
07地水師 爻辞
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○
初六、師出以律、否臧凶、
初六(しょりく)、師(し)を出(いだ)すに律(りつ)を以(も)ってす、臧(よか)ら否(ざ)れば凶(きょう)なり、
初六は師の卦の初めなので、師を出そうとするとき、すなわち出陣のときの心構えを説く。
戦争のとき、その軍の勝敗生死は、すべて将帥の判断にかかっている。
その将帥が勝つためにまずやるべきことは、その軍の規律をきちんとすることである。
規律がいい加減なときは、将帥の命令がきちんと伝わらず、兵士は味方に不安を持ち、敵を怖れ、その勇気は折れ萎む。
これでは、まず負ける。
一方、規律が厳正なときには、兵士は味方に自信を持ち、敵を怖れず、勇敢に戦う。
したがって、勝機が見えてくる。
要するに、勝敗の岐路は、規律がきちんとしているか否かなのである。
だから、師を出だすに律を以ってす、という。
もし、規律がきちんとしていない軍隊ならば、たとえ仁義の師にして将帥が智勇であったとしても、命令指揮が上手く行かず、兵隊は将帥の思い通りには動かず、敗喪を免れない。
だから、これを深く戒めて、臧ら否れば凶なり、という。
さて、この爻に凶と言い、吉と言わないのは、たとえ自軍がよく規律を整えたとしても、相手もまた規律を正しくして相対するときは、絶対勝つとは言い切れない。
まして規律を失えば、身を亡ぼし家を破り国を滅ぼすところの凶が有ることは必定である。
だから、安易に吉とは言わないのである。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━
九二、在師中吉、无咎、王三錫命、
九二(きゅうじ)、師(し)に在(あ)りて中(ちゅう)なれば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、王(おう)三(み)たび命(めい)を錫(たま)う、
九二は剛中の才徳があり、成卦の主爻である。
これは、よく元帥総大将の任に堪える者である。
そもそもこの九二の爻は、陽剛であることから知徳も有り、威厳も強い。
かつ陰位に居るので、温柔の徳もある。
また、剛中であることから、よく六五の君と陰陽相応じている。
したがって、才知と徳量と忠信とすべて具足している上に、寛仁と威厳と相中することを得て、威と和と並び行うので、その任を辱めない英勇の爻である。
その上、衆陰の兵士が、九二の元帥に服し従っている様子でもある。
だから、師に在りて中なれば吉なり、咎无し、という。
師に在りてとは、軍隊にいること、中なればとは剛中の徳があること、吉とは敵に勝ち国土を治め得ることを言う。
咎无しとは、殺人をしてもそれは戦争だから止むを得ないことなので、道に違わない、ということである。
が、ともかく九二は、その剛中の徳を以って軍隊を整え、敵に勝ち国を得る勲功があるので、六五の君上より、数々の恩命を錫わり、その功労にいろいろな褒美を錫わる。
だから、王三たび命を錫う、という。
三は多数のことで、恩賞の厚く多いことをいう。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━
六三、師或輿屍、凶、
六三(りくさん)、師(し)屍(しかばね)を輿(の)すること或(あ)り、凶(きょう)なり、
六三の爻も内卦の極位に居る者にして、即ち一部隊の長とするのだが、ここは内卦の極であって、外卦の敵と今まさに一戦交えようとしているところである。
しかし六三は陰柔不中にして、知もなく勇もない。
にも関わらず、陽位に居るを以ってその志のみ強く、なおかつ内卦の極に在るを以って妄りに躁(さわ)ぎ進む爻である。
このような志行では、一部隊の長としては問題である。
大いに負喪するのは目に見えている。
だから、師、屍を輿すること或り、という。
凶とは、敗北して自軍の兵士を戦死させることを言う。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六四、師左次、无咎、
六四(りくし)、師(し)次(やどり)を左(しりぞ)く、咎(とが)无(な)し、
次(やどり)を左(しりぞ)くとは、軍営を退くことである。
六四もまた一部隊の長たる者とするのだが、もとより陰柔にして才知無く志も柔弱である。
ただし、その柔正を得ているので、軽率に躁(さわ)ぎ、妄りに進む過失は少ない。
今、六四の部隊は、敵と戦うには不利な場所にいるのだが、それに気付いて引き退き、敵からの攻撃が難しい場所に陣を移し、警衛防御を怠るようなことはない。
