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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

火雷噬嗑 爻辞

21 火雷噬嗑 爻辞

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、屨校滅趾、无咎、

初九(しょきゅう)、校(あしかせ)を屨(はかし)めて趾(あし)を滅(めっ)す、咎(とが)无(な)し、

校とは木で作った拘束具のことで、ここでは足枷を意味する。
趾を滅するとは、足を切断する刑罰である。
さて、この卦の六爻の辞の義は、上爻以外は刑を用い施す役人のこととして説明する。
そもそも刑とは、その罪状によって重さが変わるものであり、基本は公明正大の天意に則る国憲にして、ほんの僅かの偏私暗昧なことがあってはならない。
したがって、足を切ることが決まったら、そのとおり切るのである。
初爻は人体にたとえると足の位置なので、足に対する刑罰を言う。
だから、校を屨め趾を滅す、という。
今、初九の役人は、陽剛にして陽位に居り、正を得ているので、その罪と罰とが、納得できるものなのであって、罪人はその罪に心服する。
これは咎のない道である。
だから、咎无し、という。
ここで言う咎无しとは、訟えを聞き、その是非を判断して決める罪と罰が適正であるから、道において咎がないということである。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、噬膚、滅鼻无咎、

六二(りくじ)、膚(ふ)を噬(か)むがごとし、鼻(はな)を滅(めっ)すも咎(とが)无し、

元来この卦は、頤中(口の中)に一物が有る象なので、これを齧合(けつごう)するという義によって、噬嗑と名付けられたものである。
したがって、ニ爻から五爻までは、その頤中のこととして、噛み合せるという義を以って辞が付いていて、その噛むところの肉の剛柔堅軟にて、その爻の徳性象義を分別している。
膚とは柔軟にして骨もない切り肉のことであり、至って噛みやすいので、力を用いない喩えである。
六二もまた刑を用い施す役人である。
もとより六五は、柔順中正の徳を以って獄(うった)えを正し、刑を行うので、罪有る者がその罪に心服することは、膚肉を噛むがごとくに容易い。
だから、膚を噬むがごとし、という。
その上、六二は中正を得ているので、鼻を切り落とすといった軽い刑罰であっても、その刑と罰は適正である。
だから、鼻を滅すも咎无し、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、噬腊肉、遇毒、小吝无咎、

六三(りくさん)、腊肉(せきにく)を噬(か)み、毒(どく)に遇(あ)う、小(すこ)しく吝(りん)なれども、咎(とが)无(な)し、

六三の辞も、また獄えを聞く役人のことである。
ただし、六三は不中不正なので、刑罰を施すとき、おいそれとは罪人がその罪に心服しない。
これを服従させて観念させることが難しさは、堅い腊肉を噛むがごとくである。
そして、人の行儀心術の上にては、不中不正の志行より毒となるものは少ない。
今、この六三の爻は、その不中不正なのだから、その堅い腊肉を噛んで毒に当たるごとくの難儀をするのである。
だから、腊肉を噬み、毒に遇う、という。
刑を施す役人としては、罪人が観念せず、その罪を不服とするのは、恥辱である。
そのため、罪人を納得させるためにいろいろと苦労するのである。
しかし、その苦労の結果、漸くきちんとした罪状を得て、罪人は刑と罪が相当なものであることに観念するので、その任を遂げられ、咎はないのである。
だから、小しく吝なれども、咎无し、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四、噬乾胏、得金矢、利艱貞、吉、

九四(きゅうし)、乾胏(けんし)を噬(か)む、金矢(きんし)を得(え)たり、艱(くる)しんで貞(ただ)しきに利(よ)ろし、吉(きち)なり、

胏とは骨つきの干し肉のことである。
金とは剛堅の義と喩えである。
矢とは直であるという義の喩えである。
この九四の爻もまた、訟えを聞く役人である。
しかし、不中正なので、罪人の服し難きことに、乾胏の堅い肉を噛むがごとく苦労するのである。
だから、乾胏を噬む、という。
もとより獄えを聞くには、まず剛直であることが大事である。
役人が剛でなければ民は畏れず、直でなければ民は服さないものである。
九四は陽爻なので、剛直だと言える。
だから、金矢を得たり、という。
ただ、不中正ではある。
だから、その不中正を戒めて、艱しんで貞しきに利ろし、という。
最後の、吉なり、というのは、別に得ることが有るということではなく、苦労があっても貞しくしていれば、その職任を失わない、ということである。


上九━━━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六五、噬乾肉、得黄金、貞厲、无咎、

六五(りくご)、乾肉(けんにく)を噬(か)む、黄金(おうごん)を得(え)たり、貞(かた)くすれば厲(あやう)し、咎(とが)无(な)し、

乾肉とは、骨のない干し肉である。
黄とは中央の色にして、中の義を言う。
金は堅剛の義である。
六五は獄えを聞く君である。
としても、六五は中を得ているが、正を得ていないので、六二の中正を得て膚を噬むがごとくの容易さには及ばない。
しかし、四と三の不中不正の爻と比較すれば、容易である。
だから、膚よりは堅く、腊肉や乾胏よりは柔らかいということで、乾肉を噬む、という。
そもそも獄えを聞く者は、中の徳=黄が有って剛=金なるを尚ぶ。
今、六五は中の徳が有り、陽剛の位に居る。
だから、黄金を得たり、という。
もとより獄えを聞くの道は、民の情偽(真実と嘘)を尽くすに在る。
その両端を捨てて、その中を取るのがよい。
偏固なる時は、民の情偽を尽くすことはできず、厲い。
だから、貞くすれば厲し、という。
貞は固執の義である。
また、この爻は中にして、陰=柔だが、陽=剛の位に居るので、剛柔両面が同居している。
これは獄えを聞くにおいて、咎となるようなことがない様子である。
だから、咎无し、という。

