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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

火水未済

64 火水未済(かすいびせい)
kasui.gif未済 坎下離上(かんか りじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

未済とは、未だ済(な)らず、ということ。
この火水未済は水火既済の対卦にして、事が未だ成らざることを示す。
としても、この卦も六爻すべてに応爻も比爻も交わりもある。
したがって他の六十二卦と比較すれば、大いに成る様子ではある。
しかし水火既済と比較すれば、未だ交わらず、六爻すべても、未だ正を得ていない。
これは、もう少しで既済の形になろうとする様子である。
だから未済と名付けられた。
また、水火の二つは相交わって煮炊きの用を成すものだが、この卦にては、水火は相遇い相対はしていても、未だ相交わらない。
だから未済と名付けられた。
水火の交わる交わらないは、その位置の上下によるのである。
言うなれば、水の上から火を近づけても水は温まらないが、火の上に鍋を置いてその中に水を入れれば、水は温まる、ということである。

卦辞
未済、亨、小狐汔済、濡其尾、无攸利、

未済は、亨(とお)る、小狐(こぎつね)汔(ほとん)ど済(わた)らんとして、其(そ)の尾(お)を濡(ぬら)らす、利(よ)ろしき攸(ところ)无し、

既にというのは、すでに行き去ること、未だというのは、待つところがあって、まさに来たらんとすることである。
したがってこの卦は、将来まさに来たらんとするのだから、そのときを待って亨るのである。
だから、未済は亨る、という。
しかし、他の卦と比較するときには、事はすでに大半は成っている、とするのがこの卦である。
大半が成っているのだから、この後に亨るべきこところの者は、その残りであって、それほど大きいことはない。
だから単に、亨る、とだけ言って、元(おお)いに、とはしないのである。

狐とは、下卦の坎の形が、痩せた四足動物のようにも見えるから、例に出したのである。
真ん中の陽が胴体、上と下の陰が四本の足である。
渉るとは、坎の水を渡ることを言う。
およそ狐が水を渡るときは、老成した狐なら、その性質は疑い深く思慮も深いので、妄りに進んで渡らない。
しかし幼い小狐は、思慮が浅く軽率であり、水の勢い、深さ、広さなどを顧みずに渡り出すものである。
そもそも狐の体型は、前小後豊と言われ、中でもその尾はとても豊大である。
したがって、水を渡るときは、必ず先ずその尾を高く巻き上げてから、渡り始める。
それが、その尾を濡らすというのは、精根尽き果てたときであって、水の勢いに押し流されて、渡り切れない様子である。
今、この卦は、事すでに過半に及び、まもなく成就し、まさに既済に向おうとするときである。
しかし、ここまで来たとしても、この後、少しでもその道を誤るときには、小狐のように渡りきれずに困窮することになる。
だから、小狐汔ど済らんとして、其の尾を濡らす、利ろしき攸无し、と狐に喩えて、亨るための心構えを諭し戒めているのである。
苦労してここまでやってきて、成功が見えてきたところなのに、ほんのちょっとした軽率さで、すべてを喪うに至るのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
未済亨、柔得中也、
未済(びせい)は亨(とお)るとは、柔(じゅう)中(ちゅう)を得(え)れば也(なり)、

小狐汔済、未出中也、
小狐(こぎつね)汔(ほとん)ど済(わた)らんとすとは、未(いま)だ中(ちゅう)を出(い)でざれば也(なり)、

濡其尾、无攸利、不続終也、
其(そ)の尾(お)を濡(ぬ)らせば、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)しとは、続(つづ)いて終(お)えざれば也(なり)、

雖不当位、剛柔応也、
位(くらい)に当(あた)らずと雖(いえど)も、剛(ごう)柔(じゅう)応(おう)ず也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
火在水上、未済、君子以慎弁物居方、
火(ひ)が水(みず)の上に在(あ)るは、未済(びせい)なり、君子(くんし)以(も)って慎(つつし)んで物(もの)を弁(わきま)へ方(ほう)に居(お)くべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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水火既済

63 水火既済(すいかきせい)
suika.gif既済 離下坎上(りか かんじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、kansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

既済とは、物事が完成したこと。

易の経文中で、貴び重んじることは、中正応比、卦の交わり、爻の交わりである。
卦爻の意義は、この具合によって生じているのである。

さて、六十四卦の中で、八卦が正偶匹対して相交わるのは、地天泰、沢山咸、風雷益、水火既済の四卦である。
正偶匹対とは、簡単に言うと表裏の関係にあることで、乾天と坤地、兌沢と艮山、巽風と震雷、坎水と離火の関係のことである。
交わるというのは、上にあるべき卦が下に、下にあるべき卦が上にあることである。
上にあるべき者が下にあれば、上へ行こうとし、下にあるべきものが上にあれば、下へ行こうとするので、上下両者は交わるのである。
逆に、上にあるべき卦が上に、下にあるべき卦が下にあるときは、それぞれその位置が丁度よいわけだから、それ以上は動こうとはしない。
だから、天地否、山沢損、雷風恒、火水未済は、正偶匹対であっても、上下が交わらないとするのである。

その正遇匹対して相交わる四卦について、さらに仔細に検証すれば、水火既済より優れたものはない。
水火既済は水と火の交わり和する卦だからである。
乾坤の天地が交わるとしても、水火の二つがなければ、その功を成し、用を作(な)すことは不可能である。
天地は万物を生じるところであって、生位の徳である。
水火は万物を成す作用のものであって、成位の徳である。
だから水火の作用を、殊更に大きいものとし、水火既済を交わる卦の最首とするのである。

また、爻の交わり和することも、この水火既済に優る卦はない。
例えば、この卦に似た火水未済も、爻について言えば、確かに六爻相交わってはいる。
しかし、天人地の三才位に分けて観ると、事情は違う。
天人地の三才位とは、初爻と二爻を地位、三爻と四爻を人位、五爻と上爻を天位とするものである。
火水未済の陽爻は二爻、四爻、上爻、陰爻は初爻、三爻、五爻だから、三才位別に観ると、陽爻はどれも上に在り、陰爻はどれも下に居る。
これでは、陰陽は交わらない。
交わるには、上にあるべき陽が下に、下にあるべき陰が上に居なければいけない。
そこでこの水火既済だが、陽爻は初爻、三爻、五爻、陰爻は二爻、四爻、上爻と、三才位それぞれ陽爻が下に在り、陰爻が上にあり、陰陽が交わり和している。

さらに水火既済は、六爻すべてに応爻も比爻あり、それぞれが正位を得ていて、二爻と五爻が共に中正の徳を具えている。
応とは、初爻と四爻、二爻と五爻、三爻と上爻が、それぞれ陰と陽の組み合わせになっていることで、比とは上下に隣り合った爻が陰と陽の組み合わせになっていることである。
正位を得るというのは、奇数を陽、偶数を陰とすることから、奇数爻の初、三、五に陽、偶数爻の二、四、上に陰が居ることである。
中正というのは、中の爻が正位を得ているということで、中の爻とは二と五すなわち上卦と下卦のそれぞれ真ん中の位置のことであって、正位を得るのは、二爻が陰、五爻が陽のときである。

ともあれ、このように最も調和の取れた卦がこの水火既済なのであって、だから、すでに完成された、という意で、既済と名付けられた。

また、易位生卦法によれば、もとは火水未済から来たものとする。
火水未済は水火相対するとしても、未だ交わり和することはない。
火水未済は水の上に火がある形だが、水の上に火を近づけても、水は温まらないように、これでは煮炊きすることはできない。
そこで、離の火が水の下にやって来て、水火相交わったのが、この水火既済である。
火の上に鍋を置いて水を入れれば、水火相交わって、その水が温まるように、これは煮炊きの作用がすでに完成された様子である。
だから、既済と名付けられた。

卦辞
既済、小亨、初吉、終乱、

既済は、小(すこ)しく亨(とお)る、初(はじ)めは吉(きち)なり、終(お)わりは乱(みだ)る、

既済とは、大事が既に済(な)り了(おわ)って完成した、ということである。
完成したのだから、さらに何かを追加することは今更できない。
とは言っても、それは大所高所から見たときのことで、日常の小さなことなら、やるべきこともいろいろあるだろう。
だから、小しく亨る、という。
小しくとは、小なる者すなわち日常の些細なことである。
その中には、完成した物事の保守点検という意も含まれる。

貞しきに利ろし、というのは、この卦が各爻理想的に配置された正しい形だからである。

さて、世の中というものは、成敗治乱はその掌中に在るものである。
だから、治は乱の本、成は敗の基、乱れればこれに治まり、成ればこれに敗れるものである。
これは天運の循環、自然の道理である。
泰往けば否来たり、既済往けば未済来る、である。
だからこれを戒めて、初めは吉、終わりは乱る、という。
なお、吉とは凶と対の言葉、乱とは治と対の言葉である。
ここで、このように吉と乱を言うのは、吉と言いつつ治を示唆し、乱と言って凶を示唆しているのである。
既済が終われば未済となる、という戒めである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
既済亨、小者亨也、
既済(きせい)の亨(とお)るとは、小(すこ)しき者(もの)の亨(とお)る也(なり)、

利貞、剛柔正、而位当也、
貞(ただ)しきに利(よ)ろしとは、剛(ごう)柔(じゅう)正(ただ)しくして、而(しこう)して位(くらい)当(あた)れば也(なり)、

初吉、柔得中也、
初(はじ)めは吉(きち)なりとは、柔(じゅう)中(ちゅう)を得(え)れば也(なり)、

終乱、其道竆也、
終(おわ)りは乱(みだ)るとは、其(そ)の道(みち)竆(きゅう)せる也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
水在火上、既済、君子以思患而予防之、
水(みず)火(ひ)の上(うえ)に在(あ)るは、既済(きせい)なり、君子(くんし)以(も)って患(わずら)いを思(おも)って、而(しこう)して之(これ)を予防(よぼう)すべし、


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雷山小過

62 雷山小過(らいざんしょうか)
raizan.gif小過 艮下震上(ごんか しんじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

小過とは、小なる者が過ぎている、少し過ぎている、といった意。
この卦は、陽を主(あるじ)とし、陰を客とすれば、二陽が内側に在って主となり、四陰が外側に在って客となっている。
これは、その主よりも客が、数の上で過ぎている様子である。
客より主が過ぎているのが沢風大過である。
したがってその大過と対比して、この主より客が過ぎている卦は、小過と名付けられた。
また、艮を山とし、震を雷とすれば、山は止まって動かず、雷は動いて止まらず、である。
これは雷が山上を震い過ぎる様子である。
だから小過と名付けられた。
また、艮を止まるとし、震を動くとすれば、あることでは止まり、あることでは動き去る、という様子である。
彼是互いに行き違うのであれば、その過ぎることは大きいが、あることでは止まり、あることでは動き去るということだから、完全に行き違っているわけではない。
だから小過と名付けられた。
また、震を長男とし、艮を少男とすれば、二人の年齢差が、やや過ぎている様子である。
兄弟の序次は長男、中男、少男だから、長男と中男、中男と少男であれば、年齢差は最も小さく、親子であれば最も大きい。
この長男と少男の場合は、やや開きがあるものである。
だから小過と名付けられた。
なお、沢風大過の場合は、兌の少女と巽の長女だから、こちらも年齢差があるわけだが、それ以上に、兌の少女が上卦、巽の長女が下卦と、その姉妹の序列を犯して少女が上位にいる。
年齢差だけならば小過と言えるが、こちらは年齢差だけではなく、このように序列も犯しているのであって、だから大過なのである。

卦辞
小過、亨、利貞、可小事、不可大事、飛鳥遺之音、不宜上、宜下、大吉、

小過は、亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、小事(しょうじ)には可(か)なり、大事(だいじ)には不可(ふか)なり、飛鳥(とぶとり)之(これ)が音(おと)を遺(のこ)す、上(のぼ)るに宜(よろ)しからず、下(くだ)るに宜し、大吉(だいきち)なり、

およそ、過ぎるということと及ばぬということとは、共に道の規則に適中していないことである。
しかし、少し過ぎることで、却って宜しきに合うことも、ときにはある。
特に、程よいところが判然としないときは、少し過ぎる程度がよい。
例えば、目上と対するときは多少恭しさに過ぎたほうが好感を持たれ、葬儀のときは周囲よりもやや哀しみに過ぎたほうが人情厚いように思われ、日常の経済もやや倹約に過ぎたほうが無難である。
これが、小過は亨る、という所以である。
ただし、少し過ぎて道に適うというのは、必ずそれが貞正なときである。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも日常の些細なことならば、少しくらい度を過ぎたとしても、大目に見て許されるし、そのほうがよい場合もある。
だから、小事には可なり、という。
しかし、天下国家の公儀大事に至っては、必ず礼と和とを以って行わなければいけない。
度を過ごしたことがあれば、大問題に発展する。
というと、何やら堅苦しくしろ、と言っているかのように思われるかもしれないが、もっと単純に考えてよい。
現代の政治家も、ほんの些細な失言で政治生命を絶たれることがある、ということである。
だから、大事には不可なり、という。
この卦は、震は動き、艮は止まり、雷は震い去り、山は静かにして動かず、である。
したがって、上卦と下卦はまったく違う性質なのであって、その志も不和なのである。
このような状態で大事を行えば、必ず大失敗を招く。
これは火沢睽が小事には吉とし、大事にはよくないとするのと同じことである。
また、二爻と五爻が、共に柔中の徳が有るから、小事には可なり、と言えるのでもある。
また、三爻と四爻の両陽剛は、共に君臣の位を失い、なお且つ不中なので、大事には不可なり、と言えるのである。
陰は柔であり小であり、陽は剛であり大である。

飛ぶ鳥というのは、この卦の全体の形である。
陽の三爻と四爻を胴体とし、陰の初爻と二爻、五爻と上爻を翼とすれば、鳥が翼を広げて飛んでいるように見えるからである。
飛ぶ鳥、之が音を遺こす、というのは、鳥が飛んで過ぎ去って行くときに、その音を遺こして行く、ということで、鳥が上空を飛ぶことに憧れ、自分も上に向かおうとするのは宜しくない、と示しているのである。
人の道について言えば、上るは高く傲慢になることである。
傲慢な人は受け入れられない。
逆に、鳥が空を行くのにつらされず、下に向かうのであれば、その人は謙遜だと歓迎される。
だから、下るに宜し、上るに宜しからず、という。
人は謙遜であればこそ、今以上に自分を高められるものである。
だから、大吉、という。
ただし、あくまでも、下れば大吉、ということである。
上れば凶である。


彖伝(原文と書き下しのみ)
小過、小者過、而亨也、
小過(しょうか)は、小(しょう)なる者(もの)の過(す)ぎて、而(しこう)して亨(とお)る也(なり)、

過以利貞、与時行也、
過(す)ごして以(も)って貞(ただ)しきに利(よ)ろしとは、時(とき)と与(とも)に行(おこな)えよと也(なり)、

柔得中、是以小事吉也、剛失位、而不中、是以不可大事也、
柔(じゅう)中(ちゅう)を得(え)て、是(これ)を以(も)って小事(しょうじ)には吉(きち)也(なり)、剛(ごう)位(くらい)を失(うしな)って、而(しこう)して不中(ふちゅう)なら、是(これ)を以(も)って大事(だいじ)には不可(ふか)なると也(なり)、

有飛鳥之象焉、飛鳥遺之音、
飛鳥(とぶとり)之(の)象(しょう)有(あ)るをもって、飛鳥(とぶとり)之(これ)が音(おと)を遺(のこ)すという、

不宜上、宜下、大吉、上逆、下順也、
上(のぼ)るに宜(よろ)しからず、下(くだ)るに宜(よろ)し、大吉(だいきち)なりとは、上(のぼ)るは逆にして、下(くだ)るは順(じゅん)なれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山上有雷、小過、君子以行過乎恭、喪過乎哀、用過乎倹、
山(やま)の上(うえ)に雷(かみなり)が有(あ)るは、小過(しょうか)なり、君子(くんし)以(も)って行(おこな)いは恭(うやうや)しきに過(す)ごし、喪(そう)は哀(かな)しきに過(す)ごし、用(よう)は倹(けん)に過(す)ごすべし、


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風沢中孚

61 風沢中孚(ふうたくちゅうふ)
fuutaku.gif中孚 兌下巽上(だか そんじょう)

八卦のdataku-n.gif兌(だ)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

中とは中外の中にして、内という意。
孚とは信であり、まごころである。
したがって、内に信があることをいう。

この卦は、二陰が内にあり、四陽が外にあるが、これは中虚の様子である。
また、二と五が共に剛中を得ているが、これは中実の様子である。
中虚とは信の本、中実とは信の質である。
したがってこの卦は、中虚中実を併せて共にこれを得ているのである。
だから、内に信がある様子として、中孚と名付けれた。
中虚とは、中間に何もないことであって、互いに信用できる相手とならば、その間にはなんの隔たりもない。
中実とは、言うなれば共通の目的、人生観、価値観を持っていることであって、そうであってこそこそ、人は互いに信用信頼し合えるものである。
だから中虚が信の本、中実が信の質であって、中虚と中実を併せて信の本質となるのである。

