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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

地水師 爻辞

07地水師 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、師出以律、否臧凶、

初六(しょりく)、師(し)を出(いだ)すに律(りつ)を以(も)ってす、臧(よか)ら否(ざ)れば凶(きょう)なり、

初六は師の卦の初めなので、師を出そうとするとき、すなわち出陣のときの心構えを説く。
戦争のとき、その軍の勝敗生死は、すべて将帥の判断にかかっている。
その将帥が勝つためにまずやるべきことは、その軍の規律をきちんとすることである。
規律がいい加減なときは、将帥の命令がきちんと伝わらず、兵士は味方に不安を持ち、敵を怖れ、その勇気は折れ萎む。
これでは、まず負ける。
一方、規律が厳正なときには、兵士は味方に自信を持ち、敵を怖れず、勇敢に戦う。
したがって、勝機が見えてくる。
要するに、勝敗の岐路は、規律がきちんとしているか否かなのである。
だから、師を出だすに律を以ってす、という。
もし、規律がきちんとしていない軍隊ならば、たとえ仁義の師にして将帥が智勇であったとしても、命令指揮が上手く行かず、兵隊は将帥の思い通りには動かず、敗喪を免れない。
だから、これを深く戒めて、臧ら否れば凶なり、という。

さて、この爻に凶と言い、吉と言わないのは、たとえ自軍がよく規律を整えたとしても、相手もまた規律を正しくして相対するときは、絶対勝つとは言い切れない。
まして規律を失えば、身を亡ぼし家を破り国を滅ぼすところの凶が有ることは必定である。
だから、安易に吉とは言わないのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、在師中吉、无咎、王三錫命、

九二(きゅうじ)、師(し)に在(あ)りて中(ちゅう)なれば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、王(おう)三(み)たび命(めい)を錫(たま)う、

九二は剛中の才徳があり、成卦の主爻である。
これは、よく元帥総大将の任に堪える者である。
そもそもこの九二の爻は、陽剛であることから知徳も有り、威厳も強い。
かつ陰位に居るので、温柔の徳もある。
また、剛中であることから、よく六五の君と陰陽相応じている。
したがって、才知と徳量と忠信とすべて具足している上に、寛仁と威厳と相中することを得て、威と和と並び行うので、その任を辱めない英勇の爻である。
その上、衆陰の兵士が、九二の元帥に服し従っている様子でもある。
だから、師に在りて中なれば吉なり、咎无し、という。
師に在りてとは、軍隊にいること、中なればとは剛中の徳があること、吉とは敵に勝ち国土を治め得ることを言う。
咎无しとは、殺人をしてもそれは戦争だから止むを得ないことなので、道に違わない、ということである。
が、ともかく九二は、その剛中の徳を以って軍隊を整え、敵に勝ち国を得る勲功があるので、六五の君上より、数々の恩命を錫わり、その功労にいろいろな褒美を錫わる。
だから、王三たび命を錫う、という。
三は多数のことで、恩賞の厚く多いことをいう。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、師或輿屍、凶、

六三(りくさん)、師(し)屍(しかばね)を輿(の)すること或(あ)り、凶(きょう)なり、

六三の爻も内卦の極位に居る者にして、即ち一部隊の長とするのだが、ここは内卦の極であって、外卦の敵と今まさに一戦交えようとしているところである。
しかし六三は陰柔不中にして、知もなく勇もない。
にも関わらず、陽位に居るを以ってその志のみ強く、なおかつ内卦の極に在るを以って妄りに躁(さわ)ぎ進む爻である。
このような志行では、一部隊の長としては問題である。
大いに負喪するのは目に見えている。
だから、師、屍を輿すること或り、という。
凶とは、敗北して自軍の兵士を戦死させることを言う。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六四、師左次、无咎、

六四(りくし)、師(し)次(やどり)を左(しりぞ)く、咎(とが)无(な)し、

次(やどり)を左(しりぞ)くとは、軍営を退くことである。
六四もまた一部隊の長たる者とするのだが、もとより陰柔にして才知無く志も柔弱である。
ただし、その柔正を得ているので、軽率に躁(さわ)ぎ、妄りに進む過失は少ない。
今、六四の部隊は、敵と戦うには不利な場所にいるのだが、それに気付いて引き退き、敵からの攻撃が難しい場所に陣を移し、警衛防御を怠るようなことはない。
だから、次(やどり)を左(しりぞ)く、という。
したがって、六三の部隊が大敗するときも、六四の部隊は堅く陣を守って敗れることはない。
これは、進んで敵に勝つような吉事はないが、敗喪の凶もない。
だから、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六五、田有禽、利執言、无咎、長子帥師、弟子輿屍、貞凶、

六五(りくご)、田(かり)に禽(えもの)有(あ)り、執言(しつげん)するに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、長子(ちょうし)ならば師(し)を帥(ひき)い、弟子(ていし)ならば屍(しかばね)を輿(の)す、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、

田とは猟をする場所を指す。
禽とは鳥獣のこと、執とは執獲(捕獲征伐)することである。
今、逆臣害民の乱賊あって、天下の人民を残害することがあれば、九五の君は将帥を選び命じて王者の仁義の軍隊を出し、これを征伐せよと教える。
貧暴残忍を事とし、善良な人々を傷害する者は、これすでに人に非ざるを以って、禽獣に喩えるのであって、逆に言えば、禽獣が稼穀を食い害することを、賊徒に喩えたのである。
だから、田に禽有り、という。
このような賊徒は、放っておくのではなく、執獲(捕獲征伐)することのほうが善である。
だから、執言するに利ろし、という。
言は中国語の慣習による助字であって、禽と言を協韻させたものである。
賊徒を征伐することは、たとえそれが殺人であっても、止むを得ないことであり、公道の大義には悖らない。
だから、咎无し、という。

さて、六五の君が仁義の軍隊を出すに当たっては、まず、その元帥たる総大将を選ばないといけない。
このとき、九二のような剛中の才徳ある者を選び、委ね任せれば、賊を討ち、よく国をの治めて、吉となる。
これが、六三のような陰柔にして智謀のない粗忽な者を用いれば、必ず屍を輿せ、全軍敗退の大凶となろう。
六四にしても、六三よりはマシではあるが、やはり総大将の任に堪える者ではない。
そして易は、五を君の位とし、父の位とするので、臣の位を子とする。
したがって、二の臣を陽剛の才徳あるとして長子、三と四の臣を陰柔で二には劣る者として弟子とする。
だから、長子ならば師を帥い、弟子ならば屍を輿することあり、という。
ただしここで二を長子とするのは、あくまでも陽剛の才徳あるからであって、年齢の序列ではない。
年齢の序列によって兄弟を弁別し、才徳がない長兄を総大将とするのではなく、あくまでも本人の才徳を以って総大将を選ばないといけないのである。
身分や序列に固執して、能力のない者を総大将にするようでは、戦争に勝てるわけがない。
非常時は平穏なときとは違うのである。
だから、貞くするは凶、という。
ここでの貞は、貞固=固執の意である。

上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上六、大君有命、開国承家、小人勿用、

上六(じょうりく)、大君(たいくん)の命(めい)有(あ)り、国(くに)を開(ひら)き家(いえ)を承(う)けしむ、小人(しょうじん)は用(もち)うること勿(なか)れ、

この上六の爻は、戦いが終わり、天下の治安が回復し、その軍功に対して恩賞が行われるときの心得を示している。
大君とは天子のことを、すなわち六五の君位の爻を指す。
今は、天子より命が下り、軍功の大なる者には、国を与えて諸侯とし、軍功の小さい者には家を与え、卿大夫とするときである。
だから、大君の命有り、国を開き家を承けしむ、という。
ただし、小人不徳者には、軍功があっても封土を与えて人民の上に立たせてはいけない。
せいぜい金品を与える程度にしておくのがよい。
小人は国家万民のためではなく、自分の利益のために戦い、たまたま軍功を上げたに過ぎないのである。
もし、そのような者に封土を与えてしまったら、その封土の人民は小人の悪政に苦しむことになるだろうし、そこから新たな乱が萌芽することもあろう。
だから、小人は用うること勿れ、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会



