を行く者たちの後から遯れるのであって、遯れることに後れる者である。
尾というのは、上爻を首とするからである。
およそ遯れ去ろうとする者は、先んじるのを容易とし、早いのを吉とし、後れるを難とし、遅いを凶とする。
今、初六は陰柔にして遯れる卦の最後尾に居る。
これは後にいてなおかつ遅い者である。
だから、遯れること尾なり、という。
そもそも遯の時命に当たっては、一刻も早く、何もかも打ち捨てて、取り敢えず遯れるべきである。
まだちょっとくらい大丈夫だろうと、何かを片付けてから遯れよう、などと考えたらいけない。
そのようであれば、大いに災害を招くことになる。
だから、これを戒めて、し、往す攸有るに用うること勿れ、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、執之用黄牛革、莫之勝説、

六二(りくじ)、之(これ)を執(とら)うるに黄牛(こうぎゅう)の革(つくりかわ)を用(も)ってして、之(これ)を説(ぬ)きとくに勝(た)ゆること莫(な)からしめよ、

この卦は、衆爻がこぞって我も我もと遯れ去ろうとする時である。
その中にあって、この六二の爻のみは、ただ独り成卦の主爻であることにより、衆爻の遁れ去ろうとするのを止める者である。
卦の象を以って論じるときには、この六二の陰爻が有ることにより、四陽爻が共に逃れ去るところの義とする。
しかし、爻の象を以って論じるときには、この六二は却って衆爻を止めるところの者とする。
爻の象は、中正の徳を主として教え、この六二は中正忠信の君子なる者とする。
また、卦の象を以ってするときは、陰陽の徳を主として教えるので、陽を君子、陰を小人として論じる。
このように、卦と爻の象では、捉え方が違うのである。
さて、この六二の爻は、中正の徳が有り、忠信の君子なる者である。
したがって、今は遁れ去ろうとするところの衆爻を止めるの道を教えるのである。
これは実に社稷の忠臣たる者である。
そこで、この爻辞だが、之を執うるに、の之は、遁れ去ろうとする衆爻を指す。
黄とは中の色にして、中の義である。
牛は柔順の喩えである。
革とは、堅固の義を喩えている。
要するに、六二は柔順中正堅固の志を以って、衆爻の遁れ去ろうとする者を執え止めるのだが、黄牛の頚皮(くびかわ)で作った強靭な革紐(かわひも)で縛りつけるように、衆爻の意を、六二の社稷に忠誠な志に感化させ、その革紐を脱ぎ去ることができないようにせよ、という義である。
だから、之を執うるに黄牛の革を用ってして、之を説きとくに勝ゆること莫からしめよ、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三、係遯、有疾、畜臣妾吉、

九三(きゅうさん)、遯(のが)れるときに係(きづな)あって、疾(やま)しきこと有(あ)り、(あやう)し、臣妾(しんしょう)を畜(やしな)うには吉(きち)なり、

九三は遯れる時に当たって、六二の陰柔の爻に親しみ比している。
陽が親しみ好むところは陰である。
陰の親しみ好むところは陽である。
これは陰陽の性情である。
したがって、九三の陽爻は六二の陰爻に親比して、これを愛し好む。
これは九三の係累(きづなで結ばれた者)である。
しかし、遁れ去ろうとするときには、係累はないのがよい。
係累があると、必ずそのために遁れるタイミングを逸し、痛悩疾苦するものである。
これは身に疾病があるようなもので、甚だい道である。
だから、遯れるときに係あって、疾しきこと有り、し、という。

ここまでが、周公旦が作成した遯の九三の爻の辞である。
以下は、周公旦以前からの辞を、そのまま句末に付加したものである。
そのため、前半とは内容が全く異なっている。
爻辞は、すべて周公旦が書いた言われているが、このように、周公旦以前からあった文章を、周公旦が捨てずに、周公旦の辞の後にそのまま付加している辞もところどころにある。
唐突に文章の内容が変わっている個所が、その古い伝承の個所である。

さて、臣妾を畜うのは、親愛を以って懐けるの義である。
この九三と六二は陰陽正比している。
したがって、自分が親愛を以って臣妾を懐ければ、臣妾もまたよく承け順がうという象義である。
だから、臣妾を畜うには吉なり、という。
これは、臣妾を畜うには、吉占の爻である。

ただし、君子が遯退しなければいけないような大事には、係累あって、それがために痛悩疾苦して凶なのであって、臣妾を畜うような小事ならば、陰陽が親比するので吉である、という義である。


上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九四、好遯、君子吉、小人否、

九四(きゅうし)、遯(のが)れるときに好(この)むことあり、君子(くんし)は吉(きち)なり、小人(しょうじん)は否(しから)ず、

九四は初六に応じている。
これは、九四の親愛嗜好するところの係累である。
今、遯の時に当たって、この初六の親愛嗜好が有って、これに係累させられる。
だから、遯れるときに好むことあり、という。
この時に当たって、君子ならば、必ず幾を見てその親しみ好み割き捨て難いところのものを、潔く割断して、遯れ得るべきである。
それが君子の君子たる所以である。
だから、君子は吉なり、という。
また、小人は情欲を割断するなどということはできないので、愛好に係縛(からま)れて遯れられない。
したがって、君子の吉に反する。
だから、小人は否ず、という。
ただし、君子も小人も共に九四の爻にして、この時この位に当たる者は、君子ならばよく係累を割断して遯れ得て吉だが、小人ならば否ずして凶である、という意である。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九五、嘉遯、貞吉、

九五(きゅうご)、遯(のが)れることを嘉(よ)くせり、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

九五は六二の応の位である。
これを以って陰陽相応じて、六二を親愛する。
しかし元来九五は剛健中正なので、何か事があれば、よくその親愛するところの者をも割断して、速やかに遯れ去り得る者である。
これは、よく時を知り事を酌(はか)り、経権取捨、軽重緩急、臨機応変に対処できる者である。
そもそも九四の爻では、不中不正なのに、君子は吉という辞が有る。
対するこの九五は、剛健中正であって、九四より遥かに勝れている。
とすると、九五は無論君子たる者であって、吉でないはずがない。
だから、これを褒称して、遯れることを嘉くせり、という。
貞しくして吉なり、とは、中正の爻象と教誨とを兼ねた辞である。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上九、飛遯、无不利、

上九(じょうきゅう)、遯(のが)れるときに飛(と)ぶがごとし、利(よ)ろしからざる无(な)し、

今、遯の時にして、遯れようとする爻は、悉く応比の係累が有るか、最後尾に居てモタモタしている。
六爻中ひとりこの上九のみは、応も比もないので、親愛嗜好の係累もない。
これは遯れるには、最も容易な爻である。
なおかつ遯れるの道は、後ろに居る者は難しく遅い。
前に在る者は容易く速い。
今、上九は全卦の極に居て、六爻の先端に居る。
さらには、陽剛にして、乾の進むの卦極でもあるので、その遯れることの速やかなことは、まさに飛ぶが如くである。
だから、遯れるときに飛ぶがごとし、という。
このように、速やかの遁れるのは、係累があってモタモタしている者からすると何やら慌てふためいていて滑稽にも見えるが、それは負け惜しみなのであって、速やかに遁れるほうがどんなにかよいのである。
だから、利ろしからざる无し、という。


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我がアルト君が雑誌に掲載

平成20年7月26日

去る4月末の某日、550ccの軽自動車に乗ってる人たちが集まった。
浦和から東北道の蓮田SAまで、みんなで走り、しばし歓談。
写真の左から四列目の赤いクルマが我がアルト君だ。
550off-s

で、そのとき、雑誌の取材があり、それが今日、発売になった。
ハチマルヒーローという雑誌だ。
グラビアページにカラー写真で、掲載されている。
全体と個別と。
よろしければ、ご覧ください。

Nostalgic Hero (ノスタルジック ヒーロー) 2008年 09月号 増刊 ハチマルヒーロー vol.9 [雑誌]Nostalgic Hero (ノスタルジック ヒーロー) 2008年 09月号 増刊 ハチマルヒーロー vol.9 [雑誌]
(2008/07/26)
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雷風恒 爻辞

32 雷風恒 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、浚恒、貞凶、无攸利、

初六(しょりく)、浚(ふか)きことを恒(つね)にせんとす、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

およそ何かをするときには、まずは簡単なところから入り、徐々に難しい内容に進むのが基本である。
しかしこの初六の爻は、恒久の卦の初めに居て、自らは陰柔不才にして不中不正なのに、その陽位の志のみ昂ぶり、恒久の修行を捨て、いきなり当然の如くに深いことを望む。
だから、浚きことを恒にせんとす、という。
これは、恒久の卦の初めに居て、速やかに成就を謀(はか)る者である。
したがって、すでに卦象の大義に悖(もと)り、甚だよろしくない。
それでもなお、そんな姿勢を改めず、貞固に固執し、いきなり深いことを行うのであれば、凶であることは必定である。
だから、貞くすれば凶なり、利ろしき攸无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、悔亡、

九二(きゅうじ)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、

九二は臣の位に在って、剛中の才を以って六五柔中の君を輔佐する象義が有る。
また五を夫の位とするときには、二は妻の位である。
二五陰陽相応じ相助けるという象義が有る。
臣が君を輔佐し、妻が夫を助けことは、これ恒常の道にして、善である。
だから、悔い亡ぶ、という。
悔いとは、この爻が不正であることから、その恒常の道を怠る可能性を恐れて言うものである。
しかし、同時に剛中の徳が有り、よく恒久恒常にその徳を守るので、恒常の道を怠る可能性は杞憂に過ぎない。
そこで、その恒常の道を怠る可能性の悔いは、亡び消滅するのである。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、不恒其徳、或承之羞、貞吝、

九三(きゅうさん)、其(そ)の徳(とく)を恒(つね)にせざれば、之(これ)が羞(はじ)を承(う)けること或(あ)り、貞(かた)くすれば吝(りん)なり、

徳とは、各人天性の中に具え得ているものである。
自分自身の固有の徳は、これを恒久のものとし、しばしば改変しないのがよい。
一度決めたら、それで貫き通せ、ということである。
仮に、その志その行がしばしば変わる時には、子に在っては不孝の子であり、臣に在っては不忠の臣であり、妻に在っては不貞の婦であり、兄弟に在っては不悌不敬であり、朋友に在っては不信である。
もとより易の辞は、広く万般の義に融通して教えることを基本としているので、これは孝である、これは忠である、などと、直接的には言及しない。
したがって、広くその徳と言うのである。
今、九三は過剛不中にして、内卦巽の躁(さわ)ぐの卦の極に居るので、落ち着かず、その志も定まらない。
これでは、その恒常の徳である孝悌忠信を喪い、羞じを承けるのが当然の理であり、不善の極である。
だから、其の徳を恒にせざれば、之が羞を承けること或り、という。
このような態度を固持するようでは、さらに多くの辱めを受けるものである。
だから、貞くするは吝なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九四、田无禽、

九四(きゅうし)、田(かり)に禽(えもの)无(な)し、

九四は初六と陰陽相応じている。
応じているとは、例えば、狩に行って運良く獲物を得るようなことである。
しかし今、九四の応爻である初六は、陰柔不才にして不中不正である。
これは卑賤在下の小民である。
九四執政大臣に応じて何をか輔佐できるような者ではない。
したがって、狩で得たとしても獲物=禽として喜ばしいものではない。
釣りなら、雑魚ばかりで本命が釣れない、ということである。
だから、田に禽无し、という。
田という字は、かつては田んぼと同時に、狩をすることも意味した。