また、下卦の兌を悦ぶとし、上卦の巽を従うとすれば、悦んで従う様子である。
下の者が悦んで上に従い応じるのは、その中心に信孚(まこと)が有り、上を愛する至りであって、逆に、上の者が巽順にして下に臨むことは、信孚(まこと)に下を愛するの極みである。
これは上下相互に信孚(まこと)あるからこそのことである。
だから中孚と名付けられた。
また、自分の悦びに相手が巽(したが)っているときであって、これは自分も相手も共に孚信のある様子である。
また、自分が悦んで相手に巽(したが)うときであるが、これも孚信のある様子である。
以上のことから、中孚と名づけられた。

また、巽を風とし、兌を沢とすれば、風が沢上を吹くときである。
風が沢上を吹くときには、沢の水は風につれて共に波立ち動く。
これは動かそうとして動かしているのではなく、無心に動いているのであって、自然の信である。
だから中孚と名付けられた。

なお、孚の字は、親鳥が卵(子)を爪でころがしながら暖めている様子だとされていて、親子の信を表現しているのだという。


卦辞
中孚、豚魚吉、利渉大川、利貞、

中(うちに)孚(まこと)あることは、豚(ブタ)や魚(さかな)にまでにすれば吉(きち)、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

念のために言っておくが、ここに書いているのは、漢文の正式な書き下しではない。
言わんとする意味を汲んで、書き下し風に書いているだけである。
ちなみに正式な書き下しだと、中孚は豚魚(とんぎょ)の吉(きち)、大川(いたせん)を渉(わた)るに利(り)あり、貞(てい)に利(り)あり、となる。
しかし、これでは意味が判然としないので、意訳して言葉を補いつつ書いているのである。
他卦の卦辞も同様である。

さて、豚も魚も共に無知な生物である。
無知であるが故に、意図的にこちらの思いを感じさせることは至って難しい。
しかし、人の心によく孚信があるときは、無知な豚や魚でさえ、自然とその孚信に感じ応えるものである。
豚や魚までもが感じ応える孚信=素直にとことん信じる心で物事に対処すれば、何事も上手く行くものである。
だから、中孚あることは豚や魚にまですれば吉、という。
また、この卦は別の観方をすれば、兌水の上に巽木を浮かべている様子であり、中虚は舟の形を示すものでもある。
舟は木の中を刳り貫いて中虚にしたものである。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

しかしその孚信にも、善悪正邪の別がある。
例えば、橋の下で約束したからと、増水してもその場を離れず溺れ死ぬとか、邪蘇の如き邪宗(キリスト教)を信じる、といった類である。
こういったことは、信の邪な者であって、俚俗のいわゆる畜生正直な者である。
要するに信は、正しく善なる道には大事だが、邪な悪事には全く必要ないのである。
だから、これを戒めて、貞しきに利ろし、という。

何事も信じたら、とことんやることが大事なのであって、とことん信じること、それが孚信である。

ちなみに、キリスト教は、信じようとして勉強すると、矛盾だらけで信じるに足りないことがよくわかるものである。
信者は、矛盾を見て見ぬ振りをし、自分を誤魔化しているだけである。
教会というコロニーにしか自分の居場所がない可哀相な人たちだから、そうなのだろう。

そもそも江戸時代初期には、当時の儒者と宣教師が問答し、キリスト教が孚信を悪用する邪教であることが立証されていた。
だからこそ中州も邪蘇の如き邪宗と呼ぶのである。
なお、儒者と宣教師との問答は、岩波書店の『日本思想大系〈25〉キリシタン書・排耶書』に収録されている。
とにかく、小人ならば、目先の華やかさに騙されて信じてしまうのだろうが、『聖書』なる書物に書かれている物語や奇跡が、悉く易の理論を流用して作られた寓話だということは、易の知識がそこそこあれば、誰でもわかることである。
西洋人なら、多くは易の知識がないから、盲目的に、ありがたい宗教と考えるところだろうが。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。


彖伝(原文と書き下しのみ)
中孚柔在内、而剛得中、説而巽、孚乃化邦也、
中孚(ちゅうふ)は柔(じゅう)内(うち)に在(あ)って、剛(ごう)中(ちゅう)を得(え)て、説(よろこ)んで而(しこう)して巽(したが)う、孚(まこと)乃(すなわ)ち邦(くに)を化(か)する也(なり)、

豚魚、信及豚魚也、
豚(ぶた)や魚(うお)にまでとは、信(しん)豚(ぶた)と魚(うお)とに及(およ)べる也(なり)、

利渉大川、乗木舟虚也、
大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、木(き)の舟(ふね)の虚(うつろ)なるに乗(の)れば也(なり)、

中孚以利貞、乃応乎天也、
中孚(ちゅうふ)に利貞(りてい)を以(も)ってするは、乃(すなわ)ち天(てん)に応(おう)ずれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢上有風、中孚、君子以議獄緩死、
沢(さわ)の上(うえ)に風(かぜ)が有(あ)るは、中孚(ちゅうふ)なり、君子(くんし)以(も)って獄(うった)えを議(はか)り死(し)を緩(ゆる)くすべし、


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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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水沢節

60 水沢節(すいたくせつ)
suitaku.gif 兌下坎上(だか かんじょう)

八卦のdataku-n.gif兌(だ)の上に、kansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

節は、節度、節目、といった意。

この卦は兌を沢とし、水を入れる容器とし、坎を水とすれば、水がコップなどの容器に入っている様子となる。
水を容器に入れるには、その量に限度がある。
例えばその容器で一定量の水を持ち運ぶとき、容器に入れる水が多過ぎれば溢れ、少な過ぎれば何度も運ばなければいけない。
節度ある丁度よい量にすることで、最も効率的に運べるものである。
だから、節と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは地天泰より来たものとする。
地天泰の六五の陰が下卦に来て三爻に居り、兌の主爻となり、代わりに九三の陽が上卦に往きて五爻に居り、坎の主爻となったのが、この水沢節である。
これは三爻にやってきた一陰が、兌の沢の池を治めて、適度に水を入れる様子である。
だから節と名付けられた。
そもそも地天泰は、乾坤が相対している卦であり、乾は純陽にして有余、坤は純陰にして不足を意味する。
したがって水沢節は、乾の有余の極の三の爻を減じて、坤の不足の中の五の爻に増したことになる。
これは、増すも減らすも、共に節に中(あた)り、程よい様子である。
だから節と名付けられた。
また、坎を険難とし、兌を悦ぶとすれば、険難のときに在っても、よく悦んで安んじている様子である。
節操のある君子ならば、このように余裕がなくてはいけない。
険難のときに慌てたり、自暴自棄になったりするのは小人である。
だから節と名付けられた。

卦辞
節亨、苦節不可貞、

節は亨(とお)る、苦節(くせつ)貞(かた)くする可(べ)からず、

節というのは、事物それぞれその分に安んじ、限度を知り、止まることを言う。
およそ天下万般のことは、よくその節に中(あた)るときには、亨通するものである。
だから、節は亨る、という。
また、成卦主の九五が、剛健中正の徳を得ているわけだが、これも亨るという所以である。
成卦主とは、その卦がその卦である所以の最も大事な爻のこと。
この水沢節の場合は、兌の器に入れる水の量の節度をもってその意が発生したのだから、その水の中心すなわち上卦坎の主爻である九五が、成卦の主爻なのである。
また、坎を険難とし、兌を悦ぶとすれば、険難の中で悦ぶ様子である。
険難に出遇っても、よく節の道を悦ぶという節操があるときには、これもまた亨るものである。
だから、節は亨る、という。

さて、節操、節約など、節とつく物事は、無条件によいことのようにも思えるものである。
しかし、その節の道を極めようとすれば、過激になってしまい、却ってよくない。
これでは、水を入れすぎてコップから溢れるようなものであり、これを苦節という。
そもそも節は、事物共に分限に安んじることである。
中を得ず、徒に節の度を過ごせば、却って節の本義に反することになる。
だから、苦節貞(かた)くする可からず、という。

貞には、貞正(ただしい)、貞固(かたい)、貞常(つね)という三種の意味がある。
貞正の意味で使われる場合が最も多いが、ここでは貞固の意味となる。


彖伝(原文と書き下しのみ)
節、剛柔分、而剛得中、
節(せつ)は、剛(ごう)柔(じゅう)分(わ)かれ、剛(ごう)中(ちゅう)を得(え)たり、

苦節、不可貞、其道竆也、
苦節(くせつ)、貞(かた)くす可(べ)からずとは、其(そ)の道(みち)竆(きゅう)すれば也(なり)、

天地節、而四時成、節以制度、不傷財、不害民、
天地(てんち)節(せっ)して、四時(しじ)成(な)る、節(せつ)以(も)って度(ど)を制(せい)し、財(ざい)を傷(そこ)なわず、民(たみ)を害(がい)せず、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢上有水、節、君子以制数度、議徳行、
沢(さわ)の上(うえ)に水(みず)が有(あ)るは、節(せつ)なり、君子(くんし)以(も)って数度(すうど)を制(せい)し、徳行(とくぎょう)を議(はか)るべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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風水渙

59 風水渙(ふうすいかん)
fuusui.gif 坎下巽上(かんか そんじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

渙は、散らす、渙散、離散、といった意。

この卦は内卦の坎を水とし、外卦の巽を風とすれば、風が水の上を行く様子である。
風が水上を行くときには、必ず水を吹き渙(ちら)すものである。
だから渙と名付けられた。
また、内卦を自分とし坎を険難とし、外卦を相手とし巽を従うとすれば、自分に険難があり、相手がそれに従うことであって、これは相手が自分の悩みを渙す様子である。
これまもた渙と名付けられた所以である。
また、坎を水とし冬とし氷とし、巽を春とし風とすれば、厳寒の凍氷を春の風が渙散させる様子である。
だから渙と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の九四が内卦に来て二爻に居り坎の主爻となり、六二は外卦に往き四爻に居て巽の主爻となったのが、この風水渙である。
九四が来て二爻に居るというのは、天気が下って坎の雨となった様子であって、六二が往きて四爻に居るのは地気が上って巽の風となった様子である。
天地の気が塞がれているときには、風雨を以ってこれを渙散させるのは、雷雨をもって屯欝の気を解くのと同様である。
だから渙と名付けられた。
またこれを人事に譬えて国家政経の道を判断するときには、先ず天地否の卦の形を国家に道無く閉塞壊乱のときとする。
その打開策として、九四は内卦にやって来て二爻の臣位に居り、剛中の才徳を以って、九五の剛中の君を、同徳を以って相応じ助けるのである。
と同時に、六二が外卦に往き、四爻執政大臣の位に居て、柔正の徳を得て、九五の君と陰陽正しく比し親しみ、よく補佐するのであるる。
これは、二と四との二人の臣が共に力を合わせ、国家の否塞を開通させ、混乱を消散させる様子である。
だから渙と名付けられた。

卦辞
渙、亨、王*假有廟、利渉大川、利貞、

渙は、亨(とお)る、王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

*假は、沢地萃や雷火豊と同様に、通本ではこの假(「仮」の正字)を使っているが、中州はニンベンではなく彳(ギョウニンベン)だとしている。
しかし、その字はJISにもユニコードにもないので、ここでは*假で代用しておく。

およそ天下の事物は、否塞して難渋するときは、必ずこれを渙散させないといけない。
その渙散させるときをもって、否塞していたのが亨通するのである。
要するに、交代生卦法で、天地否から来たとするから、渙は亨る、というのである。

さて、王道の興廃は、まったく人民によるところである。
民衆は国の本である。
民衆の心が集まるときに国は興り、民衆の情が渙散するときに国は廃れる。
民衆を集め、その民衆の心を化服させるには、何を置いてもまず孝である。
その孝の道の高く盛んなものは、祖先に孝なるを以って至極とする。
『論語』にも、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳は厚きに帰す、とある。
終わりを慎むとは、親の葬儀や祖先の祭祀を丁重に行うことである。
祖先の祭祀は至誠至敬を以ってすれば、祖霊が集まり、誠敬がないときには、渙散して祖霊は集まらないものとする。
だから、水火既済の九五の爻辞には、東隣に牛を殺すは、西隣の禴祭(やくさい)に実あって其の福を受くるに如かず、とあるのである。
禴祭とは質素な祭りである。
形ばかりの大きな生贄を供える祭りよりも、供えは質素だが誠敬がこもっているほうが、福は受けられるものだ、ということである。
したがって、この風水渙の渙散の気運のときには、王者は渙散しようとしている祖先の霊を祭祀で集め、孝を尽くすのが大事なのである。
祖先に孝を尽くすことにより、風水渙の気運で渙散しようとしていた民衆の心もひとつに集まるのである。
だから、王有廟に*假る、という。
有廟とは、廟を有(たも)つ、といったニュアンスで、廟に集めた祖霊を渙散しないように有つようにとの教戒が込められている。

大川を渉るに利ろし、というのは、海や大きな川を渉るには、船が必要である。
この卦は、坎の水の上に巽の木の船が浮かんでいる様子でもある。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

天下の否塞を渙散させて亨通させるも、大川を渉るも、共に貞正に行われることが大事である。
邪に事が行われるのであれば、災いを起こし、害を生じるものである。
大川という険難を渉るにしても、貞正に流れや風波を読まずに、いい加減な判断で行けば、身命はどうなるかわからないものである。
だから、貞しきに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
渙、亨、剛来而不竆、柔得位乎外而上同、
渙(かん)は、亨(とお)るとは、剛(ごう)来(きた)って而(しこう)して竆(きわま)らず、柔(じゅう)位(くらい)を外(そと)に得(え)て而(しこう)して上(うえ)に同(おな)じくすればなり、

王*假有廟、王乃在中也、
王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)るとは、王(おう)乃(すなわ)ち中(ちゅう)に在(あ)れば也(なり)、

利渉大川、乗木有功也、
大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、木(き)に乗(の)りて功(こう)有(あ)る也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
風行水上、渙、先王以亨于帝立廟、
風(かぜ)水上(すいじょう)を行(ゆ)くは、渙(かん)なり、先王(せんおう)以(も)って帝(てい)に亨(こう)し廟(びょう)を立(た)つ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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兌為沢

58 兌為沢(だいたく)
daitaku.gif 兌下兌上(だか だじょう)

八卦のdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

兌は、悦ぶ、という意。
八卦の兌を重ねた形なので、八卦と同じ兌と名付けられた。
そもそも易は、陽を剛とし、尊いとし、陰を弱いとし、卑しいとする。
八卦の兌は、一陰が卑賤微弱であるにもかかわらず、二陽の尊貴剛健に最上位を譲られ、最上位に上げられた形である。
一般に、自分よりも偉いと思っている人から最上位を譲られて悦ばない人はいない。
だから、悦ぶという意が発生し、兌と名付けられた。

卦辞
兌、亨、利貞、

兌は、亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

およそ天下の事は、大小となく、軽重となく、悦ぶところに至れば、その行う事は必ず亨通して進み遂げ、成功しないということはないものである。
『論語』には、これを知る者は、これを好む者に如かず、これを好む者は、これを楽しむ者に如かず、とある。
悦ぶというのは、楽しむとほぼ同じと考えてよい。
だから、兌は亨る、という。

しかしながら、その道その事を心には悦ぶとしても、未だこれを身に行わず、事業の上にも現さないときには、その成功を得ることが確実とは言えないので、元(おお)いに亨る、とはせず、単に、亨る、とだけ言ったのである。
としても、巽為風の「小しく亨る」というのに比べれば、やや優れてはいる。
そもそも八卦の次元で言えば、巽も兌も、同じく少陰の卦であるが、巽は従うであり、従うとは己を捨てて他に委ねることであり、自己より進むことの専らではない様子であり、対する兌は、自ら悦んで心より進む様子である。
したがって、巽為風の「小しく亨る」と、兌為沢の「亨る」というのは、その亨るという意味合いにも違いがあるのである。
巽の「小しく亨る」は、従えば亨る、ということであり、兌の「亨る」は、自ら悦んで進めば亨る、ということである。

さて、兌の悦ぶという道にも、正邪の別がある。
正しい道に悦ぶときには、よくその身を修め、前途は明るく広がる。
これが正しくない道に悦ぶときには、身を滅ぼし、ついには何もかも喪うことにもなろう。
言うなれば、相手を悦ばせることを悦びとするのが正しい道であって、自分が悦ぶことにだけ執着するのが、正しくない道である。
だから、貞しきに利ろし、と諭すのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
兌、説也、剛中而柔外、説以利貞、
兌(だ)は説(よろこ)ぶ也(なり)、中(うち)を剛(ごう)にして外(そと)を柔(じゅう)にす、説(よろこ)んで以(も)って貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

是以順乎天、而応乎人、
是(これ)を以(も)って天(てん)に順(したが)い、人(ひと)に応(おう)ず、

説以先民、民忘其労、説以犯難、民忘其死、説之大、民勧矣哉、
説(よろこ)んで以(も)って民(たみ)に先(さき)だてば、民(たみ)其(そ)の労(ろう)を忘(わす)る、説(よろこ)んで以(も)って難(なん)を犯(おか)せば、民(たみ)其(そ)の死(し)を忘(わす)る、説(よろこ)ぶ之(の)大(だい)なる、民(たみ)勧(すす)まん哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
麗沢、兌、君子以朋友講習、
麗(つ)ける沢(さわ)あるは、兌(だ)なり、君子(くんし)以(も)って朋友(ほうゆう)講習(こうしゅう)す、


