
13 天火同人 爻辞
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○
初九、同人于門、无咎、
初九(しょきゅう)、人(ひと)と同(おな)じくすること門(もん)に于(おい)てすれば、咎(とが)无(な)し、
初九は同人の卦の初めに在って、正を得てはいるが、卦中唯一の陰である六二にのみ比している。
しかし、比しているからと、この六二とのみ同じくして、広く遍く天下の人々と同じくしないのであれば、それは偏私狭小の道にして、大いに咎有りとする。
だから、これを戒めて、人と同じくすること門に于いてすれば咎无し、という。
門に于いて、とは、門を出て広く人と同じくする、という意味である。
六二は内卦の中なので、門内の近いところとし、その六二を離れて、門を出て広く人と同じくせよ、と言っているのである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━
六二、同人于宗、吝、
六二(りくじ)、人(ひと)と同(おな)じくすること宗(そう)に于(おい)てすれば、吝(はずか)し、
宗とは同姓同党の義にして、初九と九三とを指す。
この初九も九三も、六二と同じ内卦の一党なので、宗というのである。
今、六二は同人の時に在って、全卦中の唯一の陰爻であるを以って、卦中の他の五陽爻は、皆この六二の一陰と同じくしようと求めている。
しかし六二は臣の位であり、妻の位である。
また、九五は君の位であり、夫の位である。
したがって六二は、九五の爻に応じ同じくすることこそが正道である。
その他の爻に比し同じくしようとするのは、不義であり非道である。
そもそも、この六二の爻は、中正を得ているとしても、陰陽の定情として、隣接する初九と九三との同宗中の二陽剛に比し同じくして、正応の九五の君なり夫なりの爻を忘却しまう傾向がある。
こんなことでは吝しい。
だから、人と同じくするに宗に于いてすれば、吝し、というのである。
なお、同じくするといっても、卦辞と爻辞では、その意味合いが違う場合がある。
卦辞では、広く同じくする道を主として述べるので、その相対するところの爻位を限定しない。
これに対して爻辞では、中正と応比とを主として述べるので、正応の九五の君なり夫なりの爻を捨てて他の爻に比し同じくすることを、責め戒めるのである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━
九三、伏戎于莽、升其高陵、三歳不興、
九三(きゅうさん)、戎(つわもの)を莽(くさむら)に伏(ふ)せ、其(そ)の高陵(こうりょう)に升(のぼ)り、三歳(さんさい)までも興(おこ)されず、
この卦は一陰五陽なので、卦中の五陽爻は皆六二の一陰爻に比し同じくしようと求めている。
これは卦爻の陰陽の性情である。
したがって、この九三の陽爻も、六二に比し同じくしようと求めている。
しかし六二は、九五正応の夫が有るので、九三に比していても、敢えて背くのである。
これによって九三は、その欲情の甚だしさから、遂には害意を生じ、姦計を施し、まず、九五の夫を殺害し、その後に六二を奪い取って、情欲を快く遂げようと謀る。
しかし、元来が不義にして兵を起こすのであるから安易に動けば危険である。
慎重に隠密裏に行わないといけない。
そこで、まず、戎兵(つわもの)を莽のようなところに密かに伏せ隠し置き、九五のスキを窺う。
ただし自分は、そ知らぬふりをして、高陵の遥かに高く遠いところに登り、傍観して居る。
だから、戎を莽に伏せ、其の高陵に升り、という。
要するに、九三は不義を目論むとしても、それは容易なことではないと計り知り、妄りに露にせず、深く隠して、全く企て謀ることがない者の如くにして居ることの譬えである。
その九三の姦計邪謀は、周密ではある。
しかし、かの九五の爻は、そもそも剛健中正の徳が有り、文事も武備も完璧であり、つけいる隙がない。
したがって九三の邪謀は、悉く不発にして、いつまで経っても、戎兵を実際に動かすときは来ないのである。
だから、三歳まで興されず、という。
三とは多数の義にして、いつまで経っても、戎を興し兵を挙げるべきときは来ない、ということである。
これもまた、邪謀を隠秘しつつも、実行せずに未遂で終わる譬えである。
なお、ここに吉凶の記載がないのは、もとより不義の邪謀なので、吉と言わないのは勿論だが、その事が未遂に終わり発覚しないので、直ちに凶とも言えないのである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
九四、乗其墉、弗克攻、吉、
九四(きゅうし)、其(そ)の墉(かき)に乗(の)れり、攻(せ)むること克(あた)は弗(じ)、吉(きち)なり、
墉とは、物の障り隔てを為すということで、下の九三の爻を喩えたのである。
この九四の爻もまた六二の一陰の女子に、同じくしよう(親密になろう)と求める者である。
しかし六二を求め得ることの難しさは九三よりも甚だしい。
