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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

雷風恒

32 雷風恒(らいふうこう)
raifuu.gif 巽下震上(そんか しんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

恒とは、久しい、常である、という意。
この卦は震の長男が上に位置し、巽の長女が下に位置している。
易では、男は尊く女は卑しいとし、これを天地の大経として、尊卑の位を正しくすることが大事であり、これを守ることこそが夫婦が家を治める根本だとする。
というと、男女平等に相応しくない、非常識だ、と言う声が聞こえそうだが、易で言う男尊女卑は、普通に私たちが考えている男尊女卑思想とは違うのだ。
男性が、女性がから尊敬されるよう努力することが、男尊女卑なのだ。
決して男性が女性に押し付けるものではない。
女性が自発的に男性に身を任せるよう、男性は努力することが大事なのだ。
女性が結婚相手を選ぶとき、たいていは、尊敬できる何かを持っている男性を探すではないか。
逆に男性は、女性に対して、尊敬できる何かは、特に求めない。
むしろ男性は、自分のことを棚に上げて、相手の女性がキレイか、可愛いか、といったことを重視する。
これが自然の摂理である。
キレイ、可愛いというのは、性欲が湧くか否かであって、性欲が湧く女性でなければ、興味が持てないのが男性である。
だから、より男性の性欲をそそるように、女性は化粧をし、キレイに着飾り、あるいはエステに行ったりして、自分を磨くことに執念を燃やす。
綺麗事では否定したいところだが、本音はそのはずである。
それが動物としての本能なのだ。

要するに男性と女性とでは、根本的に異性に対して求めることが違うのだ。
そこを勘違いすると、離婚に繋がったりもする。
とにかく結婚は、女性が相手の男性を尊敬できなくなると、終わってしまうのだ。

ついでに、夜の生活を考えてみよう。
女性は男性に身を委ね、男性を受け入れることで成立しているではないか。
それで女性を満足させられれば、女性はその男性を尊敬する。
しかし、男性が一方的な思い込みで、女性を愛撫したつもりになっているだけでは、女性はちっとも気持ちよくない。
そうであっても優しい女性ならば、愛情表現だからと、我慢して男性に応じ、感じているフリをする。
知り合って間もない頃は、それでも幸せを感じるだろうが、いつまでたってもそんなことを繰り返してだけいれば、やがて互いの心に溝ができ、夫婦仲も悪くなるものだ。
最悪なのは、そんな女性の演技を見抜き、感じないのはお前が悪い、と開き直る男性だ。
俗に不感症とか性の不一致といった言葉があるが、それらはすべからく相手の男性が下手なだけだ、と言っても過言ではあるまい。
下手なのに下手であることを自覚せず、ご都合主義で女性のせいにして、上手くなろうと努力しないのだ。
何事に於いても、努力しない人間は尊敬に値いしない。
だからこそ、夜の生活でも女性から尊敬されるテクを身につける努力をすることが、男性は大事なのである。
そのためには、夫婦間で話し合い、そういった本を一緒に読んだりしてみるのもよいだろう。
しかし女性からそんな提案はなかなかできるものではない。
だからこそ男性が先立ってお膳立てしなければいけないのであって、それが男尊女卑ということなのだ。

もちろん夜の生活だけではなく、昼間もいろいろな面で、この人は頼りになる、と尊敬されるようでなければ、女性の心は離れてしまう。
だから、結婚生活には、男尊女卑が大事なのだ。

また、太古の時代の中国では、女尊男卑の社会が点在していた。
そういう時代に編纂されたから、易は男尊女卑をことさら強く主張している面もある。
女尊男卑とは、母系母権制社会のことで、父親の存在を無価値とし、すべての実権を女性が握る社会である。
そして、社会は結婚という制度を有するか否かで、男尊女卑か女尊男卑のどちらかになるのであって、よく言われる男女平等は、易の立場からすれば、絵に描いた餅に過ぎないのである。
女尊男卑の詳細については、男尊女卑と女尊男卑をご覧ください。

かなり脱線してしまったが、そろそろ話を卦の解説に戻そう。
さて、この雷風恒だが、外卦の震を長男とし動くとし行うとして、内卦の巽を長女として従うとし斉(ととの)えるとすれば、男性は外で働き、女性は内を守って従い斉える、ということになり、これこそ家庭を営む基本である。
また、男女夫婦は人倫の初めでもある。
夫婦があって、然る後に子孫があり、その子孫が綿々と続き、命が継承されて行くのである。
これこそ恒久の道である。
だから恒と名付けられた。
また、震の雷は陽気の動であり、巽の風は陰気の動である。
この雷風の二気が相与してこそ、万物は生育し、大自然の恒久の営みは続いているのである。
だから恒と名付けられた。
また、上卦の震を動くとし、下卦の巽を従うとすれば、これは上が動いて下が従う様子である。
上の君が動いて政治を行い、下の民衆が君命に従って国事に従事するのが、上下恒久の道である。
だから恒と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは地天泰から来たとする。
地天泰の初九の陽剛が上ってこの雷風恒の九四となり、地天泰の六四の陰柔が下ってこの雷風恒の初六となったのである。
陽の剛が上ろうとし、陰の柔が下ろうとするのは、これ天地恒久の道である。
だから恒と名付けられた。

