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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

火天大有 爻辞

14 火天大有 爻辞

上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、无交害、匪咎艱、則无咎、

初九(しょきゅう)、害(がい)に交(まじ)わること无(な)し、艱(くる)しとすれば咎(とが)というには匪(あら)ず、則(すなわ)ち咎(とが)无(な)し、

初九は大有の初に居るので、未だ富が有って盛んだというところまでには至っていない。
なおかつ、最下の爻にして、上に応爻の援助もない。
これは、下によく謙り、未だ尊大驕傲の過失はない者とする。
だから、害に交わること无し、という。
害とは、自ら尊大に立ち上り、傲慢驕奢にして、不礼非義の行いにより、道を失うことをいう。
もとより富貴の人は、必ず自らその富貴威権を富貴威権として、これを拠り所に他者を凌轢して見下す。
その見下された他者は、その富貴の人に媚び諂い、阿り欺く。
このように、自他相依って道を害さない者は少ない。
としても、その富貴威権が直ちに罪咎、禍害を誘引するというわけではない。
その富貴威権を得た人は、その富貴により道を暗昧にしてしまい、自ら罪咎に罹る可能性がある、ということである。
譬えば、富貴威権とは、よく研ぎ澄ました鋭利な剣のようなものである。
したがって、深く礼の鞘に収め、静かに道を以って守るべきものである。
妄りに威を振るい権を発現して、鞘から抜くものではない。
剣が、その取り扱いの巧拙により、自他共に傷害すること甚だしきに至るのと同じことである。
要するに、富貴威権の福を享けようというときには、それは浮雲の如くにして持続するのは容易ではないと心得ることであり、それを肝に命じ、よく謙譲を以って徳を養い、礼を好んで、道を守れば、自ら咎を免れる、ということである。
だから、艱しとすれば咎というには匪ず、則ち咎无し、という。
艱しとは、常に戦々兢々として「人心惟れ危く、道心惟れ微なり」という戒めを肝に命じ、恐惧修省の砥石で、驕奢傲惰の念の錆びが出ないようにすることを指す。
そうしていればこそ、富貴威権を得たとしても、何の咎もないのである。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、大車以載、有攸往、无咎、

九二(きゅうじ)、大車(たいしゃ)を以(も)って載(の)せれば、往(な)す攸(ところ)有(あ)るも、咎(とが)无(な)し、

九二の爻は、大有の時に当たって臣の定位に居て、剛中の才徳が有り、上の六五の爻と陰陽正しく応じている。
これは、よく六五の君を補佐し、大有の大功勲を為す大臣である。
車とは、承け載せて進み行く義にして、九二才徳器量有ることが大車の如くにして、六五の君の天下国家の大任を承け畏(かしこ)み、天下の大有の至治を自身の徳量の車に載せ積み、よくこれを運転してその功績を成し、その職任を致すを言う。
だから、大車を以って載せれば、という。
往くとは、為るという義である。
車は重い物を載せて遠くへ運ぶ喩えにして、今、九二は六五の君の重い天下の任を承けて外に出て大有の功徳を致す大臣である。
これは、例えば武将が郊外の権を制するが如く、いちいち君命を伺い受けなくても、時宜に中して義を制し事を行うとも、咎が有ることはない、ということである。
だから、往く攸有るも、咎无し、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、公用享于天子、小人弗克、

九三(きゅうさん)、公(こう)用(もち)いて天子(てんし)に享(きょう)せらる、小人(しょうじん)は克(あたわ)弗(じ)、

享の字は、朝献と宴享との二義を兼ね具えている。
今、九三は下卦の上に在るが、ここは公侯の位置でもある。
六五柔中の天子は、よく己を虚しくして、衆陽の賢の言うことを聞き入れる者である。
したがって、威厳と和とが並び行われ、四方の公侯も感化され服し従う。
九三の公も、方物を貢いで朝覲する。
六五の天子は、その九三の赤心の誠忠に感じ愛でて、宴享を設けて賓礼する。
だから、公用いて天子に享せらる、という。