九四は六二の応位でも比位でもない。
その上、六二は九五と正応なのだから、その九五は九四の敵でもある。
また六二の比爻の九三の?により、六二と九四の間は障り隔てがある。
このように、九四には仇敵が前後に在る。
したがって九四は、まず九三の隔ての墉に登り、前後両敵の様子を伺うのである。
だから、その様子を指して、其の?に乗れり、という。
そもそも九四が六二の女子を得るためには、まず九三の墉の隔てを攻め破り、次いで六二の正応の夫である九五を攻め亡ぼさなければいけない。
しかし、九三は同じ陽剛であるばかりか、陽位に在る陽だから過剛の強敵であり、九五は君位に居る陽なのだから、剛健中正の文武具足している英勇なので、所詮九四の力の及ぶ相手ではない。
そこで九四は、その自分に勝ち目のないことをよく察して、この事この念を思い止まるのである。
したがって禍に陥らず、害を免れて、却って無事安穏の福を得るのである。
だから、攻むること克は弗、吉なり、という。
上九━━━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
九五、同人先号咷而後笑、大師克相遇、
九五(きゅうご)、人(ひと)と同(おなじ)くすせんとて先(さき)には号咷(ごうちょう)し、後(のち)には笑(わら)う、大(だい)なる師(いくさ)克(か)ちて相遇(あいあ)う、
今、同人の時に遇い、九五は正応の六二に応じて同じくしようとするが、その中間に九三九四の二陽爻が有り、障り隔てていて、このままでは容易に応じられない。
そもそも九五は、六二の正応の夫であり、六二と同じくしようとする情は、九三や九四よりも激しいのである。
したがって、その応じ同じくできない困難を嘆き悲しみ、号咷=泣き叫ぶ。
だから、人と同じくせんとて先には号咷し、という。
しかし、ただ泣き叫んでいても仕方ないので、九三と九四の障り隔てを排除するために、大なる師=軍隊を出し、これを征伐する。
九五は君位であり、九五が出す軍隊が強力でないわけがない。
したがって、終には九三九四に攻め克ち、九五は無事に六二と相遇うことを得て、喜び笑うのである。
だから、後には笑う、大なる師克ちて相遇う、という。
ただし、この九五は君位であるとしても、その君徳は、篤厚とは言えない。
九五君上の道は、天下の億兆を赤子とし、遍く仁沢をもって養い育て、教え化すことである。
これは万古不易の典則である。
しかし今、このように六二の一臣のみと同じくしようとすることは、偏私の愛情である。
また、夫としては、妻のことで軍隊を動かすなど、醜いことである。
これでは、人君としての徳量においては、軽く薄いと言わざるを得ない。
したがって、聖人剛健中正の義は取らず、その心の様子を、号咷、笑うと、感情的に表現する。
このように感情的なのは、小人嬬女の状態にして、大人君子の有るべきところではない。
およそ易の経文で、このような感情的な表現を書いている箇所は、吉凶の言葉はないとしても、その感情的な態度を戒め質し責めているのであって、それを斟酌して解釈するのが正しいのである。
上九━━━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
上九、同人于郊、无咎、
上九(じょうきゅう)、人(ひと)と同(おな)じくすること郊(こう)に于(お)いてすれば、咎(とが)无(な)し、
同人の卦は、五陽爻が共に六二の一陰爻に同じくしようとしている時である。
その中にあっても、特に初九と九三は、六二の両比爻なので、比し同じくしようとする思いが専らな者である。
九四は比でも応でもないが、二五正応の間に挟まり、五よりはやや二に近いので、六二に同じくしようとする思いは、初と三に次ぐ者である。
九五はもとより六二の正応の爻なので、その応じて同じくしようとする思いは、初三四よりも増している。
そんな卦中で、唯一この上爻だけは、二五正応の外に居て、しかも、六二とは応でも比でもない。
したがって、この上九だけは、ひとり広く人と同じくして、咎や悔いのない爻とする。
だから、人と同じくすること郊に于いてすれば、咎无し、という。
郊とは城外の地のことで、野に比較すれば狭く小さい場所を指す。
卦辞では、野に于いて、と言っているわけだが、その野よりは劣るが、六爻中にては、この郊が最も優れていることになる。
卦辞は全体の徳を説き、単に同じくする道を教えて「野」と言っているのである。
それが爻辞では、相対する者を以って説いているのである。
もとよりこの上九の爻も、陰陽の定情により、最初から六二を求め同じくしようとする思いがなかったわけではない。
しかし、六二の正応である九五の爻のさらに外に居て、六二とは遥かに隔たっているし、六二とは応も比もないので、まったく縁がないのである。
したがって、その六二を求める思いを、やむを得ず断念したのである。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初九━━━○
初九、同人于門、无咎、