なお、恒久とは変化がない、ということではない。
世の中は日々刻々と変化している。
ただ、変化には規則性がある。
その規則性が恒久不変だということである。

卦辞
恒、亨、利貞、无咎、利有攸往、

恒なれば亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し、咎(とが)无(な)し、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

およそ天下の事、よくその道に恒久の心構えで勤しんでいるときには、なんでも亨通するものである。
ましてこの卦は、震を動く、巽を従うとすれば、従って動く様子である。
恒久の道を以って従って動けぱ、いつかは何かを遂げ成すものである。
だから、恒なれば亨る、という。

もとより人たる者のかりそめにも離れるまじく守るべきは、貞正の道である。
だから、貞しきに利ろし、という。
しかし、もし恒久の道に背き、恒常の道に違うときには、必ず咎有り罪有りとなるものである。
恒常の道とは、父子の親、君臣の義、夫婦の別、兄弟の序、朋友の信を疎かにしないことである。
この道を恒に守り修めるときには、何の咎もあろうはずがない。
だから、咎无し、という。

そして、すでに貞正にして、よく恒常の道を守り、その作業はよく恒久の徳を修め、なおかつ宜しきに従って動き務めるのであれば、何事をするのであっても、問題はない。
だから、往く攸有るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
恒、久也、剛上而柔下、雷風相与巽而動、剛柔皆応、恒、
恒(こう)は、久(ひさし)いなり、剛(ごう)上(のぼ)って而(しこう)して柔(じゅう)下(くだ)る、雷風(らいふう)相(あい)与(くみ)し巽(したが)って而(しこう)して動(うご)き、剛柔(ごうじゅう)皆(みな)応(おう)有(あ)るは、恒(こう)なり、

恒、亨、利貞、无咎、久於其道也、
恒(こう)は、亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)しとは、其(そ)の道(みち)に久(ひさ)しければ也(なり)、

利有攸往、終則有始也、
往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしとは、終(お)うれば則(すなわ)ち始(はじ)まること有(あ)れば也(なり)、

天地之道、長久而不已、日月得天而能久照、四時変化、而能久成、
天地之道(てんちのみち)は、長久(ちょうきゅう)にして而(しこう)して已(や)まず、日月(ひづき)天(てん)を得(え)て、而(しこう)して能(よ)く久(ひさ)しく照(て)らし、四時(しじ)変化(へんか)して、而(しこう)して能(よ)く久(ひさ)しく成(な)す、

聖人久於其道、而天下化成、観其所久、而天地万物之情、可見矣
聖人(せいじん)其(そ)の道(みち)に久(ひさ)しくして、而(しこう)して天下(てんか)化成(かせい)す、其(そ)の久(ひさ)しくする所(ところ)を観(み)て、而(しこう)して天地(てんち)万物(ばんぶつ)之(の)情(じょう)を、見(み)つ可(べ)きなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
雷風、恒、君子以立不易方、
雷風(らいふう)あるは、恒(こう)なり、君子(くんし)以(も)って立(た)つこと方(ほう)を易(か)えず、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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沢山咸

31 沢山咸(たくざんかん)
takuzan.gif 艮下兌上(ごんか だじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

咸とは、物と物とが相対して、その心念合一になることを言う。
平たく言うと、感じる、ということである。
そもそも天地の間の物は、相咸じないということはない。
その相咸じる中でも、男女の情欲より咸じることの激しいものはない。
その男女の中でも、少男少女は、特に咸じることが甚だしい。
『論語』李子篇に、少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り、とあるが、これは少年の咸じることの甚だしいことにより、礼を失うことを恐れて、深く戒めたものである。
咸じるとは、思慮なく感覚的に感じていることである。
例えば、可愛い女の子を見て可愛いと感じ、カッコイイ男の子を見てカッコイイと感じることや、満開の桜を見て綺麗だと感じることなどが、咸じるということになる。

さて、この卦は、艮の少男が兌の少女の下にいる。
これは少男少女が相交わり、互いに咸じ合っている様子である。
だから咸と名付けられた。

もとより万物の相対する者は、すべからく相咸じる者である。
山は地の高い場所、沢は地の低い場所であり、この両者は高いと低いとで相対している。
これを、山沢相対する、という。
易位生卦法によれば、この沢山咸は、山沢損から来たものとする。
山沢損の艮山が下り、兌沢が上ったのがこの沢山咸である。
しかし、山沢の実体が上り下りするわけがない。
動いたのは気であって、艮山の気が下り、兌沢の気が上がったのであって、これにより、二気が交わり咸じたのである。
だから咸と名付けられた。
なお、気が上り下りして相交わるというのは、地天泰、風雷益、水火既済の三卦と同じ例である。