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巽為風

57 巽為風(そんいふう)
sonifuu.gif 巽下巽上(そんか そんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

巽は、入る、従う、伏せる、といった意。
八卦の巽を重ねた形なので、八卦と同じ巽と名付けられた。
そもそも陽の性質は上り進み、陰の性質は下り退くもの。
八卦の巽は、一陰が下り退く性質により、二陽剛の下に入り、そこから出られない様子。
とすると、その一陰は、その状態に甘んじ、伏せ従うしかない。
だから巽と名付けられた。
また、陰はそもそも陽に順うのを道とする。
今は、一陰を以って二陽の下に在る。
これは順従恭服せざるを得ないときである。
だから巽と名付けられた。

卦辞
巽、小亨、利有攸往、利見大人、

巽は、小(すこ)しく亨(とお)る、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、

およそ天下の事業百般の務めというものは、一によく巽(したが)い従うときには、亨通するものである。
しかし、従うということは、元来が自己を屈して他人に行く末を委ねることである。
自ら主宰となって物事を行うのではない。
だから、小さなことなら亨通するとしても、元(おお)いに亨ることは得られないのである。
だから、小しく亨る、という。
続く、往く攸有るに利ろし、の往く攸というのは、場所の移動ではなく、するべきことといった意で、この卦の場合は、巽だから従って行うことが大事だ、という意である。
そもそも従って物事を行うには、大人を選んで従うことが重要である。
そうでなければ、従っても功はなく、場合によっては、従ったばかりに、却って失敗を招きもする、ということである。
だから、大人を見るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
巽、剛巽乎中正、而志行、
巽(そん)は、剛(ごう)中正(ちゅうせい)に巽(したが)って、而(しこう)して志(こころざし)行(おこな)わる、

柔皆巽乎剛、是以小亨、利有攸往、利見大人也、
柔(じゅう)皆(みな)剛(ごう)に巽(したが)えり、是(これ)を以(も)って小(すこ)しく亨(とお)り、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしく、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろしきと也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
随風、巽、君子以申命行事、
随(したが)える風(かぜ)あるは、巽(そん)なり、君子(くんし)以(も)って命(めい)を申(の)べ事(こと)を行(おこな)う、


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火山旅

56 火山旅(かざんりょ)
kazan.gif 艮下離上(ごんか りじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

旅は、文字どおり旅(たび)のこと。

この卦は艮を山とし、離を火とし麗(つ)くとすれば、これは火が山の上に麗(つ)き、山をを焼く様子、要するに山火事である。
火が山を焼くときは、山は止まったまま移動せず、火はその山の上を漸次あちこち移動しながら燃え広がり、止まらないものである。
これはまるで、行客が日々に宿を転々としながら旅をするようではないか。
だから旅と名付けられた。

また、来往生卦法によれば、もとは天山遯から来たものとする。
天山遯の卦中へ、一陰が下卦の外から進み来て、外卦の五の位に客となって居るのが、この火山旅である。
天山遯は遯(のが)れ去る時であり、一陰が他より遯れ来て外卦の他郷に麗(つ)いて六五となったから、火山旅になったのである。
だから、旅と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の六三の陰が往きて五爻に居り、九五の陽が下り来て三爻に居るのである。
天地否のときは閉塞して通らないわけだが、今、九五の陽が三爻に来て内に艮(とど)まり、六三の陰が往きて外に麗(つ)くと、内外彼我の物が互いに交易して各その用を為していることになる。
これは商旅の様子でもあり、そもそも外より内に来るも、彼より我に来るも、内より外に往くも、我より彼に往くも、旅である。
だから旅と名付けられた。

卦辞
旅、小亨、旅貞吉、

旅は、小(すこ)しく亨(とお)る、旅(たび)にては貞(ただ)しくして吉、

およそ天下の事物を融通し、財貨を交易するためには、彼是互いに往来しなくてはならない。
だから商売のために旅をする人々がいる。
交易のために旅をする商人は、東西に奔走し、山川に寝食し、風雨に沐浴し、安心して落ち着ける場所は少ない。
したがって、旅のとき、旅の人を指して、忽ち大に亨通するとは言い難い。
だから、小しく亨る、という。

また、来往生卦法では、天山遯の時に、一陰柔が内卦の外より進み往きて五爻に居り、外卦の中を得て、上下の陽剛に順(した)がっている形である。
これは、遯(のが)れ来て旅に居る様子である。
そもそも旅をするときは、柔中にして和順を以って主とし、他の剛者に麗(つ)き順(した)がうことが大事である。
柔中であれば万般のことに柔軟に対処でき、和順であれば人々と親しく助け合え、剛者に麗き順がえば、何かのときに頼れ、なんとか事件に巻き込まれるような危難は避けられる。
だから、小しく亨る、という。

また、艮を止まるとし、離を明とし麗(つ)くとすれば、止まって明者に麗く様子である。
明者に麗けば、最悪の事態は回避できるというもの。
だから、小しく亨る、という。

さて、旅に出ると、親戚友人知人にはなかなか会えず、何かあったときの心細さは甚大である。
とすれば、出会う人々とは貞しく付き合い、親しくなるように心がけるのが大事である。
だから、旅にては貞しくして吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
旅小亨、柔得中乎外、而順乎剛、
旅(りょ)は小(すこ)しく亨(とお)る、柔(じゅう)中(ちゅう)を外(そと)に得(え)て、而(しこう)して剛(ごう)に順(したが)えり、

止而麗乎明、是以小亨、旅、貞吉也、
止(とど)まって明(めい)に麗(つ)く、是(これ)を以(も)って小(すこ)しく亨(とお)る、旅(たび)にては、貞(ただ)しくして吉(きち)なる也(なり)、

旅之時義、大矣哉
旅(りょ)之(の)時(とき)の義(ぎ)、大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山上有火、旅、君子以明慎用刑而不留獄、
山(やま)の上(うえ)に火(ひ)が有(あ)るは、旅(りょ)なり、君子(くんし)以(も)って明(あきら)かに慎(つつし)んで刑(けい)を用(もち)いて而(しこう)して獄(うった)えを留(とど)めざるべし、


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雷火豊

55 雷火豊(らいかほう)
raika.gif 離下震上(りか しんじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

豊とは、大、盛大、という意。

この卦は離を明とし、震を動とすれば、明らかにして動く様子である。
明らかでないときは通暁するところなく、動かざるときには何事も為し得ない。
とすれば、逆にこの卦のように、明らかにして動くときには、その事は盛んにして大なるに至るはずである。
だから豊と名付けられた。
また、震を雷とし、離を電(雷光=稲妻)とすれば、雷電相合うときには、その勢いが最も盛大なときである。
だから豊と名付けられた。
また、離を太陽とし、震を動くとすれば、太陽が動きながら天下を照らし臨み、その光明盛大な様子である。
だから豊と名付けられた。
また、離を明とし智とし、震を威とし勇とすれば、智勇兼ね備わっている様子である。
智勇兼ね備わっていれば、その威明は盛んに大なるものである。
だから豊と名付けられた。

卦辞
豊亨、王*假之、勿憂、宜日中、

豊は亨(とお)る、王(おう)之(これ)に*假(いた)る、憂(うれ)うる勿(なか)れ、日中(にっちゅう)に宜(よろ)し、

*假の字は、沢地萃と同様に、通本では仮の正字体の假としているが、中州はイ(ニンベン)では誤りであって正しくは彳(ギョウニンベン)だと指摘している。
しかし、JISにもユニコードにもその字はないので、*假で代用しておく。

豊は勢いが盛んで大なることだが、そうであれば何事も亨通するものである。
だから、豊は亨る、という。
また、明らかにして動くときには、事に臨んで疑い惑い優柔不断になることはなく、そうであるのなら、何事も遂げられないことはない。
だから、亨る、という。

次の文節の王とは、一般的に言う王者のことであり、至尊の称号にして、絶大な勢力を保ち、巨万の富とともに君臨している者である。
この卦は、このように隆盛を誇っているときであり、とすれば王は、このときすでに豊に至っていることになる。
だから、王、之に*假る、という。
この場合の之は、豊の時を指す。
しかし、天地陰陽の法則では、永遠長久に豊大であることはない。
豊盛も極まれば、次には必ず衰える。
とすれば、その衰えるときが来ることを、予め憂い、あれこれ画策しようと慮りたくもなるが、徒に憂いても、それでどうにかなるわけではない。
豊盛を保ちたいのであれば、そんなふうに憂いて右往左往するよりも、まずは日月が下土を照臨するように、施策に偏りがないのが、重要である。
もし、依怙贔屓などがあるときには、凶衰の道が忽ちに至るものである。
これは、王者の最も慎み深く戒めることである。
日中すれば則ち日は傾き、月満ちれば則ち欠ける。
王者の盛衰もまたこの如くである。
なんとかその中を保持するよう心がけないといけない。
だから、憂うる勿れ、日中に宜し、という。
なお、日中というのは、遍く照らして依怙贔屓ないことと、盈虚消息を警戒することの、両方の意を兼ねている。


彖伝(原文と書き下しのみ)
豊、大也、明以動、故豊、
豊(ほう)は、大(だい)なる也(なり)、明(めい)以(も)って動(うご)く、故(ゆえ)に豊(ほう)なり、

王*假之、尚大也、勿憂宜日中、宜照天下也、
王(おう)之(これ)に*假(いた)るとは、大(だい)を尚(たっと)べる也(なり)、憂(うれ)うる勿(なか)れ日中(にっちゅう)に宜(よ)ろしとは、天下(てんか)を照(てら)す宜(べ)しと也(なり)、

日中則昃、月盈則食、天地盈虚与時消息、
日中(にっちゅう)すれば則(すなわ)ち昃(かたぶ)く、月(つき)盈(み)ちれば則(すなわ)ち食(か)く、天地(てんち)に盈虚(えいきょ)あって時(とき)と与(とも)に消息(しょうそく)す、

而況於人乎、況乎鬼神乎、
況(いわん)や人(ひと)に於(お)いておや、況(いわん)や鬼神(きしん)に於(お)いておや、


象伝(原文と書き下しのみ)
雷電皆至、豊、君子以折獄致刑、
雷電(らいでん)皆(みな)至(いた)るは、豊(ほう)なり、君子(くんし)以(も)って獄(うった)えを折(わか)ち刑(けい)を致(いた)すべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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雷沢帰妹

54 雷沢帰妹(らいたくきまい)
raitaku.gif帰妹 兌下震上(だか しんじょう)

八卦のdataku-n.gif兌(だ)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

帰妹とは、妹=女子が嫁ぐ=男の元へ行く、ことをいう。
帰の字には、嫁ぐという意がある。

この卦は下卦の兌を少女とし悦ぶとし、上卦の震を長男とし動くとすれば、少女が長男の下に入っているのであって、ふたりが共に悦んで動いている様子であり、ラヴラヴな気分である。
だから帰妹と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは地天泰から来たものとする。
地天泰の六四が悦んで下り、九三は震い動いて上がったのが、この雷沢帰妹である。
しかし、このように、爻がひとたび交代すると、三四ともに正位を失ってしまう。
正位とは、陰陽が正しいことで、三爻は奇数爻だから陽、四爻は偶数爻だから陰が正しいのだが、今、雷沢帰妹になると、三爻は陰、四爻は陽と、陰陽が不正になってしまう。
これは、色欲に悦び動き、正しい道を失い、自己の情欲の赴くままにしているのであって、配偶をきちんと選ばず、婚姻の正しき礼を失った者である。
もっとも、正しくなくても嫁いだことには変わりはない。
だから帰妹と名付けられた。
また、震の雷が兌の沢の上に在る様子である。
雷が動けば沢の水も従って動くものである。
これもまた男女情欲をもって、相悦び動くの喩えである。
だから帰妹と名付けられた。

卦辞
帰妹、往凶、无攸利、

帰妹は、往(ゆ)くは凶(きょう)、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

交代生卦法によれば、この卦は地天泰から来たわけだが、その地天泰のときには、天地陰陽二気が相交わること正しく、六本の爻に悉く応爻があり、泰通安寧の吉とされている。
しかし、忽ちに一点の情欲に牽かれて動き、三四の陰陽の爻が相交代してこの雷沢帰妹となると、九四震の長男の主爻も、六三の兌の主爻も、共に正位を失い、また各その応爻の助けを喪う。
これは凶以外の何ものでもない。
また、悦んで動くという様子であるわけだが、世人が悦んで動くのは、色欲か利欲のどちらかである。
色欲や利欲を丸出しで動くのは下品であり、そんな人は誰からも尊敬はされない。
だから、往くは凶、利ろしき攸无し、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
帰妹、天地之大義也、
帰妹(きまい)は、天地(てんち)之(の)大義(たいぎ)たる也(なり)、

天地不交、而万物不興、帰妹、人之終始也、
天地(てんち)も交(まじわ)らざれば、而(しこう)して万物(ばんぶつ)興(おこ)らず、帰妹(きまい)は、人(ひと)之(の)終始(しゅうし)なる也(なり)、

説以動、所以帰妹也、
説(よろこ)んで以(も)って動(うご)く、帰妹(きまい)たる所位(ゆえん)也(なり)、

征凶、位不当也、无攸利、柔乗剛也、
征(ゆ)くは凶(きょう)なりとは、位(くらい)当(あた)らざれば也(なり)、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)しとは、柔(じゅう)剛(ごう)に乗(の)れば也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
沢上有雷、帰妹、君子以永終知敝、
沢(さわ)の上(うえ)に雷(かみなり)が有(あ)るは、帰妹(きまい)なり、君子(くんし)以(も)って終(お)わりを永(なが)くし敝(やぶ)れを知(し)る、


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風山漸

53 風山漸(ふうざんぜん)
fuuzan.gif 艮下巽上(ごんか そんじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

漸は、段階を踏んでひとつずつ進む、という意。
この卦は艮を山とし、巽を木とすれば、山の上に木がある様子である。
山の上にある木は日当たり良好なので漸次すくすくと成長する。
だから漸と名付けられた。
また、艮を止まるとし、巽を従うとすれば、内に止まり守る徳を有しつつ、外にては人に巽(したが)うことになり、そうであるのなら、その道は必ず一歩ずつ確実に進むものである。
だから漸と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の六三が進み上って四爻に居て正を得たのが、この風山漸である。
これは、内卦より外卦に出で、下卦より上卦に上がったとしても、その進むことは僅かに一位のみである。
このように、大いに進むのではなく、一歩ずつ漸次に進んでその序を越え過ごさないのであれば、正しい道を得ていることになる。
だから漸と名付けられた。

卦辞
漸、女帰吉、利貞、

漸(ぜん)は、女(おんな)帰(とつ)ぐごとくにして吉(きち)、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

易ができた頃は、「帰」という字は「かえる」という意のほかに、「とつぐ」=嫁入りという意でも多く用いられていた。
周の時代、女子が帰嫁(よめいり)するときは、まず、納采、問名、納吉、納徴、請期、親迎という六礼の次第があった。
ちなみに、日本の皇室の婚礼が、今でも「納采(のうさい)の儀」から始まるのは、これに基づいているのである。
ともあれ、この婚礼の次第のように、進むに序次の正しきに従うことが礼の基本である。
さて、これから結婚しようとするときには、生涯一緒に暮らしたいと思うものである。
すでに夫家に嫁いだら、夫に巽順(したが)って、その家に止まって生涯を終わるのが、女子の道である。
したがって、再び出て還る、すなわち離婚は眼中にない。
もっとも、現実の結婚生活が始まると、とても巽順でき兼ねる夫だったりなんてこともあり、当初の夢や理想のようにはいかないものだが。
それはともかく、この卦は天地否の六三が四爻に一歩進んで正を得、また巽(したが)って止まる様子でもある。
だから、物事を漸次進めるように、という意で、婚礼に譬えて、女帰ぐごとくにして吉、という。
そもそも進むときには、正を以ってしないといけない。
不正にしては、それは暴走であって、進むことを得ない。
だから、貞しきに利ろし、という。
なお、この利貞は、あくまでも漸次進む際の一般論であって、女子の貞節を指して言っているわけではない。


彖伝(原文と書き下しのみ)
漸之進也、進得位、往有功也、
漸(ぜん)之(の)進(すす)む也(や)、進(すす)んで位(くらい)を得(え)、往(ゆ)くこと功(こう)有(あ)る也(なり)、

女帰吉、止而巽、動不竆也、
女(おんな)帰(とつ)ぐごとくにして吉(きち)なりとは、止(とど)まって而(しこう)して巽(したが)い、動(うご)くこと竆(きゅう)せざる也(なり)、