初九(しょきゅう)、人(ひと)と同(おな)じくすること門(もん)に于(おい)てすれば、咎(とが)无(な)し、
初九は同人の卦の初めに在って、正を得てはいるが、卦中唯一の陰である六二にのみ比している。
しかし、比しているからと、この六二とのみ同じくして、広く遍く天下の人々と同じくしないのであれば、それは偏私狭小の道にして、大いに咎有りとする。
だから、これを戒めて、人と同じくすること門に于いてすれば咎无し、という。
門に于いて、とは、門を出て広く人と同じくする、という意味である。
六二は内卦の中なので、門内の近いところとし、その六二を離れて、門を出て広く人と同じくせよ、と言っているのである。
上九━━━
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初九━━━
六二、同人于宗、吝、
六二(りくじ)、人(ひと)と同(おな)じくすること宗(そう)に于(おい)てすれば、吝(はずか)し、
宗とは同姓同党の義にして、初九と九三とを指す。
この初九も九三も、六二と同じ内卦の一党なので、宗というのである。
今、六二は同人の時に在って、全卦中の唯一の陰爻であるを以って、卦中の他の五陽爻は、皆この六二の一陰と同じくしようと求めている。
しかし六二は臣の位であり、妻の位である。
また、九五は君の位であり、夫の位である。
したがって六二は、九五の爻に応じ同じくすることこそが正道である。
その他の爻に比し同じくしようとするのは、不義であり非道である。
そもそも、この六二の爻は、中正を得ているとしても、陰陽の定情として、隣接する初九と九三との同宗中の二陽剛に比し同じくして、正応の九五の君なり夫なりの爻を忘却しまう傾向がある。
こんなことでは吝しい。
だから、人と同じくするに宗に于いてすれば、吝し、というのである。
なお、同じくするといっても、卦辞と爻辞では、その意味合いが違う場合がある。
卦辞では、広く同じくする道を主として述べるので、その相対するところの爻位を限定しない。
これに対して爻辞では、中正と応比とを主として述べるので、正応の九五の君なり夫なりの爻を捨てて他の爻に比し同じくすることを、責め戒めるのである。
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九四━━━
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初九━━━
九三、伏戎于莽、升其高陵、三歳不興、
九三(きゅうさん)、戎(つわもの)を莽(くさむら)に伏(ふ)せ、其(そ)の高陵(こうりょう)に升(のぼ)り、三歳(さんさい)までも興(おこ)されず、
この卦は一陰五陽なので、卦中の五陽爻は皆六二の一陰爻に比し同じくしようと求めている。
これは卦爻の陰陽の性情である。
したがって、この九三の陽爻も、六二に比し同じくしようと求めている。
しかし六二は、九五正応の夫が有るので、九三に比していても、敢えて背くのである。
これによって九三は、その欲情の甚だしさから、遂には害意を生じ、姦計を施し、まず、九五の夫を殺害し、その後に六二を奪い取って、情欲を快く遂げようと謀る。
しかし、元来が不義にして兵を起こすのであるから安易に動けば危険である。
慎重に隠密裏に行わないといけない。
そこで、まず、戎兵(つわもの)を莽のようなところに密かに伏せ隠し置き、九五のスキを窺う。
ただし自分は、そ知らぬふりをして、高陵の遥かに高く遠いところに登り、傍観して居る。
だから、戎を莽に伏せ、其の高陵に升り、という。
要するに、九三は不義を目論むとしても、それは容易なことではないと計り知り、妄りに露にせず、深く隠して、全く企て謀ることがない者の如くにして居ることの譬えである。
その九三の姦計邪謀は、周密ではある。
しかし、かの九五の爻は、そもそも剛健中正の徳が有り、文事も武備も完璧であり、つけいる隙がない。
したがって九三の邪謀は、悉く不発にして、いつまで経っても、戎兵を実際に動かすときは来ないのである。
だから、三歳まで興されず、という。
三とは多数の義にして、いつまで経っても、戎を興し兵を挙げるべきときは来ない、ということである。
これもまた、邪謀を隠秘しつつも、実行せずに未遂で終わる譬えである。
なお、ここに吉凶の記載がないのは、もとより不義の邪謀なので、吉と言わないのは勿論だが、その事が未遂に終わり発覚しないので、直ちに凶とも言えないのである。
上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
九四、乗其墉、弗克攻、吉、
九四(きゅうし)、其(そ)の墉(かき)に乗(の)れり、攻(せ)むること克(あた)は弗(じ)、吉(きち)なり、
墉とは、物の障り隔てを為すということで、下の九三の爻を喩えたのである。
この九四の爻もまた六二の一陰の女子に、同じくしよう(親密になろう)と求める者である。
しかし六二を求め得ることの難しさは九三よりも甚だしい。