さて、易の文の慣例では、金は剛堅の義なので陽剛の象に取るものである。
しかしこの爻は、陰柔でありながら、黄金という言葉がある。
これは、卦爻の徳と力との関係による。
まず、この爻は五の君位にして、至尊至貴の位なので、諸余の爻と比擬するべきではないのである。
なおかつ、五は陽位である。
したがって、その爻の徳と位とに就いて、金というのである。
また、この爻が変じれば、外卦は乾となる。
これらの義が有るので、金の象に取るのである。
ちなみに、火風鼎の六五も、陰柔でありながら金鉉とあるが、これも同義である。


上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、何校、滅耳、凶、

上九(じょうきゅう)、校(くびかせ)を何(にな)って、耳(みみ)を滅(めっ)せり、凶(きょう)なり、

校を何うとは、首に枷をつけることである。
耳を滅すとは、耳を切り取る刑である。
さて、六爻中で、ただこの上九の爻だけは、直ちに刑を受ける罪人とする。
上九は無位の地でありながら、小人にして高く卦の極に居るので、これを、上を侮り、法を犯す者とする。
それが、この刑を受ける理由である。
校を何って、耳を滅せり、というのは、象によるものであって、必ずしも罪の軽重を論じているのではない。
最上爻は頭の位置であって、頭部への刑罰と言えば、古代には耳を切り落とすのが一番ポピュラーなので、そう書いているに過ぎない。
およそ人の愚昧にして高く卦極に居て罪を犯し刑を受けるのは、凶である。
これが吉だというのは変態マゾくらいだろう(笑)
だから、校を何って、耳を滅っせり、凶なり、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会



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風地観 爻辞

20 風地観 爻辞

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、童観、小人无咎、君子吝、

初六(しょりく)、童観(どうかん)なり、小人(しょうじん)なれば咎(とが)无(な)し、君子(くんし)なれば吝(はずか)し、

この卦の全爻の辞には、必ず観の字が入っているが、それはそれぞれの爻の次第階級による見識の高低を指している。
初六は陰柔不才にして六爻の最下に居る。
したがってその見識の拙く劣ることは、たとえば童稚蒙昧な者が物を観るようなものである。
だから、童観なり、という。
およそ小人卑夫に見識がないことは、古今世間の普通のことであり、それだけでは咎めるに当たらない。
だから、小人なれば咎无し、という。
この小人とは、天位卑賤の凡下の衆人を言う。
しかし、君子たらんとする者で、その事物の義理において、小児童蒙のごとくに見識がないのであれば、それこそ卑しめ辱められる極である。
だから、君子なれば吝し、という。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、闚観、利女貞、

六二(りくじ)、闚観(きかん)す、女(おんな)の貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

闚観とは、のぞき見るという意である。
これは視ることの邪な者である。
六二は初六より一段上だとしても、その位はなお卑しいので、その見識もまた拙く卑しい。
したがって、陰柔であること、ニは妻の位置であることから、これを女子に取る。
およそ女子の性情は、正面から直視することを羞じ、上目遣いなどで、盗み視ることを好む。
だから、闚観す、という。
しかし女子だとしても、闚観は邪であって、正しい道ではない。
貞正静淑の女子は、視るときはきちんと直視し、直視できないときは敢えて視ないものである。
決して盗み視るような真似はしない。
だから、その闚観を不貞だと戒めて、女の貞しきに利ろし、という。
このように闚観は女子ですら戒めるべき行為なのだから、男子ならばなおさら卑下される。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、観我生、進退、

六三(りくさん)、我(わ)が生(せい)を観(み)て、進退(しんたい)すべし、

三はニよりもまた一段上なので、その見識もやや優れている。
初六は童子小児の如く、ニは婦女子の見識の如くだったが、それより一段上がったこの三は自己を知る見識がある。
しかし、なお未だ人を知ることはできない。
だから、我が生を観る、という。
これは、我が志と行いを観較べて、善ならば進み勉め、不善ならば退き止るだけの見識はある、ということである。
だから、進退すべし、という。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六四、観国之光、利用賓于王、

六四(りくし)、国(くに)之(の)光(ひかり)を観(み)る、王(おう)に賓(ひん)たるに用(もち)いるに利(よ)ろし、

この爻は六三よりもまた一段進み上がったわけだから、その見識もまた一段進んでいる。
したがって、人を観る見識が備わっているものとする。
だから、国之光を観る、という。
これは、他国に往き、その国の風俗を観て、その政教の善否を知ることである。
その国が治まっていれば、その徳化は必ず風俗に現れるものである。
これを観て、治乱を省み察するのである。
さて、六四は高く外卦に進んで、九五の君に近づいている。
これは賓客となって、王に見える象である。
だから、王に賓たるに用いるに利ろし、という。

なお、王に賓たるところの者は、諸侯であるが、四爻は通常執政宰相の位置とする。
しかし、その執政権臣の義を捨て、外藩諸侯の天子に賓客たる者としている。
それは、この卦が四陰の小人が頻りに勢い長じて、既に九五の君の爻も消し落とそうとするときを示すからであって、そのまま解釈すると、六四執政の臣は権勢盛んにして、九五の君を凌ぎ犯そうとしていることになるのである。
これは深く忌み重く憎むところである。
したがって、その義を転じて賓客とし、解釈しているのである。
賓客ならば君に近づいても、権軽く威薄いので、君主を凌ぎ犯すことはない。
また、宰相執政とするときには、威権の門となるので、必ず凌ぎ犯す畏れが有り、甚だしいときは弑逆に至ることも有る。
したがって権臣の義を捨て、賓客諸侯としているのである。
要するに、この六四の爻は、放っておけば忽ちに九五の君の爻を消し滅するところの臣なのであって、それを警戒し、婉曲に自重を促そうと、賓客としているのである。

余談だが、お馴染みの言葉に、観光というのがある。
これは、この「国之光を観る」から作られたものである。
現代では遊びの見物を観光というのが普通だが、本来的には真面目な、今で言う視察のことを指して観光と言ったのである。
そもそも、この「国之光を観る」には、遊び半分の見物気分はない。
今の観光は、かつて、明治時代あたりには遊覧と呼ばれていた。
当時は、今の観光旅行のことも、遊覧旅行などと呼ばれていた。
それがいつの頃からか、観光が遊びの見物を意味するようになった。
観光と言いつつ、遊んでいた役人が多かったからだろうか・・・。