利貞、当位剛得中、進以正可、以正邦也、
貞(ただ)しきに利(よ)ろしとは、位(くらい)に当(あた)って剛(ごう)中(ちゅう)を得(え)て、進(すす)むに正(ただ)しきを以(も)ってして、以(も)って邦(くに)を正(ただ)す可(べ)しと也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山上有木漸、君子以居賢徳、善風俗、
山(やま)の上(うえ)に木(き)が有(あ)るは漸(ぜん)なり、君子(くんし)以(も)って賢徳(けんとく)を居(すえお)きて、風俗(ふうぞく)を善(よ)くす、


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艮為山

52 艮為山(ごんいさん)
gonisan.gif 艮下艮上(ごんか ごんじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

この卦は八卦の艮を重ねた形。
艮とは止まるという意。
八卦の艮は、一陽が二陰の上に在る。
陽の性質は上り進むものであり、今、一陽が上り進んで、すでに二陰の上に至っているので、これ以上進むべきところはない。
したがって、自然にそこに止まっている。
だから艮と名付けられた。

卦辞
艮其背、不獲其身、行其庭不見其人无咎、

其(そ)の背(せ)に艮(とど)まり、其(そ)の身(み)を獲(え)ず、其(そ)の庭(にわ)に行(い)きても其(そ)の人(ひと)を見(み)ざれば咎(とが)无(な)し、

およそ人の耳、目、口、鼻は、みな前面にあり、それぞれの作用によって、その人の心を動かす。
また、手足も一日中よく動いている。
しかし、背中だけは、常に静かに止まっている。
ソワソワ動くと物事の本質を見失い、静かに止まっていれば物事の本質を見抜けるものである。
したがって、人の心は常に背中のようにしていれば、長く過失はないのである。
背中は実に止まるのによい場所なのである。
だから、其の背に艮まり、という。
無思無為の寂然不動の象徴が背中なのである。

そもそも天下全般の罪悪凶殃というものは、悉く我が身に対する愛惜の情が過ぎるから起きるのである。
子の父母に対する不孝、臣の君に対する不忠、婦の夫に対する不貞、弟の兄長に対する不悌、朋友の不信から、詐欺、奸謀、阿り諂い、残忍、貧暴・・・など、とにかくあらゆる罪悪に至る根本は、みな己の身を過愛し、情欲の制御が利かなくなることに始まる。
要するに自己チューということである。
したがって、自分の身から欲を断ち切ることが大事なのである。
それが、其の身を獲ず、ということである。
ただし、隠遁したり、弱気になってひきこもれと言っているわけでもないし、放心者の如く身体を自傷したり、家庭を捨てたり、出家したりということを求めているのでもない。
この俗世間に住みつつも、世間に流されないための方策として、示しているのである。
例えば、ある庭に入って行き、そこにいる人を目で見たとしても、心でその人を見ていなければ、痛さも痒さも感じない、といったことである。
庭とは、世間であり、その人とは世間の事物であり、心で見なければその事物に翻弄されない、ということである。
翻弄されなければ、咎められることもない。
だから、其の庭に行きても其の人を見ざれば咎无し、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
艮、止也、時止、則止、時行、則行、動静不失其時、其道光明、
艮(ごん)は、止(とど)まる也(なり)、時(とき)止(とど)まるべく、則(すなわ)ち止(とど)まり、時(とき)行(おこな)うべくば、則(すなわ)ち行(おこな)う、動静(どうせい)其(そ)の時(とき)を失(うしな)わざるは、其(そ)の道(みち)光明(こうみょう)なるなり、

艮其背、止其所也、
其(そ)の背(せ)に艮(とど)まるとは、其(そ)の所(ところ)に止(とど)まる也(なり)、

上下敵応、不相与也、是以不獲其身、行其庭、不見其人、无咎也、
上下(じょうげ)敵応(てきおう)して、相(あい)与(くみ)せざる也(なり)、是(これ)を以(も)って其(そ)の身(み)を獲(え)ず、其(そ)の庭(にわ)に行(ゆ)きても其(そ)の人(ひと)を見(み)ざれば、咎(とが)无(な)きと也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
兼山艮、君子以思不出位、
兼(あわ)せたる山(やま)あるは艮(ごん)なり、君子(くんし)以(も)って思(おも)うこと位(くらい)を出(い)でず、


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震為雷

51 震為雷(しんいらい)
shinirai.gif 震下震上(しんか しんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

この卦は八卦の震を重ねた形。
震とは動くという意。
八卦の震は一陽が二陰の下に在るが、陽はそもそも上り進む性質のものである。
とするとこの一陽は、二陰の下に抑えつけられていることになる。
陽ならば、それをよしとはしない。
憤激して動き出そうとするものである。
だから震と名付けられた。

卦辞
震、亨、震来虩虩、笑言唖唖、震驚百里、不喪匕鬯、

震は、亨(とお)る、震(しん)来(き)たりて虩虩(げきげき)たり、笑言(しょうげん)唖唖(あくあくたり)、震(しん)百里(ひゃくり)を驚(おどろ)かせども、匕鬯(ひちょう)を喪わず、

震は動くであり、やればできる、ということである。
やればできる、というのは、今は二陰の下に抑えつけられていても、陽にはそれを跳ね除けて上に行く能力がある、ということである。
動いて、やればできるのであれば、万般のことは遂げられるものである。
だから、亨る、という。
また、震は雷であり、雷は陽気の発動であり、よく欝蟄の気を払い散らす。
気分がよくなれば、物事は亨通するものである。
だから、亨る、という。
そもそも六十四卦のうちで、勢いということを示すのは、震の卦だけである。
しかし勢いというのは、天の時と地の利と兼ね合わせ至るものであり、亨るとは時機が熟したことをいう。

さて、震雷が来たときには、君子ならばどうするべきかだが、震来たりて以下が、その対処についてである。
震来るというのは、雷が近づいて来たこと、虩虩とは、恐れ慄き驚いている様子をいう。
雷が近づくと、誰でもその音にびっくりするから、このように、震来りて虩虩たり、という。
しかし、いつしか遠ざかり、雨も上がり、晴れ間が除くと、みんなホッと安んじて笑い、雷の様子を言い合ったりする。
唖唖とは、笑い合っている様子のことをいう。
だから、笑言唖唖たり、という。

要するに震雷とは、音は大きくまるで百里先まで驚かせるようであっても、静かにしていれば、そのうち去って行くものである。
だからこそ、君子ならば冷静さを失わないことである。
例えば、神事を行っているのなら、雷の音に驚き震え上がって匕鬯を落としてしまうなんてのは、もってのほかである。
普段よりも慎重丁寧に扱い、いつ驚かされても大丈夫なように覚悟を決めて事を行うようにしたいものである。
匕とは鼎の中から実を掬い上げてお供えの器に移す匙(さじ)、鬯は祭祀に使う香酒のことである。
だから、震百里を驚かせるも、匕鬯を喪わず、という。

この卦は震を二つ重ねた卦であることから、雷が次々に震い起きる様子である。
だから雷をもって辞が設けられているのだが、これを社会に於いて言えば、雷が次々に来るような危難があることを示唆する。
そんなときは、雷のときと同様に、覚悟を決め、努めて平常心でいることである。
そうすれば、災い転じて福となすことにもなろう。

また、震は長男を意味し、長男は祖先の祭祀を行う者である。
だから祭祀の道具である匕鬯を例に出すのであって、震雷のような危難に遭遇しても、祭祀を行うときのように恐れ敬い慎んで行動すれば危難はいつしか去って行く、ということも、匕鬯を喪わず、という言葉に込めているのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
震亨、震来虩々、恐致福也、笑言唖々、後有則也、
震(しん)は亨(とお)る、震(ふる)い来(きた)りて虩々(げきげき)とは、恐(おそ)るれば福(ふく)を致(いた)す也(なり)、笑言(しょうげん)唖々(あくあく)たりとは、後(のち)には則(のっとること)有(あ)ると也(なり)

震驚百里、驚遠而懼邇也、
震(ふる)うこと百里(ひゃくり)を驚(おどろ)かすとは、遠(とお)くを驚(おどろ)かして而(しこう)して邇(ちか)きを懼(おそ)れしむる也(なり)、

不喪匕鬯、可以守宗廟社稷、以為祭主也、
匕鬯(ひちょう)を喪(うしな)わずとは、以(も)って宗廟(そうびょう)社稷(しゃしょく)を守(まも)り、祭主(さいしゅ)と為(な)す可(べ)きとなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
洊雷震、君子以恐懼修省、
洊(かさな)りて雷(いかづち)なるは、震(しん)なり、君子(くんし)以(も)って恐懼(きょうかく)して修省(しゅうせい)す、


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火風鼎

50 火風鼎(かふうてい)
kafuu.gif 巽下離上(そんか りじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

鼎とは、煮炊きをする三本足の鍋のこと。
この卦は初六の陰爻を足とし、九二九三九四の陽爻を鍋の胴体部分とし、六五の陰爻を胴の上にある左右の耳とし、上九の陽爻を持ち運びするときに取り付ける鉉(つる)として、鼎(てい=かなえ)の形を表現しているものとする。
だから鼎と名付けられた。
また、巽を木として入るとし、離を火とすれば、巽の木を離の火の中に入れて煮炊きのために火勢を強くしている様子である。
だから鼎と名付けられた。
teinabe.gif

なお、前卦沢火革は、物事を変革することを意味するが、この火風鼎の鼎は、金属を一旦溶かし変革して成型した道具であり、生では食べられないものを煮炊きして食べられるようにその性質を変革させる道具である。

卦辞
鼎、元亨、

鼎は、元(おお)いに亨(とお)る、

鼎は煮炊きをする鍋である。
古は、鼎を使って生ものを熱で変革し、食べられるようにして、その後に上帝に亨(すすめまつ)り、聖賢を養い、もって人民にその恩恵を及ぼす。
上帝とは、天帝とも呼ばれる、天の運行を司る神であって、この上帝の祭祀をすることを、上帝に亨(すすめまつ)る、という。
中でも、この鼎を使って煮炊きしたものを供えての祭祀は、その亨(すすめまつ)るところの大なる者である。
だから、元いに亨る、という。

また、離を明とし麗(つ)くとし、巽を従うとすれば、明者に麗き従う様子である。
この社会は、明者に麗き従うときには、その道必ず大いに亨通するものである。
だから、元いに亨る、という。

また、来往生卦法によれば、もとは天風姤から来たものとする。
天風姤の下卦の外より一陰が進み上って、六五となって居るのが、この火風鼎である。
天風姤は遇うというのがメインの意味だが、多くの人と出遇っても、未だ離明なることを得ず、二五の君臣も応じてはいない。
それが今、柔が進み上って火風鼎となるときには、離明に巽従(明者に従う)の意が現れ、六五柔中にして九二の剛中の臣と陰陽相応じている。
したがって、大いに亨通するのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
鼎、象也、以木巽火、亨飪也、
鼎(てい)は、象(しょう)也(なり)、木(き)を以(も)って火(ひ)に巽(いれ)て亨飪(ほうじん)する也(なり)、

聖人亨、以亨上帝、而大亨、以養聖賢、巽而耳目聡明、
聖人(せいじん)亨(ほう)して、以(も)って上帝(じょうてい)に亨(すす)めまつり、而(しこう)して大(おお)いに亨(ほう)して、以(も)って聖賢(せいけん)を養(やしな)い、而(しこう)して耳目(じもく)聡明(そうめい)なり、

柔進而上行、得中而応乎剛、是以元亨、
柔(じゅう)進(すす)んで而(しこう)して上行(じょうこう)し、中(ちゅう)を得(え)て而(しこう)して剛(ごう)に応(おう)ず、是(これ)を以(も)って元(おお)いに亨(とお)るなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
木上有火、鼎、君子以正位凝命、
木(き)の上(うえ)に火(ひ)有(あ)るは、鼎(てい)なり、君子(くんし)以(も)って位(くらい)を正(ただ)し命(めい)を凝(あつ)む、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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沢火革

49 沢火革(たくかかく)
takuka.gif 離下兌上(りか だじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、dataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

革は、変革、改める、という意。

この卦は兌水が上、離火が下にある。
水を入れた器の下に火があれば、火が盛んに燃えるときは、必ず水は沸騰し、ついには乾いてなくなり、水が溢れるときは、必ず火を消滅させる。
これは、水と火の性情が表裏反対にして、相互に克殺する者だからである。
火の勢いが盛んであれば水は蒸発してなくなり、水の勢いが盛んであれば火は消滅する。
これは、水火ともにその勢いが強く大きい方が、弱く小さい方に克(か)つということであって、こうして物事は変革して行くものである。
だから革と名付けられた。

しかし、このように水と火がその勢いの強弱で互いに相手を打ち消しあうことをもって革と名付けれたのであれば、水火既済も革と名付けれるべきではないか?という疑問が湧くが、これは沢水と坎水の違いによるのである。
水火既済の水は坎水であり陽卦であり、火は離火であり陰卦であり、さらに坎水と離火は表裏の関係にある。
したがって、互いに釣り合っているのである。
しかし、沢火革の水は沢水であり、沢水も離火も陰卦であり、したがって互いに釣り合っていないのである。
だから敵対して水と火が互いに害し合う様子とするのである。

また沢火革は、兌の少女が上に、離の中女が下にいる形であるが、これでは姉妹の序列が逆なので、変革する必要がある。
だから革と名付けられた。

また、兌の少女と離の中女が、共に父母の家に同居するとしても、将来嫁ぐところは異なるから、その志は同じではなく、その違いにより争い変革を求めようとする雰囲気がある。
だから革と名付けられた。

また、内卦の離を明とし、外卦の兌を悦ぶとすれば、内卦の自分は明らかにして、よく物の利害に通じ、改革するべきことを改革すれば、外卦の相手は、よくこれを悦ぶ。
改革するときはこのようであって欲しいものである。
逆に、相手が不愉快になる改革はよくない。
だから革と名付けられた。

また、内卦の離火をもって、外卦の兌金を熱する様子である。
火をもって金属を熱すると、金属は溶けるので、その形状を変革することができる。
だから革と名付けられた。
『書経』洪範に「金は革に従うという」とあるのは、このことである。

また、離を夏とし、兌を秋とすれば、夏から秋に季節が変革することを示している。
だから革と名付けられた。
そもそも四季の移り変わりは、春から夏、秋から冬、冬から春というのもある。
とすると、ここでことさら夏から秋への移り変わりをもって革とするのは、どういうことか?
それは、次のことからである。
季節が改まるということで言えば、どれも同じだが、陰陽の変化を考えれば、そこに違いがある。
春は少陽、夏は老陽、秋は少陰、冬は老陰である。
したがって、春と夏と分けて二つの如くなっていても、この両者は同じ陽の季節であり、要するに陽の強さが変化しただけであって、変革とまでは呼べない。
秋と冬も同様に、陰の強さが変化しただけである。
ところが、夏は陽は極まり、秋は陰の始まりである。
したがって、夏から秋への変化は陰陽変革の最も激しいときなのである。
なお、冬から春に変わるときも、老陰から少陽に変化するわけだから、陰陽変革は激しいわけだが、これは春夏秋冬一巡し、年が改まり、新たに四季が始まるときである。
だから冬から春へは変革のときとはしないのであって、夏から秋への変移こそが、四季の途中の変革なのである。

また、離を太陽とし、兌を西とすれば、太陽が西に没する様子である。
これは昼から夜への変革である。
だから革と名付けられた。
なお、太陽は、没しても、また翌朝には昇る。
そのくり返しを明らかに計算したものが暦である。

卦辞
革、*已日乃孚、元亨、利貞、悔亡、

革は、已日(いじつ)に乃(すなわ)ち孚(まこと)とせらる、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、

*已は「すでに」という意で、*已日は、改革し得て、功成り事を遂げる日のこと。
およそ改革ということは、初めはなかなか人々に受け入れられないものである。
旧習に慣れ親しんでいるからである。
したがって、その改革をした後、それが自他共に素晴しいと思えるものであれば、そのときに漸く人々はその改革を信じ、歓迎するものである。
だから、革は已日に乃ち孚とせらる、という。
そもそも改革するに当たは、古い害を除き去り、新しい利を益すことが大事である。
そうであれば、改革した後に、その改革を推進した人は人望を高め、大いに亨通する。
もちろんその改革が貞正なものであることは重要である。
貞正であれば、最初は受け入れずに、その改革を後悔する場面もあったとしても、やがて改革が成就して来れば、人々は考えを改め、その後悔は杞憂に過ぎなかったことになる。
だから、貞しきに利ろし、悔い亡ぶ、という。
しかし、その事の利害に精通せず、その事の詳細に明らかでないのに、思いつきで改革するような場合は、却って大なる災害を生じるものである。
したがって、妄りに改革するべきではないのである。
これは沢雷随の、元亨利貞无咎、とあるのと同じニュアンスだと言えよう。

なお、*已は、もともと己(き)とあったものを、それは写し間違いだとして、朱子学以降はこの*已(い)として「事成り終わる日」という意に解している。
中州も、これに従っている。
それ以前は、己(き=十干の「つちのと」)のこととして解釈されていた。
例えば、『日本書紀』の神武天皇即位年算出の根拠となったとされる辛酉革命は、この沢火革からの考え出されたもので、その説はこの*已は己として成り立っている。
辛酉革命は『易緯』『詩緯』という書物の中にある予言説で、
戊午を革運と為し、辛酉を革命と為し、甲子を革令と為す、というものである。
六十干支が戊午のときに革命の運気に入り、それを初爻とすれば、干支との関係は以下のようになる。