だから、次(やどり)を左(しりぞ)く、という。
したがって、六三の部隊が大敗するときも、六四の部隊は堅く陣を守って敗れることはない。
これは、進んで敵に勝つような吉事はないが、敗喪の凶もない。
だから、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六五、田有禽、利執言、无咎、長子帥師、弟子輿屍、貞凶、
六五(りくご)、田(かり)に禽(えもの)有(あ)り、執言(しつげん)するに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、長子(ちょうし)ならば師(し)を帥(ひき)い、弟子(ていし)ならば屍(しかばね)を輿(の)す、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、
田とは猟をする場所を指す。
禽とは鳥獣のこと、執とは執獲(捕獲征伐)することである。
今、逆臣害民の乱賊あって、天下の人民を残害することがあれば、九五の君は将帥を選び命じて王者の仁義の軍隊を出し、これを征伐せよと教える。
貧暴残忍を事とし、善良な人々を傷害する者は、これすでに人に非ざるを以って、禽獣に喩えるのであって、逆に言えば、禽獣が稼穀を食い害することを、賊徒に喩えたのである。
だから、田に禽有り、という。
このような賊徒は、放っておくのではなく、執獲(捕獲征伐)することのほうが善である。
だから、執言するに利ろし、という。
言は中国語の慣習による助字であって、禽と言を協韻させたものである。
賊徒を征伐することは、たとえそれが殺人であっても、止むを得ないことであり、公道の大義には悖らない。
だから、咎无し、という。
さて、六五の君が仁義の軍隊を出すに当たっては、まず、その元帥たる総大将を選ばないといけない。
このとき、九二のような剛中の才徳ある者を選び、委ね任せれば、賊を討ち、よく国をの治めて、吉となる。
これが、六三のような陰柔にして智謀のない粗忽な者を用いれば、必ず屍を輿せ、全軍敗退の大凶となろう。
六四にしても、六三よりはマシではあるが、やはり総大将の任に堪える者ではない。
そして易は、五を君の位とし、父の位とするので、臣の位を子とする。
したがって、二の臣を陽剛の才徳あるとして長子、三と四の臣を陰柔で二には劣る者として弟子とする。
だから、長子ならば師を帥い、弟子ならば屍を輿することあり、という。
ただしここで二を長子とするのは、あくまでも陽剛の才徳あるからであって、年齢の序列ではない。
年齢の序列によって兄弟を弁別し、才徳がない長兄を総大将とするのではなく、あくまでも本人の才徳を以って総大将を選ばないといけないのである。
身分や序列に固執して、能力のない者を総大将にするようでは、戦争に勝てるわけがない。
非常時は平穏なときとは違うのである。
だから、貞くするは凶、という。
ここでの貞は、貞固=固執の意である。
上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上六、大君有命、開国承家、小人勿用、
上六(じょうりく)、大君(たいくん)の命(めい)有(あ)り、国(くに)を開(ひら)き家(いえ)を承(う)けしむ、小人(しょうじん)は用(もち)うること勿(なか)れ、
この上六の爻は、戦いが終わり、天下の治安が回復し、その軍功に対して恩賞が行われるときの心得を示している。
大君とは天子のことを、すなわち六五の君位の爻を指す。
今は、天子より命が下り、軍功の大なる者には、国を与えて諸侯とし、軍功の小さい者には家を与え、卿大夫とするときである。
だから、大君の命有り、国を開き家を承けしむ、という。
ただし、小人不徳者には、軍功があっても封土を与えて人民の上に立たせてはいけない。
せいぜい金品を与える程度にしておくのがよい。
小人は国家万民のためではなく、自分の利益のために戦い、たまたま軍功を上げたに過ぎないのである。
もし、そのような者に封土を与えてしまったら、その封土の人民は小人の悪政に苦しむことになるだろうし、そこから新たな乱が萌芽することもあろう。
だから、小人は用うること勿れ、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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六五━ ━
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初六━ ━○
初六、師出以律、否臧凶、