上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五、観我生、君子无咎、

九五(きゅうご)、我(わ)が生(せい)を観(み)る、君子(くんし)なれば咎(とが)无(な)し、

五は四よりもまた一段上なので、その見識もまた優れている。
としても、元来九五は君位なので、諸余の爻とその階級の高下を比較するべきものではない。
だから、その義は用いずに、我が生を観る、という。
ただし、六三の我が生を観るとは、同文だがその義は異なり、この九五のは、人を以って自分を観ることである。
そもそも君となる者は、まず我が身の行跡をよく識ることを第一とする。
すべからく国家の安危治乱は、君上の行いによって決まるものである。
しかし、自分を以って自分を観ることは、至って難しい。
そこで億兆の上に在る君主は、自分の行跡をきちんと観るために、まずは天下の民の風俗を歴観しなければいけない。
天下の風俗が善良にして君子の風儀が顕然としていれば、これは自分の行跡が善である徴と知り、なおも日新の徳を修め積むことが大事となる。
もし、天下の風俗が不善であるのなら、これは自分の行跡が不善であることを知り、強く厳しく恐惧して、新たに改めなければならない。
だから、君子なれば咎无し、という。
天下の風俗が君子ではないときには、君上の責任は重く、大なる咎があるという義である。


上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上九、観其生、君子无咎、

上九(じょうきゅう)、其(そ)の生(せい)を観(み)る、君子(くんし)なれば咎(とが)无(な)し、

上九は剛明の才徳が有るので、高く観の卦の極に居て、古今の事実を歴観している。
これは、その見識が高大にして、真に王者の師範であることに堪える者である。
その上九の師範が、九五君上の行跡の是非を審らかに観ようと欲するのであれば、まず天下の民の風俗を観ることである。
天下の人民の風俗が、すべからく篤実君子の風俗ならば、君主の行跡は善良にして、師範としての自分の教導の道において、咎は無いと言える。
もし、天下の人民の風俗が篤実君子の風俗とはほど遠いものであるときは、師範としての自分の教導の道において、大なる咎が有ることを自覚しないといけない。
だから、其の生を観る、君子なれば咎无し、という。
其のというのは、九五の君主の爻を指して言う。


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地沢臨 爻辞

19 地沢臨 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○

初九、咸臨、貞吉、

初九(しょきゅう)、咸(かん)じて臨(のぞ)む、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

初九は六四と陰陽正しく応じている。
六四は上より初九に臨み、初九し下より六四を臨んでいる。
これは、初と四とが互いに感じ応じて相臨む様子である。
もとより六四は宰相執政の位に在って、柔正の徳が有る。
初九は正位を得て剛明の才が有る。
これは、在下の賢者である。
したがって六四の爻は、初九の才力が有るのに感じて、これに臨めば、初九の爻は、六四の富貴威勢ではなく、よく士に降る徳に感じて、これに望む。
だから、咸じて臨む、という。
このときに当たって、初九在下の賢者は、一に貞正の道義を以って進退し、国政を輔け行おうと欲するときには大吉の道である。
しかし、その意念に名利を貪り、逢迎足恭の情を抱き、六四の権門に媚び諂う心が有るときには、正しからずして大凶である。
だから、貞しくして吉なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━

九二、咸臨、吉无不利、

九二(きゅうじ)、咸(かん)じて臨(のぞ)む、吉(きち)にして利(よ)ろしからざること无(な)し、

九二は成卦の主爻にして臣の位に居る。
もとより剛中の才徳が有り、六五柔中の君とは陰陽正しく応じている。
これは、ニ五相咸じ君臣相互に臨むの義である。
だから、咸じて臨む、という。
さて、九二成卦の主爻として、臣位に当たって剛中の才徳を以って六五柔中の君には陰陽正しく応じて輔弼するわけだが、実に咸臨の誠忠至極な者であって、これは天命に順がっていることである。
だから、吉にして利ろしからざること无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━

六三、甘臨、无攸利、既憂之、无咎、

六三(りくさん)、甘(あま)んじて臨(のぞ)む、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、既(すで)に之(これ)を憂(うれ)えば、咎(とが)无(な)し、

五味には、しょっぱい、すっぱい、にがい、からい、あまい、とあるが、このうちのあまい味は誰しもが好み、にがい味は誰しもが眉を顰めるものである。
これを以って、古来、甘さは楽しみに喩え、にがいは苦いと書くように、苦しみに喩えている。
さて、この六三は陰柔不中不正なので、その志も行いも共に道を失い、ただ利欲燕楽をのみ臨む者である。
だから、甘んじて臨む、という。
そもそも飽食暖衣で逸居燕楽をのみ好み臨むのは禽獣と同じであって、君子の大いに恥じとするところである。
だから、利ろしき攸无し、という。
しかし、寧居逸楽を好み臨むのは、人の情の常である。
開き直らず、その非を知って早急にこれを憂い、悔い改め、過失が大きくならないうちに、速やかに志を改め、道に復るるべきである。
そうすれば咎も免れるものである。
だから、既に之を憂えば、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六四、至臨、无咎、

六四(りくし)、至(いた)って臨(のぞ)む、咎(とが)无(な)し、

至るとは、我より彼に至るということであって、親切の意である。
今、臨のときに当たって、六四の宰相執政の大臣は柔正を得ている。
これは、己のために謀ることならば咎有りの義だが、国家のために心身を労して謀ることならば、咎無きことを得る、ということである。
もとより六四は柔正を得た宰相なので、自分の才力不足をよく省み知って、その正応の在下初九の陽剛が賢徳なることを察し、これに下り、その情意親切にこれに至り臨み初九に請い求めて、以って六四自身が及び足りないところを補い助けてもらい、国政を補佐させるのである。
だから、至って臨む、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六五、知臨、大君之宜、吉、