甲子 番外       革令 
癸亥 上爻 ━  ━
壬戌 五爻 ━━━
辛酉 四爻 ━━━ 革命 即位
庚申 三爻 ━━━
己未 二爻 ━  ━ 革明 即位予告
戊午 初爻 ━━━ 革運 橿原入り

革命の主体は金属が溶けて液状になることとすれば、離の火で熱せられた兌金が溶けて坎水となることである。
これは、四爻が陽から陰に変じることである。
『日本書紀』を開くと、神武天皇即位前三年戊午歳に橿原に入り、翌前二年己未歳に、これからここに都を造ることを宣言し、翌々年辛酉歳正月一日に即位したとある。
己未については、『易緯』や『詩緯』の記載はないが、二爻は離明の主である。
離の火で兌の金を熱して溶かすのが革命であり、その意味からすれば二爻は離の火の燃える中心である。
とすると二爻に当たる時は、これから行う革命を明らかにする時、言うなれば革明であろう。
前二年己未歳の、これからここに都を造ることの宣言は、まさにこれに当たる。

そして、一度革命したら、爻一本を一年として、この卦が終わる上爻のときが過ぎるまでは、何があってもそのまま続けなければいけない。
すぐには改革を歓迎されなくても、その改革したシステムをきちんと直向に運営していれば、三年目すなわち上爻のときにはそれまで不満だった人々からもその改革が歓迎されるようになり、改革を発案した君子はまるで豹の如くに美しく見えるものである。
これ上爻の爻辞なのだが、とにかく君子豹変とは、本来そういう意味だったのである。
逆の、君子は変わり身が早いという意味で使われる場合も多いが・・・。
とにかく、この卦に沿って言えば、改革の手直しをするのは、要するに革命から四年目すなわち甲子以降にするべきなのである。
だから、甲子を革令と為す、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
革、水火相息、二女同居、其志不相得、曰革、
革(かく)は、水火(すいか)相(あい)息(そく)す、二女(じじょ)同居(どうきょ)し、其(そ)の志(こころざし)相(あい)得(え)ざるを、革(かく)と曰(い)う、

已日乃孚、革而信之、
已(ことなりおわ)る日(ひ)にして乃(すなわ)ち孚(まこと)とせらるとは、革(あらた)めて而(しこう)して之(これ)を信(しん)ぜられるとなり、

文明以説、大亨以正、
文明(ぶんめい)にして以(も)って説(ぜい)し、大(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってせよとなり、

革而当、其悔乃亡、
革(あらた)めて而(しこう)して当(あ)たる、其(そ)の悔(く)い乃(すなわ)ち亡(ほろ)ぶなり、

天地革、而四時成、湯武革命、順乎天、而応乎人、革之時、大矣哉、
天地(てんち)革(あらた)まりて、而(しこう)して四時(しじ)成(な)る、湯武(とうぶ)命(めい)を革(あらた)めて、天(てん)に順(したが)い、而(しこう)して人(ひと)に応(おう)ず、革(かく)之(の)時(とき)、大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢中有火、革、君子以治暦明時、
沢(さわ)の中(なか)に火(ひ)が有(あ)るは、革(かく)なり、君子(くんし)以(も)って暦(こよみ)を治(おさ)め時(とき)を明(あきら)かにすべし、


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水風井

48 水風井(すいふうせい)
suifuu.gif 巽下坎上(そんか かんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、kansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

井は、いわゆる井戸のこと。
この卦は巽の木の上に坎の水があるわけだが、その様子からイメージできるのは、木の器で水を汲んでいるところであり、そうやって水を汲む場所と言えば井戸である。
だから井と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは風水渙から来たものとする。
風水渙は、巽の木が坎の水の上にある形だが、この水風井になると、巽の木が下って坎の水の下に入り、坎水は巽木の上に上っている。
これは、木の桶を水の中に入れて、水を汲み上げている様子である。
だから井と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは地天泰から来たものとする。
地天泰の六五が来て初に居り、初九が往きて五に居るのが水風井である。
そもそも地天泰の上卦の坤は地、下卦の乾は陽気とすれば、これは地中に陽気がある様子である。
水風井の九五は坎水の主爻であり、坎は陽卦である。
水風井の初六は巽風の主爻であり、巽は陰卦である。
陰気が坤の地の上より入って巽の風となれば、その風の力で地中の陽気が上って坎水を生じる。
これは地脈に水を生じるということである。
もし地中に陽気の水脈がないときは、どんなに地を掘っても水は出ない。
この水風井は水を掘り当てた様子である。
だから井と名付けられた。

卦辞
井、改邑不改井、无喪无得、往来井井、汔至、未繘井、羸其瓶、凶、

井は、邑(ゆう)を改(あらた)めるも井(せい)を改(あらた)めず、喪(うしな)うこと无(な)く得(え)ること无(な)し、往(ゆ)くも来(きた)るも井(せい)を井(せい)とす、汔(ほとん)ど至(いた)らんとして、未(いま)だ井(せい)に繘(つるべなわ)せず、其(そ)の瓶(つるべ)を羸(やぶ)る、凶(きょう)、

およそ邑(集落)を建設するには、必ずその水泉の良し悪しを観ることが第一である。
水泉が不便では、邑を建設しても、生活が不自由になり、誰も住みたがらない。
だからこそ、先ずは水泉が便利な場所を選び得て、そこに井戸を掘り、その後に邑を建設するべきである。
そもそも邑里は、人間の都合で場所を変えたりもするが、井戸は地脈によって得るものであって、人間の都合で場所を改めることはできない。
だから、邑を改めるも井を改めず、という。
そもそも井戸というものは、汲んでも尽きることはなく、汲まなくても溢れることもない。
だから、喪うこと无く得ること无し、という。
また、井戸は水を汲む場所であって、すでに汲んだ人は往き去り、これから汲もうとする人が来るところである。
このように、ひとつの井戸は、みんなで使うものである。
この意味で、往くも来るも井を井とす、という。

さて、普通であれば枯れたり溢れたりしない井戸でも、季節や気候によっては、多少の水位の上下はある。
常に維持管理していないと、いざ汲もうとして、瓶を入れたとき、瓶縄が水面の手前までしか届かず、水を汲めないようなこともある。
また、縄がボロボロになっていたら、水を汲んだとき、その重さで切れてしまうこともある。
だから、汔ど至らんとして、未だ井に繘せず、其の瓶を羸る、凶、という。
これは、何事も日頃の手入れが大事であって、それを怠るとせっかくの事業も八九分に至って支障を来たすものである、ということの喩えでもある。


彖伝(原文と書き下しのみ)
巽乎木、而上水、井、
木(き)を巽(いれ)て、而(しこう)して水(みず)を上(あ)ぐるは、井(せい)なり、

井、改邑不改井、乃以剛中也、
井(せい)は、邑(ゆう)を改(あらた)めるとも井(せい)を改(あらた)めずとは、剛中(ごうちゅう)なるを以(も)って也(なり)、

无喪无得、往来井井、養而不竆也、
喪(うしな)うこと无(な)く得(え)ること无(な)し、往(ゆ)くも来(きた)るも井(せい)を井(せい)とすとは、養(やしな)って而(しこう)して竆(きわ)まらざれば也(なり)、

汔至亦不繘井、未有功也、羸其瓶、是以凶也、
汔(ほとん)ど至(いた)らんとして井(せい)に繘(つるべなわせ)ずとは、未(いま)だ功(こう)有(あ)らざる也(なり)、其(そ)の瓶(つるべ)を羸(やぶ)るとは、是(これ)を以(も)って凶(きょう)なると也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
木上有水、井、君子以労民勧相、
木(き)の上(うえ)に水(みず)有(あ)るは、井(せい)なり、君子(くんし)以(も)って民(たみ)を労(ねぎら)い勧(すす)め相(たす)く、


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沢水困

47 沢水困(たくすいこん)
takusui.gif 坎下兌上(かんか だじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

困とは、苦しむ、困窮して自らの力では打開できない、という意。

易位生卦法によれば、もとは水沢節から来たものとする。
水沢節は、坎の水が兌の沢の上に在り、沢水が溢れず枯れずほどよくある様子である。
それが今、上下が入れ替わると、兌の水は悉く漏れ下り、この沢水困となる。
これは、沢水が涸渇した様子であり、困窮厄難を示す。
だから困と名付けられた。

また、内卦の坎は一陽二陰の間に陥り、二陰のために覆われている様子、外卦の兌は一陰が二陽の上に在り、これも二陽が一陰に覆われている様子である。
また、下の坎は陽卦、上の兌は陰卦であり、陰卦をもって陽卦を覆っている様子である。
また、陰は小人の道、陽は君子の道であり、陽を男子とし、陰を女子とすれば、君子は小人に覆われ、男子は女子に覆われている様子である。
男子が女子に覆われるというのは、男性が色仕掛けで誘惑する女性の言いなりになっていることである。
これらは、困窮の至って甚だしいことである。
だから困と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の六二が往きて上爻に居て、上九が来たって二爻に居るのが沢水困である。
その上六は兌沢の主爻であり、九二は坎水の主爻である。
これは兌沢より坎水が漏れ下り困窮している様子である。
天地否は否塞して通らないことだが、今、僅かに剛柔交代すれば、忽ちこのように困窮してしまう。
だから困と名付けられた。
また、天地否は塞がるという意の卦であっても、乾の純陽が上に位置し、坤の純陰が下に居る。
それが今、妄りにひとたび交わり動いただけで、忽ちこのように剛明なる者が柔暗なる者に覆われてしまう。
だから困と名付けられた。

卦辞
困、亨、貞、大人吉、无咎、有言不信、

困は、亨(とお)る、貞(ただ)しかるべし、大人(たいじん)は吉(きち)、咎(とが)无(な)し、言うこと有れども信ぜられじ、

この卦は、坎を険難、兌を悦ぶとすれば、険難のときに悦んでいる様子となる。
険難のときであっても悦んでいるのは、一見問題がありそうだが、実はこれこそ困のときの正しい道なのである。
天命に身を委ね、その困窮に甘んじ、時期を待つしかないときである。
徒に悩んでも解決するものではない。
とすれば、その険難に置かれている状況を悦び楽しみとするのが、一番精神衛生にもよいし、そのようにしていれば、人間としての器の大きさも評価されるのである。
逆に、困窮を脱しようと右往左往しても、おいそれとは脱出できないものである。
なんとか現状を打開するためにと、甘い見通しを立てて無理して金策に走り、結局は失敗し、さらに借金に借金を重ね、ついには泥沼に陥ることがあるように。
したがって、今置かれている険難の状況を悦び楽しむ余裕こそが大事なのである。
そうしていれば、やがて必ず困窮を脱するときが来るものである。
だから、困は亨る、貞しかるべし、という。
亨るというのは、今すぐにではない。
貞しく、というのは、この場合は、険難を悦ぶ余裕で耐えることである。
困のときだからこそ、貞しく険難を悦ぶ余裕で耐えていれば、いつか困窮から脱して、そのときに亨通する、ということである。
大人ならば、どんなに困窮しても、天を恨まず、他人を咎めず、ひたすら貞正の道を守り、険難を悦び、時が至るのを待つものである。
右往左往するのは小人である。
だから、大人は吉、咎无し、という。
咎无しとは、道に違はざることである。
これが小人ならば、凶、咎有り、ということになる。
およそ人は困苦のときに遇うと、必ずその困窮を緩和し、険難を脱しようと、数々の辛酸を舐め、恥辱を耐え、耳を低くして尾を伏せ、他人に哀れみを求め、救済を乞い、哀しみ訴えるものである。
しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有れども信じられじ、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
困、剛揜也、
困(こん)は、剛(ごう)揜(おお)はるる也(なり)、

険以説、困而不失其所亨、其唯君子乎、
険(けん)にして以(も)って説(よろこ)ぶ、困(くる)しんで而(しこう)して其(そ)の亨(とお)る所(ところ)を失(うしな)わざるは、其(そ)れ唯(ただ)君子(くんし)乎(か)、

貞、大人吉、以剛中也、
貞(ただ)しくせよ、大人(たいじん)なれば吉(きち)なりとは、剛中(ごうちゅう)なるを以(も)って也(なり)、

有言不信、尚口乃竆也、
言(い)うこと有(あ)りとも信(しん)ぜられずとは、口(くち)に尚(たよ)れば乃(すなわ)ち竆(きゅう)する也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
沢无水、困、君子以致命遂志、
沢(さわ)に水(みず)无(な)きは、困(こん)なり、君子(くんし)以(も)って命(めい)を致(いた)し志(こころざし)を遂(と)ぐ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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地風升

46 地風升(ちふうしょう)
chifuu.gif 巽下坤上(そんか こんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、konchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

升とは、進み昇る、という意。

易位生卦法によれば、もとは風地観から来たものとする。
風地観は、巽の大木が坤の地の上に在り、その大木を見上げている様子だが、この地風升はその巽の大木が下って坤地の中にある形である。
これは地中に木を生じる様子である。
しかし、そんなことはあるわけがない。
したがって、その大木の種子が地中に蒔かれた様子であって、蒔かれた種子はやがて発芽して上へ上へと成長し、いつか大木となる。
だからその上へ上へと成長することを期待し、進み昇るとして、升と名付けられた。

また、巽を風とし、坤を地とすると、風が地中にある様子だが、風は本来地上にあるものであって、今は地中にあるとしても、洞窟がそうであるように、いつか必ず地上に出で上るものである。
だから升と名付けられた。

また、運移逆生卦法によれば、初六の一陰は成卦の主であり、坤地の上へ発し上ろうとしているのであって、昇り上がればいつか二陽爻の上に出て地沢臨となる。
ものが下に在って、未だ上らざるときは、進み上ることを臨むものである。
すでに進み上って地沢臨となったときには、上ることを達成したことになる。
この地風升は、上るという意ではあるが、すでに上り進んだということではなく、これからまさに上ろうとしている様子である。
だから升と名付けられた。

また、巽は従、坤は順だから、従順な様子である。
多くの場合、従順であればいつか必ず上り進み、逆らえばそれまでである。
だから升と名付けられた。

卦辞
升、元亨、利見大人、勿恤、南征吉、

升は、元(おお)いに亨(とお)る、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、恤(うれ)うる勿(なか)れ、南(みなみ)に征(ゆきむか)へば吉(きち)、

今、上り進むときに当たって、自分は巽にして従い、相手は坤にして順(したが)う。
このようであれば、自分も相手も互いに滞り支障を来たすことはなく、その事は大いに通じるものである。
また、九二剛中の才徳をもって六五柔中に応じ助けわけだから、これもまた大いに亨通することを示唆する。
だから、元いに亨る、という。

そもそもその道で上り進むことは、大人を見るのでなければ難しいものである。
例え自分が巽順でも、相手が小人だったら無意味である。
だから、大人を見るに利ろし、という。

恤うる勿れというのは、今すぐに願いが叶わなくても焦らないようにと、慰めているのである。
上り進むことは、誰しもが速やかであって欲しいと願うものだが、一朝一夕にして成り遂げることは、およそ不可能である。
地中に蒔かれた種子も、時が至れば、必ず地上に芽を出すように、よく巽順であれば、後日必ず時が至り、上り進むものである。

南に往きむかへば吉、というのは、初爻を北、上爻を南とするからであって、初六が二陽剛を越えて上=南に往くから、そう言うのである。
なお、南方は離明の方位であり、その道を上り進みたいと欲するのなら、必ず明の道に向かい進むようにという教えの喩えである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
柔以時上、升、
柔(じゅう)時(とき)を以(も)って上(のぼ)るは、升(しょう)なり、

巽而順、剛中而応、是以大亨、
巽(したが)って順(したが)う、剛(ごう)中(ちゅう)にして応(おう)あり、是(これ)を以(も)って大(おお)いに亨(とお)る、

利見大人、勿恤、有慶也、南征吉、志行也、
大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、恤(うれ)うる勿(なか)れとは、慶(よろこ)び有(あ)らんと也(なり)、南(みなみ)に征(ゆきむ)かへば吉(きち)なりとは、志(こころざし)行(おこな)われんと也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
地中生木、升、君子以順徳積小以高大、
地中(ちちゅう)に木(き)を生(しょう)ずるは、升(しょう)なり、君子(くんし)以(も)って順徳(じゅんとく)あって小(しょう)を積(つ)んで以(も)って高大(こうだい)にすべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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沢地萃

45 沢地萃(たくちすい)
takuchi.gif 坤下兌上(こんか だじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