初六(しょりく)、師(し)を出(いだ)すに律(りつ)を以(も)ってす、臧(よか)ら否(ざ)れば凶(きょう)なり、
初六は師の卦の初めなので、師を出そうとするとき、すなわち出陣のときの心構えを説く。
戦争のとき、その軍の勝敗生死は、すべて将帥の判断にかかっている。
その将帥が勝つためにまずやるべきことは、その軍の規律をきちんとすることである。
規律がいい加減なときは、将帥の命令がきちんと伝わらず、兵士は味方に不安を持ち、敵を怖れ、その勇気は折れ萎む。
これでは、まず負ける。
一方、規律が厳正なときには、兵士は味方に自信を持ち、敵を怖れず、勇敢に戦う。
したがって、勝機が見えてくる。
要するに、勝敗の岐路は、規律がきちんとしているか否かなのである。
だから、師を出だすに律を以ってす、という。
もし、規律がきちんとしていない軍隊ならば、たとえ仁義の師にして将帥が智勇であったとしても、命令指揮が上手く行かず、兵隊は将帥の思い通りには動かず、敗喪を免れない。
だから、これを深く戒めて、臧ら否れば凶なり、という。
さて、この爻に凶と言い、吉と言わないのは、たとえ自軍がよく規律を整えたとしても、相手もまた規律を正しくして相対するときは、絶対勝つとは言い切れない。
まして規律を失えば、身を亡ぼし家を破り国を滅ぼすところの凶が有ることは必定である。
だから、安易に吉とは言わないのである。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
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九二━━━○
初六━ ━
九二、在師中吉、无咎、王三錫命、
九二(きゅうじ)、師(し)に在(あ)りて中(ちゅう)なれば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、王(おう)三(み)たび命(めい)を錫(たま)う、
九二は剛中の才徳があり、成卦の主爻である。
これは、よく元帥総大将の任に堪える者である。
そもそもこの九二の爻は、陽剛であることから知徳も有り、威厳も強い。
かつ陰位に居るので、温柔の徳もある。
また、剛中であることから、よく六五の君と陰陽相応じている。
したがって、才知と徳量と忠信とすべて具足している上に、寛仁と威厳と相中することを得て、威と和と並び行うので、その任を辱めない英勇の爻である。
その上、衆陰の兵士が、九二の元帥に服し従っている様子でもある。
だから、師に在りて中なれば吉なり、咎无し、という。
師に在りてとは、軍隊にいること、中なればとは剛中の徳があること、吉とは敵に勝ち国土を治め得ることを言う。
咎无しとは、殺人をしてもそれは戦争だから止むを得ないことなので、道に違わない、ということである。
が、ともかく九二は、その剛中の徳を以って軍隊を整え、敵に勝ち国を得る勲功があるので、六五の君上より、数々の恩命を錫わり、その功労にいろいろな褒美を錫わる。
だから、王三たび命を錫う、という。
三は多数のことで、恩賞の厚く多いことをいう。
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初六━ ━
六三、師或輿屍、凶、
六三(りくさん)、師(し)屍(しかばね)を輿(の)すること或(あ)り、凶(きょう)なり、
六三の爻も内卦の極位に居る者にして、即ち一部隊の長とするのだが、ここは内卦の極であって、外卦の敵と今まさに一戦交えようとしているところである。
しかし六三は陰柔不中にして、知もなく勇もない。
にも関わらず、陽位に居るを以ってその志のみ強く、なおかつ内卦の極に在るを以って妄りに躁(さわ)ぎ進む爻である。
このような志行では、一部隊の長としては問題である。
大いに負喪するのは目に見えている。
だから、師、屍を輿すること或り、という。
凶とは、敗北して自軍の兵士を戦死させることを言う。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
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初六━ ━
六四、師左次、无咎、
六四(りくし)、師(し)次(やどり)を左(しりぞ)く、咎(とが)无(な)し、
次(やどり)を左(しりぞ)くとは、軍営を退くことである。
六四もまた一部隊の長たる者とするのだが、もとより陰柔にして才知無く志も柔弱である。
ただし、その柔正を得ているので、軽率に躁(さわ)ぎ、妄りに進む過失は少ない。