上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六五、恒其徳、貞、婦人吉、夫子凶、

六五(りくご)、其(そ)の徳(とく)を恒(つね)にせり、貞(かた)くすること、婦人(ふじん)は吉(きち)なれども、夫子(ふうし)には凶なり、

六五は恒久恒常の卦に在って、柔中の徳が有り、よくその徳を恒にする者である。
かの九三の爻の過剛不中にして、妄りに躁ぎ、その徳を恒にせざる者と相反する。
だから、其の徳を恒にせり、という。
元来六五の君は、柔中の徳があり、九二の剛中の大臣とは陰陽相応じ、九四の陽剛の大臣とは陰陽相比している。
このように、応じ、また、比しているのは、その徳を恒にしている君であればこそのことである。
ところが、今、六五は陰柔不正であるので、常を常として原理原則に縛られ、気転が利かないといった面がある。
それでも婦女であるのなら、貞節貞固を主として黙って従っていれば、それでよい。
しかし、夫子=君子たらんとする者は、そうはいかない。
夫子は自分で判断して動かないといけない場面もあり、そんなときは、貞節や原理原則に固執せず、臨機応変に義を制し、気転を利かせないといけない。
したがって、夫子であるのに貞固に原理原則を守っているだけならば、時宜に対応できず、大凶なのである。
だから、貞くすること、婦人は吉なり、夫子は凶なり、という。


上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六、振恒凶、

上六(じょうりく)、恒(つね)を振(ふる)う、凶(きょう)なり、

ここでの恒は、常久の義にして変動しないことを言う。
振とは、動揺の愈々急速な様子である。
今、上六の爻は、重陰不中にして、恒の卦の極に居る。
およそ物事は、極まれば必ず変化する。
止ることが極まれば必ず進むように、恒も極まれば必ず動くものである。
その上この爻は、上卦震の震動の卦の極でもあるので、その恒を守ることはできず、妄りに動いて常を失う者である。
だから、恒を振う、凶なり、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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沢山咸 爻辞

31 沢山咸 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、咸其拇、

初六(しょりく)、咸(かん)じて其(そ)れ拇(あしのおやゆび)なり、

およそ咸じるということは、いろいろな事物に対してあるが、これを推し究めるときには、我が身より近く親しいことはない。 したがって、咸の六爻は、これを人身に配当して、辞を書いている。
初爻は咸の始めにして、人の身に取れば、足の位である。
なおかつ上の九四の爻に応じている。
これは、九四に咸じているのである。
そもそも、その心に咸じるところが有るときは、その身は忽ち動いて、その咸じるところに至るものであるが、その身を動かそうとする時には、必ず足より始めるものである。
その足を進めるには、必ず拇(ぼ=あしのおやゆび)に力を入れることから始める。
人間が歩行するときは、必ず足の親指に力を入れて踏み出すものである。
だから、咸じて其れ拇なり、という。

なお、この爻には吉凶の辞がないが、それは、初爻が咸の初めにして、まず最初に少し咸じただけだからである。
その咸じたことの善悪によって、吉凶を異にするので、ここでは予めに吉凶の辞を書いていないのである。
今はまだ善なのか悪なのか判然としないレベルで咸じただけである。
例えば、声をかけられて振り向いただけ、といったようなものである。
良い話があるなのか、悪い話なのか、あるいは・・・???
それが明らかにならなければ、善悪吉凶はわからないものである。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、咸其腓、凶、居吉、

六二(りくじ)、咸(かん)じて其(そ)れ腓(こむら)なり、凶(きょう)なり、居(お)れば吉(きち)なり、

初を拇(ぼ=足の親指)とし、三を股(もも)とし、二はその中間に在る。
これは腓(こむら)の位である。
六二は陰柔にして、上の九五と陰陽正しく応じている。
これは、九五に咸じて、他の志を持つべきではない爻である。
しかし咸というものは、そもそもが情欲意念から発するのであって、なおかつ六二は陰柔にして節操が弱く、遠くに咸じることは日夜に疎くなり、近くに馴れ親しみ咸じやすい。
かくして、遂に六二の陰爻は、まず比爻の九三の陽爻に比し咸じてしまう。
これを以って、九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まるのだが、その様子はまさに股と腓が共に動き止まるが如くである。
これを人事に当てれば、その人に定まった志念などなく、卓立した見識もなく、ただ他人に就いて進退動止する者とする。
苦楽是非もすべて他人任せで気概節操のない惰夫であり、このような態度で行動するのが凶であることは、言うまでもない。
だから、咸じて其れ腓なり、凶なり、という。
しかし、今日よりこのような態度を戒め改め、まず、自らよく物事に主宰たる見識を張り立て、志を堅固に定め、妄りに動かないようにすれば、吉を得られるものである。
だから、居れば吉なり、という。
居るとは、九三に比し咸じるという不正の動きを止めて、九五正応に咸じるようにしなさい、という義を込めての垂戒である。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三、咸其股、執其随、往吝、

九三(きゅうさん)、咸(かん)じて其(そ)れ股(もも)なり、執(しっ)して其(そ)れ随(した)がう、往(ゆ)くは吝(はずか)し、

九三は腓(こむら)の上に居る。
これは股(もも)の位置である。
この爻は、上に上六の応爻があれば、宜しくこれに咸じるべきことが正しい道だが、近くに咸じやすいので、上六の遠くには疎くして、近い六二に咸じ比す。
これは九三が過剛不中なためである。
だから、咸じて其れ股なり、という。
股もまた、足に随がって動き止まるものなので、進退共に足によるところの者である。
およそ陽が求め咸じるところの者は陰である。
九三に最も近いのは六二である。
したがって九三は、この六二の陰爻に咸じ、これに執着し、束縛されて、六二が動けば共に動き、六二が止れば共に止る。
これは、まったく内に自守堅確の貞操なく、進退共に外見聞の情欲に執着して随う様子である。
自身の天稟の明徳を捨てて、陰暗な情欲に服従し、上位に在る身を以って、下位の六二に随がうのである。
要するに、己に如かざる者に服従するのである。
これは鄙吝醜辱の極である。
だから、執して其れ随がう、往くは吝し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九四、貞吉、悔亡、憧憧往来、朋従爾思、

九四(きゅうし)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、悔(く)い亡(ほろ)びん、憧憧(しょうしょう)として往来(おうらい)せば、朋(とも)爾(なんじ)が思(おも)いに従(した)がわんのみ、

三の爻を股に当てれば、四は必ず腹か胸の位である。
しかしこの爻の辞には、胸とも腹とも言わず、心の義を以って書いている。
これは、胸や腹が心の居場所だとしてのことである。
さて、その心というものは、内に位置して形のないものなので、見ることも捉えることもできない。
したがって、思いと言って、その義を表現しているのである。
その思いというものは、心の発現するところにして、心の作用である。
その心の体は寂然不動であり、心の用は咸じて遂に通じるものである。
したがって、その心の作用に至っては、億兆無量にして善悪邪正、明暗浄穢、混沌錯雑にして、ひと呼吸の間に、千転万変、起滅跡なくして、決して予めに思い議することも、計算することもできない。
ただし、その心の主が正しく寂然である時には、その駆馳(はせひき)するところの意は、自然に誠となるものである。
心正しく意が誠になる時には、その作用である思い咸じるところのものも、自然に正中の道理に符合するものである。
だから、この義を教えて、貞しくして吉、悔い亡びん、という。

この貞の字は、貞正の本義であることは勿論にして、貞恒貞固の義をも兼ね備えている。
貞正の正の字は、一に止と書くから、一に従い、止まるに従う、ということである。
一とは天の公の義、その天の公の道に従い止まって、少しも私がないことを正と言う。
貞恒の恒とは、正字体では恆と書き(偏の忄は心、旁は二の間に舟に似た形がある)、忄=心に従い、二に従い、舟に従うということである。
二は天地陰陽の二気、舟は二気の運行を象っている。
二気の運行は万古から間断なく続いている。
したがって、心を取り守ることが、二気の運行のように間断ないのが、恒の徳である。
貞固の固は、堅固節操の義にして、凛乎として動揺せず、確乎として気を抜かないことである。
この爻辞の貞の字には、この三義三徳を合わせ具えているのである。
要するに、心の本原が貞正なときには、その咸じるところは即ち天性の自然に発して、少しも人為の妄想の交わることはないので、悔いもないのである。

憧憧とは、行って絶えない様子である。
したがって、意思が定まらない義とする。
往来とは、進退というのとほぼ同義であり、憧憧として往来せば、思慮工夫を以って咸を求めることを喩えたものである。
そもそも、咸の道というものは、天地自然の無垢な状態のままに咸じることである。
それを今、思慮工夫を以って咸を求めようとしている。
これでは、自身の知識思慮の及ばないことについては、何も咸じられない。
例えば、おカネに執着している人が、おカネにはいろんなことを咸じるとしても、自然の美しさには何も咸じないか、おカネに換算しての価値しか咸じないように。
このように思慮工夫を以って咸じるときは、その範囲がとても狭いのであって、人事で言えば、僅かに自身の朋類のみが思い従い咸じ、その他の人々には、全く通じることも咸じることもないのである。
いわゆる、内輪受けはするが、世間的には評価されない、ということである。
だから、憧憧として往来せば、朋爾が思いに従わんのみ、という。
爾とは九四を指し、朋とは九四の応爻の初六を指す。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九五、咸其*晦、无悔、

九五(きゅうご)、咸(かん)じて其(そ)れ*晦(ばい)なり、悔(く)い无(な)し、

*晦は、正しくは月毎=にくづきに毎と書くのだが、この字はJIS規格及びユニコードにないので、やむを得ず*晦で代用しておく。

*晦(ばい)とは、心と口の中間に在る想像上の場所であって、九四の心で咸じ、その咸じたことを上六の口から声に出して言おうと欲する間のことである。
その咸じることの邪と正とは、九四の心の在り方によるのであって、この九五の*晦(ばい)が与るところではない。
九五の*晦(ばい)は、心と口との中間にして、咸じることなく声を発することもない位である。
したがって、善悪是非共に、九五は関与せず、例えその九四が咸じたことが悪いことであっても、悔いることもないのである。
だから、咸じて其れ*晦なり、悔い无し、という。
ただし、九五は剛健中正の君位である。
とすると、その君が、自身の心の安らぎのみを楽しみ、天下億兆の飢寒に無関心な様子でもある。
側近がしっかりしていれば、それでも問題はないが、このような君は、君徳が薄く小さいわけである。
今はそれでよくても、将来何があるかはわからないものである。
もっと君徳を大きくするよう修養しなければいけない。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上六、咸其輔頬舌、

上六(じょうりく)、咸(かん)じて其(そ)れ輔頬舌(ふきょうぜつ)なり、

輔頬舌とは、要するに口を動かすことである。
上六は首の位にして、兌の口の主爻に当たっている。
元来陰柔不中にして、全卦咸の極に居て、兌口の主なのだから、佞弁利口を以って咸を求める者である。
だから、咸じて其れ輔頬舌なり、という。
佞弁利口(ねいべんりこう=おもねりへつらいの言葉ばかりを並べて話をすること)を以って人を悦ばせ、知計を以って咸を求めることは、小人の常套手段にして、君子の大いに憎み賤しむところである。
したがって、君子への警鐘を込めて、その蔑みから敢えて口とはせず、輔頬舌と書いたのである。
凶とは書いてないが、これが凶であることは、当然である。


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離為火 爻辞

30 離為火 爻辞

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○

初九、履錯然、敬之无咎、

初九(しょきゅう)、履(ふ)むこと錯然(さくぜん)たり、之(これ)を敬(けい)すれば咎(とが)无(な)し、

履とは、もともとは靴のことを指しているので、足で踏むことの義とし、履み行うことの意とする。
錯然とは、いろんなことが入り混じっていることである。
さて、離は心の卦である。
心というものは形がなく、その善悪の跡は、必ずその人が履み行った様子を観察しなければわからない。
そこで、心と言っても、宗教にありがちな心性空漠上のことには言及せず、行実の上についてのみ教訓を書いたのである。
まず、初爻は、卦の初めにして、人々が事を為す始めの位とする。
もとより初爻は足の位なので、履み行うことの始めである。
およそ人の履み行う事は千差万別にして、錯然として雑乱な事であっても、その良し悪しには道がある。
その履み行う人が、一によくその離の心を柔順にして、その麗(つ)き順がうところの道と事とを正しくし、その用い扱うところを柔順に正しくして、これを敬し、これを慎むときには、どのようなことでも咎はないものである。
だから、履むこと錯然たり、之を敬すれば咎无し、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━