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天水訟 爻辞

06天水訟 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、不永所事、小有言、終吉、

初六(しょりく)、事(こと)とする所(ところ)を永(なが)くせざれば、小(すこ)しく言(いうこと)有(あ)れども、終(お)わりに吉なり、

この卦は、九五の君位の爻以外、すべて訟(うった)える側の者とする。
したがって、この初六の爻辞の中にある「事」というのは、訟えることを指す。
その初六は、坎の険難の底に陥り、その身は困窮している者であって、哀しみ嘆き、その状況を訟えたい意はあるのだが、陰柔不才の卑賤なので、上を畏れ官を恐れて、強いて訟えを遂げることを為し得ない。
要するに、訟えようとする情意は小さく、訟えると言うとやや大袈裟なので、事と言ったのであり、ちょっと不満を言ってみた程度のことである。
だから、事とする所を永くせざれば、という。
そんな些細なことでも、それを口に出して訟えれば、相手からは当然のこととして反論を言われ、自分もちょっと傷つくものである。
だから、小しく言有れども、という。
しかし、訟えを是が非でも遂げようとはせず、すぐ引っ込めるのであるから、それで事は穏便に済む。
だから、終わりに吉なり、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、不克訟、帰、而逋、其邑人三百戸无眚、

九二(きゅうじ)、訟(うった)えに克(か)たず、帰(かえ)る、而(しこう)して逋(のが)る、其(そ)の邑人(ゆうじん)三百戸(さんびゃくこ)眚(わざわ)い无(な)し、

この九二の爻は、訟の主謀、成卦の主爻、また内卦の主爻である。
これは衆を集めて徒党を組み、訟(うった)え出る張本人であって、剛中の才を以って進み行き、九五の爻と争い弁じる者である。
しかし、元来九五は上であり、君であり、中正にして乾の剛健厳律の主爻である。
この九二は下にあり、臣であり、不正にして坎の険難陥没の主爻である。
この両者を比較すれば、九二が九五に勝つのは極めて難しい。
だから、訟えに克たず、という。
そもそも九二は、その勢いも才力も、九五と対等だと思い込み、強いて冒し進んで訟え、九五と争うが、その義は立たず、その理は屈して、散々に敗北させられるのである。
敗北して九五のところから本位の二の位に帰っても、その本位にも居られず、逋(のが)れ逃亡することになる。
だから、帰る、而して逋る、という。

さて、九二は下卦坎の主爻であるわけだが、これを一邑(村)の長に擬えると、この訟はその邑を挙げてのものである。
邑の民衆の支援を得た九二は、強いて進んで九五に訟え争ったが、結局は敗北して帰り、さらには逃亡した。
その結果、訟えの首謀者はいなくなった。
首謀者がいなくなれば、その集団は何もできない。
したがって、支援した邑の民衆も、何もできなくなり、これ以上訟えることは止めた。
訟えることを止めれば、九五もそれ以上咎めない。
だから、其の邑人三百戸眚无し、という。
三百は多数の意であり、その邑全体が無事だということである。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、食旧徳、貞、終吉、或従王事、无成、

六三(りくさん)、旧徳(きゅうとく)に食(は)む、貞(かた)くすれば(あやう)し、終(お)わりには吉(きち)なり、王事(おうじ)に従(したが)うこと或(あ)れど、成(な)すこと无(なか)れ、

六三は坎の険難の卦の極に居るので、その身に険難がある者とする。
その険難とは、坎を食禄とすれば、食禄費用が不足して困窮している様子だから、その不足を九五に訟え嘆こうとしているのである。
しかし、六三は陰柔にして才力がないので、進み犯すことを憚り、己が無能なることを省みて、訟えを思い止まる者である。
だから、旧徳に食む、という。
旧徳とは旧禄のことにして、祖先より承け伝えた世禄である。
なぜ、禄と言わずに徳と言うのかには、深く重い戒めを込めている。
平和な世の禄というものは、当人のではなく、その祖先の功徳によって賜っている俸給世禄である。
それを打ち忘れて六三の爻は、自身には徳も功もなく、妄りに加増を望んでいるのであって、だから制し戒めているのである。
もし、その志を改めずに、強いて加増を望み訟えれば、これは危うき道である。
だから、貞くすればし、という。
この貞は貞固の意である。
したがって、加禄を求め望むことを改め変じて、よく慎み、旧職を守るときには、無事なのである。
だから、終わりに吉なり、という。
そして、君命を受けて、事に任じられることがあるときは、直向にその役に従事するべきである。
仮に、よくその事を勤め得たとしても、決して自分のチカラだとは考えないことである。
まして、賞を乞い望むなどはもってのほかである。
臣は自身のために事をするのではなく、君命を畏み、忠勤に励むことこそが大事なのである。
だから、王事に従うこと或れども、成すこと无かれ、という。

上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━


九四、不克訟、復即命渝、安貞吉、

九四(きゅうし)、訟(うった)えに克(た)えず、復(かえっ)て命(めい)に即(つ)き渝(あらた)めて、貞(つね)に安(やす)んじれば吉(きち)なり、

この九四もまた、九五の君に訟えようと欲することがある者である。
しかし、九四は上卦乾の一体に在って、九五の君に近接している爻なので、朝夕覿面に、九五の君の剛健中正にして威厳荘重な様子を見ている。
とすると、己は不中不正であるのだから、その訟えに利がないことはよくわかる。
これは、訟えを自重するしかない。
だから、訟えに克えず、という。
そうであるのなら、九四は道に復(かえ)って天命に即(つ)き、志を正しきに改め変じて、一に君上に従い順(したが)うのがよい。
だから、復って命に即き渝めて、という。
さて、九四が志を改め道に復るに当たっては、変革のない貞恒の臣の大道を安んじ守ることを吉とする。
だから、貞に安んじれば吉なり、という。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五、訟元吉、

九五(きゅうご)、訟(うった)えをきく、元吉(げんきち)なり、

九五は剛健中正にして、よく天下の訟えを聴くところの明決の主爻である。
訟えを聴き定める君は、まず剛でなくてはいけない。
剛でないときは、威厳が軽い。
また、中でなければ偏私の弊害が生じる。
正しくないときには、邪曲に覆われ暗まされる。
しかし今、この九五の爻は、剛中正の三徳をきちんと具えている。
なおかつ陽爻なので明にして、乾の卦の中に在るを以って、決断敏利である。
その上、九五が陰に変じて、上卦の乾が離となれば、離明の徳を得て聡明にして文徳が盛んな様子となる。
このように九五は、訟えを聴く君としての資質を悉く備えているのである。
だから、訟えをきく、元吉なり、という。
元吉とは大善の吉ということである。

なお、九五の爻の義は、訟の卦全体の義を以って言えば、上卦乾の厳格の主であることを以って、下の者がこれに困(くるし)み、止むを得ず訟えることになる主爻とする。
これが、六爻の義を以って言うときには、剛健中正の徳が有り、よく訟えを聴く公正文明の君上とする。
これは卦と爻の分別のポイントである。
基本として言えば、卦は陰陽の交わり和する徳を以って論じ、爻は中正の徳を以って主とするものなのである。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上九、或錫之鞶帯、終朝三褫之、

上九(じょうきゅう)、これが鞶帯(はんたい)を錫(たま)わること或(あ)り、終朝(しゅうちょう)に三(みた)び之(これ)を褫(うば)わる、

上九は陽剛を以って訟の卦の極に居る。
また、上卦乾剛の卦の極に当たってもいる。
これは、己の才力を振りかざして訟えを起こし、必ず勝つことを貪る者である。
事の是非を顧みずに勝とうと貪る者は、得てして自分に都合のよいように、真実を歪曲して欺くものである。
上九は、そうやって手段を選ばずに訟えに勝つので、上より鞶帯を錫わり、恩寵を受けるのである。
だから、これが鞶帯を錫わること或り、という。
鞶帯とは、衣服を飾る帯のことである。
しかし、そういった邪知姦才を以って勝ち取っても、すぐにその邪謀は露見し、忽ち錫わった鞶帯も取り上げられる辱めを蒙るものである。
だから、終朝に三たび之を褫わる、という。
終朝とは、朝が終わるときのことであって、ある朝、訟えに勝ち、鞶帯を錫わっても、その朝が終わるまでには姦計が露見して、取り上げられてしまう、ということである。