小人とは、不徳の称である。
もし、小人にして、この九三の位に居るのであれば、過剛不中の象義を以って、咎有ることを免れない。
今は大有のときであり、富が有るわけだが、小人ならば必ずその富が有ることを自負して驕奢傲惰となり、非礼非義を行い、道を喪う。
そんな者をなんで天子が賞徳享礼の優待をするだろうか。
だから、小人は克弗、という。


上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九四、匪其朋、无咎、

九四(きゅうし)、其(そ)の朋(ほう)するに匪(あら)ざれば、咎(とが)无(な)し、

朋とは朋党比同の義にして、権門を立て私戸を張ることの意である。
九四は大有の時に当たって執政の位に居て、剛明にして六五柔中の君には陰陽親比している。
これを以って君上よりの信頼は強く、寵遇厚く威権至って大である。
これは、一人の下、万人の上、人臣の極位の者である。
したがって、天下の臣と民とは、悉くこの一人の門に趨り向かい輻輳する。
これは人間社会の常である。
この如き時と所と位と勢いとを得たところの古今の権門を観ると、多くの場合、趨承奉従を喜び好み、媚びを献じ諂いを捧げる者には自然と朋党偏私の依怙贔屓の取り扱いをするものである。
これは人臣の最悪の魁たる者である。
したがって、もしこの位に至り、この時に居る人臣は、この朋党の偏私、樹門の情欲を割断することが第一の急務であり、そうでなければ咎も有るのである。
だから朋することを戒めて、其の朋するに匪ざれば、咎无し、という。
ちなみに地天泰の九二大臣の爻にては、朋すること亡くば中行に尚うことを得ん、と言い、雷水解の九四大臣の爻にては、拇を解けば朋至りて斯れ孚とせん、と言う。
拇とは応位の初六、卑賤の陰爻を指す。


上九━━━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六五、厥孚、交如、威如、吉、

六五(りくご)、厥(そ)れ孚(まこと)あって、交如(こうじょ)たり、威如(いじょ)たれば、吉(きち)なり、

六五は柔中にして、九二の剛中の臣とは陰陽正しく応じ、九四の剛明の大臣とは陰陽正しく比している。
これは、大有の福を享けるところの君である。
しかし六五は、一陰柔弱の爻なので、自らには天下の衆陽を統率して有つだけの能力がないことを惧れる。
そこで爻辞は、柔中にして国天下を有つ方策を教える。
その第一は、忠信が厚いことである。
君上への信頼がないときには、臣も民も共に服し従わないものである。
だから、厥れ孚=誠信あって、という。
また、自分勝手で、他と親しく交わり和するところの徳がなければ、賢良も来て集まらず、さらには、威厳がないときには、衆人は軽んじ侮るものである。
したがって、誠実を心がけ、賢臣とは積極的に交わり和し、軽率な言行を慎み、威厳を以って衆人を撫育するときには、大いに天下を有ち、吉なのである。
だから、交如たり、威如たれば、吉なり、という。


上九━━━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上九、自天祐之、吉无不利、

上九(じょうきゅう)、天(てん)自(よ)り之(これ)を祐(たす)く、吉(きち)にして利(よ)ろしから不(ざ)ること无(な)し、

この爻は大有の終わりにして、大いに有ち得るの至極の義を示す。
もとよりこの大有の福を得ることは、天よりの助けがなくては、有ち得ることはできないものである。
今、これまでの善や徳の積み重ねが盛大となり、いよいよ天よりこれを助けるまでに至ったのであれば、およそ天下の事物として、何を為し、何を行うにしても、よろしくないと言うことがあるだろうか。
だから、天自り之を祐く、吉にして利ろしからざる无し、という。

なお、この上九の爻辞は、大有の卦、大有の時の至極なるの象義を取って書かれたものであって、上九の爻がそういう人物である、ということではない。
初爻より五の爻に至るまで大有の徳を守り有ち、ついに今、この上爻の位に至ったのであれば、天よりこれを助けて吉にして利ろしからざる无し、ということである。

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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