萃とは、集まる、という意。

この卦は、九五の君と九四の宰相と、共に剛明の才徳があり、下の衆陰がこの二陽の徳に集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、水地比の聖君と雷地予の賢臣とが、同徳をもって相助け集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌を悦ぶ、坤を民衆とし順(したが)うとすれば、悦んで順う様子である。
これを、上を主体に言えば、君主が悦んで民衆が順う様子であり、下を主体に言えば、民衆が悦んで順う様子となる。
悦んで順うのであれば、皆が相集まる。
だから萃と名付けられた。
また、一人のこととして言えば、悦んで順うのであって、また、対人関係で言えば、自分が順い相手が悦ぶことであり、これは共に相集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、沢が地上にある様子だが、沢は水が集まっているところであって、だから萃と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは地沢臨から来たものとする。
地沢臨は沢水坤地の下に在るわけだが、その沢水が地上に上ったのが、この沢地萃である。
これは水気が地上に集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、坤の母と兌の少女とが相集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌の少女が愛嬌を振りまいて、大勢の民衆が集まった様子である。
だから萃と名付けられた。

卦辞
萃、亨、王*假有廟、亨用大牲、吉、利見大人、利貞、利有攸往、

萃は、亨(とお)る、王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)る、亨(すすめまつ)るに大牲(たいせい)を用(もち)いてす、吉(きち)、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

*假:通本は仮の正字体の假とするが、中州はその偏をイではなく彳が正しいと指摘する。
しかしそれは、パソコンで使うJIS、UNIコード、共に規格外の字なので、ここでは止むを得ず、假で代用しておく。

およそ物事は、相集まってしかる後に亨通するものである。
萃は物事が集まった様子である。
だからまず、萃は亨る、という。
有廟とは、先祖を祭祀するところにして、有は尊称である。
そもそも神とは、祭祀するときには、そこに集まり、祭祀しないときにはそこから散じるものである。
そこで六十四卦では、集まるという意の沢地萃と、散じるという意の風水渙の二卦に、鬼神を祭祀するときのことを書いているのである。
風水渙は既に散じたものが、祭って集まることを解説し、沢地萃は集まるという卦の意義について、祭ることを解説しているのである。

さて、天下を治める道の肝要は、民心を集めることが第一である。
その民心を集めることは、自分が孝を尽くすのが先決である。
その孝を尽くすのは、近きより遠きを追うのが先決である。
遠きというのは、先祖のことであり、先祖を丁重に敬うことが大事だ、ということである。
『論語』にも「終わりを慎み遠きを追えば、則(すなわ)ち民の徳は厚きに帰す」とある。
今、君上がよく孝を先祖に致すこと厚ければ、鬼神は必ず感じ格(いた)って来臨し、民も必ず化して集まるものである。
これを王者の萃という。
要するに、自分の先祖を敬ってこそ、人は他人から信頼されるのであって、自分の先祖を蔑ろにすれば、目先の利益では人を集めたとしても、その人間性を心からは信頼されないものだ、ということである。

その祭祀をするときには必ず牲を用いる。
牲とは進め献じる供え物のことである。
大牲とは、その供え物の至って大掛かりなものであって、至極の大礼を備えることである。
だから、王有廟に*假る、亨(すすめま)つるに大牲を用いてす、吉、という。
吉というのは、その祭祀において至敬至誠を尽くすときには、鬼神は必ず感じて格(いた)って大いに福を得るということである。
なお、太古には牲として大型動物を生贄にすることもあったようだが、周易では、水火既済九五の爻辞にあるように、その必要はないと考えている。

今は萃=集まるときである。
民衆は、天下の賢明な大人たちが集まって政治を行う様子を見ればこそ、悦んで順うものである。
したがって、九四の賢臣から言えば、九五の大人たる君主に謁見するに利ろしく、九五の君主から言えば、九四の大人たる賢臣に接見するに利ろしいのである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

君臣上下共に相集まるときには、貞正であることが大事である。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも沢地萃は、九四と九五の二陽剛賢明の君臣が、大いに天下の人心を集めるという意だが、九四九五は外卦なので、要するに、外卦に集まる様子である。
往く攸有るに利ろしというのは、内卦を現在地としたときの往く攸すなわち外卦の九四九五に集まるに利ろし、と諭しているのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
萃、聚也、順以説、剛中而応、萃、
萃(すい)は、聚(あつま)る也(なり)、順(したが)って以(も)って説(よろこ)ぶ、剛(ごう)中(ちゅう)にして而(しこう)して応(おう)あるは、萃(すい)なり、

萃、亨、聚而亨也、
萃(すい)は、亨(とお)るとは、聚(あつま)りて亨(とお)る也(なり)、

王*假有廟、亨用大牲、吉、致孝享也、
王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)る、亨(こう)するに大牲(たいせい)を用(もち)いてす、吉(きち)なりとは、孝享(こうこう)を致(いた)せば也(なり)、

利見大人、利貞、聚以正也、
大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろしく、貞(ただ)しきに利(よ)ろしとは、聚(あつま)るに正(ただ)しきを以(も)ってせよと也(なり)、

利有攸往、順天命也、
往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしとは、天命(てんめい)に順(したが)えよと也(なり)、

観其所聚、而天地万物之情、可見矣、
其(そ)の聚(あつま)る所(ところ)を観(み)て、而(しこう)して天地(てんち)万物(ばんぶつ)之(の)情(じょう)を、見(み)つ可(べ)し、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢上於地、萃、君子以除戎器、戒不、
沢(さわ)が地(ち)に上(のぼ)るは、萃(すい)なり、君子(くんし)以(も)って戎器(じゅうき)を除(あらた)め、不虞(ふぐ)を戒(いまし)む、


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天風姤

44 天風姤(てんぷうこう)
tenpuu.gif 巽下乾上(そんか けんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

姤とは、遇(あ)う、という意。

この卦は十二消長のひとつにして、純陽の乾為天の中へ、忽然と一陰がやって来て、上の五陽と出遇った形である。
だから姤と名付けられた。
また、天の下に風がある様子。
風は、天の下を吹き行くとき、万物に触れ遇う。
だから姤と名付けられた。

なお、姤の字は、女と后の組み合わせだが、后は午後を午后と書くことがあるように、後(のち)とか次(つぎ)という意の文字である。
皇后というのは、天皇や皇帝に次ぐ位であって、皇の次という意である。
この卦は陰が陽に出遇った形であり、陰を女性、陽を男性とすれば、男性たちの一番後ろに女性がいることになる。
女性が後=后、したがって、姤なのである。
また、男性ばかりの中に入り込んで平然としているのであるから、この女性はとても強い力を持っているのであって、あるいは女傑、女帝と言ってもよい人物である。

卦辞
姤、女壮、勿用取女、

姤は、女(おんな)壮(さか)んなり、女(おんな)を取(めとる)に用(もち)いる勿(なか)れ、

この卦は陰陽が相遇う様子なので、女を娶ることをテーマにしている。
卦全体から観れば、巽は長女だから、年齢が壮んな様子である。
また、一陰爻について言えば、今は最下にいる一陰にして微弱でも、その意念には、五陽剛をも消し上げる勢いを含んでいる。
だから、女壮んなり、という。
また、一陰の女性をもって、五陽の男性に相遇うのは、不貞淫行の壮んな者である。
そんな女性と結婚したら、どうなることやら・・・。
だから、女を取るに用いる勿れ、という。

そもそも陰は、陽よりも能力的に劣るもの。
しかし、十二消長で言えば、純陽の乾為天の最下に、一陰がもぐりこんで、この天風姤となっている。
非力な一陰が陽ばかりの中にもぐり込むのは、容易ではない。
とすると何かの偶然で、たまたま入り込んだようなものである。
だから姤には、遇う=偶然に会う、という意味がある。
しかし、陽の中にちゃっかり入りこんでしまうのは、普通の陰にはできない。
例えば、普通の女性は、男性ばかりの中に迷い込んだら、そそくさと出て行くではないか。
しかしこの陰の女性は、その男性ばかりの中の一番うしろの位置ではあるが、ちゃっかり自分の場所にしてしまい、自分がこの卦の主役=成卦主に収まってさえいる。
とすると、とてつもない行動力があり、何やら妖しい狙いもありそうだ。
そんなことをするのは、例えば、色仕掛けで男性を誘惑し、その組織を自分の思い通りにしようとする、といったような、いわゆる悪女だ。
こんな女の言うことを聞いて、鼻の下を伸ばして、ホイホイ言いなりに結婚でもしたら、どんな災難が待ち構えていることか・・・。
だから、女壮んなり、女を取るに用いる勿れ、と戒めているのでもある。


彖伝(原文と書き下しのみ)
姤、遇也、柔遇剛也、
姤(こう)は、遇(あ)う也(なり)、柔(じゅう)が剛(ごう)に遇(あ)う也(なり)、

勿用取女、不可与長也、
女(おんな)取(めと)るに用(もち)うる勿(なか)れとは、与(とも)に長(ちょう)ぜしむ不可(べからざれ)と也(なり)、

天地相遇、品物咸章也、
天地(てんち)相(あい)遇(あ)いて、品物(ひんぶつ)咸(ことごと)く章(あきら)か也(なり)、

剛遇中正、天下大行也、
剛(ごう)中正(ちゅうせい)に遇(あ)って、天下(てんか)大(おお)いに行(おこな)わるると也(なり)、

姤之時義、大矣哉、
姤(こう)之(の)時(とき)の義(ぎ)、大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天下有風、姤、后以施命、誥四方、
天(てん)の下(した)に風(かぜ)有(あ)るは、姤(こう)なり、后(きみ)以(も)って命(めい)を施(ほどこ)し、四方(しほう)に誥(つ)ぐる、


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沢天夬

43 沢天夬(たくてんかい)
takuten.gif 乾下兌上(けんか だじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

夬は、決(さ)く、決壊、決断といった意。
決くとは、堤を切断して水を導くこと。

十二消長で言えば、五本にまで成長した陽がさらに進み長じて一陰を決し去ろうとするとき、また五人の君子が一人の小人を決し去る様子。
だから夬と名付けられた。
また、乾の至って剛強な者を以って、兌の至って弱き者を決し去る様子。
だから夬と名付けられた。
また、乾を健やかとし、兌を悦ぶとして、健やかにして悦ぶ様子。
人は、健やかにしてその道を悦ぶときは、決断して選んだその道をひたすら進むものである。
だから夬と名付けられた。
また、兌沢が乾天の上に上る様子である。
そもそも沢は低い場所に在るべきものだが、今、上って天の上に在る。
これでは物事は上手く行かず、必ず決壊し、潰え下る。
だから夬と名付けられた。

卦辞
夬、揚于王庭、孚号、有、告自邑、不利即戎、利有攸往、

夬は、王庭(おうてい)に揚(あ)げよ、孚(まこと)に号(さけ)ぶ、(あやう)きこと有り、告ぐること邑(ゆう)よりすとも、戎(じゅう)に即(つ)くに利(よ)ろしからず、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

この卦は十二消長のひとつにして、五陽をもって一陰を決し去る様子である。
だから、五人の君子が一人の小人を決し去るときとする。
五陽の君子を以って、僅かに一陰の小人を決し去ることは、数で優っているわけだから簡単なことのように思えるが、実際は意外にも、そういうものではない。
なぜなら、この一陰の小人は、たったひとつの陰であり小人でありながら、最も高い上爻に位置しているのである。
これは、巧言令色をもって深く固く九五の君に密比して取り入って、よく君の心腹を得て、ことさらの寵愛を受けているのに他ならず、言うなれば社鼠城狐なる者にして、容易く除き去ることは難しい。
なおかつこの上六の陰は、上卦兌の主爻である。
兌は人体では口とする卦である。
したがってこの一陰の小人は、口が巧く、白を黒と言いくるめるなど容易くやってのける者であり、この一陰の小人を取り除こうとするのなら、まず、その小人の罪状、取り除かれるべき理由をつぶさに王庭に揚げて公開し、その罪の次第を遍く公明にしなければいけない。
だから、王庭に揚げよ、という。
このとき、決去しようとする君子は、孚の忠誠を以って号び合って同志として団結して、事に当たるべきである。
さもなければ、その一陰の小人にまんまとしてやられる可能性がある。
だから、孚に号ぶ、きこと有り、という。

さて、その一陰の小人は、君寵されているのをよいことに、威厳を弄び、君命と偽って自分の邑(領地)より告命を出すという暴挙に至っても、それを武力(戎)で制圧しようとしてはいけない。
そんなことをすれば、却って反逆者の汚名を着せられてしまう。
だから、告ぐるに邑よりすとも、戎に即くに利ろしからず、と戒める。
それだけこの小人は手強いのである。
だからこそ、公明正大にこの小人の罪状を明らかにし、正しい手続きで決去するのが利ろしいのである。
往く攸有るに利ろし、の往く攸というのは、場所ではなく、この公明正大な方法を指す。


彖伝(原文と書き下しのみ)
夬、決也、剛決柔也、健而説、決而和、
夬(かい)は、決(けつ)也(なり)、剛(ごう)をもって柔(じゅう)を決(けっ)する也(なり)、健(すこや)かにして而(しこう)して説(よろこ)ぶ、決(けっ)して而(しこう)して和(わ)す、

孚号有、其危乃光也、
孚(まこと)に号(さけ)ばれ(あやう)きこと有(あ)らんとは、其(そ)れ危(あやう)しとすれば乃(すなわ)ち光(ひか)る也(なり)、

告自邑、不利即戎、所尚乃竆也、
告(つ)ぐるに邑(ゆう)自(よ)りすとも、戎(じゅう)に即(つ)くに利(よ)ろしからずとは、尚(そのよう)にする所(ところ)あれば乃(すなわ)ち竆(きゅう)する也(なり)、

利有攸往、剛長、乃終也、
往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしとは、剛(ごう)長(ちょう)ずれば乃(すなわち)終(おわ)る也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢上於天、夬、君子以施禄及下、居徳則忌、
沢(さわ)が天(てん)の上に於(あ)るは、夬(かい)なり、君子(くんし)以(も)って禄(ろく)を施(ほどこ)して下(した)に及(およぼ)す、徳(とく)におごり居(い)れば則(すなわ)ち忌(いみにくま)るる、


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風雷益

42 風雷益(ふうらいえき)
fuurai.gif 震下巽上(しんか そんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

益は、益す、増加する、といった意。

交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の九四が来たって初に居り、初六が往きて四に居るのが、この風雷益である。
これは上を損(へら)して下を益す様子である。
だから益と名付けられた。

しかし、山沢損同様に、これも全体から観れば剛柔の交代のみであって、損益はない。
それなのに、ことさら益という。
それは、国家経済を以って喩えれば、上君主の驕りを減らして、下万民を賑わし恵むときは、その国は大いに富むものである。
また、内卦を自分、外卦を相手とすれば、外を減らして内に益し、相手を減らして自分に益す様子である。
また、草木を以って言えば、上の枝葉を透かし減らし、その枝葉を肥料として下の根元に撒くときは、その草木は大きく育つものである。
また、家屋をもって言えば、上の棟木を減らして下の柱を益すときには、その建物は強固にして、倒壊の危険は少なくなり、安全性が益す。
したがって、これらの様子から、ことさらに、益と名付けられた。

また、交代生卦法に従って言えば、天地否の初往き四来るは天地陰陽の二気が上り下って相交わることである。
陰陽の二気が交わるときは、必ずよく雨を成す。
坤地はその雨を承(う)けて、震巽の草木を生じるものである。
天地の草木百物を発生養育するのは、益の根本である。
だから益と名付ける。

また、震を動くとし、巽を従うとすれば、これは自分が動いて相手が従う様子である。
自分が動いて相手が従うときには、互いに相助け益すことになる。
だから益と名付けられた。
また、震を長男とし男とし、巽を長女とし女とすれば、長男長女すなわち男女が相交わり相助け益す様子であり、そうであれば子孫は繁栄するものである。
だから益と名付けられた。

しかし、風も雷も形のないものであり、常に動いているものであり、損益のものである(乾の最下の陽を損したのが巽、坤の最下に陽を益したのが震である)。
雷は陽の気の動きであり、風は陰の気の動きである。
そもそも陰陽は、相助けて益すものである。
雷が奮えばそれに呼応して風が怒り、風が烈しいときは雷が呼応して轟く。
これは雷と風が相助け合って益している様子である。
だから益と名付けられた。

なお、風雷相助け益すことから益と名付けられたのなら、雷風恒もまた雷風の組み合わせだが、こちらはなぜ、益とは名付けなかったのか。
それは、震雷は陽気にして上に属し、巽風は陰気にして下に属すからである。
雷風恒は上に属す震雷が上、下に属す巽風が下にあるが、これは恒常の位置であり、従って恒と名付けられた。
そもそも陰陽は交わるを以って用をなし、交わらなければ用をなさない。
天地否は、天地の位置が正しいので陰陽が交わらないわけだが、それと同じことである。
震雷も下にあればこそ上に昇り、巽風も上にあればこそ下に降りて、上下陰陽の気が交わり益を生むのである。

また、天地水火の四卦にも、損益の意があるべきではないか、なぜ山沢と雷風の四卦に限って損益と名付けられたのか、という疑問もあるだろう。
これは、山沢が地にある損益のものであるとともに、風雷が天にある損益の現象だからである。
したがって、山沢風雷の四卦について、損益の道を見出したのである。
これを天地否の交代生卦法によって話せば次のようになる。
乾天は上に位置し、坤地は下に位置する。
初六が上って四に居るのは、地の気の上昇であり、九四が下って初に来るは天の気の下降である。
要するに、地の気が昇って風となり、天の気が下って雷となるのであって、天地の気が交わって風雷を生じ、風雷が相交わって草木百物を生じるのである。
したがって、天地間にある物は、皆この風雷二気の相益す作用によっての産物なのである。
だから、山沢雷風の四卦をもって、損益の卦とされたのである。