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水天需 爻辞

05水天需 爻辞

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、需于郊、利用恒、无咎、

初九(しょきゅう)、郊(こう)に需(ま)てり、用(もち)いて恒(つね)あるに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、

需は待つという意の卦である。
内卦の乾の三陽剛は、その「進む」という意の卦爻の性情により、共に進もうとするのだが、進もうとする先には外卦の坎の険難があり、進めない。
したがって、今は進むのを堪え、進めるときが至るのを待つしかない。
その待つに当たっての、初爻、二爻、三爻と、外卦の坎の険難の卦との遠近をもって、各爻辞が書かれた。

初九は、坎の険難の水から最も遠い場所でなので、郊という。
郊とは広遠の地にして、水辺から遠いところを指す。
また易は、二爻から五爻までを域内とし、初と上を域外とするのだが、郊は郊外という言葉があるように、域外を指す文字でもある。
だから、郊に需てり、という。

初九は内卦乾の「進む」の卦の一体に在って、陽剛にして不中であり、今は需の待つときだとしても、妄りに軽々しく進もうと欲する情がある爻である。
もし、そのまま自重せずに進むときには、必ず応爻の六四の険難に陥る。
だから、これを制し戒めて、恒を用いるに利ろし、という。
恒とは変動しないことである。
今、初九は、よく恒を守り、妄りに進み動かなければ、険難に陥るという害を免れるので、咎もないのである。
だから、咎无し、という。
初九と六四は陰陽相応じていて、普通の応の関係は相助け合うものだが、この卦この爻は、助け合うのではなく、却って険難に陥らせて害そうとするのである。
これを害応という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、需于沙、小言、終吉、

九二(きゅうじ)、沙(すな)に需(ま)つ、小(すこ)しく言(いうこと)あれども、終(お)わりには吉(きち)なり、

沙は郊に比べれば、やや水に近く、九二は初九よりひとつ坎の水の険難に近い。
だから、沙に需つ、という。
九二は、初九よりも坎の水の険難に近づいたわけだが、近づいたことで、少し傷みを被る可能性がある。
したがって、ちょっと忠告しておくのである。
だから、小しく言うことあれども、という。
しかし、そもそも九二の爻は、中の徳を得ているので、乾の進むの卦の体中に居るとしても、進むに専らではなく、よく時を待ち、災いに至らないようにする者である。
だから、最後には無事を得るので、終わりには吉なり、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、需于泥、致寇至、

九三(きゅうさん)、泥(ひじりこ)に需(ま)つ、寇(あだ)の至(いた)ることを致(いた)す、

泥は水際の地であり、九三の爻は直ちに坎の水の険難に隣接しているので、その居場所は九二よりもひとつ危険である。
だから、泥に需つ、という。
寇とは、害が大きいことを言う。
九三は乾の進むの卦の極に居て、過剛不中である。
これは、進むことだけしか考えていない爻である。
しかも、僅かに一歩進んだだけで、忽ち六四の坎の険難に陥る場所であり、至極危険な爻である。
と言っても、その六四の害悪の寇は、向こうから来るわけではない。
すべて、九三が待ち切れずに、こちらから進んだときに、六四の寇を誘い来たすのである。
だから、寇の至ることを致す、という。
九三と六四は陰陽相比していて、普通の比の関係は相助け合うものだが、この卦この爻は、助け合うのではなく、初九と六四の害応のように、却って険難に陥らせて害そうとするのである。
これを害比という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六四、需于血、出自穴、

六四(りくし)、血(ち)に需(ま)つ、穴(あな)自(よ)り出(い)ず、

血とは、直ちに傷害を被る場所であることを指す。
六四はすでに坎の険難に陥り、傷害を被っている。
だから、血に需つ、という。
もとより六四は、陰柔不才にして、坎の険難を遁れ出るべき才力はない。
しかし、陰位に居る陰柔なので、その志は弱く、焦って動こうともせず、坎の穴の中で、時が過ぎるのを待っている者である。
待っていれば、いつか初九の陽剛が応じ来て、六四を救い出してくれる。
だから、穴自り出ず、という。
穴とは険悪の地の喩えである。

ところで、初九のときは六四を害応としたが、この六四の爻を主体に観ると、初九は相助けてくれる応なのである。
このように易は、主体として観る爻の違いにより、相対する爻との関係も異なってくるのであって、これを見極めないと、判断を誤るのである。


上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九五、需于酒食、貞吉、

九五(きゅうご)、酒食(しゅしょく)に需(ま)つ、貞(ただ)しくして吉なり、

酒は宴楽全般を指す。
食とは、身を養うことを指す。
九五は至尊の位置に在って剛健中正の徳はあるが、坎の険難の主爻でもある。
したがって、今は民衆に充分なことを施せない。
とすると、食を以って民を養い育て、酒を以って民を楽しませることが可能になるときを待つのが大事である。
だから、酒食に需つ、という。
そのときを待つのには、必ず貞正であることが大事である。
だから、貞しくして吉なり、という。


上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上六、入于穴、有不速之客、三人来、敬之終吉、

上六(じょうりく)、穴(あな)に入(い)れり、速(まね)かざる客(きゃく)、三人(さんにん)来(き)たること有(あ)り、之(これ)を敬(けい)すれば終(おわ)りには吉(きち)なり、

上六は坎の険難の極に陥り居て、不中にして重陰である。
重陰とは、陰位に陰が居ることを言う。
だから、穴に入れり、という。
穴とは坎の険難のことである。
しかし上六は、需の全卦の終わりである。
需のときの義は、そろそろ尽きようとしている。
したがって、内卦の乾の三陽剛が、そのときを待ち得て進み来るのも近い。
だから、速かざる客三人来たること有り、という。

上六は重陰不中にして、坎の険難の極に陥って、陰弱にして自力で出ることができないが、幸いに九三に応じている。
その九三は今、応じているので、時を得て進み来て、これを救い出す。
もとより初九と九二とは上六の爻の応でも比でもないが、初二三は共に内卦乾の一体なので、九三が応として進み来て助ければ、初と二も共に連なり進んで相助けるのである。
したがって、上六はこの三人を敬すれば、終りには坎の険難から脱出できるのである。
だから、之を敬すれば終わりに吉、という。

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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山水蒙 爻辞

04山水蒙 爻辞


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、発蒙、利用刑人、用説桎梏、以往吝、

初六(しょりく)、蒙(もう)を発(ひら)くべし、用(もち)いて人(ひと)を刑(けい)し、用(もち)いて桎梏(しっこく)を説(ぬきとか)しむるにに利(よ)ろし、以(もっ)て往(な)すは吝(はずか)し、