六五(りくご)、知(つかさ)どって臨(のぞ)む、大君(たいくん)之(の)宜(ぎ)なり、吉(きち)なり、

今、臨のときに当たって、六五の君は柔中の徳が有り、九二の賢臣に陰陽正しく応じている。
したがって、六五の君上は、よく国政に親しく臨み、よく賢臣を知ってこれを貴び重んじ委ね任せ、また、天下万民に臨むには柔中の仁徳を以ってする。
これは、よく四海を統べ治め、知(つかさ)どり臨む君と称すべきである。
だから、知どって臨む、という。
このような君上は、実に君としての道において、誠に理に適っていると称えられるものである。
だから、大君之宜なり、吉なり、という。
大君とは、君徳の大なるを褒め称えた言葉である。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

上六、敦臨、吉、无咎、

上六(じょうりく)、敦(あつ)く臨(のぞ)めり、吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、

この爻は臨の至極に在る。
これは臨むことの至極にして、敦い義である。
敦いとは熱心なことである。
だから、敦く臨めり、という。
そもそも道は臨むことが至って敦いことを要する。
適当に臨むだけならば、成功することは難しい。
しかし、敦く臨めば、成功するものである。
だから、吉なり、という。
しかし、その臨むということにも正邪の二途がある。
道義に臨むときには、必ず得ることが有って咎はないが、利欲非道のことに臨むときには咎を免れないものである。
だから、道義に臨むことを推奨する意味も込めて、咎无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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易の初歩的なことについては、
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山風蠱 爻辞

18 山風蠱 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、幹父之蠱、有子、考无咎、終吉、

初六(しょりく)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、子(こ)有(あ)れば、考(亡父=なきちちも)咎(とが)无(な)し、(あやう)けれども終(つい)には吉なり、

幹とは木の幹(みき)のことにして、枝葉花実はこの幹の力ひとつで維持されているのである。
したがって、よくその任に堪え、その事を行う義とする。
今、蠱のときに当たり、初六は子にして、父の蠱=失敗を後から修復する者である。
初六は陰爻なので、その性質柔弱にして才力不足ではあるが、幸いに蠱の初めに当たるので、その敗れは未だ大きくはない。
したがって、陰柔であっても、その任に堪えられるのである。
だから、父之蠱れに幹たり、という。
およそ、事の大小となく、失敗するときは、何らかの咎が有るものである。
しかし、よく蠱れに幹たる子が有れば、その父親が失敗して命を落としても、その後を修復して治め補い繕い、亡き父もその咎を免れることを得るのである。
しかし子がいないときは、誰もなかなかその失敗を修復してはくれないので、その咎は永く消えることがないものである。 だから、子有れば、考も咎无し、という。
考とは亡父のことを指す。
この爻は蠱の初六なので、その失敗は浅く小さいものだが、同時に初六は陰柔なので、これを修復して治めるには艱難労苦するので、さもある。
しかし、怠慢なくよく務める時には、終に成功を得て吉となるものである。
だから、けれど終には吉なり、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、幹母之蠱、不可貞、

九二(きゅうじ)、母(はは)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、貞(かた)くす不可(べからざる)べし、

母とは六五の爻を指して言う。
今、蠱のときにして、九二の子は剛中の才徳が有り、六五の母に相応じている。
これは、九二の剛中の子が六五の母に仕えて孝行している象義である。
ところがこの母は、寡母=未亡人であることをよいことに、蠱惑壊乱を好む傾向があり、その室に安んじていない。
それをこの子は、よく修めるのである。
だから、母之蠱れに幹たり、という。
母に蠱惑壊乱の行いがあるときに、子としてこれを諌めないのは大義を害することではあるが、強いて諌めるときには愛を損ない親しみを失うものである。
とすると、強行に意見したり行動を規制するのではなく、しばらくは従容として恭敬と親愛を以って接し、自然に感じ化して、自ら改めるように持って行くしかない。
未亡人となり、心の拠り所を失った寂しさは計り知れないものがある。
恭敬と親愛を込め、時間をかけて少しずつ諌めるしかないだろう。
だから、貞くす不可べし、という。
この場合の貞は、正論に固執して強く眉を顰めて何が何でも早急に諌めようとすることを指す。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、幹父之蠱、小有悔、无大咎、

九三(きゅうさん)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、小(すこ)しく悔(くい)有(あ)れども、大(だい)なる咎(とが)は无(な)し、

九三もまた子である。
陽剛の才が有り、よく父の失敗した後を修める者である。
だから、父之蠱れに幹たり、という。
ただ、九三は剛に過ぎているので、ややもすれば物事をやり過ぎてしまう傾向がある。
したがって、やり過ぎが多少問題を生じ、少し悔いが残る。
としても、陽剛なので、全体としては、終にはよく失敗を建て直し修め得るので、大なる咎には至らないのである。
だから、小しく悔有れども、大なる咎は无し、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六四、裕父之蠱、往見吝、

六四(りくし)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに裕(ゆる)めり、往(な)すこと見吝(いやしめ)らる、

六四は陰柔不才にして、父の蠱を見ながらも、これを修復することに緩慢怠惰で、遂には修復できない者である。
だから、父之蠱れに裕めり、という。
子としてその父の失敗を修復しないで放置して平然としていれば、不孝の子として、何処に往き何をするにしても、軽蔑されるものである。
だから、往すこと見吝らる、という。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

六五、幹父之蠱、用誉、

六五(りくご)、父(ちち)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、用(もち)いて誉(ほまれ)あり、

六五は君であるが、同時に先君の子であり、柔中の徳が有り、九二剛中の賢臣と陰陽正しく応じている。
したがって、よく九二剛中の賢者を用いてこれに委ね任せて、己が徳を輔弼せしめ、以って父=先君の失敗の後を修復して治める者である。
だから、父之蠱れに幹たり、用いて誉あり、という。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上九、不事王矦、高尚其事、