卦辞
益、利有攸往、利渉大川、

益は、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、

往く攸とは、おこなうことを言い、この卦では、上を損(へら)して下を益すことを指す。
また、この卦は二五共に中正を得て、君臣相益す様子である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
また、大川を渉るときには、舟に楫(かじ)が必要だが、巽も震も木とする卦であり、その木は楫として利用するものである。
また、巽を従う、震を動くとして、従って動く様子とし、巽を風とし従うとし、震を舟とし動くとすれば、震巽二木の舟が風に従って動き行く様子である。
だから、大川を渉るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
益、損上下益、民説无疆、自上下下、其道大光、
益(えき)は、上(うえ)を損(へ)らして下(した)に益(ま)す、民(たみ)の説(よろこ)ぶこと疆(かぎ)り无(な)し、上(うえ)自(よ)り下(した)に下(くだ)る、其(そ)の道(みち)大(おお)いに光(ひか)れり、

利有攸往、中正有慶、利渉大川、木道乃行、
往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしとは、中正(ちゅうせい)にして慶(よろこ)び有(あ)るなり、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、木道(もくどう)乃(の)行(おこな)わるるなり、

益動而巽、日新无疆、天施、地生、其益无方、凡益之道、与時偕行
益(えき)は動(うご)いて而(しこう)して巽(したが)う、日(ひ)に進(すす)むこと疆(かぎ)り无(な)し、天施(てんし)、地生(ちしょう)をなす、其(そ)の益(ま)すこと方(ほう)无(な)し、凡(およ)そ益(えき)之(の)道(みち)、時(とき)与(と)偕(とも)に行(おこな)わる、


象伝(原文と書き下しのみ)
風雷、益、君子以見善則遷、有過則改、
風雷(ふうらい)は、益(ま)し、君子(くんし)以(も)って善(ぜん)を見(み)れば、則(すなわ)ち遷(うつ)り、過(あやま)ち有(あ)れば、則(すなわ)ち改(あらた)む、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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山沢損

41 山沢損(さんたくそん)
santaku.gif 兌下艮上(だか ごんじょう)

八卦のsdataku-n.gif兌(だ)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

損は、減らす、という意。

交代生卦法によれば、もとは地天泰より来たものとする。
地天泰の九三の一陽剛が上り往きて上爻に止まって艮の主爻となり、同じく地天泰の上六の一陰柔が下り来て三爻に居て兌の主爻となったのが、この山沢損である。
これは下の一陽剛を減らして上に益す様子である。
だから損と名付けられた。

しかし、内卦下卦の一陽を減らして、外卦上卦に一陽を益すと言っても、全体から観れば剛柔の交代のみであって損益はない。
それなのに、ことさら損という。
それは、下の国民の辛労して得た財を剥ぎ取って、上の君上の驕奢を益すと、その国はついには損じ破綻するからである。
また、相手と自分の関係で言えば、内卦は自分、外卦は相手であり、内卦から取って外卦に加えれば、相手は益、自分は損である。
また、一家のこととして言えば、内財を損(へら)して外観を益し飾ることであり、そんなことばかりしていれば、やがて滅亡のときが来るものである。
また、家屋をもって言えば、下の柱を損らして上の棟木を益せば、強度が足りず、必ず傾き倒れる。
したがって、これらの様子から、ことさらに、損と名付けられた。

また、易は艮を山とし、兌を沢とするわけだが、山沢はそもそも損益のものである。
地を損(へら)して溝を造れば沢になり、地に土を益せば山になる。
この道理をよく観察し、損益の全体像を把握するのが大事である。
この卦は、沢という低い者をさらに損して、山という高い者にさらに益す様子である。
高いところにさらに土を加えれば、却って崩れて周辺の沢も埋まってしまうものである。
これでは山沢共に損してしまう。
だから損と名付けられた。

また、易位生卦法によれば、もとは沢山咸から来たものとする。
沢山咸は山を下、沢を上にしている。
本来、山は上にあり、沢は下にあるべきである。
このように上にあるべきものが下、下にあるべきものが上にあることは、現実には有り得ないから、それは上下の気がそのようになっている、ということである。
したがって沢山咸は、山の気が下り、沢の気が上った様子とする。
これは、上下の気が相交わり相通じている様子である。
それが今、山沢損となると、上にあるべき山が上にあり、下にあるべき沢が下にと、現実の位置関係と同じである。
これは上下の気が交わらず通じない様子である。
山と沢の気が交わらないときには、山は草木を生じず、沢は魚や亀などを育まないので、山沢両者ともに益すところがない。
だから損と名付けられた。

また、兌を悦ぶとし、艮を止まるとすれば、悦んで止まる様子となる。
止まるというのは進まないということであり、勉め励まないという意である。
そもそも人間は、善を善と知って悦び、道を道と知って悦ぶものである。
しかし、善や道を知って悦んだとしても、善を修め道を行う人は少ない。
人間は堕落するものだからである。
堕落すれば、益すところはない。
益すところがなければ損である。
だから損と名付けられた。

卦辞
損、有孚元吉、无咎、可貞、利有攸往、曷之用、二簋、可用亨、

損は、孚(まこと)有(あ)れば元吉(げんきち)なり、咎(とが)无(な)し、貞(ただ)しくす可(べ)し、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、曷(なにをか)之(こ)れ用(もち)いん、二簋(にき)に用(もち)いて亨(すすめま)つる可(べ)し、

この卦は損であり、減らすべきときである。
そうであるのなら、どういう理由で何を減らすかが大事である。
それには、大きくわけて二つある。
孚あって減らすのと、孚なくして減らすことである。
ここで言う孚とは、道あるいは正当な理由といった意である。
道=正当な理由があって減らすのであれば、元吉であり、誰からも咎められないが、不道=邪な理由で減らすのであれば、大凶にして多くの人々から咎められるものである。
その不道にして減らすというのは、酒食に溺れ、驕奢に長じて散財し、家を喪うの類である。
道があって減らすというのは、自分を減らして他人に益すこと、『論語』の「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し」といったことであり、この卦においては、九三の陽剛を損して上爻に益すことである。
これは内卦の自分を損して外卦の他人(相手)に益すことであって、仁を行ってその道上達するということである。
だから、孚有れば元吉なり、咎无し、という。

もとより損(へら)すときは、貞正であるべきである。
自分はそのままにして、自分より下を損したり、他を損すようなことは、損の正しい行いではない。
だから、貞しくす可し、という。
続く、往く攸有るに利ろし、の「往く攸」とは、為す所、ということであって、損(へら)す所があれば、自分がまず貞正に判断して、損すべきものを損す、ということである。
これならば道理に違うことはない。

曷之れ用いん、というのは、問いかけであり、その損すべきところを次に例示するための語句であって、その例示が、二簋を用いて亨つる可し、である。
簋とは、祭りのときに供え物を載せる器である。
およそ祭りのときに供え物を並べるのは、八簋を豊、四簋を中、二簋を簡約とする。
今は損のときであり、本来ならば八簋の供え物を並べるところだが、節約して二簋のみにしても、誠意敬意があれば、願いはその祭神に通じるものだ、ということである。
逆に、生活費など日常に必要なものを切り詰めてまで、祭りのお供えを豪華にするのであれば、道に反するというものである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
損、損下益上、其道上行、
損(そん)は、下(した)を損(へ)らして上(うえ)に益(ま)す、其(そ)の道(みち)上行(じょうこう)す、

損、有孚元吉、无咎可貞、利有攸往、曷之用、二簋可用亨、二簋、応有時、損剛益柔有時、
損(そん)は、孚(まこと)有(あ)れば、咎(とが)无(な)し貞(ただ)しくす可(べ)し、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、曷(なに)をか之(これ)用(もち)いん、二簋(にき)用(もち)いて亨(こう)す可(べ)しとは、二簋(にき)に、時(とき)有(あ)りて応(おう)じ、剛(ごう)を損(へ)らして柔に益(ま)すも、時(とき)有(あ)るべし、

損益盈虚、与時偕行、
損益(そんえき)盈虚(えいきょ)、時(とき)与(と)偕(とも)に行(おこな)わる、

象伝(原文と書き下しのみ)
山下有沢、損、君子以懲忿窒欲、
山(やま)の下(した)に沢(さわ)が有(あ)るは、損(そん)なり、君子(くんし)以(も)って忿(いかり)を懲(こ)らし欲(よく)を窒(ふさ)ぐべし、


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雷水解

40 雷水解(らいすいかい)
raisui.gif 坎下震上(かんか しんじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

解とは、解消、解決、解散といった意。
易位生卦法によれば、もとは水雷屯から来たものとする。
屯は険難の中で動く様子だったが、その屯の内卦の震が動き進んで坎の険難の外に出て、険難が解消したのが、この雷水解である。
だから解と名付けられた。
また、水雷屯のときには、震雷が下にあって上昇しようとし、坎水が上にあって下降しようとし、その結果として両者が交わっていたのだが、今、震雷が動いて上り、坎水の雨が和して下り、両者が交わらなくなったのが雷水解である。
これは雷と雨が解散した様子である。
だから解と名付けられた。
また、水雷屯の内卦の震が動き進んで、坎の大川を渉り切り、険難を脱出解決した様子である。
だから解と名付けられた。

また、六五の君は柔中の徳が有り、
九四執政の大臣とは陰陽正しく比し、九二剛中の大臣とは陰陽正しく応じている。
これは、六五の君がよく賢良の二大臣に委任し、二四の両大臣もまた共に剛健の才力を発揮して天下国家の険難を解決する才徳が有る様子である。
だから解と名付けられた。

卦辞
解、利西南、无攸往、其来復吉、有攸往夙吉、

解は、西南(せいなん)に利(よ)ろし、往(ゆ)く攸(ところ)无(な)くば、其(そ)れ来(き)たり復(かえ)りて吉(きち)、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)れば夙(はや)くして吉(きち)、

この卦は、来往生卦法によれば、もとは地水師から来ていたとする。
地水師の内卦の外より一陽剛がやって来て、その上卦坤の体中に入り九四となったのである。
坤は西南の方位であり、衆とし、師とは軍旅のことである。
そもそも天下の険難を解くためには武力行使も必要である。
今、九四成卦の主として、摂政の位に居る。
これは西南坤の方に往きて衆を得た様子である。
だから、西南に利ろし、という。
そして、険難が解消して最早解くべきところがないのであれば、さらに何かをするのではなく、安静にしてその位を守るようにするのがよい。
だから、往く攸无くば、其れ来たり復りて吉、という。
往くというのは場所の移動ではなく、行動する、というニュアンスである。
来たり復りて、というのは、往くという字に対するものであり、行動する前の、平時の状態に戻ることをいう。

また、この卦は、もとは雷地予から来たともする。
雷地予の卦の中へ一陽剛が外卦の外からやって来て、九二となり、内卦の主となったのが、この雷水解である。
これは、険難が解ければ、人々は予楽和順する、という様子を示しているが、このときには、九二は来たり復って中を得ているわけである。
これもまた、来たり復って吉、という所以である。

しかし、もし、未だ解消していない険難があるのならば、速やかに解くべきである。
時は得難く失いやすいものである。
どうしようどうしようと躊躇していると、タイミングを逸し、速やかに行動すれば解決できたものが、解決できなくもなる。
だから、往く攸有れば夙くして吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
解、険以動、動而免乎険、解、
解(かい)は、険(なや)みにして以(も)って動(うご)く、動(うご)いて而(しこう)して険(なや)みを免(まぬか)るは、解(かい)なり、

解、利西南、往得衆也、
解(かい)は、西南(せいなん)に利(よ)ろしとは、往(ゆ)きて衆(しゅう)を得(え)れば也(なり)、

无攸往、其来復吉、乃得中也、
往(ゆ)く攸(ところ)无(な)くば、其(そ)れ来(きた)り復(かえ)りて吉(きち)なりとは、乃(すなわ)ち中(ちゅう)を得(え)る也(なり)、

有攸往、夙吉、往有功也、
往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)らば、夙(はや)くして吉(きち)なりとは、往(ゆ)けば功(こう)有(あ)らんと也(なり)、

天地解、而雷雨作、雷雨作、百果艸木皆甲拆、解之時、大矣哉
天地(てんち)解(と)きて、而(しこう)して雷雨(らいう)作(おこ)る、雷雨(らいう)作(おこ)って、百果(ひゃっか)艸木(そうもく)甲拆(こうたく)す、解(かい)之(の)時(とき)、大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
雷雨作、解、君子以赦過宥罪、
雷雨(らいう)作(おこ)るは、解(かい)なり、君子(くんし)以(も)って過(あやま)ちを赦(ゆる)し、罪(つみ)を宥(ゆる)す、

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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水山蹇

39 水山蹇(すいざんけん)
suizan.gif 艮下坎上(ごんか かんじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、kansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

蹇とは足萎えという意。
この卦は艮を止まるとし、坎を険難として、険難の中で足が萎えてしまったかのように、身動きできずに止まって出られない様子とする。
だから蹇と名付けられた。
また、険難を見て、足萎えのように自らよく止まって、犯し進まない様子。
だから蹇と名付けられた。
また、この卦は進もうとすれば前方に坎水の険難があり、退こうとすれば艮山が阻んでいて、進退窮まり、足萎えのように身動きが取れない様子。
だから蹇と名付けられた。
また、九五の君が坎険の主として二陰の中に陥り、かつ九三の陽剛の臣は、下卦艮の極に止まって、上に朝せず、あまつさえ二と四との両大臣は共に陰弱にして、君を輔佐する能力はなく、却って九三の不軌の剛臣に密比している。
これは天下に二主、一国両君というべき様子であり、その勢いは内外上下を二つに分断しているのであって、蹇難の至極である。
だから蹇と名付けられた。

卦辞
蹇、利西南、不利東北、利見大人、貞吉、

蹇は、西南(せいなん)に利(よ)ろし、東北(とうほく)に利(よ)ろしからず、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しくして吉(きち)、

また、八卦の配当で言えば、西南は老陰の坤の方位にして平坦な場所の譬え、東北は少陽の艮の方位にして山岳の険阻な場所の譬えであり、陰は退く、陽は進むという意がある。
蹇難のときに当たっては、無理をして先立ち進むよりも後ろに退くほうがよく、険阻な道を行くより平坦な道を行くほうがよいのは、当たり前のことである。
だから、西南に利ろし、東北に利ろしからず、という。

また、蹇難のときは、ひとりで考え込まず、大人有徳の人を探し見つけて、救いを求めるほうがよいのも当然のことである。
だから、大人を見るに利ろし、という。
また、蹇難のときには、落ち着いて貞正な行動を取ることが大事である。
どうしようどうしようと慌てると、得てしてとんでもない失敗を招いてしまう。
したがって、蹇難を脱出するには、常に貞正さを失わないことである。
だから、貞しくして吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
蹇、難也、険在前也、見険而能止、知矣哉、
蹇(けん)は、難(なん)也(なり)、険(なや)み前(まえ)に在(あ)るに、険(なや)みを見(み)て而(しこう)して能(よ)く止(とど)まる、知(ち)なる哉(かな)、

蹇、利西南、往得中也、不利東北、其道竆也、
蹇は、西南(せいなん)に利(よ)ろしとは、往(ゆ)きて中(ちゅう)を得(え)る也(なり)、東北(とうほく)に利(よ)ろしからずとは、其(そ)の道(みち)竆(きゅう)すれば也(なり)、

利見大人、往有功也、貞吉、当位以、正邦也、
大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろしとは、往(ゆ)きて功(こう)有(あ)る也(なり)、貞(ただ)しくして吉(きち)なりとは、位(くらい)に当(あ)たって以(も)って、邦(くに)を正(ただ)しくせよと也(なり)、

蹇之時用、大矣哉、
蹇(けん)之(の)時(とき)の用(よう)、大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山上有水蹇、君子以反身修徳、
山(やま)の上(うえ)に水(みず)が有(あ)るは蹇(けん)なり、君子(くんし)以(も)って身(み)を反(かえ)りみて徳(とく)を修(おさ)むべし、
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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火沢睽

38 火沢睽(かたくけい)
kataku.gif 兌下離上(だか りじょう)

八卦のsdataku-n.gif兌(だ)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

睽とは背くという意。
この卦は離火が上に在り、兌沢が下に在るが、火は上に燃え上がり、沢を流れる水は低い方へ向かう。
したがって、両者が目指す方向は逆であり、背いていることになる。
だから睽と名付けられた。
また、離火が上にあり、兌水が下にあれば、水と火は交わらず、これも両者が背いていることになる。
交わるとは、相互に作用を及ぼし合うということであって、火の上に水をかければ火は消え、水を入れた鍋を火の上に置けば中の水は温まる、ということである。
しかしこの卦のように、火が上で水が下だと、例えば水の上に火を近づけても何も変化がないように、両者は何も作用を及ぼし合わないのである。
だから両者は背いているとして、睽と名付けられた。