初六は陰柔不才、不中不正であり、なおかつ六爻の最下に居て、さらには下卦坎の険難の底に陥り、その身は艱難困窮の爻とする。
およそ無知蒙昧な者は、その志行が不中不正にして、己の身に険難困窮が迫る時には得てして罪咎を犯すものである。
この初六は、まさにそういう者である。
そこでこの爻辞は、その無知蒙昧な者が険難に困苦して罪を犯したときの、改心させる道を説くのである。
人が罪過を犯すのは、その人の心が垢や汚れで陰暗になることによる。
心が陰暗であれば、物事を明らかに把握できず、善悪の区別がつかず、まるで子供のような無知蒙昧な状態になってしまう。
だからまず、蒙を発くべし、という。
蒙を発くとは、蒙昧な者を啓蒙して明らかになるよう指導することである。
しかし、無知蒙昧な者に対しては、犯した罪の善悪を言葉で教え諭すだけでは、理解されない。
子供に善悪を教えるときには「おしおき」が必要なように、ある程度の刑罰が必要である。
手枷足枷すなわち桎梏で自由を奪い、反省させるのである。
ただし、そうして拘束され、罪を悔やみ、自ら反省する善心が萌芽した時には、速やかにその桎梏を外して自由にするべきである。
だから、用いて人を刑し、用いて桎梏を説(ぬきとか)しむるに利ろし、という。
ところが、反省してもさらに刑を与え続けたままでいると、その罪人は罪を悔やむどころか、却って反抗心を強くし、将来、大悪の魁首ともなる可能性が出てくる。
これは、刑罰を与える者として、最も恥ずべきことである。
心から反省しても、刑罰をそのまま続けるのは、イジメである。
だから、以って往(な)すは吝(はずか)し、という。
往すとは、反省しても刑を与え続けることを言う。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、包蒙吉、納婦吉、子克家、

九二(きゅうじ)、蒙(もう)を包(か)ぬ吉(きち)、婦(ふ)を納(い)る吉(きち)、子(こ)家(いえ)を克(よくおさ)む、

九二は臣の位置であり、この九二の臣は剛中の才徳が有り、六五柔中の君に応じ、天下群陰の蒙昧を包容して、よく治める者である。
だから、蒙を包ぬ吉、という。
これは、君上がよく大臣に委ね任して国家を治めている様子である。

また、九二を妻の位置とすれば、その妻が剛中の貞徳を以って六五の夫に仕え、群陰の侍女を統帥して、その家政を斉えている様子である。
これは理想的な妻であり、こういう女性を娶るのがよい。
だから、婦を納る吉、という。
婦を納るとは、女性を娶ることである。

また、九二を子の位置とすれば、この子が剛中の才徳を以って六五の父に仕えて、よく家業を継ぎ治めている様子である。
だから、子、家を克(よくおさ)む、という。

爻は、二を臣とすれば五を君とし、二を妻とすれば五を夫とし、二を子とすれば五を父母とするのである。
この三義をひとつの文章にまとめたのが、この爻辞である。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、勿用取女、見金夫、不有躬、无攸利、

六三(りくさん)、女(おんな)取(めと)るに用(もち)いる勿(なか)れ、金夫(きんぷ)を見(み)れば、躬(み)を有(たも)たず、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

六三は陰柔不才、不中不正の志行の爻である。
これは、女子であれば不貞節であり、娶るべきではない者である。
だから、女取るに用いる勿れ、という。
六三は上九に応じ、九二に比している。
応は遠くにいる正式な夫、比は言うなれば近くにいる不倫相手である。
この六三の女子は、不中不正であるために、近くにカッコイイ男性を見つけると、すぐチョッカイを出し、遠くにいる夫を蔑ろにする傾向がある。
だから、金夫を見れば、躬を有(たも)たず、という。
金夫とは九二を指す。
才徳がある陽爻だから、金と形容しているのである。
ともあれ、すぐに近くの男性と不倫するような女性を妻とするのは、よいこととは言えない。
だから、利ろしき攸无し、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六四、困蒙、吝、

六四(りくし)、蒙(もう)に困(くる)しむ、吝(はずか)し、

六四は陰柔不才にして、なおかつ応も比もない。
これは、性質が暗昧惰弱の者にして、賢師範も良友もいない様子である。
応がないことは賢師範がいないこと、比がないことは良友がいないことである。
したがって、生涯その蒙を発(ひら)くことはなく、困窮し、恥辱に耐えながら暮らすしかない。
だから、蒙に困しむ、吝し、という。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

六五、童蒙、吉、

六五(りくご)、童蒙(どうもう)のごとくならば、吉(きち)

六五は柔中の徳が有り、九二に応じ、上九に比している。
その九二は賢明剛中の才徳が有り、成卦の主爻であって、よく六五の君を補佐する賢臣である。
また、上九は剛明の才徳が有り、王者の師の位置に居て、よく六五の君を教導輔弼する者である。
したがって六五の君は、自身が陰柔であることを弁え、富貴栄誉を欲することなく、謙虚に六二の賢臣に委ね任せ、上九の賢師の助言に降り服し、その純心精一なることが、童子のように天真自然であれば、吉である。
だから、童蒙のごとくならば吉、という。

上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上九、撃蒙、不利為寇、利禦寇、

上九(じょうきゅう)、蒙(もう)を撃(う)、寇(あだ)と為(な)さしむるに利(よ)ろしからず、寇(あだ)を禦(ふせ)ぐに利(よ)ろし、

この卦は四陰二陽にして、四陰はすべて蒙昧な者である。
二陽は共に剛明にして、よく蒙を発(ひら)く者である。
ことに九二の爻は、剛中の徳が有るので、その寛容と厳格の度合いも丁度よい者である。
これに対して上九は、剛明の才力有れども卦の極に居り、かつ不中不正である。
したがって、厳格に過ぎる傾向にある。
だから、蒙を撃つ、という。
蒙昧な者に教え諭すのではなく、敵を撃つかのような言行になってしまいがちだ、ということである。
初九の蒙を発くの「発」、九二の蒙を包ぬの「包」の字と比較すれば、「撃」の過激さはわかるだろう。
そもそも人に何かを教える師としての道は、厳律を主とするものではあるが、厳刻に過ぎると、教えられる者は僻んで愛し慕う純心さを失うだけではなく、その厳刻さを避け逃れようとして、遂には欺き偽りを生じ、寇仇のような反抗心を醸すに至るものである。
これは、その師たる者の寛容と厳格との中を得ない過失である。
例え、教え導くのに手間取ったとしても、師弟が寇仇のようになることはよくない。
だから、寇と為さしむるに利ろしからず、という。
これは要するに、師範たる者の過失がないようにと、予め戒めているのである。
師の道の大切なことは、童蒙の暗昧なる者から旧染の悪習弊風を除き去り、これより以後の外誘の邪蕩陰佚を防ぎ止めて、日々に善に遷らせることに在る。
だから、寇を禦ぐに利ろし、という。

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水雷屯 爻辞

03水雷屯 爻辞

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、盤桓、利居貞、利建侯、

初九(しょきゅう)、盤桓(はんかん)たり、貞(つね)に居(お)るに利(よ)ろし、建(た)ちて侯(きみ)たるに利(よ)ろし、

盤桓とは、進もうとして進み難く、立ち尽くす様子。
貞は貞常の意。
この初九の爻は、屯難のときに当たって、内卦震の動くの卦の主爻である。
しかし妄りに動き進むと、六四の坎の険難の穴に陥る。
震の主爻としての性により、進もうとするが、上卦に坎の険難が有って、進み難いのである。
妄りに応じ往くときには、必ずその険難に陥る。
だから、盤桓として、立ち尽くすのである。

確かに、初九と六四は応じているが、この場合は、相助けるのではなく、却って傷害する者なのである。
これを害応と称す。
害応とは、応じてはいるが、通常の応とは逆に、助け合わず、却って敵対する者同士のことを言う。
この卦の初九と六四とは、その害応なので、初九は貞常(つね)を守り、妄りに動かないことを宜しいとする。
だから、貞に居るに利ろし、という。

そもそもこの初九は成卦の主爻であり、陽剛の才能力量があり、それでも衆陰爻の最下に居る。
これは謙遜の道を用いて、よく民の心を掴んでいるからである。
まして、震の主にして正位を得ていのだから、よく世間の屯難を解消し、天下を救う才徳力量ある豪傑の爻である。
したがって、六五の君から、礼を以って優待され、諸侯として封ぜられるようならば、辞し拒むことなく、建って侯となるべきである。
だから、建ちて侯たるに利ろし、という。

なお、卦辞には、九五の君の立場で、初九を取り立てて侯とするべきだとして、侯を建てるに利ろし、とあるが、初九はその取り立てられる侯なので、その侯の立場で、建ちて侯たるに利ろし、というのである。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、屯如邅如、乗馬班如、匪寇婚媾、女子貞不字、十年乃字、