上九(じょうきゅう)、王矦(おうこう)に事(つか)えず、其(そ)の事(こと)を高尚(こうしょう)にす、

上九は蠱の卦の終わりである。
蠱の壊乱は、初六の無位庶人の爻よりして六五の君位の爻に至って、天下国家の大小上下の事、既に修復して、今は平らかに治まったときである。
上九の爻にては、もはや修復するべきところの蠱れはない。
そもそも上九の爻は、陽剛にして才力が有るとともに全卦の極に居るので、乱を撥(はら)い、業を修めるところの大力量大手段を具えた爻であり、天下は壊乱し、百姓は塗炭に堕ちて水火に苦しんでいた。
その億兆の痛悩を傍観するに忍びなく、初より五に至るまでの撥乱修治のときに当たっては、その才力を発揮して天下の壊乱を修め、災厄を祓い救ったのである。
そして今、すでに五の君位の爻に及びて、天下の蠱敗も悉く修復され、人々は富貴栄達の恩賞を受けるときに至ったのである。
しかし上九は、不中不正であるとともに、ニ五君臣の外の高く卦極に艮(とど)まり居るので、平時の治世には疎い者である。
要するに、平時治世の富貴の中での仕官は不得手なのである。
とすると、自らの短所をよく省みて、富貴安楽の封禄は辞して仕えるべきではない。
仕えれば失態もあり、せっかく壊乱を救い修めた功績も色褪せることになろう。
したがって、褒美にあずからず、急流勇退し、功を遂げて身は退き、天の道に順がい、王侯にも仕えず、その事跡を高尚なものにするのがよい。
だから、王矦に事えず、其の事を高尚にす、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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沢雷随 爻辞

17 沢雷随 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、官有渝、貞吉、出門交有功、

初九(しょきゅう)、官(かん)を渝(かわ)ること有(あ)り、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、門(もん)を出(いで)て交(まじ)われば巧(こう)有(あ)り、

初爻は本来無位卑賤の位だが、この爻は剛明にして正の位を得ていて、なおかつ下卦震の主爻であるとともに、成卦の主爻でもある。
したがって、これを卑賤ではなく、在官の人とする。
また、震は進み動くという象なので、この官は、必ず動き進み、地位や役目が変わる気配がある。
だから、官を渝ること有り、という。
今は随のときなので、その官の転遷昇降は、人に随うを以って吉とする。
しかし、人に従うことも、正しきを以って要とするべきである。
だから、貞しくして吉なり、という。
また、随うの道にも、公と私との二途がある。
自分だけの自分本位の判断で選択して従うのではなく、門を出て広く公正の道を選び、賢者を求めて随うことが大事である。
何事も私情を離れて選んでこそ、功があるものである。
だから、門を出て交われば功有り、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、係小子失丈夫、

六二(りくじ)、小子(しょうし)に係(かか)って丈夫(じょうぶ)を失(うしな)えり、

小子とは初九を指し、丈夫とは九四を指す。
もとより陰の求めるところの者は陽である。
したがって、陰の随うところの者もまた陽である。
今、六二は初九に近く、九四に遠いので、得てして近い初九の小子に比し係わって、遠い九四の丈夫を失うことになる。
だから、小子に係って丈夫を失えり、という。
この爻辞には、凶吝の言葉はないが、これは吉ではない。
そもそも随い従うの道は、自分よりも優れた者に随うことが大事である。
今、九四は六二より上に居る優れた者であり、初九は六二より下に居て、自分よりも優れているとは言えない者である。
しかし六二の爻は、初九と比し、九四とは応でも比でもないので、自分より上である九四を捨て、自分より劣った下の初九に比し親しみ随おうとしているのである。
こんなことでは、六二にとって、何の利益があろうか。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、係丈夫、失小子、随有求得、利居貞、

六三(りくさん)、丈夫(じょうぶ)に係(かか)って、小子(しょうし)を失(うしな)えり、随(したが)えば求(もと)め得(え)ること有(あ)らん、貞(つね)に居(お)るに利(よ)ろし、

丈夫とは九四の爻を指し、小子とは初九の爻を指す。
この六三の爻は、六二とは逆に、九四と密接し、初九には遠い。
だから、丈夫に係って、小子を失えり、という。
これは、自分よりも劣っている者を捨てて、優れている者に随う様子である。
したがって今、六三は随うべき良き友の九四を得ているのであり、その九四に随順して利益を請えば、自然に彼の意を得られるときである。
だから、随えば、求め得ること有らん、という。
六三が九四に随うことは、陰を以って陽に随い、下を以って上に随うことなので、そもそも理に叶っているのである。
しかし、随順の道も、度が過ぎれば阿諛(あゆ)佞媚(ねいび)=おもねりへつらい、に流れる失も有る。
まして九四は執政権門の大臣にして、その威勢が赫々たる者である。
妄りに動き回って随うのではなく、慎戒して節度をわきまえないといけない。
だからこれを戒めて、貞に居るに利ろし、という。
貞は常恒の義、居るとは止まるの義である。
常を守り、分に止まって妄りに動かないように、という垂戒である。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四、随、有獲、貞凶、有孚在道以明、何咎、

九四(きゅうし)、随(ずい)のとき、獲(え)ること有(あ)るがごとし、貞(かた)くするは凶(きょう)なり、道(みち)に在(あ)って以(も)って明(あきら)かなるに有孚(ちがいな)くば、何(なん)の咎(とが)あらん、

九四は随の時の執政権門なので、天下の群臣や衆民が悉く集まり随うかのように見える。
しかしこれは、自身の徳が素晴らしくて、民心を得ているのではない。
随の「したがう」の時であることから、世間が随順巽従する気風に流されているだけである。
だから、随のとき、獲ること有るがごとし、という。
したがって、この衆民の随い従う様子を見て、それを自分の盛徳の致す所だと自負し、威権を振り、功徳に乗じる意念が有るときは大凶の道である。
だから、これを戒めて、貞くするは凶なり、という。
この貞の固くするというのは、戒めを守らず、勘違いしたまま威権を振り、功徳に乗じることを言う。
とは言っても、九四は執政の大臣、宰相の位である。
自分の徳を以ってしたことではなくとも、民心が帰服するのはよいことである。
とすれば、これを幸いに、自身も忠信を篤くして君に仕え、道義を正しくして国政を務め、文明にして幾を知る才が有るときには、何の咎があるだろうか。
だから、道に在って以って明らかなるに有孚くば、何の咎あらん、という。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、孚于嘉、吉、