六二、黄離、元吉、

六二(りくじ)、黄離(こうり)なれば、元吉(げんきち)なり、

黄とは中央の土の色なので、中の字の義を喩えたのであって、その中というのは忠信の義である。
離とは、卦名である。
さて、まずこの離の卦の象には、火、心、麗(つ)く、明、照、焚、智などがあるが、それらの衆義を悉くに兼ね具えているのが、この卦である。
したがって、この衆義をひとつに合わせて、離の字を以って卦名としたのである。
火についてこれを諭せば、剛強の道を用いて火を侮り、傲慢な取り扱いをするときには、忽ちに必ず焚き滅っするという凶害が有る。
逆に、柔順の道を用いて、敬い慎む取り扱いをするときには、必ず暗がりを照らし、生ものを煮炊きして食事を調えるという大利益が有る。
人の心の火も、これまた同様である。
忠信ならば身を修め家を齊(ととの)え、国天下をも治められるが、忠信ではないときは、身を喪ぼし、家を敗り、国天下をも滅っするものである。
また、離を智とし、麗くとすれば、その智にも麗くにも、それぞれ邪正善悪の二途がある。
これも審らかにわきまえることが大事である。
もとより六二の爻は、離の全卦の六爻の中にても、柔順中正の徳を得て、成卦の主爻となっている。
だから、黄離なれば、元吉なり、という。
この黄の字には、柔順中正忠信文明などの衆義衆徳を悉く具足しているのである。
元吉とは、大善の吉ということである。
したがって、占ってこの卦この爻を得て、その人に黄離の徳が具足しているのであれば、大善の吉であることは勿論である。
しかし、その人が黄離とは言えないような人物であるのなら、大悪の凶になるのである。
繰り返しになるが、黄離であって初めて元吉なのである。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━

九三、日昃之離、不鼓缶而歌、則大耋之嗟凶、

九三(きゅうさん)、日(ひ)昃(かたむ)くの離(とき)なり、缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌(うた)わず、則(すなわ)ち大耋(だいてつ)のみ之(これ)を嗟(なげ)くは凶(きょう)なり、

日昃くの離とは、日が傾く時といったことである。
大耋とは、言うなれば超後期高齢者のことである。
この爻は内卦の極に居る。
これは、内卦の離の日がすでに終り、上卦の離の日に移ろうとするときであって、要するに、一日が終り、次の一日が来ようとする、という象なのである。
だから、日昃くの離なり、という。
これは、人の老が極まり、死に至ろうとするのに喩えているのである。
この時に遇い、この地に臨んでは、死生共に天命であると悟り、従容自得して、天を楽しみ命に委ねて、消息盈虚の道に安んじて、缶を鼓して歌い楽しむのがよい。
徒に自身が老いたことを憂い歎いても、何の利益もない。
それこそ至愚の極みである。
だから、缶を鼓して歌わず、則ち大耋のみ之嗟くは凶なり、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

九四、突如、其来如、焚如、死如、棄如、

九四(きゅうし)、突如(とつじょ)たり、其(そ)れ来如(らいじょ)たり、焚如(ふんじょ)たり、死如(しじょ)たり、棄如(きじょ)たり、

離は火の卦である。
九四の爻は、下卦が終わって、すでに上卦に移った始めである。
九四もまた陽爻にして不中正である。
したがって、その性は烈火の如くにして、突如として衝き上がる。
下卦の火が、忽ち上卦に衝き上がり、燃え広がる如くである。
これは、火を以って言えば、下卦より上卦に衝き上がることである。
また、爻を以って言えば、三より四に衝き上がることである。
突然思いがけず、衝き上がって来るのである。
だから、突如たり、其れ来如たり、という。
そして九四は、内外二つの火の間に挟まっているので、焚(や)き立てられる患いがある。
焚き立てられたら死に、死んだら灰となって棄てられる・・・。
九四は陽剛にして不中正の志行があり、その性は陽剛烈火の如くであり、さらには上下二つの火の間に居るので、その凶害は甚だしい。
だから、焚如たり、死如たり、棄如たり、と重ねて深く戒める。


上九━━━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

六五、出涕沱若、戚嗟若、吉、

六五(りくご)、涕(なみだ)を出(いだ)すこと沱若(たじゃく)たり、戚(うれ)いいたむこと嗟若(さじゃく)たれば、吉(きち)なり、

沱若とは涙がどんどん流れる様子。
六五は柔中の徳が有り、尊位に居るわけだが、下に応じ助けてくれる忠臣はなく、孤独にして九四と上九との二陽の剛強者の間に麗=付いている。
これは甚だ危険で惧(おそ)れるべき勢いである。
しかし、そもそも離明の主にして、よく時の勢いを知ることに明らかなので、常に恐惧慎戒して、涙を流すのである。
このように、平生に憂い慮って慎み戒めるときには、自然にその危険な害を免れて吉に至るものである。
だから、涕を出すこと沱若たり、戚いいたろこと嗟若たり、吉なり、という。


上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

上九、王用出征、有嘉、折首、獲匪其醜、无咎、

上九(じょうきゅう)、王(おう)用(もち)いて出(い)でて征(せい)す、嘉(よ)きこと有(あ)り、首(かしら)を折(た)つ、獲(えもの)其(そ)の醜(みにく)いに匪(あら)ざれば、咎(とが)无(な)し、

王とは、六五の爻を指している。
首とは上九の爻を指していて、首領魁首などの義である。
上九の爻は、卦の極に居て、陽剛にして不中不正であり、さらには二五君臣位の外に在る。
これは、遠方に居て、王化に順い服すことなく、自身の剛強を以って我威を振るって人民を残害する横逆者である。
そこで、六五の王は、出でて、上九を征伐する。
だから、王用いて出でて征す、という。
六五柔中の君徳を以って、上九剛強の不中不正な者を征伐するのである。
これは有道を以って不道を征することである。
六五は天に順い人に応じる仁義の師なので、必ずや大いに嘉悦=よろこばしいことが有る。
そのよろこばしいこととして、その魁首を誅戮することを得るのである。
だから、嘉きこと有り、その首を折つ、という。
上九の爻は、人の身に配当するときには首とする。
したがって象を兼ね合わせて、首を折つ、という。
さて、六五陰弱なる者が上九の陽剛を獲にすることは、陰が陽を征することになるが、だとしても、決して醜いことではない。
有道を以って無道を誅し、仁を以って不仁を征するものである。
とすれば、侵奪の咎などあるはずがない。
だから、獲其の醜いに匪ざれば、咎无し、という。


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坎為水 爻辞

29 坎為水 爻辞

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、習坎、入于坎窞、凶、

初六(しょりく)、習坎(しゅうかん)なり、坎窞(かんたん)に入(い)れり、凶(きょう)なり、

習とは、雛鳥が羽の使い方を練習するためにバタバタ羽ばたくことであって、その様子から、同じことを重ね繰り返すことを意味する。
窞とは、坎の穴の中にあるさらに深い穴のことである。
今、坎の険(なや)みの時に当たって、初六は陰柔不中不正なので、道を失っている者である。
なおかつ上に応爻の助けもなく、自分の身は坎の険みの底に陥っている象義である。
険阻の重なった深い穴に陥り、その重なる穴の底に、さらにまたひとつの穴があり、転んで終にはその穴に陥ってしまい、険み苦しんでいる様子である。
もとよりその身は陰柔にして、自力でその穴から這い出す才力はなく、応爻の助けもないので、助けを求めても誰一人として救い出してくれる者はいない。
したがって、一歩も出ることはできない。
これは険みの至極である。
だから、習坎なり、坎窞に入れり、凶なり、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、坎有険、求小得、

九二(きゅうじ)、坎(かん)にあって険(なや)み有(あ)り、求(もと)めば小(すこ)しく得(え)ん、

坎は穴である。
上卦の坎を穴とし、下卦の坎を険みとする。
九二は下の坎の中間の一陽、すなわち下卦の中心である。
これは、坎の穴の中に陥って、その身に急切な険みが有る様子である。
だから、坎にあって険み有り、という。
そして、九二は上に応爻の助けはないので、坎の穴の険みを出て去ることはできない。
ただ、剛中の才が有るので、何かを求めれば、小しは得ることは有る。
としても、辛うじて身を保つことができるのみである。
だから、求めば小しく得ん、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、来之坎坎、険且枕、入于坎窞、勿用、

六三(りくさん)、来(きた)るも之(ゆ)くも坎坎(かんかん)たり、険(なや)みにあって且(か)つ枕(ささ)えたり、坎窞(かんたん)に入(い)れり、用(もち)いること勿(なか)れ、

来之とは、進むことと退くこと、といったことである。
枕は頭を支えるものであるように、ささえるという意味がある。
今、六三は、二つの坎の険みの間に在るとともに、陰柔不才なので、その志行は不中正な者である。
なおかつ応爻の助けもない。
そこで、まず自分の居所の険みを防ごうとして、進み往き、平坦な安処を求め欲するが、上卦の坎の険みが前に横たわっていて、進むことはできない。
また、退こうとしても、後ろもまた坎の険みの卦の中心の九二の陽剛が厳しく聳え立っていて、退くこともできない。
それならば、このまま六三の位置に止まって居ようかと考えるが、陽位に陰爻が居るというのは、これまた居心地が悪い。
したがって、六三は前後左右進退動止、悉く険難苦患である。
だから、来たるも之くも坎坎たり、険みにあって且つ枕えたり、坎窞に入れり、という。
このような時運の厄窮に出遇った者は、何事も諦め、一に苦を忍び険みを堪え、時を待つしかない。
少しでも何かしようと動けば、忽ち険み深く艱(くる)しみ重くなるだけである。
だから、用うる勿れ、と戒めていう。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六四、尊酒二簋、弐用缶、納約自牖、終无咎、

六四(りくし)、尊酒(そんしゅ)二簋(にき)あり、弐(そ)えるに缶(ほとぎ)を用(もち)う、約(やく)納(い)れること牖(まど)自(より)すとも、終(おわ)りに咎(とが)无(な)し、

尊とは酒器のこと。
簋とは料理を載せる器のこと。
尊酒二簋で、酒と料理の器が合計で二つということ。
弐は「そえる」と訓む。
缶とは質素な素焼きの容器。
六四は険難の世の宰相にして、柔正を得ている上に、九五の君とは陰陽正しく比しているので、よく君に承け仕える臣である。
しかし陰柔なので、この重なる坎の時の険みを救済し、乱を撥(はら)うまでの才力には乏しい。
したがって、ただ誠実だけを以って君に仕える爻である。
今は非常事態の坎の険みの時勢なので、平居無事太平の時のように、儀節を飾り、礼文を備えて、君上に仕えることは難しい。
時勢を鑑みて略せることは略してよい。
一尊一簋の酒食に、器は缶を用いるような薄礼小儀だとしても、至敬の誠実を以ってする時には、そのまま君上に薦めて構わない。
本来ならば、豪華にしなければいけないところだが、非常時はそんなことは言っていられない。
心がこもっていれば、質素でもかまわない。
だから、尊酒二簋あり、弐えるに缶を用う、という。