六二(りくじ)、屯如(ちゅんじょ)たり邅如(てんじょ)たり、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、寇(あだ)するに匪(あら)ず婚媾(こんこう)せんとす、女子(じょし)貞(ただ)しくして字(あざな)せず、十年(じゅうねん)にして乃(すなわ)ち字(あざな)ゆるす、

屯如とは、屯難のとき、進み難きとき、といった意である。
邅如とは、同じ場所をぐるぐる回る、といった意である。
班如とは、進もうとしつつ退こうとする優柔不断な様子である。

さて、この六二の爻は、臣の位に居て、九五に応じてはいる。
としても、元来が陰柔不才にして、天下の屯難を解消して、九五の坎の険難の主を救うほどの能力はない。
これでは、臣としての指針を提案することはできない。
そこで、陰爻であることから女子として、爻の意義を解説する。

六二を女子とするときには、中正を得ているので貞正な女子とする。
既に九五正応の夫は有るが、屯難のときなので、往ってその世話に従事することはできない。
夫を慕う情から、進み従いたいと思い願っても、屯難の障壁があって行けない。
だから、屯如たり?如たり、という。
だとしても、その進み行きたい思いは、急迫であり、馬に乗って駆けて行きたい、とも考える。
しかし、屯難のときにして、往くことは無理である。
でも、きっぱりと往くのを諦めることもできない。
だから、馬に乗りて班如たり、という。

このとき、初九の男子が、比爻であることを以って、六二を娶って配偶にしようと言い寄って来る。
しかし初九の思いとは裏腹に、六二の女子は中正の徳が有るので、その節操を正しくして、初九の求めに応じず、却って初九を忌み避けること、寇仇のように思う。
初九は寇として害を加えようとしているのではなく、単に婚媾を求めているだけである。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
不貞節の女子ならば、得てして近くの男子に靡きやすく、遠い男子は忘れてしまいがちである。
遠距離恋愛でも、同様だろう。
六二は中正の徳が有るからこそ、初九の比爻を忌み避けて、専らに九五の正応を待つのであって、これは、その貞操の堅く正しいからこそのことである。
だから、女子貞(ただ)しくして字(あざな)せず、という。
字せずとは、嫁入りを承諾しない、ということである。
古代中国の女子は、嫁入りのときに、新たな名前を付け、それを字(あざな)と呼んだ。
ちなみに男子は、一人前になると、字を名乗った。

十年にして乃ち字ゆるす、というのは、屯難の障害が解けるのを待って、正応の九五に嫁ぐ、ということである。
そもそも数は一に始まり十に終わる。
したがって、十年とは数の極を用いた喩えであって、ある期間が過ぎることを示す。
ある期間とは、乃ち屯難の障害が解けるまで、ということである。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、即鹿、无虞、惟入于林中、君子幾、不如舎、往吝、

六三(りくさん)、鹿(しか)に即(つ)き、虞(ぐ)无(な)し、惟(ひとり)林中(りんちゅう)に入(い)る、君子(くんし)は幾(きざし)をみる、舎(やむる)に如かず、往(ゆ)くは吝(はずか)し、

六三は屯難のときに当たって、その身は陰柔不才にして、その志と行いとは不中不正であり、なおかつ内卦の極に居る。 これは人位改革の危地にして、僅かに一歩進めば忽ち外卦坎険の中に陥るのである。
とすると、日夜に戦々兢々と惧れ慎むべきではあるが、内卦震の動き進むという卦の極に居るので、妄りに進み動いて止まらない性情がある。
しかも、応爻比爻の援助もない。
したがって、己の利欲のみで、危うき地をも省みず、妄りに動き進むだけで、己を諭し導き教える賢師範や善い朋友もいないのである。
とすれば、終には罪咎に陥り、身を滅ぼし、家を喪うに至るというものである。
だからこれを、鹿を追う者が、地元の案内人も無いのに、自己判断で危うき地をも省みずに林中に入り、鹿を獲ることだけに気を取られ、いつしか険難に陥る、ということに喩える。
鹿に即き、虞无し、惟林中に入る、とは、地元の案内人もいないのに、鹿を見つけたので、とにかく獲ようとして、そのまま道も分らない林中へついて行く、ということである。
鹿を追うには、その土地に詳しい人の案内がなければ危険である。
林の中に入れば、道に迷うこともあるし、崖から転落することもあるだろう。
虞とは、地元の案内人のことである。

この六三は内卦の震の極であるが、同時に三爻~五爻に至る倒震の極でもある。
倒震とは、震を逆にした形、要するに艮のことである。
八卦の震は、木とし、繁るとする卦である。
内卦震の極であり三~五の倒震の極でもある六三は、震の木々が繁る中に当たる。
また、三~五の艮の最下とすれば、山の麓の木々が繁るところである。
だから、惟(ひとり)林中に入る、という。

さて、鹿を追って勝手にひとりで林中に入るのは、言うなれば愚か者である。
君子ならば、冷静に状況を察知し、止めるのが一番だと考え、引き返すものである。
このように、この爻に遇う人は、決して財禄利欲を遂げ得ることは不可能であるのは勿論だが、だからこそこのまま進めば己の身を害する可能性を察知して、速やかに改め、退き守るべきなのである。
もしも舎(や)めずに欲を遂げようとし続ければ、愚か者と辱められ、吝かしきに至る。
だから、君子は幾を見る、舎むるに如かず、往くは吝し、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六四、乗馬班如、求婚媾、往吉、无不利、

六四(りくし)、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、婚媾(こんこう)を求(もと)めらるれば、往(ゆ)きて吉(きち)、利(よ)ろしからざる无(な)し、

六四は陰柔不才である。
これでは、坎の険難に陥っている君を救い天下の屯難を解き済(すく)うことが不可能なのは勿論である。
が、さらには、自身の屯(なや)みの解決を、格下の初九の応爻に求める者である。
これでは、執政大臣の位置だとしても、股肱の大臣とは言えない。
そこで、六二のように、陰爻であることから女子のこととして、爻の意義を解説する。
六四を女子とするときには、柔正を得ているので、貞静の女子とする。
六二は屯如?如・・・等と、困難辛苦の様子であるが、この六四の爻の辞には、難みの言葉は少ない。
この異同軽重の違いは、次のようなことである。
六二は初九の剛に乗っていて、屯難の時の初めに居る。
これは、これからの難(なや)みが最も深い様子である。
六四は九五の剛に承(う)けているとしても、屯難の世は、早くも内卦を経て半ばは過ぎ去っているので、これからの難みは軽く浅い。
だから六四の辞には、深刻さが薄いのである。
そもそも、承けると乗るとでは、乗るの難みの方が甚だしいのである。

とは言っても、屯難のときではあるので、六四の陰爻はその応爻の助けを求めることが、至って急切である。
これは六二が九五に往こうと欲するのと同じである。
だから、馬に乗りて班如たり、という。
しかし、六四は屯難の時も半ばを過ぎている。
六二のように十年待つといったようなことはない。
したがって、初九の正応より親しく婚媾を求められたら、往って嫁いで吉なのである。
だから、婚媾を求めらるれば往きて吉、という。

さて、六二の正応の夫九五は、外卦坎の険難の主爻であって、ここへ往くのは、わざわざ険難の中に飛び込むことである。
だから、十年でも険難が解消するのを待ってから往けという。
これに対し、六四の正応の夫初九は、内卦震の「為ること有る」という意を持つ卦の主爻であって、ここへ行くのは、険難からの脱出でもある。
険難から脱出し、「為ること有る」という前向きな意を持つ卦のところへ往って嫁ぐのに、何の悪いことがあるだろうか。
だから、利ろしからざる无し、という。