九五(きゅうご)、嘉(よ)きに孚(まこと)あり、吉(きち)なり、

随のときに当たって、九五の君は剛健中正の徳が有る。
これにより、天下の臣民はその徳に和悦嘉楽して随い従う。
九五の君もまた、よく臣民を信愛し撫育する。
こうであれば、上下親しみ睦び君臣和合して国家は安寧に嘉楽する。
だから、嘉きに孚あり、吉なり、という。

なお、この爻に随の字を用いないのは、臣の君に随い、下の上に随うことは尋常のことにして、取り立てて美称とするほどのことではないからである。
これに対して、嘉というのは、随い従うの至極にして、中心信実より悦楽感化し和順懐服して徳に随うことを言う。
孚の字は、君上の万民を仁愛すること、真実誠信なることを言う。
これらは、九五君徳の大いに盛んなことを称えるものである。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上六、拘係之、乃従維之、王用享于西山、

上六(じょうりく)、之(これ)を拘係(くけい)し、乃(すなわ)ち従(したが)って之(これ)を維(つな)ぐ、王(おう)用(もち)いて西山(せいざん)に享(すすめまつ)る、

この爻は随の卦の終わりにして、天下の臣民随従化服するの至極なる者とする。
君上の天下を治め臣民を仁愛撫育することが真実篤厚なときには、その臣民の悦楽感服する情意は些かも別れ離れ背き逆らうものではない。
この情態を形容して喩えると、ここにひとつのものがあれば天下万民はこれを愛し好み悦んで楽しみ、これを拘え止めて、さらにその上を縛り維ぐが如くに至る、ということになる。
これは、君上の臣民を仁愛することが真実に篤いので、下民の君徳に感じ化し服し順がう心が、何重にも堅く結んで決して解け離れない様子である。
だから、之を拘係し、乃ち従って之を維ぐ、という。

続く、王用いて西山に享る、の王というのは、周の先王のことである。
ただし、個人は特定せず、周の昔の王様は~~、といった意である。
享るとは、祭り享(すす)めること、要するに、祭祀を行うということである。
西山とは、周の時代に重要な祭祀が行われた岐山のことである。
この爻は随の極にして、万民悦び服して相随うの至極、人々の誠の情の固く結んで解けない様子である。
その万民感じ服す誠実を祭りの供え物にして、周の昔の王様は岐山に享(まつ)った、ということである。
君上の孝の享(まつ)りは、万民の感じ化し服し随うより大なるはないからである。



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雷地予 爻辞

16 雷地予 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、鳴予、凶、

初六(しょりく)、予(たのし)みを鳴(な)らす、凶(きょう)なり、

予のときに当たって、初六は陰柔不才にして最下に居る爻である。
これは下賎の卑夫である。
しかしこの爻は、九四執政権門の爻と陰陽の応の位である。
九四は執政の鼎臣にして、入りては宰相、出ては大将たる権勢の臣にして、卦中の唯一の陽の剛位にして、天下の衆陰をして、予楽ならしむるところの震の主爻、成卦の主爻であり、したがって、その富貴威権は炎々赫々たる者である。
そこでこの初六の小人は、その九四の応位であることをよいことに、その九四の権門に出入りして、それをひけらかして予楽とし、さらには、故意にこれを世間に吹聴して衒い歩く。
これは大悪大凶の道である。
だから、予みを鳴らす、凶なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、介于石、不終日、貞吉、

六二(りくじ)、石(いし)よりも介(かた)し、日(ひ)を終(お)えず、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

介は気概節介があるという義である。
今、天下が皆、予楽佚遊するときではあるが、六二の爻は、中正の徳があり、その節操が石よりも堅いので、その予楽に耽らず、佚遊に溺れることがない。
だから、石よりも介し、という。
しかし、皆が予楽(たのし)んでいるときに、独り世間に背き、戚々として、決して楽しまない、というわけではない。
皆とともに楽しむことは楽しむ。
ただ、その楽しみを極めるべきではないことを知り、日を終えることを待たず、速やかに改めて、道の正しきに取って復(かえ)すのである。
これは実に貞吉の道である。
だから、日を終えず、貞しくして吉なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、盱予、悔、遅有悔、

六三(りくさん)、盱(みあげ)て予(たのし)む、悔(く)いることあり、改(あらた)むること遅(おそ)ければ悔(く)やむこと有(あ)らん、

六三は、予のときに当たって、己は陰柔不才不中不正の人物であるとともに、九四の権門の爻と陰陽密比している。
これは、足恭(すうきょう)諂諛(てんゆ)を以って、九四を下から見上げつつ欺きたぶらかし、その権勢をたのみ、その威福を仰ぎ望んで、これをもって世を震撼させ、人を威し、中に就いて姦利の謀を設けて楽しみとする者である。
これは小人佞者の常套である。
だから、盱て予む、という。
盱は見上げるという意。
そもそも他人の権威を借り、己の貧利の予楽とするのは、当座の満足はあっても、
その権威が衰えれば、忽ち自らに災難が生じ、その権威を借りたことを悔いることになる。
だから、悔いることあり、という。
したがって、六三は豁然として今日までの非を悟り、旧情を悔い改めて、その志を変革するべきである。
そうすれば、その災難を免れる。
しかし、安易に考え、悔い改めることをしなければ、いつか災害に至るに臨む。
そのときになってからでは、悔い改めても、もう手遅れである。
だから、改むること遅ければ悔やむこと有らん、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九四、由予、大有得、勿疑、朋盍簪、