今、六四の部隊は、敵と戦うには不利な場所にいるのだが、それに気付いて引き退き、敵からの攻撃が難しい場所に陣を移し、警衛防御を怠るようなことはない。
だから、次(やどり)を左(しりぞ)く、という。
したがって、六三の部隊が大敗するときも、六四の部隊は堅く陣を守って敗れることはない。
これは、進んで敵に勝つような吉事はないが、敗喪の凶もない。
だから、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六五、田有禽、利執言、无咎、長子帥師、弟子輿屍、貞凶、
六五(りくご)、田(かり)に禽(えもの)有(あ)り、執言(しつげん)するに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、長子(ちょうし)ならば師(し)を帥(ひき)い、弟子(ていし)ならば屍(しかばね)を輿(の)す、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、
田とは猟をする場所を指す。
禽とは鳥獣のこと、執とは執獲(捕獲征伐)することである。
今、逆臣害民の乱賊あって、天下の人民を残害することがあれば、九五の君は将帥を選び命じて王者の仁義の軍隊を出し、これを征伐せよと教える。
貧暴残忍を事とし、善良な人々を傷害する者は、これすでに人に非ざるを以って、禽獣に喩えるのであって、逆に言えば、禽獣が稼穀を食い害することを、賊徒に喩えたのである。
だから、田に禽有り、という。
このような賊徒は、放っておくのではなく、執獲(捕獲征伐)することのほうが善である。
だから、執言するに利ろし、という。
言は中国語の慣習による助字であって、禽と言を協韻させたものである。
賊徒を征伐することは、たとえそれが殺人であっても、止むを得ないことであり、公道の大義には悖らない。
だから、咎无し、という。
さて、六五の君が仁義の軍隊を出すに当たっては、まず、その元帥たる総大将を選ばないといけない。
このとき、九二のような剛中の才徳ある者を選び、委ね任せれば、賊を討ち、よく国をの治めて、吉となる。
これが、六三のような陰柔にして智謀のない粗忽な者を用いれば、必ず屍を輿せ、全軍敗退の大凶となろう。
六四にしても、六三よりはマシではあるが、やはり総大将の任に堪える者ではない。
そして易は、五を君の位とし、父の位とするので、臣の位を子とする。
したがって、二の臣を陽剛の才徳あるとして長子、三と四の臣を陰柔で二には劣る者として弟子とする。
だから、長子ならば師を帥い、弟子ならば屍を輿することあり、という。
ただしここで二を長子とするのは、あくまでも陽剛の才徳あるからであって、年齢の序列ではない。
年齢の序列によって兄弟を弁別し、才徳がない長兄を総大将とするのではなく、あくまでも本人の才徳を以って総大将を選ばないといけないのである。
身分や序列に固執して、能力のない者を総大将にするようでは、戦争に勝てるわけがない。
非常時は平穏なときとは違うのである。
だから、貞くするは凶、という。
ここでの貞は、貞固=固執の意である。
上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上六、大君有命、開国承家、小人勿用、
上六(じょうりく)、大君(たいくん)の命(めい)有(あ)り、国(くに)を開(ひら)き家(いえ)を承(う)けしむ、小人(しょうじん)は用(もち)うること勿(なか)れ、
この上六の爻は、戦いが終わり、天下の治安が回復し、その軍功に対して恩賞が行われるときの心得を示している。
大君とは天子のことを、すなわち六五の君位の爻を指す。
今は、天子より命が下り、軍功の大なる者には、国を与えて諸侯とし、軍功の小さい者には家を与え、卿大夫とするときである。
だから、大君の命有り、国を開き家を承けしむ、という。
ただし、小人不徳者には、軍功があっても封土を与えて人民の上に立たせてはいけない。
せいぜい金品を与える程度にしておくのがよい。
小人は国家万民のためではなく、自分の利益のために戦い、たまたま軍功を上げたに過ぎないのである。
もし、そのような者に封土を与えてしまったら、その封土の人民は小人の悪政に苦しむことになるだろうし、そこから新たな乱が萌芽することもあろう。
だから、小人は用うること勿れ、という。
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漢字は原則として新字体で表記しています。
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(C) 学易有丘会