上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、屯其膏、小貞吉、大貞凶、

九五(きゅうご)、其(そ)の膏(こう)に屯(なや)む、小(しょう)には貞(ただ)しくして吉、大(だい)には貞(かた)くするは凶(きょう)なり、

九五は君位に居る。
一方では初九の成卦の主爻が、内卦震の為ること有るの主爻にして、下に在って大いに勢いを得て、六二はこれに比し、六四はこれに応じている。
したがって、天下の勢いは二分されている。
しかし九五の君は、坎の険難の中に陥って、屯難甚だしく、この情勢を打開する術はなく、膏を民に施すことができない。 膏とは、恩恵のことである。
そもそもこの爻に膏のことを言うのは、この卦が雷雨の盈満する様子を具えるとともに、この爻が坎水の主爻であって、坎水は天が地に施す恩恵であるところの雨である。
だから、其の膏に屯む、という。

さて、今は屯難のときだが、それでも日常の小さな事ならば、貞正を守っていれば、通じて吉である。
だから、小事には吉、という。
としても、道が開けるといった意ではない。
困ったときは平常心を失いやすいものなので、日常のことまで狼狽して上ずらないようにとの戒めも込められている。

日常のことがなんとかなるとしても、君主としては、屯難をそのままにしてはおけない。
抜本的に対策を講じようと考えることもあるだろう。
しかし、賊を討ち、乱を鎮圧し、天下の屯難を解き済(すく)うような一大事に臨んでは、時宜に通ぜず、権変に達せず、貞固となり、徒に旧例先格に固執してしまうと、却って大いに事を誤ってしまう。
だから、大事には貞くするは凶、という。


上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上六、乗馬班如、泣血漣如、

上六(じょうりく)、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、血(ち)に泣(な)くこと漣如(れんじょ)たり、

上六は、坎の険難の卦の極に居るが、ここはまた、全体の極でもある。
しかも、己が身は陰柔不才にして、応援もなく、また、九五の陽剛に乗っている。
これは屯難の至極な者である。
したがって、その屯難に苦しみ救いを求めることを急ぐ様子は、馬に乗って駆けて行くが如くである。
しかし、応の助けを求めるべきところはないので、進退決意できない。
だから、馬に乗って班如たり、という。
漣如とは、涙が連なって落ち続ける様子である。
血に泣くとは、憂患困苦が甚だしく、血の涙を流すほどであることであって、険難の至極を示す。
だから、血に泣くこと漣如たり、という。

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坤為地 爻辞

02坤為地 爻辞


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、履霜堅氷至、

初六(しょりく)、霜(しも)を履(ふ)みて堅氷(けんぴょう)至(いた)る、

六とは、老陰のこと。
詳細は乾為天初九のところを参照。
霜とは冬の寒さの陰気が始めて結晶したものである。
さらに陰気が強くなって寒くなると、雪が降り、水面には堅い氷が張るようになる。
その前兆である。
また、初爻は足元の位置である。
霜は足元の地面に張るものであり、足で履(ふ)むものである。
だから、霜を履みて、という。

ちなみに、人体に爻位を当てはめるときは、各卦によって多少の違いはあるが、概ね初爻を足、二爻を脛~膝あたり、三爻を股、四爻を腹、五爻を胸~顔、上爻を首~頭とする。
特に沢山咸や艮為山の爻辞は、人体と爻位の関係が中心になっている。

さて、坤為地は十二消長で言えば旧暦十月、冬の始まりのときの卦である。
寒い朝、歩くときにサクサクと霜を履むようになると、冬の訪れを感じるものだが、それから寒さは次第に増長し、やがて雪が降り、ついには水面は堅い氷に覆われるに至る。
これは自然の摂理である。
したがって、霜を履むようになったら、やがて堅氷が至ることを覚悟しないといけない。
だから、霜を履みて堅氷至る、という。

陰邪姦悪が萌芽するときは、初めは微弱にして初霜のようにすぐ消えてしまうようなことであっても、そのまま改めなければ、ついには堅い氷のような大悪に至るであろうことは、必定である。
ほんのちょっとした気の緩みが、徐々に規律を乱し、その乱れた規律の中で最後には大惨事を招いてしまうのである。
特に人間は、安易な方向に流れやすいものである。
だからこそ、霜を履む程度ならまだ間に合うから、気を引き締めて軌道修正することが大事だと諭しているのである。
なお、逆に、ほんのちょっとした善行をすれば、いつかそれが堅い氷のように広がる、という意もある。
とにかく、物事の始まりは、ほんのちょっとしたことであって、それがその行く末に繋がっているのである。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、直方大、不習无不利、

六二(りくじ)、直(ちょく)方(ほう)大(だい)なり、習わざれども利(よ)ろしからざる无(な)し、

直は順直ということ。
六二は柔順中正にして、少しの歪み曲がりなく角ばることもないことをいう。
これは内徳(自分自身の生き方)についてのことである。
方とは方形(四角形)のことで、方形は円の対であって、円は陽にして天の形の象徴、方形は陰にして地の形の象徴である。
天空の星は北極星を中心に円運動しているのであって、大地は田畑がそうであるように方形に区切って使うと便利だからである。
円形の物体は、一旦動き出したら、なかなか止まらないものだが、これは陽の属だからである。
対する方形の物体は動かそうにもなかなか動かないものだが、これは陰の属だからである。
また、方とは方正のことであり、これは外徳(他人に対する接し方)についてのことである。
大とは広大ということで、坤地の生育の功徳が広大なことをいう。

このように、直とは順直にして徳を持って言い、方とは方正にして形を以って言い、大とは広大にして功を以って言うのである。
この卦は純陰だから、坤=地の道である。
したがって、臣の道であり、妻の道である。
また、この爻は六二だから、地の位であり、臣の位であり、妻の位である。
中の徳を得て正しき道を得た、成卦の主爻である。

成卦の主爻とは、その卦を成立させるとともに、その卦の中心となる徳性を具えた爻を言う。
この坤為地の卦の六爻中では、初と三は不中不正、上と四は正は得ているが不中、五は中を得てはいるが不正であり、ただひとつこの六二の爻だけが柔順中正を得ていて、坤陰地道の全徳を具足しているのである。
だからこれを称えて、直方大、という。
中を得るとは、構成する八卦の真ん中の位置すなわち二と五の位置にあることを言う。
正とは、陰位(二四上の偶数位)に陰爻、陽位(初三五の奇数位)に陽爻があることを言う。

およそ天下の事理は、習うことで、それを知り、記憶し、上達するものだが、すでに順直方正広大の全徳を具足しているのだから、これ以上に習う必要はない。
だから、習わざれども利ろしからざる无し、という。
无不利は、反語の文法にして、利ろしきことの至極なるを言う。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、含章、可貞、或従王事、无成有終、

六三(りくさん)、章(あや)を含(ふく)めり、貞(つね)ある可(べ)し、王事(おうじ)に従(したが)うこと或(あ)らば、成(な)すこと无(な)くして終(お)わり有(あ)るべし、

章とは、事が成ることをいう。
文がひとつのまとまりとして形を成したものを文章というのは、そのためである。
ここでは、人の才能が有ることに喩える。
これは、雷火豊六五の、章を来たす、というのも同様である。

この坤為地は六爻純陰であり、陰は臣だから、臣下の卦象である。
したがってこの三爻も臣下にして、柔順である。
しかし、六五の君位もまた陰柔にして、三と五の関係は応でも比でもない。
とすると、この六三は、臣下だけど、その君に知られない者である。
君上に知られない臣下であるのなら、たとえ自己に才能や器量が有っても、それを懐に深く包み蔵(かく)して、よく時を待つべきである。
妄りにその才能を発露するときには、却って君上に忌み嫌われる恐れが有る。
だからこれを戒めて、章を含めり、という。
含むとは、内に有(たも)ち、外に出さないことである。

要するに、気心の知れない人から意見されると、それがどんなに正しくても、不快に感じることがある。
何かを言うのであれば、まず互いに気心が知れてからにするのが大事なのであって、今はまだ互いに相手との接点がない、ということである。