九四(きゅうし)、由(よ)って予(たのし)ましむ、大(おお)いに得(え)ること有(あ)り、疑(うたが)うこと勿(なか)れ、朋(とも)盍(あい)簪(あつま)らん、

この九四の爻は、成卦の主にして、宰相執政の位であるとともに、卦中唯一の陽剛にして、陽明剛健の徳量を備えている。
したがって、上は六五陰柔の君を輔弼し、朝廷の綱紀を正し、下は四海を統べ治めて、よく天下の衆陰を予楽和悦させる。
これは、全くこの九四一陽剛の才力徳量に由れることである。
だから、由って予ましむ、という。
このように天下の衆陰は、実にこの九四の爻の才徳に由って、泰平の中で和順予楽することを得るわけだが、これにより天下の民心は、大いにこの九四に感服して帰順する。
九四の側から言えば、大いに民心を得ることになる。
だから、大いに得ること有り、という。
もとより九四は執政大臣の位に在りて、天下中唯一の陽剛なのだから、その威権は盛大にして、天下の崇敬を集めることが甚だしい。
対する六五の君は、陰弱であるを以って、威権勢力は薄く軽い。
したがって、天下の衆陰は悉く九四の門に群がる。
これでは、六五の君としては面白くなく、九四の威権を忌み疑うようになっても不思議ではない。
すると九四も、そんな六五の君上から忌み疑われているのではないかと、六五を疑い危ぶみ恐れるようになる。
しかし、このように九四の大臣が、嫌疑を抱え顧慮を挟み、自分の身の保全の意念が生じるときには、忽ちにその政に害有りて、天下の勢い忽ちに隕ちる瓦の破れるが如く、砂山が崩れるが如きに至るだろう。
これは、国家廃亡の幾(きざ)しである。
そうならないためには、九四は一に己の身を擲って、赤心をもって公事に尽くすしかない。
だから、疑う勿れ、と戒める。
疑う勿れとは、疑念を抱いて顧慮することなく、純一赤心をもって国に報じよ、という意である。
九四の忠臣が身を捨てる覚悟で国事に当たるのであれば、四方同朋の君子もその赤心の忠信に感じて集まり来て、共に赤心をもって国事を輔けるものである。
だから、朋盍簪らん、という。
簪とは「かんざし」のことだが、かんざしは髪を集めて束ね止めるものなので、あつまるという意味を持つのである。

なお、この爻辞冒頭の由の字は、この爻が成卦の主爻だから用いられたのである。
これは、山雷頤の上爻の爻辞冒頭にある由頤の由も同じことである。
そもそも由とは、自分が何かをすることを示すのであって、してもらうのではない。
ここでは、衆陰の群臣群民が、この爻の才徳に由って予楽することをいう。
これに対してこの九四の爻は、自分が予楽するあるいは予楽させてもらうのではなく、衆陰の群臣群民を予楽させるのであって、自身は却って天下の為に苦労し、予楽を人に求めない賢徳があることを示すのである。


上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六五、貞疾、恒不死、

六五(りくご)、貞(つね)に疾(や)めり、恒(つね)に死(し)せず、

六五は君の定位である。
今は予のときなので、昇平至治にして泰平豊穣四海無事の化に出遇い、天下の群陰は下賎卑夫に至るまでも、みな各々予楽佚遊する時である。
六五の君は至尊にして四海の富貴を統べるわけだが、陰柔の君主なので佚遊予楽を好む。
たとえ臣民が予楽できない苦しいときでも、六五は君であり、君には富貴があるので、つい臣民のことを考えず、予楽佚遊を求めてしまう傾向がある。
しかし、かの九四の執政の大臣に制し止められて、心のままに予楽を極め尽くすことはできない。
これは六五の君上の苦悩であり、疾患である。
だから、その情態を形容して、貞に疾めり、という。
九四の大臣は、陰柔の君上を輔佐して朝憲を明らかにし、天下を治めて群陰を撫育し、よく君上の過失を正し諌めるのである。
六五の君は陰暗柔弱にして予楽佚遊を好む失はあれども、柔中の徳が有るので、よくその九四の諌めを聴き入れ、従うのである。
これにより、国家が乱れるほどのことはない、という義を形容して、恒に死せず、という。


上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上六、冥予、成有渝、无咎、

上六(じょうりく)、予(たのし)むに冥(くら)し、成(な)るも渝(かわ)ること有(あ)れば、咎(とが)无(な)し、

上六は陰柔不中にして予の卦の極に居る。
これは予楽を十分に極め尽くす象である。
しかし、予楽は極め尽くすべきものではない。
予楽を極めれば必ず衰戚に至るのが天地の定理である。
今、上六はこの道理に暗く、何がなんでも予楽を極め尽くそうとしている。
これは、予楽を善くする者とは言えない。
むしろ、予楽の道に暗い者である。
だから、予むに冥し、という。
この冥の字は、地風升の上六の冥升の冥と同じであるとともに、上六は卦の終わりである。
したがって予楽もついに遂げ終わって自然に厭い憎む情が生じ、これまでの耽り溺れれ怠惰の情を変じ改めるときには、その咎を免れるものである。
そこで、その過程を要約して、成るも渝ること有れば、咎无し、という。
成るとは、事がまさに遂げ成ることをいう。
渝るとは、志が改まり変わることをいう。
およそ人は、逸楽に過ぎるときは必ずその身を誤る。
これは咎有りの道である。
しかし今、志を改め、行いを変じて正しき道に復るときは、その咎を免れるのである。


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地山謙 爻辞

15 地山謙 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、謙謙、君子、用渉大川、吉、

初六(しょりく)、謙(けん)のときに謙(へりくだ)れり、君子(くんし)なり、大川(たいせん)を渉(わた)るに用(もち)う、吉(きち)なり、

初六は謙遜の卦の初爻であり、謙の初めであるとともに、六爻の最下に謙(へりくだ)っている。
これは謙の中でも至って謙れる者である。
だから、謙のときに謙れり、君子なり、という。
君子とは、その謙のときに殊更謙れる徳を褒め称するから、そう呼んでいるのである。
また、川海の険難を渉ろうとするときには、競って進む者は必ず過失が多いものであるが、よく謙々として、競わず躁がず、静かに渉るときには、自然に過失も少ないものである。
だから、大川を渉るに利ろし、という。
吉なり、とは、このように謙々の君子であれば過失が少ないことを指す。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、鳴謙、貞吉、