さて、君上と何か約束を交わすことがあるときは、礼に則り正面玄関から入り、いろいろな手続きを経て、君上と会うものである。
しかし今は、非常大変なときである。
秘密緊急の約信を君辺に告げようとする場合には、無理して正面玄関から入る必要はない。
平常無事の時ならば、卑賤の匹夫さえも使わない牖=明り取り用の窓から出入りしても、何ら問題はない。
むしろ、正面から入り、面倒な手続きで時間ばかりかかるよりも、そういった窓を使ったほうが、速やかに約信を通じられるので、何かと好都合であろう。
ともあれ、非常不慮の事変に臨んでは、常経に構わず、機に臨み変に応じる度量が大事なのである。
非常事態が治まり終わらせることが第一であって、その目的に沿っているのであれば、礼を失っても咎はないものである。
だから、約を入るるに牖よりすとも、終りに咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五、坎不盈、祇既平、无咎、

九五(きゅうご)、坎(あな)盈(み)たしめ不(ざ)れ、既(すで)に平(たい)らかに祇(いた)れば、咎(とが)无(な)し、

九五は非常大険難の時に当たって君の位に居る。
下の九二の陽剛の大臣は、臣の位に居るとしても、九五とは陽同士なので、陰陽正しく応じてはいない。
そこで九二は、その陽剛の権勢を逞しくして、道に外れた志をも抱いている。
これを以って時の勢いがふたつに分かれて、世間大険難となったのである。
しかし九五は、剛健中正にして、よく険難を救済する才力が有る君であるので、共にこの乱を撥(はら)い、険みを救済する要道を教える。
乱を撥い険みを解くには、急速に功を成すのはよくない。
即功頓利に急ぐときは、必ず躓くものである。
としても、逆に寛慢遅滞なときは、禍害が大きくなる。
したがって、その七八分まで攻め詰めることは、疾風迅雷のように速やかに動くが、敢えてそれ以上は進まず、泰山の如くに静かに止まり、その二三分を余して、寛仁の大度量を施し、徳を以ってこれを懐柔する。
そうすれば、労せずしてその残した二三分も、自然に済い得るものである。
さて、この卦は重坎にして内外ともに水の象なので、水に即して喩えを書いている。
今、試みに水を取って、穴に注ぎ入れるとしよう。
強く注ぐときは、水面が激しく揺れてなかなか平らかにはならない。
しかし、注ぐの止めると、水勢は自ら次第に平らぎて、静かな水面になる。
要するに、物事は静かに止まった後に、公平を得られるのである。
だから、坎盈たしめ不れ、という。
これは、七八分で止めて、十分を求めないことが大事だと戒める義を、象に即して書いているのである。
もとより七八分で止めて過ぎないときには、満ち溢れることはない。
これは、人の疾病を攻めるときも同じである。
毒があれば、その毒を攻めなければならないが、七八分を除き去ることができたら、速やかに攻めることを止めて、後は食事などで元気の徳を蓄え養うのがよい。
それで残りの二三分の邪毒は、元気の陽徳に駆り立てられて、自然に消滅するものである。
無理に邪毒をすべて取り去ろうとすれば、それだけ身体に負担がかかり、身命が先に尽きてしまうこともある。
だから、既に平らかに祇れば、咎无し、という。

念のために付け加えておくが、これは江戸時代の医学に基づいた発言である。


上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上六、係用徽纆、寘于叢棘、三歳不得、凶、

上六(じょうりく)、係(かか)るに徽纆(きぼく)を用(もち)い、叢棘(そうきょく)に寘(お)く、三歳(さんさい)まで得(え)ず、凶(きょう)なり、

徽纆は縄のこと。
叢棘はトゲのある草木が生い茂った場所。
古代には、犯罪者は叢棘の中に置かれたという。
懲らしめるためである。
今、上六の爻は、陰暗不才にして、険みの極に居る。
およそ世間の人は、険難困窮の時に遇っても、その節操を凛々と貞正に保つ者は少ない。
多くは邪路に走り、姦徒に陥り、非難されるようなことでも、意外と簡単に手を出してしまう。
特にこの上六のように、もとより陰暗不才であれば、道を喪い罪を犯して、それが発覚して処罰される。
だから、係るに徽纆を用い、叢棘に寘く、という。
これは、身の険難に苦しむことが甚だしい様子でもある。
続く三歳の三とは多数の義である。
上六は陰暗不才にして、外に応爻の助けはないので、険難を脱出することは、永久に不可能である。
だから、三歳まで得ず、凶なり、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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沢風大過 爻辞

28 沢風大過 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、藉用白茅、无咎、

初六(しょりく)、藉(し)くに白茅(はくぼう)を用(もち)ゆ、咎(とが)无(な)し、

藉くとは、祭壇に敷物を敷くこと、白は清潔の義である。
初六は、大過の卦の初めに在って、人を敬うことを、神を尊ぶが如くにする者である。
これは、人を敬うに大いに過ぎていることである。
そもそも、今は大過の時に当たっているので、六爻ともに、何かが大いに過ぎている。
初六は最下に在り、陰柔卑賤の爻なので、人を敬い尊ぶことに過ぎる象が有る。
これを、礼節を得、和の中に適う者と比較するときには、敬うに過ぎている失は有るが、亢(たか)ぶり傲(ほこ)って、人を侮り軽んじる者と比較すれば、千万勝っている。
まして、人を侮り軽んずることは、大いに咎有るの道である。
今、この初六は、敬う気持ちが過ぎて、人をもてなす敷物に、祭壇に使う白くて清潔な茅を使うだけである。
それに何の咎があるだろうか。
だから、藉くに白茅を用ゆ、咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、枯楊生梯、老夫得其女妻、无不利、

九二(きゅうじ)、枯楊(かれやなぎ)梯(ひこばえ)を生(しょう)ず、老夫(ろうふ)其(そ)の女妻(じょさい)を得(え)たり、利(よ)ろしからざる无(な)し、

この卦は兌の沢の中に巽の木が在る象である。
また、巽は柔木とする。
楊は柔木(柔らかい木)にして、水を好む木である。
したがって、象を楊に取る。
草木の性は陰潤の水の養いの過ぎるにも枯れ、陽燥の水の養い不足なるにも枯れるものである。
今、この卦は四陽ニ陰なので、陽が大いに過ぎている。
これを草木に取れば、陽燥に過ぎて乾き枯れる義が有る。
なおかつこの卦は、もとより陽に過ぎている。
しかし、この九二の爻は、内卦の中の徳を得ているので、過ぎていない、という義が有るとともに、初六の陰柔の比爻の浸潤の助けを得て、剛柔相適い、相済(ととの)い、ほとんど宜しきを得ているので、大過の過失を補う、という義が有る。
そこで、象に則して直ちに言えば、九二の枯れた陽が、初六の陰の根の助けを得て、再び陽の梯を生じる義である。
だから、枯楊梯を生ず、という。
およそ草木の中で、すでに乾枯しているに、そこから梯を生じて復活するのは、楊のみである。

さて、これを人事について言えば、一旦喪い果てることが、再び復活するという義である。
もとより九二は陽剛にして夫である。
初六は陰柔にして妻である。
初とニと陰陽正しく比している。
したがって、これを夫婦とする。
なおかつこの辞には女妻とある。
女とは、未だ嫁いでない者の称にして、言うなれば少女の義である。
この卦は大過の時なので、夫は老夫、妻は女妻と言う。
これは夫の年齢が、遥かに妻に過ぎている様子である。
爻象を以って見れば、九二は初六より一段上である。
これは加倍の長である。
その上に大過の時の義を兼ね合わせる。
だから、老夫、其の女妻を得たり、という。

老夫が少女と結婚するのは、常識を大いに過ぎているということもあり、躊躇することもあるだろう。
しかし、九二の夫が初六の妻の助けを得ることは、枯楊が水の潤おいの助けを得て、梯を生じるようなものであって、この夫婦にもついには子が生まれ、その血は脈々と受け継がれていくのである。
要するに、結婚の目的は子孫を残すことであって、老夫と少女のカップルであってもその目的は達成できるのだから、世間的な評価は関係ない。
本人同士が望むのであれば、躊躇せず、積極的にその話を進めて、何ら問題はない。
だから、利ろしからざる无し、と、背中を強く押す。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、棟橈、凶、

九三(きゅうさん)、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、凶(きょう)なり、

卦辞に棟と言うのは、全卦を棟の象に取ってのことである。
爻辞では、この九三に、棟橈む、九四に、棟隆んなり、と、この両爻の辞だけに、棟と言う。
これは、全卦の棟のその中間を取ってのことである。
今、この大過の時、過陽の卦に在って、九三は陽爻を以って陽位に居り、なおかつ不中である。
そもそも棟というのは、そこにかかる力が、棟が持っている力を過ぎれば、必ずその任に堪えず、橈み、さらに重さが甚だしければ折れることもある。
これを人事に擬えるときは、国家が背負っている重さに耐え切れず、まさに傾き覆るに至ろうとする時勢である。
とすれば、凶であることは言うまでもない。
だから、棟橈めり、凶なり、という。

なお、上六と陰陽相応じている。
これは陰陽が相助け合う義に取るのが普通だが、棟を以って言うと、上にある応爻は、九四や九五とともに、九三が負い載せている者であって、九三を助ける者ではない。
むしろ、却って九三に重みを増しているだけである。
したがって、上九は応爻ではあるが、実際には何の助けにもならないのである。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九四、棟隆、吉、有它吝、

九四(きゅうし)、棟(むなぎ)隆(さか)んなり、吉(きち)なり、它(た)有(あ)れば吝(はずか)し、

九三と九四は共に陽剛にして、同じく大過の四陽排列するところの爻である。
しかし、九三では、棟橈めり、この九四では、棟木隆んなり、と言い、その義は大いに相反する。
どう違うのか。
九三は、過陽の卦に在って、陽爻を以って陽位に居て、なおかつ不中である。
対するこの九四は、陽剛にして陰の位に居るので、卦としては過陽だが剛に過ぎる過失が少ない。
その上、初六の陰爻に応じ、剛柔相適って宜しきを得ている。
したがって、棟隆んなるに至るのである。
隆とは、地形豊盛にして、中央が高いことを言う。
これは、棟の中間が上に反(そ)っていることである。
橈みそうに重みがかかている棟を、上に反るように隆んにするには、下から柱を以って助けることである。
その柱の助けが初六の応爻である。
初六は下に居り、九四は上に在り、初六の陰の柱、下より九四の棟に応じてこれを支え助けて、上へ反り隆んにさせる。
これは上六が九三に応じて、却って上より重さを増すのとは相反することである。
これを以って三は橈み、四は隆んになるのである。
さて、この旨を人事について言えば、およそ人の君となり父となろうとする者の下に、その君や父を諌めることができる忠信の臣や子が有るときには、その国や家の基礎は堅固安泰となるものである。
したがって、このようであってこそ、吉なのである。
だから、棟隆んなり、吉なり、という。
これがもし、九四に他の思惑があり、初六の助けを捨てて用いないときには、必ず棟は橈み、ついには折れてしまうような凶が有り、後世までも辱められ、吝(わら)い者になるというものである。
だから、它有れば吝し、という。
它とは、応爻ではないその他の者を指すのであって、水地比の初六に、它有れば吝し、とあるのと同類の表現である。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九五、枯楊生華、老婦得其士夫、无咎无誉、

九五(きゅうご)、枯楊(かれやなぎ)華(はな)を生(しょう)ず、老婦(ろうふ)其(そ)の士夫(しふ)を得(え)たり、咎(とが)も无(な)く誉(ほま)れも无(な)し、

枯れた楊の義は、すでに九二にて解説したとおりである。
この九五は、上六の比爻にして、上六より陰の助けを得るのであって、華は上に開くものである。
九二の梯を生じるとは、初六の陰の助けを根に得るからこそのことであるが、この九五の場合は、下に助けはなく、ただ上六の上より助けがあるのみである。
これは、例えば根を断った楊が、上から雨露の潤いを得て、たまたま花を咲かせたようなものである。
だから、枯楊、華を生ず、という。
しか、一旦は花を咲かせる勢いはあっても、下の根よりの助けはないので、久しからず花は凋(しぼ)み落ちる。