なおかつこの爻は、不中不正である。
しかも内卦の極に居るのだから、その心術身行もまた不中不正である。
人知らざるを慍(うら)み怒る振る舞いがないようにと、戒めて、貞常(つね)であるべし=貞ある可し、という。
貞常というのは、臣下の君上に仕え、子の父に仕え、妻の夫に仕える常の道のことである。

したがって、その遇不遇には構わず、忠信を主とし、誠実を尽くして、決して変革を求めないことである。
この六三の爻は、内卦より外卦へ、将に遷り転じようとする場所であり、人位の危うき地である。
殊更に、丁寧謹篤に惧れ慎むべき位である。
それでも、もしも君上から命令があれば、忠信誠実を尽くして公事に従い勉め励むことである。
ただし、よく己を慎み、命令を守り、少しでも自分が成したことを手柄にしようなどとは考えずに、その公事を完了することである。
だから、王事に従うことあらば、成すこと无くして終わり有るべし、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六四、括嚢、无咎无誉、

六四(りくし)、嚢(ふくろ)を括(くく)る、咎(とが)も无(な)く誉(ほま)れも无(な)し、

坤は臣の卦にして、この爻は君位に近く、柔順にして正を得ている。
しかし陰爻なので、六五の君と親しく比してはいない。
これは君上から信頼信用されない大臣である。
このときに当たっては、嚢(ふくろ)の口を括る如くに口を塞ぎ、発言しないようにするのがよい。
そうすれば、咎もなく、誉れもなく、災いに至ることはない。
だから、嚢を括る、咎も无く誉れも无し、という。
そもそも自分も含めて、賢明な陽がひとりも居ないのが、この卦である。
賢明な人がひとりも居なければ道は無いに等しい。
したがって、道が無い時の大臣は、ひたすら愚者の如くにしているのがよい、ということでもある。
咎无しとは、道に違わないので災難がない、ということである。
誉れ无しとは、為し行うことがないので功名もない、ことである。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六五、黄裳元吉、

六五(りくご)、黄裳(こうしょう)元吉(げんきち)

黄は中央の土の色であり、中の喩えである。
ここで言う中とは、忠信の忠のことである。
裳は衣裳の下の服であり、臣下の喩えである。

この卦は、初六から六四までは、六五の位を君上として解説している。
定位では五が君主の位置であることから、そうしているのである。
しかし今、五の爻を観ると、君上とは言いにくいのである。
そもそも坤の卦は、純陰なのだから、全体が臣下の卦徳なのである。
したがって、六五も直ちに君上とはせず、臣下の高位厚爵の重職にある大臣とするのが適切である。
しかも、柔中の徳を具えているので、大臣にして忠信篤く、臣節固く、よく国家を輔弼して、臣たる道を守る者である。
だから、黄裳元吉、という。
もしもこの位に臨み、この時に遇い、この黄裳の忠信の道を守るならば大善の吉である。
しかし、臣下としての分を弁えず、忠信ならざるときは、大悪の凶である。
『春秋左氏伝』昭公十二年には、この卦この爻を得て、この黄裳の忠信の義を守らなかったために、身も家も敗走してしまった、という故事がある。
もとよりこの卦は純陰にして、陰の勢いが盛大である。
そこで、六五の爻は君位に当たるので、この時この位に当たる人の、その威福権勢に乗じて臣下たる道を失い、或いは君家を蔑視することを深く惧れ憂い、黄裳なるときは元吉、ならざるときは大凶だ、と諭すのである。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上六、竜于野戦、其血玄黄、

上六(じょうりく)、竜(りょう)野(や)に戦(たたか)う、其(そ)の血(ち)玄黄(げんこう)なり、

竜野に戦うとは、二つの竜が野に戦うことである。
もとより竜は陽の属であり、野は陰の属である。
戦うとは、陰陽が敵対して闘い迫り撃つことである。
其の血とは、戦いで流す血であって、その傷害の甚だしい様子を示す。
玄黄とは、天地の色にして、陰陽の両方が傷害を被ることを示す。

この卦は純陰にして、この上爻はこれまた卦の極に居る。
これは、陰の勢いが盛大至極な者である。
初六の爻にて霜を履む時から進んで、この上六のときは、要するに堅き氷に至ったときである。
陰の勢いが盛大に至れば、必ず陽を剥し尽くそうとし、臣の勢い壮ん至れば必ず君を凌ぎ侵そうとするものである。
妻の夫に於けるも同様である。
すでに剥し尽くそうとし、凌ぎ侵そうとするに至るときには、その勢いは必ず戦いになるものである。
すでに戦いに至れば、盛大であっても、所詮は陰であり臣下である。
相手は衰微したとしても陽であり君上である。
とすれば、簡単には決着が付かない。
したがって陰陽君臣双方が傷害を被るのである。


上六━ ━○
六五━ ━○
六四━ ━○
六三━ ━○
六二━ ━○
初六━ ━○

用六、利永貞、

用六(ようりく)、永(なが)く貞(つね)あるに利(よ)ろし、

用六とは、本筮法や中筮法で占い得たとき、すべての爻が老陰すなわち爻卦が坤のときをいう。
なお、略筮法で占うときには、この用六の爻辞は使う機会がない。

この坤為地は純陰にして全体の意は、臣の道、妻の道である。
もとより臣と妻とは柔順純誠にして、君や夫に対して順徳を固く守り、その志を変じ革めることが無いのを第一の徳とする。
しかし今ねこの用六のときは、全卦六爻が悉く変じ動こうとする。
したがって、その志が変わることを恐れるのである。
だから、深く戒めて、永く貞あるに利ろし、という。
この貞は、貞常(つね)という意である。
恒常のこととして、永く、陰の道、臣の道、妻の道を固く守り、不変であれば、それが大善であって、少しでも変動することは大凶悪の道だと、警戒しているのである。

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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乾為天 爻辞

01乾為天 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、潜竜 勿用、

初九(しょきゅう)、潜竜(せんりょう)なり、用(もち)いる勿(なか)れ、

爻(こう)はそれぞれ、陽ならば九(きゅう)、陰ならば六(りく)という。
乾為天はすべて陽爻だから、どれも九と付く。

そもそも九とは、老陽の称である。
易は八卦の属性を数字で表現するとき、少陽を七、少陰を八、老陰を六とし、老陽を九とする。
根拠は、陽を三、陰を二として計算することにある。
老陽は乾のことで、乾は陽三本で構成されているから、三+三+三で九、
少陽は震、坎、艮のことで、それぞれ陽一本に陰が二本だから、三+二+二で七、
少陰は巽、離、兌のことで、それぞれ陽二本に陰一本だから、三+三+二で八、
老陰は坤のことで、坤は陰三本で構成されているから、二+二+二で六、
ということである。
易は、陰極まって陽になり、陽極まって陰になると考える。
爻辞とは、その爻が、変化しようとしているときの対処を書いたものである。
したがって、陰陽それぞれが極まった老陽老陰の数の九、六を以って、その爻を呼ぶのである。

また、初というのは、最下が始まりだからである。
易の卦は、占うとき、下から積み上げて行くものだから、最初に得られるのは最下の爻である。
したがって最下を初と言い、上に向かって順に、二、三、四、五の爻とし、最上を上と言う。

竜は通常「りゅう」と読むが、正式には「りょう」と読む。
漢字の音読みには、漢音と呉音の別がある。
呉音は言わば方言であって、漢音が正式なのである。
しかしながら、日本には最初、呉音で漢字が入って来たことから、その呉音で読まれることが多い。
竜を「りゅう」と読むのも呉音であり、漢音では「りょう」となる。
江戸時代の一時期、易を初めとする中国古典は漢音で読むべきだ、とされたことがあった。
丁度、中州の時代である。
したがって、他の漢字も含め、音読みは呉音で慣れ親しんでいたとしても、敢えて漢音を用いるのである。
漢数字の六も、呉音では「ろく」だが、漢音では「りく」と読む。
なお、読みやすさ分りやすさを考慮して、このブログでは、呉音や慣用音で読むことにした字も一部にある。