なお、火を上にして水を下にするのは、火水未済も同じだが、火水未済は離火と坎水という正対の卦の組み合わせであり、この火沢睽は離火と兌水で正対の組み合わせではない。
正対とは、表裏の関係にある卦のことで、坎水の裏卦は離火だが、兌水の裏卦は艮山である。
正対であれば、その情は互いに通じるものがあるが、正対でなければ、その情は疎かにして背くものである。
したがって、坎水と離火の場合は、たとえ交わらなくても互いに背くまでのことはないのである。
これに対し、この卦は兌水と離卦という正対ではない組み合わせだから、交わり感じるところがなく、両者が相対するれば、その情は必ず背くのである。
だから睽となづけられた。

また、この卦は離の中女が上に在り、兌の少女が下に居る形でもあり、これは二女同居の様子である。
しかし、二女が同じく父母の家に生育するとしても、何れは別々のところへ嫁ぐことになる。
したがって、その思うところもまた同じではなく、背くことになる。
だから睽と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは沢火革から来たものとする。
沢火革の離が下から動いて上がり、兌水が上から動いて下ったのが、この火沢睽である。
これは、これまでは互いに行く方向が向き合っていたのが、その方向へ行ってしまったばかりに、あとは背き離れてしまうしかない状態になった様子である。
だから睽と名付けられた。

ところで、「そむく」という意の字は、背く、乖く、などもあるが、何故、他ではあまり使われることのない睽が用いられたのだろうか。
これは、睽の字が、この卦の形を表現しているからである、というか、この卦の形から睽は作られた字なのである。
睽は、目と癸の組み合わせである。
上卦の離は火であるとともに人体では目に配される。
背くことを反目するというように、目は背くことを表現する重要なポイントである。
一方、下卦の兌は、「はかる」という意味を持つとともに、兌沢に水が流れることから、水を意味する弟分の卦である。
弟分というからには、兄がいるわけだが、それは言うまでもなく坎水である。
十干で水を意味するのは、壬(みずのえ=水の兄)と癸(みずのと=水の弟)であり、壬癸はともに北方に位置する。
北は、君子南面のときの背中が向いている方角である。
だから背の字には「そむく」という意味があるのだが、その北を指す十干の壬癸のうち、癸という字には、兌が持つ「はかる」という意味もある。
そこで、上卦の離から引き出した目と下卦兌から引き出した癸を並べたのが、この睽なのである。

卦辞
睽、小事吉、

睽は、小事(しょうじ)には吉(きち)、

何かをやろうとするときは、まず人の和を大事にしないといけない。
しかしこの卦は、背き離れる様子である。
これでは、大事を成すことは無理である。
また、内卦の兌を悦ぶとし自分とし、外卦の離を麗(つ)くとして相手とすれば、自分が悦んで明らかな相手に麗く様子である。
自分は明らかに物事を見ることはできなくても、明らかに物事を見られる相手に、仕方なくではなく、悦んで麗くのであれば、小事ならなんとかなるものである。
だから、小事には吉、という。
また、来往生卦法によれば、もとは天沢履から来たとする。
天沢履の卦中へ、六五の一陰が卦の外から進み上り、中を得て九二の剛に応じたのがこの火沢睽である。
天沢履のときは、柔中の徳を得ず、なおかつ二五の応も無かったが、今六五が上り往きて中徳を得て離明の主爻となり、剛中九二に応じている。
これは、六五の君主が柔中にして、九二の剛中の臣に輔(たす)けられる様子である。
とすると、大事を決行するにもよさそうではあるが、今は睽の背くときであるとともに、進み上ったのは弱い陰柔だから大事は無理だとして、小事には吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
睽、火動而上、沢動而下、二女同居、其志不同行、
睽(けい)は、火(ひ)動(うご)いて而(しこう)して上(のぼ)り、沢(さわ)動(うご)いて而(しこう)して下(くだ)る、二女(じじょ)同居(どうきょ)して、其(そ)の志(こころざし)は行(おもむき)を同(おな)じくせざるなり、

説而麗乎明、柔進而上行、得中而応乎剛、是以小事吉、
説(よろこ)んで明(めい)に麗(つ)き、柔(じゅう)進(すす)んで上行(じょうこう)し、中(ちゅう)を得(え)て剛(ごう)に応(おう)ず、是(これ)を以(も)って小事(しょうじ)には吉(きち)なるとなり、

天地睽、而其事同也、男女睽而其志通也、万物睽、而其事類也、睽之時用、大矣哉、
天地(てんち)睽(そむ)きて、其(そ)の事(こと)同(おな)じき也(なり)、男女(だんじょ)睽(そむ)きて其(そ)の志(こころざし)通(つう)ずる也(なり)、

万物睽、而其事類也、睽之時用、大矣哉、
万物(ばんぶつ)睽(そむ)きて、其(そ)の事(こと)類(るい)する也(なり)、睽(けい)之(の)時(とき)の用(よう)、大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
上火下沢、睽、君子以同而異、
火(ひ)を上(うえ)にし沢(さわ)を下(した)にするは、睽(けい)なり、君子(くんし)以(も)って同(おな)じくして而(しこう)して異(こと)なるべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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風火家人

37 風火家人(ふうかかじん)
fuuka.gif家人 離下巽上(りか そんじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

家人とは、一家の人という意。
また、単に家という意でもある。
これは、天火同人の同人を、「人と同じ」という意に取る場合と、単に「同じ」という意にとる場合があるのと同様である。
また、家道とも家業ともする。
そもそも家を治める道は、男子は外に出て仕事をし、女子は家の内にあって家政を守るものである。
だから嫁という字があり、妻を室家、家内などと呼ぶのである。

男女平等思想からすると、何やら言語道断にも思えるが、雷風恒のところでも書いたように、男と女の習性をもってシミュレーションすれば、この世の中は男尊女卑か女尊男卑かの何れかであって、結婚を前提とした家は男尊女卑があって初めて成立する制度・風習なのである。
逆に言うと、男尊女卑がなければ結婚は成立し得ないのである。
ただし易で言う男尊女卑は、中世ヨーロッパのキリスト教徒のように、神の真理だとして男性が女性を力づくで強引に隷属させるのことではなく、男性が女性から尊敬される資質を身に付けることを求めているのである。
詳細は、男尊女卑と女尊男卑をご覧ください。

さて、この卦は、巽の長女が上に位置し、離の中女が下に位置しているわけだが、これは上下共に女卦=陰卦にして、長者は上、次者は下に居る。
これは家に居る序である。
だから、家人と名付けられた。
また、九五の陽爻中正の夫が上に居り、六二陰爻中正の妻が下に居るわけだが、これは夫婦が室に在るときの常の姿であるとともに、九五の夫は外事を務めるべく外卦に在り、内卦の六二の妻は内事を守って内卦に居る。
この二事は、家道の大綱である。
だから、家人と名付けられた。
また、離明にして巽従する様子でもあるが、内は明らかにして、外に従う時は、その家はよく斉(ととの)うものである。
だから、家人と名づけられた。
また、巽風が離火より出る様子でもある。
風は陰気であり、火は陽気である。
陰陽は互いに助け合って益すものである。
風が激しいときは、必ず火は燃え盛り、火が燃え盛るときは、必ず風が激しくなるものである。
焚き火は団扇で風を送って火勢を強くし、火事のときは必ず風が起きるように。
この卦は、離火が内に在り、巽風が外に在るが、これは火が風を生じる様子であって、物事が内より外に発することを示唆しているのである。
これを人事について言えば、身を修め、家を斉え、然る後に天下国家を治めるに至るのであって、その身を修め家を斉えることは、家に居る女性たちにかかっているのである。
だから、家人と名付けられた。

卦辞
家人、利女貞、

家人は、女(おんな)の貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

この卦は、六四は偶画陰位にして柔正を得ているとともに、六二は偶画陰位に居て柔順中正を得ている。
これは、偶画陰爻の女子が貞正な様子である。
そもそも家を斉えるということは、その家に居る女性が、女性として正しく生きているか否かで決まる。
その家にいるのが、女性として正しく生きてない場合、例えば、父親を尊敬しない娘、夫を尊敬しない妻であれば、家は斉わず、娘は家出を、妻は離婚を考えるというものである。
だから、女の貞しきに利ろし、という。
もちろん、その家の主人が、夫あるいは父親として尊敬される資質を備えた人間でなければ、娘や妻も女性として正しく生きようとは思えないものである。
息子も同様である。
要するに、その家を構成する人間それぞれが、それぞれの立場で正しく生きられるようにすること、それが家を斉えるということであって、それはその家の主人の資質にかかっているのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
家人、女正位乎内、男正位乎外、男女正、天地之大義也、
家人(かじん)は、女(おんな)位(くらい)を内(うち)に正(ただ)しくし、男(おとこ)位(くらい)を外(そと)に正(ただ)しくす、男女(だんじょ)正(ただ)しきは、天地(てんち)之(の)大義(たいぎ)也(なり)、

家人有厳君焉、父母之謂也、
家人(かじん)に厳君(げんくん)有(あ)り、父母(ふぼ)之(の)謂(い)い也(なり)、

父父、子子、兄兄、弟弟、夫夫、婦婦、
父(ちち)は父(ちち)たり、子(こ)は子(こ)たり、兄(あに)は兄(あに)たり、弟(おとうと)は弟(おとうと)たり、夫(おっと)は夫(おっと)たり、婦(つま)は婦(つま)たり、

而家道正、正家、而天下定矣、
而(しこう)して家道(かどう)正(ただ)し、家(いえ)を正(ただ)しくして、而(しこう)して天下(てんか)定(さだ)まるなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
風自火出、家人、君子以言有物、而行有恒、
風(かぜ)火(ひ)自(よ)り出(い)ずるは、家人(かじん)なり、君子(くんし)以(も)って言(い)うこと物(もの)有(あ)り、而(しこう)して行(おこな)い恒(つね)有(あ)るべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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水上 薫

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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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地火明夷

36 地火明夷(ちかめいい)
chika.gif明夷 離下坤上(りか こんじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、konchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

明夷とは、明るさを夷(やぶ)る、または単に夷られ傷つけられる、という意。
易位生卦法によれば、火地晋より来たものとする。
火地晋は太陽が地上にある形だが、この地火明夷は、太陽が地中に没した形である。
太陽が地中に没し入れば、明るさは夷られて昏暗の夜となる。
だから明夷と名付けられた。
また、内卦の離を文明とし麗(つ)くとし、外卦の坤を暗昧とし順とすれば、内卦の自分は明だけど、外卦の坤暗なる相手に麗き順(したが)って、自分の明るさを暗まされ夷られる様子である。
だから明夷と名付けられた。
また、離を火とすれば、火は高いところにあれば、よく遠くを照らすが、低いところにあっては、遠くを照らせない。
まして、火の上に坤暗の物を覆うときは、忽ち真っ暗になる。
だから明夷と名付けられた。
また、下は明らかにして、上は坤暗な様子だが、上で命令する者が坤暗ならば、下の者がどんなに明らかであっても、その明らかさが用いられることはない。
だから明夷と名付けられた。

卦辞
明夷、利艱貞、

明夷は、艱(くるし)んで貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

この卦は、君子は小人に傷(やぶ)られ、賢臣は暗君に傷られるときである。
こんなときに君子たる者は、先ず第一に、艱難(こんなん)であることを覚悟し、自らはどんなに艱難しても、貞正であるよう心がけるべきである。
例えば、殷(いん)末の紂(ちゅう)王の非道に、周(しゅう)の文王や、箕子(きし)の取った方策のように。

周の文王は、六十四卦の卦辞を作った人物である。
殷を将軍家とすれば、言わば周は外様大名である。

紂王は民衆を酷使し、自らは酒池肉林の乱痴気騒ぎを楽しみ、それを諫める者は片っ端から征伐していたので、誰も咎めることはできなかった。
君子として立派な人間になるよう心がけていた文王としては、こんな世の中は辛い。
しかし、外様だから、紂王を諫めようとすれば、他の人々と同様に、即刻征伐されるのはわかりきっている。
そこで、今は明夷暗主の時と覚悟し、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、内には文明貞正の徳を修めていても、敢えてその素振りを外に見せず、君子たる善政は自分の領地内だけにし、紂王に対しては柔順の臣節尽くした。
それでも不審を抱かれ幽閉もされたが、そのときも文句は言わず、ひたすら時運の艱難に安んじていた。
その文王の態度は、次第に民衆を動かしていった。
やがて文王が没して子の武王の時代になる頃には、多くの人々の願いは周に託され、その武王の元に人々が蜂起し、殷は滅亡し、周の時代になったのである。

一方の箕子は、殷の宗室であり、紂王の叔父である。
要するに親族内戚なのだが、君子たる人間を目指していたので、その非道を不愉快に思っていた。
しかし諫めれば殺されるし、従えば自らも非道の片棒を担がなければいけない。
そこで、殺されず、しかも非道に加担しない方法はないかと思案した。
思いついたのは、気が触れたように装うことだった。
すると紂王は、気が触れたと信じ、それ以上、箕子に何も命令しなくなり、殺されることもなかった。

外様大名と親族内戚では、手段はことなるが、とにかく二人共、このように明夷の時局を艱難して貞正を守り通したのであって、そういう思いが、艱しんで貞に利ろし、という言葉となったのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
明夷、利艱貞、晦其明也、
明夷(めいい)は、艱(くる)しんで貞(ただ)しきに利(よ)ろしとは、其(そ)の明(めい)を晦(くらま)せよと也(なり)、

内文明、而外楽順、以蒙大難、文王以之、
内(うち)文明(ぶんめい)にして、而(しか)も外(そと)楽順(らくじゅん)にして、以(も)って大難(だいなん)を蒙(こうむ)る、文王(ぶんおう)之(これ)を以(もち)いたり、

内難、而能正其志、箕子以之、
内(うち)に難(なや)みあれども、而(しか)も能(よ)く其(そ)の志(こころざし)を正(ただ)しくすべし、箕子(きし)之(これ)を以(もち)いたり、


象伝(原文と書き下しのみ)
明入地中、明夷、君子以莅衆用晦、而明、
明(めい)地中(ちちゅう)に入(い)るは、明夷(めいい)なり、君子(くんし)以(も)って衆(しゅう)に莅(のぞ)むに、晦(くら)きを用(よそおいもち)いて、而(しこう)して明(めい)なるべし、


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火地晋

35 火地晋(かちしん)
raiten.gif 坤下離上(こんか りじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

晋とは、進む、という意。
この卦は、易位生卦法によれば、もとは地火明夷から来たものとする。
地火明夷は、太陽が地中に入った様子であり、この火地晋は、太陽が地上に進み昇る様子である。
だから晋と名付けられた。
また、離を明とし麗(つ)くとし、坤を順(したが)うとし、内卦を自分、外卦を相手とすれば、自分が明に麗き順う様子である。
およそ物事は、明に麗き順うときはその道必ず進むものである。
だから晋と名付けられた。
また、来往生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
その否塞の卦中に、六五の一陰爻が外から進み上ってこの卦となったのである。
だから、その一陰が進み上がったということにより、晋と名付けられた。

卦辞
晋、康侯、用錫馬蕃庶、昼日三接、

晋は康(やす)んじる侯(きみ)なり、馬(うま)を錫(たま)うこと蕃庶(はんしょ)たり、昼日(ひるひ)に三(み)たび接(まじ)われり、

康んじる侯とは、民を安んじ、国を治める侯=国主のことある。
蕃庶とは、衆多という意。
この卦は昇り進む時であって、太陽が地上に在って万邦を照らす様子であり、君が文明にして四海を統御する様子であり、また、君徳が上に明らかにして、諸侯に順う様子であるが、要するに、世の中が上手く治まっている様子である。
これは、六五の君主が文明柔中なので、諸侯も順うのであって、そうであるのなら、よく治世に貢献した者は、褒美を賜ることが数多くあり、君主からも親しく何度も呼ばれ、優遇されるというものである。
だから、馬を錫うこと蕃庶民たり、昼日に三たび接われり、という。
なお、馬は柔順にして人を乗せ遠くへ行くものであるが、これは、諸侯が柔順にして天子の命を奉り、遠くの国を治めることの比喩でもある。


彖伝(原文と書き下しのみ)
晋、進也、柔進而上行、
晋(しん)は、進(すす)む也(なり)、柔(じゅう)進(すす)んで而(しこう)して上行(じょうこう)す、

順而麗乎大明、是以康侯、用錫馬蕃庶、昼日三接也、
順(したが)って而(しこう)して大明(たいめい)に麗(つ)く、是(これ)を以(も)って康(やす)んずる侯(きみ)、用(もち)いて馬(うま)を錫(たま)うこと蕃庶(はんしょ)たり、昼日(ひるひ)に三(み)たび接(まじ)わると也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
明出地上、晋、君子以自昭明徳、
明(めい)地上(ちじょう)に出(い)でるは、晋(しん)なり、君子(くんし)以(も)って自(みずか)ら明徳(めいとく)を昭(あき)らかにす、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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