さて、老婦とは上六の爻を指し、士夫とは九五の爻を指す。
ここで言う士とは、未婚の者の称にして、要するに若い男性のことである。
九五と上六とは、上六の陰を以って上に居るので、これを老婦と言い、九五の陽を以って下に居るので、これを士夫と言う。
これもまた大過の義である。
そして、五と上と陰陽相比するので夫婦とするわけだが、九二と初九との関係と、この九五と上九との関係には、次のような違いがある。
九二の老夫が女妻を得ることは、常識相応ではないが、枯れた楊に梯が生じるように、子孫の継続が期待できるという点では、喜ばしいことである。
しかし、老婦が士夫を得たとしても、老婦では妊娠不可能である。
したがって、枯れた楊に華を生じるだけのように、子孫の継続は期待できない。
これでは、得ることも失うこともない。
本人同士がそれでよいのならそれでよいが・・・。
だから、老婦其の士夫を得たり、咎も无く誉れも无し、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六、過渉滅項、凶、无咎、

上六(じょうりく)、渉(わた)るに過(す)ぎ項(いただき)を滅(め)っす、凶(きょう)、咎(とが)无(な)し、

この卦は似体の大坎の象である。
これは水の象義であるとともに、上卦は沢水なので、水を渉るの義に取って辞を書いたのである。
この爻は大過の卦の極なので、歩いて渡れないほどに、水の量が多過ぎ、満ち溢れている様子である。
川の水が渉れる水量を大いに過ぎていれば、険阻艱難であって、誰しもが二の足を踏む。
衆人には大いに過ぎて渉れなくても、勇気を出して果敢に水を渉れば、頭までも水中に没して危険である。
まさに自殺行為である。
だから、渉るに過ぎ項を滅す、凶なり、という。
項とは首から上の部分のことであり、上爻を首とし、その首が上卦兌沢の中に没する象である。
これは実に身命を滅する凶事であることは勿論だが、それでも必ず渉らなければならない時ならば、身命を滅するとしても、道義においては咎はないものである。
例えば、武士が戦場に臨み、君主の一大事の時に当たって、手足身首が処を異にする凶であっても、道義にあっては咎无しとするが如くである。
要するに、自分の命を捨てて、守るべき者を守る、といったときである。
だから、咎无し、という。


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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
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山雷頤 爻辞

27 山雷頤 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、舍爾霊亀、観我朶頤、凶、

初九(しょきゅう)、爾(なんじ)の霊亀(れいき)を舍(す)てて、我(われ)を観(み)て頤(おとがい)を朶(た)る、凶(きょう)なり、

爾とは初九を指して言う。
我とは六四の爻からの言葉である。
この爻の辞は、六四の爻から初九に告げる形式になっている。
およそ爻の辞の中に、我と爾という言葉が並んであるのは、風沢中孚の九二の辞と、この山雷頤の初九だけである。
そして、この爻も中孚の九二も、ともにその応爻から告げている言葉である。

さて、亀というものは、至霊至奇にして、食を貪らず、犯し求めることも少なく、よく未然の吉凶を知り、北方玄武の神の象形四霊の一瑞として、自らよく養うところの徳が有る者である。
この頤の卦は、頤養の象なので、人を養う義と、人に養われる義との二途を兼ね具えている。
初九と上九とのニ陽剛は、陽実富盛にして人を養うところの者とし、ニ三四五の四陰爻は、陰虚貧乏にして人に養われるところの者とする。
もとより初九は、剛実にして、自らよく養うところの霊亀の徳が有るところの爻なのだが、その自己固有の剛実自養の徳を捨てて、却ってその応爻の六四陰虚の貧乏者に向かって養いを乞い求めている。
これによって六四の応爻は、初九に忠告する。
爾初九は霊亀の徳を具えていながら、自ら養うことを捨て、我六四陰虚の応爻の方を観て、頤を朶れ、口を開いて養いを乞い求めるが、それは鄙吝恥辱の至りのはずではないか?
陽剛にして自ら養うに足りる才能を有しながら、却って養いを陰爻に乞い求めるのは、自身の情欲に負け、天稟陽正の守りを失うことであって、凶である。
だから、爾の霊亀を舍てて、我を観て頤を朶る、凶なり、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、顛頤、払経、于邱頤、往凶、

六二(りくじ)、顛(さかしま)に頤(やしな)われんとす、経(つね)に払(もと)れり、邱(おか)に于(お)いて頤(やしな)われんとす、征(ゆ)くは凶(きょう)なり、

邱とは、上九の爻を指す。
今、頤養の時に当たって、六二の爻は陰虚なので、養いを初九の陽剛に比し求める。
しかし養いの道は、上より下に施し恵むのを常経とし、六二は上に在り、初九は下に居る。
これでは、上より下に施し恵む義に反し、却って転倒(さかしま)に養われようとしていることになる。
これば常経に悖ることである。
だから、顛に頤われんとす、経に払れり、という。
言を待たずとも、これは凶である。
そこで六四は、養いを上九の陽剛に求めようとする。
これなら、上下の常経の義にも、陰虚より陽実に求めるの義にも反しない。
しかし、上九の爻は、六二の応爻の位ではないので、六二を養う筋合いではない。
したがって、上九のところへ行っても、門前払いされるだけで、これも凶である。
だから、邱に于いて頤われんとす、往くは凶なり、という。
このように、上にも下にも、六二を養ってくれる者はいないのであって、養いを他に求めず、己の中正の道を守り、自ら勉め励むしかないのである。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、払頤、貞凶、十年勿用、无攸利、

六三(りくさん)、頤(やしな)いに払(もと)れり、貞(かた)くするは凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)も用(もち)いること勿(なか)れ、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

今、頤養の時に当たっては、各自それぞれに口実を求めている。
口実とは、自分を養うための、正しい実のことで、食料も徳も含まれる。
この六三の爻は、陰柔不才不中不正にして内卦震動の卦の極に居るので、人事に在っては不中不正の志行にして、貧欲で目先の利益のためには妄りに動き騒ぎ、常経の務めには陰弱なるを以って怠けて養いを他人に乞い求める様子である。
これは、身を養うの正道に悖れる者である。
だから、頤いに払れり、という。
このように六三は、頤養の正道に悖り、自ら口実を求める大義にも背いているのであって、このような態度は早く悔い改めるべきである。
それでも、何も気にせず、尚も強いて養われることを乞い求めるのであれば、それは耳を伏せ、尾を垂れて、人の顔色を覗い、憐れみを乞い求めるわけであって、鄙吝醜態の極みにして不義、破廉恥の至りである。
だから、貞くするは凶なり、という。
こんなことをいくらしていても、結局は何も得られないものである。
だから、大いに永く警めて、十年も用いること勿れ、利ろしき攸无し、という。

なお、六三は上九と陰陽正しく応じていて、六三は陰虚貧乏の爻、上九は陽実富豪の爻、六三は下に居り、上九は上位に在る。
とすると、上九に養いを求めても、問題はないようにも思える。
確かに、陰柔貧虚ながらも平素は真面目に務めているのが、ある日突然災害に遭ったり、病気や事故などで急な出費があるときは、求めてもかもわない。
しかし六三は、陰柔の嗜欲が深く、内卦の極に居るので、贅沢が甚だしく、他人を侮り、勝つことを好む反面、仕事はいい加減で、一攫千金の夢を見ているような、言わば遊び人である。
上九に求めているのは、その遊ぶ金である。
したがって、上九に養いを求めるのは大問題だと言っているのである。
そもそも他人に遊ぶ金を無心するのは、とんでもないことである。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六四、顛頤、吉、虎視眈々、其欲遂遂、无咎、

六四(りくし)、顛(さかしま)に頤(やしな)わる、吉(きち)なり、虎視眈々(こしたんたん)其(そ)の欲(よく)遂遂(ちくちく)たれば、咎(とが)无(な)し、

頤養の時に当たって、六四は柔正にして、初九剛正の賢者の爻と陰陽相応じている。
だから、顛に頤わる、という。
六四は執政大臣の位に居るわけだが、陰柔にして才力に乏しいので、そんな己を憂い、賢者を得て、以って政事を輔佐させて、国家を治めようと欲する。
初九は最下に居る卑夫の爻だが、陽剛にして正位を得ているので賢徳な者である。
そこで六四は、初九に政事の輔佐をさせようと欲する。
これが顛に頤われる内容であって、このようであるのなら、顛であっても、咎は無く、むしろ却って吉である。
だから、吉なり、という。
そもそも六四大臣の爻の、その不足とするところは、陰柔であるがゆえに威重を失っていることである。
その対策としては、まず、下に在る賢者を求め得て、国家の政事を輔佐させ、六四自身は沈黙荘重にすることで執政大臣の威厳を高くする。
その上で、虎が眈々として物を視るように、近くを視る如くでありながらその志は遠くに在るという大度の器量を弘大にし、その養うところは遂遂と篤実重厚にする。
そうすることで、庶民はよく服し化し、至治の善政となるのである。
だから、虎視眈々、其の欲遂遂たれば、咎无し、という。
其の欲とは、私欲利欲の類ではなく、志弘く賢者を得て、自身の才力不足を補い、徳を養い、民を服させて、国家の至治を願い望むという欲を言う。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六五、払経、居貞吉、不可渉大川、

六五(りくご)、経(つね)に払(もと)れり、貞(つね)に居(い)れば吉(きち)なり、大川(たいせん)を渉(わた)る不可(べからず)、

そもそも人君の任は、広く遍く万民を撫育教化するに在る。
そこで、民の父母と形容される。
ことさらこれを天子と称するのは、天を父として仰ぎ戴き、その天の父の道に遵い則り、下は万民を子として撫育教化するという義があるからである。
その余の公侯たる国君や諸々の民の上たるところの者は、みなこれに準じ倣うべきこと勿論である。
しかし今、この六五の君は、頤養の時に当たって、自家が陰虚なので、遍く万民を養うことができず、却って養いを上九陽剛の賢者に求める。
だから、経に払れり、という。
経とは君道の常道大経を言う。
さて、この卦は頤養の象義であるわけだが、全卦中にてただ初九と上九の爻のみが、陽剛富実である。
そこで、この初上の両陽剛はよく人を養う才徳が有るものとする。
したがって、時の勢いは、自然にこの両陽剛に属す。
これに対して、六五の君の爻は、中を得ているとしても、陰柔なので威福は薄い。
しかも、その君徳を輔弼するべきところのニと四との両大臣も共に陰弱なので、その任に堪えられず、共に初九の陽剛に比し応じ、頼ってしまう。
その結果六五の君は、陰弱孤立となり、その勢いはく、その志も確かなものではなく、ややもすれば変動する恐れが有る。
もしこの時に、君の志がひとたび変動するときには、忽ち君の位を喪うことも憂慮される。
とすれば、一に貞常の道を守って、固く動かないことが良策である。
しかし、幸いにも、六五の君は上九の賢者が比爻である。
専らこの上九に順がい降って、以って常を守って動かなければ、これは吉の道である。
だから、貞に居れば吉なり、という。
また、六五は上卦艮の止まるの卦の一体中に居るので、止まることに執着し、思い切って進み行くようなことは不可能である。
このような心構えでは、大きな川を渡るのは無理である。
だから、大川を渉る不可、という。

かつて、東京の隅田川は大川(おおかわ)とも呼ばれたが、ここで言う大川は、黄河のようなとんでもない大きな川のことである。
古代には、そんな黄河のような大きな川を渡るのは、一大決心がいることだった。
橋もなければ、船も転覆の恐れがある。
したがって、易ではよく、大事業の比喩として、大川を渉る、という言葉が使われる。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、由頤、吉、利渉大川、