さて、竜は陽物にして、大小自在に変化し、地に潜み、水に躍り、飛んで天に在るときは雲を起して雨を成す。
実に霊変不測の神物である。
また、乾は天であり、天の徳は雨をもって主とするのだが、その雨を自由に操るものこそ竜である。
だからこれを乾の卦の六爻に喩え、君子の徳に擬えたのである。
潜むとは、隠れ伏すということである。
六画卦における三才は、上爻と五爻を天位、四爻と三爻を人位、二爻と初爻を地位とする。
ただし初爻は地下の位でもある。
初九は、竜が地下に潜み隠れて、未だ地上に出ていないときである。
だから、潜竜という。
君子ならば、身を立て名を顕すのには、用いるべきではないときである。
だから、用いる勿れ、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、見竜在田、利見大人、

九二(きゅうじ)、見竜(けんりょう)田(でん)に在(あ)り、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、

九二は地上の位置である。
初九の潜竜が地上に現れたのである。
だから、見(あらわ)るる竜、という。
田とは地の上面にして、百穀を発生し、人命を養育し、功徳利益莫大な、よい土地の称である。
大人とは九五の爻を指す。
九五の爻は君の定位であり、二の爻は臣の定位である。
この卦は二五君臣の爻、ともに剛中の徳が有るを以って、同徳相応じているものとする。
およそ易は、陰陽相応じるを以って、相応じ相助けるのが通例である。
しかしこの卦は、二五ともに同じ陽剛にして、相応じ相助けるのである。
なぜなのか?
それは、この卦が乾の純陽剛健の卦であり、乾の円満進動の時を示しているからであり、爻を以って言えば、二五ともに剛中の徳が有る。
以上のことから、同徳を以って相応じ相助けるとするのである。
このように、両剛相応じているとするのは、他に山天大畜の九三と上九、沢水困の九二と九五、雷火豊の初九と九四、巽為風の九二と九五、兌為沢の初九と九四および九二と九五、風水渙の九二と九五、水沢節の九二と九五、風沢中孚の九二と九五などがある。

なお、この乾為天の九二の爻には、三才の義も具わっている。
見竜とは、天の時を得たことである。
在田とは、地の利を得たことである。
利見大人とは、人の和を得ることである。
およそ君子という者は、まず自分自身によく九二の如き才徳を具え、九二の如き時を得たならば、九五の如き目上の有徳有位の大人に会って、その徳業を天下に普く施すのがよろしいのである。
吉という字はないが、吉であることは明らかである。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、君子終日乾乾、夕若、无咎、

九三(きゅうさん)、君子(くんし)終日(しゅうじつ)乾(つと)め乾(つと)む、夕(ゆう)べに若(てきじゃく)たれば、(あやう)けれども咎(とが)无(な)し、

ここでの君子は、学者を指す。
この爻は三才に配すると人位である。
だから竜とは言わず、君子と称する。
乾乾とは、健々というが如く、勉めて止まない様子である。
夕は夕方だけを指すのではなく、終夜=夜を徹してということであり、終日に対しての言葉である。
若とは、畏れ敬い慎むことである。
この爻は、陽剛を以って陽位に居て正を得ている。
その上、内卦の極位に在って、進むことに尖鋭な者である。
したがって、終日勉め努めて休むことない様子である。
だから、君子終日乾乾、という。
しかし、この爻は過剛不中である上に、内卦外卦の改革遷転の位置であり、人位改革の危き地である。
気ばかり焦り、徒に上を狙う傾向がある。
したがって、そういう過失がないように畏れ敬い慎み、常に反省を心がけるべきだとして、夕べに若たれば、うければ咎无し、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九四、或躍、在淵无咎、

九四(きゅうし)、或(ある)いは躍(おど)る、淵(ふち)に在(あ)れば咎(とが)无(な)し、

この爻に竜と言わないのは、三爻と同じ人位だからである。
そしてこの九四は、陽爻にして陰位に居るわけだが、陽爻であることから進もうとし、陰位であることから退こうと思い止まる。
進むもうとするときは、まず足を上げるものである。
しかし、思い止まって退こうとすれば、その足を下げる。
躍るというのは、進もうとして足を上げ、退こうと思い止まってその場に足を下ろすことである。
したがって、或いは躍る、というのは、進もうとして思いとどまる、ということである。
或いは、というのは、決断がつかない様子である。
もし、進めば、忽ちに九五の君の位を犯し凌ぐことになり、そんなことをすれば咎有りとなる。
だから退いて、淵に安んじ守ることがよい。
そうすれば咎は无い。
淵というのは、水の深いところであって、竜が安んずるところである。
爻辞では、直接に竜とは言わないが、竜を想定しているから淵に在れば、という言葉になるのである。
初爻は、未だ仕えない時、二爻は出て仕えるとき、三爻は仕えて公事に努め励む時、この四爻は人臣の極位にして威厳富貴殆ど君の位に迫る時である。
だからこそ、これ以上進もうとすれば君上から咎められ、退き安んじていれば咎は无いのである。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

九五、飛竜在天、利見大人、

九五(きゅうご)、飛竜(ひりょう)在天(ざいてん)、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、

飛とは、地を離れて天を行くことであり、五爻は天位だから、そうあるのである。
竜が飛んで天に在るときは、よく雲を起こし雨を成す徳がある。
もとより天の徳は、雨を成すことを以って第一の功とする。
河図の天一の水というのも、要するに雨のことである。
万物の中で、よく天に代わって雨を成すのは竜より他にはない。
だからこの乾為天に竜を擬えたのである。
しかし、潜む~躍るといったときには、未だ雨を成すことはできない。
この九五の時を得て、初めて天を飛び、雨を施すことができるのである。
これは、聖人位に在って、雨を仁とし、よく仁の恩恵を世の中に溢れさせることの比喩である。
だから、飛竜在天、という。
飛ぶというのは、その時を得、その勢いを得た、ということである。
このときの九五の君がするべきことは、九二のような剛中の才徳がある君子を、挙げ用いることである。
大人というのは、その自分より下にある九二の君子の賢者を指す。
だから、大人を見るに利ろし、という。
大人とは、本来は五爻の君子を指す言葉だが、位が下だからと見下すのではなく、才能がある者は自分と同等だと考えるのが、仁の君主だから、敢えて九二を指して大人と言ったのである。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上九、亢竜有悔、

上九(じょうきゅう)、亢竜(こうりゅう)なれば悔(く)い有(あ)り、

亢とは進み上がることの過極な様子である。
上九は陽剛にして、乾の健やかにして進むの卦極に居て、退き守る道を知らず、尚も進もうとしているときである。
だから、亢竜、という。
およそ、進むことだけを知り、退くことを知らない者は、いつか必ず失敗して後悔するものである。
だから、亢竜ならば悔い有り、と戒めているのである。
と同時に、亢竜の如くにせず、退き守れば、悔いるようなことはない、という教訓も込められているのである。


上九━━━○
九五━━━○
九四━━━○
九三━━━○
九二━━━○
初九━━━○

用九、見群竜、无首吉、

用九(ようきゅう)、見(あら)われたる群竜(ぐんりょう)なり、首(かしら)无(な)きがごとくにすれば吉なり、

用九とは、本筮法や中筮法で占い得たとき、すべての爻が老陽すなわち爻卦が乾のときをいう。
なお、略筮法で占うときには、この用九の爻辞は使う機会がない。

さて、この用九は、全爻計六竜が群がり動いて現れ出て、それぞれ雲を起こし、雨を作(な)す勢いである。
こんなに勢いが強く盛んなのはよくない。
自重して、恐れ慎み退き守るべきである。
そもそも竜の威猛の勢いは首(かしら)=に在る。
今、六爻が全部変じて坤の柔順となれば、群竜の威猛盛んだった者が、忽ちに首を隠して順徳を守る様子となる。
人間も、この群竜の威猛強盛なときの如くの状況に出遇ったら、速やかに天道に則り習い、竜が首を隠すように、坤の柔順の徳に退き守るのが吉である、との教えである。
だから、見われたる群竜、首无きがごとくにすれば吉、という。

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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