六二(りくじ)、謙(へりくだ)れりと鳴(な)らさる、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

六二は柔順中正の徳が有る爻だが、なおよく九三成卦の主爻の下に謙って居る。
これは、よく柔順謙譲の道を用いる者であって、人々はその謙の徳を盛んに鳴らし称する。
だから、謙れりと鳴らさる、という。
これは、後に出てくる上六の自ら謙なりと鳴らして歩くのとは、辞は同じだが義は相反するのである。
そもそも謙譲は徳の基本であるが、そうは言っても六二は臣の位であり、人臣として至謙卑下にのみ過ぎる時は、ややもすれば佞媚(ねいゆ)足恭(すうきょう)に流れる可能性がある。
したがって、一に貞正であることが緊要なのである。
だから、貞しくして吉なり、と戒め諭すのである。
貞正とは礼に適うことである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三、労謙君子、有終、吉、

九三(きゅうさん)、謙(けん)に労(ろう)する君子(くんし)なり、終(おわ)り有(あ)り、吉(きち)なり、

九三は成卦の主爻である。
およそ、その主たる者は、必ずその事に労劬(ろうく)=苦労するものである。
だから、謙に労する君子なり、という。
そもそも謙譲の道に労劬することは、君子の最も大事なことであって、そうであってこそ、物事を全うして終わることを得られるのである。
だから、終わり有り、吉なり、という。
なお、この爻は成卦の主爻なので、「終わり有り、吉なり」と、卦辞と同義で締めくくっているのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

六四、无不利、謙、

六四(りくし)、利(よ)ろしからざる无(な)し、謙(けん)せるを(あ)げよ、

六四は柔正にして近君執政の位に居る。
しかし今、下に九三成卦の主爻たる謙に労する君子が有る。
とすれば、六四は、宜しくその九三の君子を薦め挙げることが大事である。
これこそ、士を尚び徳に下るという謙徳の至りである。
何の利ろしくないことがあるだろうか。
まして、その吉たることは言を待たない。
だから、利ろしからざる无し、謙せるをげよ、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

六五、不富、以其鄰、利用征伐、无不利、

六五(りくご)、富めりとせず、其(そ)の鄰(となり)を以(ひき)ゆ、、征伐(せいばつ)を用(もち)うるに利(よ)ろし、利(よ)ろしからざる无(な)し、

六五は柔中にして謙るの時の謙譲の君上である。
さて、謙の卦の諸爻は、みな謙の字を添えて辞を係けているが、この五爻だけは、謙の字を添えていない。
これは、五爻には、謙の字を忌み避けるべきところがあるからである。
人君という地位にある者が、謙譲卑下をのみ専らとすれば、威権は行われず、却って政教に害が有るのである。
ましてこの六五の君の爻は陰爻なので、常に威権の薄く軽くなりがちなことを惧れている。
そこで、謙の字を避けて、謙の意味合いを、富めりとせず=不富の二字に代えているのである。
そもそも君上は、その富を四海に有しているものであり、富がないわけがない。
それを、なぜ、富めりとせず、というのか。
これは、富があっても、礼を好み、驕傲にはならない、という義を示しているのである。
富があって礼を好み、貴くして驕(おご)らないのは、謙の徳の至極である。

もとよりこの六五は、柔和温順の謙譲の君にして、富貴を極めず、中にして順の徳を守る者である。
しかし今、九三の剛強の臣が有り、その臣は内卦の極に艮(とど)まり横たわって、上君の所に朝覲しないばかりか、初とニの臣をも押し止めて朝覲させず、かつ内卦艮の主爻、成卦の主爻たるを以って衆陰の心を得て、時の勢いを擁している。
そのために天下の陰爻はこれに比し従う者が少なくない。
これでは君上としては示しがつかず、問題である。
そこで、六五の君は、六四と上六との両鄰りを率いて、九三の横逆不服者を征伐しようとする。
これは義の当然たるところである。
もとより上を以って下の不服を征し、君を以って臣の不順を討ち、正を以って邪を伐つのは、道義に叶った行いである。

だから、富めりとせず、其の鄰を以ゆ、征伐を用うるに利ろし、利ろしからざる无し、という。
なお、天子は隣に肩を並べる者などないわけだが、敢えて、其の鄰を以ゆ、と、上爻や四爻を同等であるかのように言う。
これもまた、謙譲の意である。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上六、鳴謙、利用行師征国、

上六(じょうりく)、謙(けん)を鳴(な)らす、師(いくさ)を行(や)り、国(くに)を征(せい)するに用(もち)うるに利(よ)ろし、

上六の爻は謙の卦の極に在る。
したがって謙の意義を知り尽くしている者とする。
しかし、己が身は高く全卦の極に上り居る。
これは、信実に謙譲の徳を大事にしている者ではない。
今、謙の時風なので、謙譲遜退のフリをして、自ら謙であると鳴らし歩いているだけである。
かの六二の「鳴謙=謙と鳴らさる」とは、字は同じでもその義は異なるのである。
六二は中正の徳が有る柔順の象であって、これは実によく謙譲なる者である。
だから、人よりその謙の徳を称えられ、謙と鳴らされるのである。
対するこの上六は、その身高く卦極に上り居り、かつ不中である。
これは、謙譲の素振りをしているのであって、自ら謙だと鳴らして回る者である。
だから、謙を鳴らす、という。
しかし、謙は徳の基本だから、謙のフリをしているのは、善行を真似していることになるので、強いて咎めることはない。

さて、このときに当たって、九三の一陽剛は、下卦の極に止って勢いを得て、威を逞しくし、六五の君に朝覲せず、横逆を欲しいままに恣にしている。
上六は九三の害応の位なので、これを征伐すべきの任に当たる。
要するに上六は、君命を承けて、順を助け逆を征するのに、宜しいのである。
だから、師を行り、国を征するに用うるに利ろし、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
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