上九(じょうきゅう)、由(よ)って頤(やしな)わる、(あや)うけれども吉(きち)なり、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、

この卦はニ奇四偶にして、初九と上九の両爻が陽明実富を以って、中爻の四陰柔貧虚の者を養う様子である。
ニ奇四偶というのは、ニ陽四陰ということを言い換えたもので、奇は奇数、偶は偶数のことであり、陽は奇数、陰は偶数ということから、そう言うのである。
さて、初上両陽剛の中でも、下に居る者は養いを致すにも自然にその力を為し難く、上に在る者はその勢いでよく人を養うことを為すものである。
これは、その位と虚と勢いとの定理必然である。
したがって、衆陰はみなこの上九に由って養われることになるのである。
だから、由って頤わる、という。
この上九は成卦の主であり、爻に在っては上九が人を養う主である。
由の字は、成卦の主爻の辞に使われる字である。
雷地予の九四の由予と同様である。
上九は遍く人を養うので、その任は重く、その責は深い。
任が重く、責が深いのは、危険なことでもある。
しかし、人を養う大道大義であるので、終りには吉となることを得るものである。
だから、けれども吉なり、という。
また、六五の爻は、艮の止まるの卦の体中に居て、進むことができなかったので、大川を渉る不可、とあったわけだが、今この上爻に至っては、艮の塞がりも忽ちに変じて、開通するときである。
だから、大川を渉るに利ろし、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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山天大畜 爻辞

26 山天大畜 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、有、利已、

初九(しょきゅう)、(あやう)きこと有(あ)り、已(や)むに利(よ)ろし、

初九は陽剛にして乾の進むの卦中に居り、なおかつ不中なるを以って、進むことに専らな爻とする。
しかし今、大畜の時にして、六四の宰相が上卦に在ってこの初九に害応して、厳しくこれを畜(とど)め止める。
初九が強いてこれを冒し進む時には、下として上を凌ぎ、庶人にして宰相を犯すの義にして、甚だ危ない道である。
したがって、始めより止まり已(や)めるに越したことはない。
少しでも触れ犯す時には、忽ち必ず殃(わざわ)いに遇う。
だから、きこと有り、已むるに利ろし、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、輿説輹、

九二(きゅうじ)、輿(くるま)輹(とこしばり)を説(と)く、

輿(こし)とは車のことで、進み行く義に喩えたのである。
輹(とこしばり)とは、人が乗る部分と車輪とを結びつける部分である。
輹を解き外すと、人が乗ってもその車は動かないので、進み行く用を為さない。
今、九二は陽剛にして乾進の卦の一体の中に居るので、進み行こうと欲する。
これは卦爻の性情にして、これを以って輿が進み行くに喩えているのである。
しかし、もとより六五の爻は、陰柔にして六四宰相と志を合わせて、天下の冒し進む者を制し止めようとしている。
しかも、九二は六五の応の位なので、これに害応して、強く止めようとしている。
例えば、輿の輹を解き外して、その輿が動かないようにするが如くである。
九二は剛中の才徳が有る上に、臣の位に居るので、よく国家の法規条令は暗誦していて、君よりの厳命を慎み守る者である。
したがって、自ら速やかに輿の輹を解き去って、車の用を為さないようにするのである。
だから、輿輹を説く、という。

なお、初九は六四宰相に止められるので、きこと有り、と緩やかに言い、この九二は六五の君上に制止されるので、輹を説く、と厳しく言う。
これは、初は庶人にして宰相に止められ、ニは臣下にして君上に止められるからであって、その軽重緩急に違いがあって、しかるべきなのである。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、良馬逐逐、利艱貞、曰閑輿衞、利有攸往、

九三(きゅうさん)、良馬(りょうば)をもって逐(お)い逐(お)う、艱(くる)しんで貞(ただ)しきに利(よ)ろし、曰(ここ)に輿衞(しゃえい)に閑(なら)えば、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

九三は陽剛にして乾の進むの卦の極に居る。
これは進むに専らにして鋭い者である。
さて、九三の応爻は上九である。
上九は、卦においては艮の止めるの主爻にして畜め止めることの主という象ではあるが、爻象の実について観るときには、上九は陽剛の性質であることから、自己も進み動こうとする者である。
したがって上九は、九三が進むのを制し止めることはせず、九三よりも早く前に進もうと動くのであって、九三の爻はその上九の後ろから良馬を以って逐い逐うことになる。
だから、良馬をもって逐い逐う、という。
最初の逐の字は、上九が前に進み行くことを示し、後の逐の字は、九三が後ろから追い行くことを示している。
このように、九三の前には止める者がいないので、このままでは、進み行くことが鋭い。
しかし今は、大畜の時である。
追いつ追われつして先を急ぐことは興奮するものだが、それは慎むべきである。
だから、艱しんで貞しきに利ろし、という。
輿が進み行くときは、妄りには進ませず、輿衞(御者)が静々と動かす。
言うなれば、大事なお客様を乗せているハイヤーの運転手である。
そういうハイヤーの運転手のように進めば、その過ちを免れるのである。
だから、曰に輿衞に閑えば、往く攸有るに利ろし、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六四、童牛之牿、元吉、

六四(りくし)、童牛(どうぎゅう)之(の)牿(さえ)なり、元吉(げんきち)なり、

童牛とは弱い牛のことにして、初九の爻を指している。
牿(さえ)とは、牛が角触れするのを制し止める道具にして、六四の爻を指して喩えている。
角触れとは、角を振り回して暴れることを言う。
童牛は、血気が未だ定まらないので角触れすることを好む。
今、初九の童牛は、騒ぎ進んで角触れしようとするが、六四陰爻に害応されて、牿を以ってこれを制し止められる。
だから、童牛之牿なり、という。
そもそも、下民の剛(つよ)く猛(たけ)くして悪を為し罪を犯すことは、童牛が好んで角触れしようとするのと同類である。
これは、六四宰相が、民が悪を為さないようにすることの喩えであって、大善の吉である。
だから、元吉なり、という。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六五、豶豕之牙、吉、

六五(りくご)、豶豕(ふんし)之(の)牙(が)なり、吉(きち)なり、

豕(いのこ=猪子)の中で、特に勝れて強く騒がしい者を豶豕と言う。
牙と言うのは、その強く騒がしい豶豕を畜(やしな)い治める器具である。
これは宋の陸佃という人の解釈だが、もうひとつ、勢を制すること、とする解釈もある。
こちらは程氏の伝であるが、この、勢を制することなり、という説は、不仁不情の義にして、この辞を書いた周公旦が用いるはずのない妄説ではないだろうか?
そこで、中州は、前者陸佃の解釈を取って説明する。

さて、豶豕とは九二の爻を指し、牙とは六五の爻を指している。
九二の豶豕は、健やかにして強く、妄りに騒ぎ進もうとする。
このときに、六五はこれに害応して、その牙となり、これを制し止める。
だから、豶豕の牙なり、という。
これは、六五の君が、臣民中の豶豕の如き健強にして妄りに騒ぎ進もうとする者を制し止めて、悪を為さないようにする義であり、そうすることこそ吉である。
だから、吉なり、という。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上九、行天之衢、亨、

上九(じょうきゅう)、天(てん)之(の)衢(ちまた)を行(ゆ)く、亨(とお)る、

天の衢とは、天路といったことである。
この爻は大畜の卦の終りにして、畜(とど)め止めるという義も、既に尽きている。
だから、縦横無碍にして、阻み隔てるものは何もない。
これは鳥が空中を飛び行き、雲路を翔けるが如く、少しも支障なく自由自在に、どこへでも行け、何事も為し遂げられ、亨通するときである。
だから、天之衢を行く、亨る、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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天雷无妄 爻辞

25 天雷无妄 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、无妄、往吉、

初九(しょきゅう)、无妄(むぼう)なれば、往(な)すこと吉(きち)なり、

初九は成卦の主爻にして剛正の徳を得ているので、妄(みだ)らなところのない者である。
これは実に无妄の主爻として相応しい者である。
このように、真実に无妄である者は、公正にしてその天性を乱すことはなく、何をするにしても天の道を以ってする。
したがって、どこに往き、何事を為すにしても、吉となるのである。
だから、无妄なれば、往すこと吉なり、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、不耕穫、不菑*畭、則利有攸往、
*畭は、正しくは余の下に田と書くのだが、JISにもユニコードにもないので、*畭で代用しておく。

六二(りくじ)、耕穫(こうかく)するに不(心あらず)、菑*畭(しよ)するに不(心あらざ)れば、則(すなわ)ち往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

耕穫は、耕し収穫すること。
菑(し)は休耕田、*畭(よ)は耕し始めて二年目の田=最も収穫が上がるときの田のこと。

さて、この爻の辞にある「不」の字は、無心という意である。
これは、この卦が无妄を意味するからである。
今、この六二は中正の徳を得て、初九の剛正の无妄の成卦の主爻と剛柔正しく比している。
これは、実に公正にして、无妄=みだらなところのない者である。
みだらなところがない、というのは、無心、無欲といったことである。
したがって、農業をするときも、公正で無心に耕穫するので、耕穫の結果として得られる利益については、始めから気にしない。
休耕田を復活させるにしても、耕して二年目の田を続けて使うにしても、それぞれの利益を予測したりはせず、淡々と作業をする。
だから、耕穫するに不(心あらず)、菑*畭するに不(心あらざ)れば、という。
これを人事について言うときは、何事をするにしても、天性公正自然にして、やるべきことをきちんとやるが、その結果がどうであろうと気にしないのであって、これこそ実に无妄と言うべき者である。
その无妄であることを以って物事を為すときは、自然と天性に適中しているものなので、どこへ往き何をしようと、何ら問題はないのである。
だから、則ち往く攸有るに利ろし、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、无妄之災、或繋之牛、行人之得、邑人之災、

六三(りくさん)、无妄(むぼう)の災(わざわ)いあり、或(ある人)牛(うし)を繋(つな)げり、行人(こうじん)の得(う)るは、邑人(ゆうじん)の災(わざわ)いなり、

およそ人が災害に遭うことは、すべて妄意妄行なるより起こるものであり、これは当然の定理にして、免れないことである。
しかし自らは无妄を心がけているからと安心してしまうのも、いささか早急である。
自らは无妄であっても、災いに遭うこともある。
これは天運の巡り合わせといったもので、偶然有ることである。
これが、无妄の災い、というものである。
今、この六三の爻は、陰柔不才、不正不中なので、この災いに罹ることが有るのである。
だから、无妄の災いあり、という。
例えば、ある人が来て、道端にある杭に牛を繋ぎ止めて、ちょっとその場を離れた。
すると、たまたま通りかかった別の行人=旅人が、その牛を杭から外して盗んでどこかへ連れて行ってしまった。
しばらくすると、牛を繋いだ人が戻って来て、牛がいないのに気付き、その邑(村)の人が盗んだのだろうと、邑人に濡れ衣を着せた。
牛を盗まれた人にとっても災難ではあるが、安易に牛から離れた自分の不注意もあることなので、自業自得だとも言えよう。
しかし、濡れ衣を着せられた邑人にしてみれば、何ら予測不可能なとんでもない災難である。
この邑人の受けた災難が、无妄の災い、である。


上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四、可貞、无咎、

九四(きゅうし)、貞(ただ)しくす可(べ)し、咎(とが)无(な)し、

九四の爻は陽爻であり、上卦乾の進むの卦の一体中に居るが、不中不正である。
したがって、妄りに騒ぎ動こうとしやすいので、これを惧れ戒める。
だから、貞しく可し、という。
一に貞正の道を守り、騒ぎ動いて无妄の時を犯すようなことがなければ、咎もないものである。
だから、咎无し、という。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、无妄之疾、勿薬、有喜、