九四は六二の応位でも比位でもない。
その上、六二は九五と正応なのだから、その九五は九四の敵でもある。
また六二の比爻の九三の?により、六二と九四の間は障り隔てがある。
このように、九四には仇敵が前後に在る。
したがって九四は、まず九三の隔ての墉に登り、前後両敵の様子を伺うのである。
だから、その様子を指して、其の?に乗れり、という。
そもそも九四が六二の女子を得るためには、まず九三の墉の隔てを攻め破り、次いで六二の正応の夫である九五を攻め亡ぼさなければいけない。
しかし、九三は同じ陽剛であるばかりか、陽位に在る陽だから過剛の強敵であり、九五は君位に居る陽なのだから、剛健中正の文武具足している英勇なので、所詮九四の力の及ぶ相手ではない。
そこで九四は、その自分に勝ち目のないことをよく察して、この事この念を思い止まるのである。
したがって禍に陥らず、害を免れて、却って無事安穏の福を得るのである。
だから、攻むること克は弗、吉なり、という。
上九━━━
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六二━ ━
初九━━━
九五、同人先号咷而後笑、大師克相遇、
九五(きゅうご)、人(ひと)と同(おなじ)くすせんとて先(さき)には号咷(ごうちょう)し、後(のち)には笑(わら)う、大(だい)なる師(いくさ)克(か)ちて相遇(あいあ)う、
今、同人の時に遇い、九五は正応の六二に応じて同じくしようとするが、その中間に九三九四の二陽爻が有り、障り隔てていて、このままでは容易に応じられない。
そもそも九五は、六二の正応の夫であり、六二と同じくしようとする情は、九三や九四よりも激しいのである。
したがって、その応じ同じくできない困難を嘆き悲しみ、号咷=泣き叫ぶ。
だから、人と同じくせんとて先には号咷し、という。
しかし、ただ泣き叫んでいても仕方ないので、九三と九四の障り隔てを排除するために、大なる師=軍隊を出し、これを征伐する。
九五は君位であり、九五が出す軍隊が強力でないわけがない。
したがって、終には九三九四に攻め克ち、九五は無事に六二と相遇うことを得て、喜び笑うのである。
だから、後には笑う、大なる師克ちて相遇う、という。
ただし、この九五は君位であるとしても、その君徳は、篤厚とは言えない。
九五君上の道は、天下の億兆を赤子とし、遍く仁沢をもって養い育て、教え化すことである。
これは万古不易の典則である。
しかし今、このように六二の一臣のみと同じくしようとすることは、偏私の愛情である。
また、夫としては、妻のことで軍隊を動かすなど、醜いことである。
これでは、人君としての徳量においては、軽く薄いと言わざるを得ない。
したがって、聖人剛健中正の義は取らず、その心の様子を、号咷、笑うと、感情的に表現する。
このように感情的なのは、小人嬬女の状態にして、大人君子の有るべきところではない。
およそ易の経文で、このような感情的な表現を書いている箇所は、吉凶の言葉はないとしても、その感情的な態度を戒め質し責めているのであって、それを斟酌して解釈するのが正しいのである。
上九━━━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
上九、同人于郊、无咎、
上九(じょうきゅう)、人(ひと)と同(おな)じくすること郊(こう)に于(お)いてすれば、咎(とが)无(な)し、
同人の卦は、五陽爻が共に六二の一陰爻に同じくしようとしている時である。
その中にあっても、特に初九と九三は、六二の両比爻なので、比し同じくしようとする思いが専らな者である。
九四は比でも応でもないが、二五正応の間に挟まり、五よりはやや二に近いので、六二に同じくしようとする思いは、初と三に次ぐ者である。
九五はもとより六二の正応の爻なので、その応じて同じくしようとする思いは、初三四よりも増している。
そんな卦中で、唯一この上爻だけは、二五正応の外に居て、しかも、六二とは応でも比でもない。
したがって、この上九だけは、ひとり広く人と同じくして、咎や悔いのない爻とする。
だから、人と同じくすること郊に于いてすれば、咎无し、という。
郊とは城外の地のことで、野に比較すれば狭く小さい場所を指す。
卦辞では、野に于いて、と言っているわけだが、その野よりは劣るが、六爻中にては、この郊が最も優れていることになる。
卦辞は全体の徳を説き、単に同じくする道を教えて「野」と言っているのである。
それが爻辞では、相対する者を以って説いているのである。
もとよりこの上九の爻も、陰陽の定情により、最初から六二を求め同じくしようとする思いがなかったわけではない。
しかし、六二の正応である九五の爻のさらに外に居て、六二とは遥かに隔たっているし、六二とは応も比もないので、まったく縁がないのである。
したがって、その六二を求める思いを、やむを得ず断念したのである。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