九五(きゅうご)、无妄(むぼう)にして疾(や)むことあり、薬(くすり)すること勿(なか)れ、喜(よろこび)有(あ)らん、

疾とは疾病のことにして、言わば災いということと同義である。
それをことさらに疾と言うのは、疾は癒えることが有ると教えるためである。
たとえば、一旦は无妄の災いが有っても、自然に消滅する、ということを知らせているのである。
そもそも九五は、中正なので、もとより无妄なるとろこの者である。
しかし、時には災難に出遇うことも有る。
これは无妄の災いにして、自ら引き起したわけではない。
例えば、堯(ぎょう)の代に七年の洪水が有り、殷(いん)の湯(とう)王のときに三年の旱魃が有り、周(しゅう)の文(ぶん)王が殷の紂(ちゅう)王により羑里(ゆうり)に囚われたことなどが、これに当たろう。
このような時には、あたふたと策を労するのではなく、一に正しきを守り、順受するのを道とするべきである。
病気ならば、あれこれ薬を飲むよりも、黙って寝ていればそのうち治る、といったところである。
だから、无妄にして疾むことあり、薬すること勿れ、喜び有らん、という。
これは疾と言って癒えるという字を省き、喜と言って憂うるという字を省いているのである。
したがって、詳細に言うのであれば、无妄にして疾むこと有りて憂はしけれども、妄りに薬すること勿るべし、自然に癒えて喜ぶこと有らん、ということである。
これを互文省略法という。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、无妄行、有眚、无攸利、

上九(じょうきゅう)、无妄(むぼう)のときに行(おこな)えば、眚(わざわ)い有(あ)り、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

上九の爻は无妄の時にして无妄の極に居る。
これは公正にして徳を修めるべき者である。
しかし、不中不正にして乾の進むの卦の極に居るので、妄りに動き進んで无妄の時を犯し、貞節の戒めに背き、正しくない咎を履む。
したがって、自ら災難を招くのである。
だから、无妄のときに行えば、眚い有り、という。
これは凶害の甚だしいことであり、戒めないといけない。
だから、利ろしき攸无し、という。


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地雷復 爻辞

24 地雷復 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、不遠復、无祇悔、元吉、

初九(しょきゅう)、遠(とお)からずして復(かえ)り、悔(くい)に祇(いた)ること无(な)し、元吉(げんきち)なり、

この卦は乾の初九の一陽剛が、坤の群陰の中から忽ち元の位に復るという義なので、六爻共に道に復ることの得失を以って辞が付けられ、教え戒めを示している。
初九は復の卦の最初なので、道に復る始めにして、速やかな者とする。
なおかつ陽明剛正なので、ひとたび過ちが有ったとしても、速やかに改めて道に復る者である。
だから、遠からずして復り、という。
遠からず、というのは、深からず、といった意味であり、一旦は過ちが有っても、道を去ってもすぐそばで迷っている程度なので、改心して道に復り戻るのも速やかなのである。
およそ人というものは、聖人でない限り、過失のひとつやふたつは必ず有るものである。
その過失があったとき、速やかに気付いて改めるのが賢いのであって、そうしていれば、大した問題もないものである。
それが、しばしば過ち、あるいは、過ったらなかなか改めないときは、大きな問題に発展したりして、後悔することにもなるのである。
今、この初九の爻は、過ちを繰り返さず、速やかに道に復るので、後悔するようなことにはならないで済むのである。
だから、悔に祇ること无し、という。
祇の字は至るという意である。
過ちがあっても速やかに道に復るから悔に至らないのであって、これこそ大善の吉の道である。
だから、元吉なり、という。

ところで、ここでは、悔无し、ではなく、悔に祇ること无し、と、いささかまどろっこしい言い方になっている。
これは、悔无し、が、最初から過ちのないことの義だからである。
過ちを犯したからこそ、悔いに至るか至らないかが問題になるのである。
要するに、悔に祇ること无し、は、一旦は道を履み違えて咎も有るけど、改めて正しい道に復るので、悔いに至ることはないのである。
過ったままならば問題だが、道に復るので、大なる咎には至らないのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、休復、吉、

六二(りくじ)、復(かえ)ることを休(よ)くす、吉(きち)なり、

休とは善良の義にして、称美の辞である。
六二の爻は中正を得て、初九成卦の主爻とは陰陽正しく比している。
これは道に復ることを善(よ)くする者である。
だから、復ることを休くす、吉なり、という。

なお、初九は単に正を得ているだけなのに元吉という辞があるのに対し、この六二は中正を得ている爻なのに、却って吉とだけある。
これは、両者に次のような違いからである。
初九は成卦の主にして卦中の唯一の陽の剛明なる爻であって、道に復ることの最初の者である。
六二は中正を得てはいるが陰柔にしてなおかつ成卦の主でもなく、道に復ることもまた初九の次である。
だから、初九には元吉とあり、六二には単に吉とだけあるのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、頻復、无咎、

六三(りくさん)、頻(しばしば)復(かえ)る、(あやう)けれども咎(とが)无(な)し、

六三は陰柔不才不中不正なので、しばしば道を履み違えて過失を生じる。
しかし、今は復のときであり、性善の徳が尽き亡びたわけでもないので、しばしばその過失を悔いて道に復る。
だから、頻復る、という。
しかし、しばしば過ちを犯すのは危険である。
としても、性善の徳を失わず、しばしばその過ちを悔いて道に復るので、咎は免れる。
だから、けれども咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六四、中行独復、

六四(りくし)、中行(ちゅうこう)にして独(ひと)り復(かえ)る、

六四はニ爻から上爻までの五陰爻の中の、丁度真ん中の爻にして、ひとり初九成卦の主爻に正しく応じている。
したがって六四は、五陰の中に混じって居ても、他者に流されず、柔正を得て、よくひとり道に復る者である。
だから、中行にして独り復る、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六五、敦復、无悔、

六五(りくご)、復(かえ)るに敦(あつ)し、悔(くい)无(な)し、

敦とは篤厚の義である。
今、復の卦の道に復る時に当たって、六五は柔中の徳が有り、君の位に居る。
これは、道に復ることの篤い君である。
だから、復るに敦し、という。
このようであれば、民を懐柔して国を治めるにおいて、悔が有ることはないものである。
だから、悔无し、という。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上六、迷復、凶、有災眚、用行師、終有大敗以其国君、凶、至于十年不克征、

上六(じょうりく)、復(かえ)るに迷(まよ)えり、凶(きょう)なり、災眚(さいせい)有(あ)らん、用(もち)いて師(いくさ)を行(や)らば、終(おわ)りに大敗(たいはい)有(あ)りて其(そ)の国君(こくくん)に以(およ)ばん、凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)に至(いた)るとも征(せい)すること克(あた)わじ、

この卦は道に復るということから卦名が付けられたのであって、六爻ともにその復ることの遅速得失を以って象義を為している。
このうちの初九は、陽明剛正にして卦の初めに居るので、道に復ることが至って速やかな者であって、このようであるのなら、仁と称され、道と誉められよう。
一方、この上六は、陰暗柔弱にして卦の終りに居るので、道に復ることが至って遅く迷い、遂にはその身を終わるまでも復ることを知らない者とである。
このように初九と上六とは、反対にして、初九は復ることの速やかなることを以って元吉とし、上九は復ることが遅いことを以って、凶とする。
もとより上六は、始めより終りまで、道も仁も知らないのであって、暗い中に始まり、迷いの中に終わる者である。
少しでも仁や道を知っていれば、このような状態を悔い改めようとの念も有るところだが、情欲の海に沈み、暗昧の中を迷い行き、道も義も知らずに生涯を終わる者である。
だから、復るに迷えり、凶なり、という。
そして、爻辞のこれより下の部分は、この、復るに迷えり、の結末を書いているのである。

およそ凶害が来ることは、その形状は種々あるとしても、道を失ってのことより大なるはない。
その道を失う者には、天の災いと人の眚が並び至るものである。
だから、災眚有らん、という。
眚とは自らが原因となって引き起こす災難のことである。

さて、戦争を行うときの道は、公の道を以って私情なるを征し、大義を以って不義なるを伐し、順を以って逆を討ち、正しきを以って邪を誅することである。
このようであるのなら、天も順(した)がい人も順がうので、令も行われて衆人も服し従う。
その結果として、よく暴を除き、残を撥(はら)い、敵に克ち、乱を治めることを得るものである。
今、この上六は、大にこれに反している。
まず、自己はすでに道を失い、陰柔暗昧の志行にして、却って無道不義の軍隊を興そうとしている。
これは天に逆らい人に背いているのである。
このようなときには、令も行われず、人民も服せず、その軍隊は必ず大に敗退するものである。
その敗退は、徒に軍隊を喪うのみではない。
必ずやその国君の位にも及ぶものである。
だから、用いて師を行らば、大敗有りて其の国君に以ばん、凶なり、という。
国君とは、その君の国と自身とを共に指すのであって、国を喪い宗廟社稷をも滅するこを戒めているのである。
そのような戦争なのだから、何年費やしても勝てるわけがない。
だから、十年に至るとも征すること克わじ、という。
十とは極数の名にして、日を積み年を重ねて十年の久しきに至るとも、終りに軍功を成し得ることはできない、ということである。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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山地剥 爻辞

23 山地剥 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、剥牀以足蔑、貞凶、

初六(しょりく)、牀(しょう)を剥(はく)するに足(あし)より蔑(ほろ)ぼす、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、

牀とは、座ったり寝たりして寛ぐための台であって、要するにベッドみたいなものである。
初六は剥の始めなれば、これは小人が君子を剥し削るの初めである。
もとより君子なる者は、尊貴なので牀の上に居るものである。
初六の小人はその牀の下に侍り居て、密かにその牀の足より剥し落とそうとするの象がある。
だから君子に警め諭して、牀を剥するに足より蔑ぼす、という。
そももそ小人が君子を害そうとするのは、その策謀が実に奇妙不測にして、君子に気付かれないように忍び寄るものである。
例えば牀の上にいる君子を害するのに、まずは密かにその牀の足よりするがごとくである。
このようなことは、深く恐れて慎み防ぐことが大事である。
君子は幾を見て行動することを尚ぶものであっり、このような危険な時に当たっては、貞固に常経に執着し、旧格先例に固執するのは凶の道である。
臨機応変に小人の害を避けなければいけない。
だから、貞くすれば凶なり、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、剥牀以辨蔑、貞凶、

六二(りくじ)、牀(しょう)を剥(はく)するに辨(べん)より蔑(ほろ)ぼす、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、

六二もまた初六と同じく陰邪の小人にして、牀の上の君子を害そうと謀る者である。
六二は初よりも一級進み上がっているので、これはやや害が君子に近づくという義である。
だから、牀を剥するに辨より蔑ぼす、貞くすれば凶なり、という。
貞凶の義は初六に同じ。
辨とは牀の足の上、寝座する台の上と、台の下を分ける部分のことである。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、剥之无咎、

六三(りくさん)、之(これ)を剥(はく)するごとくなれども咎(とが)无(な)し、

この卦は五陰爻を以って一陽爻を剥し尽くそうとする象にして、言うなれば、五人の小人が徒党を組んで一人の君子を殺害しようと計画しているときである。
その中に在って、この六三の爻は、上九の応の位なので、直ちに進み往き、上九に害応して、これを剥し落とそうとする爻である。
これは上九の君子の危急切迫の時である。
しかし、幸いに六三の爻は、表面的には衆陰の小人と同じく、上九を害するがごとくの態度を示すが、内心は密かに上九に正しく応じて、これを補佐し守護する者である。
要するに六三は、表向き姦邪の衆陰に与しつつも、密かに上九の君子を助けるのである。
だから、之を剥するごとくなれども咎无し、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六四、剥牀、以膚、凶、

六四(りくし)、牀(しょう)を剥(はく)すること、膚(はだ)に以(およ)ぶ、凶(きょう)なり、

爻の次第を以って言えば、初は牀の足、ニは牀の辨、三は牀の本体、四は牀の上の人の身体にして、陰柔の皮膚とする。
だから、牀を剥すること、膚に以ぶ、凶なり、という。
以の字は、ここでは「およぶ」という意である。
これは、君子の身に傷害が迫っていることを示す。
したがって、凶であることは必然である。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六五、貫魚、以宮人寵、无不利、

六五(りくご)、魚(うお)を貫(つらぬ)くがごとし、宮人(きゅうじん)を以(つれ)て寵(ちょう)せらる、利(よ)ろしからざる无(な)し、

魚とは陰物にして五陰爻に喩えている。
これを貫く者は上九の一陽爻である。
これは、五陰の小人を一陽の君子が統べ御するという義に喩えたのである。
だから、魚を貫くがごとし、という。
卑賤の小人は必ず君子に承け仕えるべきだ、ということを教え示しているのである。
宮人とは、衆陰爻を指して言うのであって、六五の爻は衆陰の上に在って、陰柔にして尊位に居るので、これを后妃の象とする。
要するに、六五の后妃が衆陰の宮女を率いて上九の君に寵愛される象である。
だから、宮人を以て寵せらる、利ろしからざる无し、という。
宮人とは内宮の女官である。

なお、諸卦にては、五を以って天子の位とするが、この卦だけは上九を以って天子君上とする。
陰は卑しく陽は尊い、陰を小人とし、陽を君子とする。
この卦は上九の一陽剛のみ尊貴にして上に居て、なおかつ成卦の主爻となっている。
そこで、上九を天子に配し、君の位とするのである。
また、この卦の象は、実に衆陰が長じて上り、上九を害そうとしているのである。
ことに、この六五の爻は、上九に隣接して比している。
これは害比を以って、直ちに上九を剥し尽くそうとする一団の魁首たる者である。
しかし、小人が徒党を組んで君子を害し、姦臣増長して君上を弑殺するなどというのは、忌み憎むべきことである。
そこでその義を転じて別象を挙げ、深く警める目的で、小人ならば、魚のように君子に貫かれ順い、宮人のように天子に奉侍するべきだ、と、教えているのである。
これは六五の爻のみならず、六三も卦爻の実を以って言えば同様である。
六三は上九に害応して、これを剥し尽くそうとする者だが、小人が君子を害するのは忌み憎むべきことなので、義を転じて君子を助け応じるものとしているのである。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上九、碩果不食、君子得輿、小人剥廬、

上九(じょうきゅう)、碩(おお)いなる果(このみ)食(くら)いやすからず、君子(くんし)は輿(くるま)を得(え)、小人(しょうじん)は廬(いおり)を剥(はく)すべし、

上九の一陽剛君上の爻に、碩大の徳が有ることを大いなる果実に喩えているのである。
もとよりこの一陽剛は、天下衆陰が群がり集まって剥し落とそうと画策しているのであって、その各陰は、それぞれ共にこれを食わんと舌打ちして狙っているのである。
としても、上九は高く卦の極に在るので、陰短の小人の企ては及び難く、おいそれとは食らえないのである。
だから、碩いなる果食いやすからず、という。
さて、その食らいやすくない原因としては、次のようなこともある。
まず、天の道を以って言えば、衆陽を剥し尽くして、陰のみが存在するべきだという義があるわけではない。
人事を以って言えば、君子が亡び尽くして、小人のみが存在する理があるわけでもない。
上に剥し尽きれば、必ず下に始まる。
草木が上に黄ばみ落ちれば、必ず次には、下に萌芽するのと同様である。
「序卦伝」に、
「物以って尽きるに終わるべからず、上に窮すれば下に反(かえ)る、故に之を受くるに復を以ってす」
とあるのは、このことである。
したがって、君子はこの時に当たって、一旦は剥されたとしても、やがて自然に天地神明の護祐を得て、期せざるところの輿を得るような天幸の福祐が有るものなのである。
対する小人は、陰悪増長の報いにて、却って自己の住居を剥され奪われるような災害苦罰を受けるべきなのである。
だから、君子は輿を得、小人は廬を剥すべし、という。


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山火賁 爻辞

22 山火賁 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○

初九、賁其趾、舍車而徒、

初九(しょきゅう)、其(そ)の趾(あし)を賁(かざ)る、車(くるま)を舍(すて)て徒(かち)よりす、

この卦は賁という象義なので、六爻ともに飾ることを言う。
その飾ることの中でも、自然の飾りを尚び、人為的な飾りを賤しいとし、身を飾ることに眉を顰め、徳を飾ることを好ましいとする。
今、初九は最下に居いるが、ここは足の位である。
だから、その足の徳を飾ることが大事だとして、其の趾を賁る、という。
足の徳を飾るというのは、車に乗らず、歩くことである。
だから、車を舍て徒よりす、という。
どこかへ移動するとき、車に乗ってふんぞり返っているのではなく、汗を流して歩くことが大事だ、ということである。
それが虚飾を排除し、自然の天徳を飾ることである。

なお、この車というのは、馬車や輿などの乗り物全般を指す。
現代で言えば自転車、自動車、電車なども含めて考えるべきだろう。

余談だが、歩くのは最も手軽で効果的なダイエットや健康法だと言われている。
車にばかり乗っていると、どんなに着飾っていても体型が・・・。
スリムであれば、着飾らなくても美しいものだ。
だから賁の卦の始まり、飾ることの第一は歩くことなのだとも言えよう。
私はかつて、この卦この爻の意義を思い起こし、ウォーキング・ダイエットをしたことがある。
1日10km約2時間を、週に5日程度歩いて、1ヶ月で約5kmの減量に成功した。
その後は折に触れてウォーキングを楽しんでいる。
歩いてみると、ダイエットや健康効果以外に、日常生活がいかに文明に毒されたものであるかを感じた。
地球温暖化が叫ばれて久しいが、要するに虚飾の中で右往左往しているのが、現代社会のように思えた・・・。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━

六二、賁其須、

六二(りくじ)、其(そ)の須(ひげ)に賁(かざ)る、

この卦は、三爻より上爻までで、頤口の象がある。
この六二は陰爻にして、その頤口の下に在る。
陰柔にして頤口の下に在るのはアゴヒゲである。
だから、其の須を賁る、という。
昔はヒゲのことを須と書いた。
もとよりヒゲは、人面の飾りにして自然のものである。
したがって、自然の飾りを尚ぶ様子である。
六二は陰柔にして中正を得ている。
なおかつ九三の陽爻に比している。
九三が動けば共に動き、九三が止れば共に止る。
アゴヒゲは頤口の動きと共に動き止るものである。
これは柔順にして人に順う義を以って飾りとすることを示しているのである。

さて、初九と六ニは、ともに吉凶の言葉がない。
しかし、初九は正を得ているし、六二は中正を得ている。
とすると、これは共に吉であると言える。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━

九三、賁如、繻如、永貞吉、

九三(きゅうさん)、賁如(ひじょ)たり、繻如(じゅじょ)たり、永(なが)く貞(つね)あれば吉(きち)なり、

賁如は卦名の義にして飾ることを極めようとする様子、繻如は色彩が鮮やかで絢爛豪華な様子である。
九三は過剛不中にして内卦の極に居るので、この賁の時に遇い、内卦離の賁りに過ぎて、その質を喪う意のある爻である。
だから、賁如たり、繻如たり、という。
これは、虚飾に過ぎ、質直の天徳を失いそうになっている様子である。
だから、深く戒めて、永く貞あれば吉なり、という。
これは、貞常の道を守れという戒めである。
ここで言う吉とは、何か得ることが有るということではなく、その虚飾の咎を免れることを言っているに過ぎない。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

六四、賁如、皤如、白馬翰如、匪寇婚媾、

六四(りくし)、賁如(ひじょ)たり、皤如(はじょ)たり、白馬(はくば)の翰如(かんじょ)たり、寇(あだ)するに匪(あら)ず婚媾(こんこう)せんとす、

皤は白色質素の義である。
翰は鳥の翼のことにして、飛ぶような速さの喩えである。
六四は陰爻なので、その象を女子に取る。
もとより六四は柔正を得ているので、貞正な女子である。
今は賁の飾るの卦の時なので、婦女の性情は妖艶華靡の美飾を好むのが普通である。
しかし、六四は柔正貞実なので、そういった風潮に流されず、その装飾も白色自然の色を好み用い、妖艶さを求めない。
だから、賁如たり、皤如たり、という。
白馬というのも、また質素の色を称美しているのであって、なおかつ馬はその往くことの速いことの義でもある。
六四の正応の夫は初九である。
その正応の方へ早く応じ往きたいと欲する哀情は、翼があれば飛んでも往きたく、馬に乗って駆けても行きたいほどに、切なるものがある。
思い慕うことの貞節の切なる情である。
だから、これを喩えて、白馬の翰如たり、という。
しかし、この時に当たり、近隣の九三の陽爻の男子が、この六四の比爻であるを以って、婚媾を求めようとして来る。
婚媾とは、正式な結婚に限定せず、単に男女の交わりを言う。
六四は正を得ているので、この九三の求めを、実に寇仇の如くに憎み嫌う。
としても、九三は、寇を為すのではなく、単に婚媾を求めているに過ぎない。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
匪寇婚媾というのは、水雷屯の六二、火沢睽の上九にもある言葉だが、その義はみな同様である。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

六五、賁于邱園、束帛戔戔、吝終吉、

六五(りくご)、邱園(きゅうえん)に賁(かざ)る、束帛(そくはく)戔戔(せんせん)たり、吝(りん)なれども終(おわ)りには吉(きち)なり、

この卦は賁飾という象義なので、六爻どれもにその賁という字が入っている。
さて、この九五の爻の賁るという義は、装飾することではなく、専心一意にこれを勉めるの義である。
邱園とは、六五の君上が、鄙(ひな)びた貧しい地域の農林細民に意を注ぐことの喩えである。
束帛とは幣帛のことにして、賓客のもてなし品、群下へ恩賜恵与の物の類を言う。
戔戔は浅く少ないことの義にして、財用に倹約なことの喩えである。
今は、賁の華飾の時ではあるが、六五の君は陰爻である。
陰には不足ということから、倹約という意がある。
そこで、外見を飾るのではなく、陰爻の倹約とともに、柔中の徳を修め、その思いを貧しい地域の農林細民にまで及ぼし、その国の本を敦厚にする。
だから、邱園に賁る、という。
そして、その賓客へのもてなしや群下へ恩賜する物も、戔戔として軽少素薄なるを以って、人々はその吝嗇倹約なることを賤しめ笑う。
しかし、その驕りを極めず、虚飾に溺れない質実を尚び、国の本を敦くするので、終りには吉を得るのである。
だから、束帛戔戔たり、吝なれども終りには吉なり、という。
そもそも六五は、中の徳を得ているので、賁の時であっても、華飾に耽ることはなく、その陰柔であることを以って、倹約に過ごす。
その様子に、戔戔の謗(そし)りはあっても、そもそも礼は、奢るよりも寧ろ倹約なほうがよいのだから、終りには吉を得るのである。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━

上九、白賁、无咎、

上九(じょうきゅう)、白賁(はくひ)なれば、咎(とが)无(な)し、

この爻は賁の卦の極に居る。
としても、下に応爻があるわけでもないので、華飾の風に流されることなく、高く卦の極に艮(とど)まって、その志を高上にしているのである。
したがって、最早文飾の加わるところのない者とする。
白とは天性自然の素色にして、賁の至極なことを言う。
その自然の素色なるを以って飾るので、ほんの少しも文飾に過ぎるという咎はないのである。
だから、白賁なれば、咎无し、という。


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