また、ひとりのこととして観るときは、兌を悦ぶとし、艮を止まるとし、悦んで止まる様子とする。
人々が、その事その物を悦び、その悦ぶところに心を止めることが、咸ということである。
だから咸と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の上九が下り来て九三となり、天地否の六三が上り往きて上六となったのが、この沢山咸である。
上九が下り来たのは、天気が下って交わる様子であり、六三が上り往くのは、地気が上って交わる様子である。
これは天地が交わり咸じる様子である。
だから咸と名付けられた。

卦辞
咸、亨、利貞、取女吉、

咸は亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し、女(おんな)取(めと)るに吉(きち)、

およそ天下のことは、互いに心念合一の咸じ合う域に達していれば、亨通しないことはない。
また、その道を悦んで、その事を心に止めるときには、これも亨通しないことはない。
だから、亨る、という。
ただし、咸というのは、感覚的に感じ合って意気投合しているだけであって、まだ具体的な効用事業に感じ合っているわけではない。
だから、元いに亨る、とまでは言えず、単に、亨る、という。

そもそも天下のことは、すべて善悪正邪の両方を具えているわけだが、特に咸の道は、情欲意念が強い。
正しきに咸じれば善となるが、正しくないことに咸じれば不善となる。
だからこれを戒めて、貞しきに利ろし、という。

さて、男女夫婦の道は、家道の大経であり、夫(おっと)が首(はじ)めに唱えれば、婦(つま)が随い和して、和楽するものだが、そもそもはこの咸より始まることである。
男女夫婦が互いに咸じなければ、和楽することもない。
またこの卦は、悦んで止まる様子であるが、これは婦が悦んで夫の家に止まる、ということでもある。
だから、女取るに吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
咸感也、柔上而剛下、二気感応、以相与、
咸(かん)は感(かん)也(なり)、柔(じゅう)上(のぼ)って而(しこう)して剛(ごう)下(くだ)る、二気(にき)感応(かんのう)して、以(も)って相(あい)与(くみ)す、

止而説、男下女、是以亨、利貞、取女吉也、
止(とど)まって而(しこう)して説(よろこ)ぶ、男(おとこ)をもって女(おんな)に下(くだ)る、是(これ)を以(も)って亨(とお)るなり、貞(ただ)しきに利(よ)ろしきなり、女(おんな)を取(めと)るに吉(きち)なる也(なり)、

天地感、而万物化生、聖人感人心、而天下和平、
天地(てんち)感(かん)じて、而(しこう)して万物(ばんぶつ)化生(かせい)す、聖人(せいじん)人心(じんしん)を感(かん)ぜしめて、而(しこう)して天下(てんか)和平(わへい)す、

観其所感、而天地万物之情可見矣、
其(そ)の感(かん)ずる所(ところ)を観(み)て、而(しこう)して天地(てんち)万物(ばんぶつ)之(の)情(じょう)を見(み)つ可(べ)きなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
山上有沢咸、君子以虚己受人、
山(やま)の上(うえ)に沢(さわ)が有(あ)るは咸(かん)なり、君子(くんし)以(も)って己(おのれ)を虚(むな)しくして人(ひと)に受(う)くべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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離為火

30 離為火(りいか)
riika.gif 離下離上(りか りじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)を重ねた形。

この卦は、八卦の離を重ねた卦。
離とは、麗(つ)く、付着する、つらなる、かかる、つながる、といった意。
同じ八卦を重ねた卦は、その八卦の名称で呼ぶ。
八卦の離は、一陰の主画が柔弱な自身を、二陽の剛強な者の中に付着して守ってもらっている形である。
これは、陰であるがゆえに、柔和にして麗き順わざるを得ないのであるが、六画重卦の離為火も、その特性象義は基本的に同じである。
だから三画八卦も六画重卦も、同じ名で呼ばれるのである。

なお、離の字は、普通は「はなれる」という意であるが、易ができた頃は、逆の「付着する」という意だったのである。
離の卦象には、「はなれる」という意はまったくないのである。

卦辞
離、亨、利貞、畜牝牛吉、

離は亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し、牝牛(ひんぎゅう)を畜(やしな)えば吉、

そもそも離は、坤の一陰を中画に得て、柔順にして二陽の明者に麗いたのであって、これが三画八卦の離の象義である。
六画重卦の場合も、六二柔順中正の徳を以って、外卦の明者に麗き順っているのであって、そうであるからこそ、亨通するのである。
だから、離は亨る、という。

さて、その麗くということには、必ず利害邪正の両道がある。
正しい道と、公な道とに麗くときには、善にして亨通する。
正しくない道と私欲の道とに麗くときには、不善にして亨通することはない。

もとより八卦の離は、火とし、心とする。
火は幽暗を照らし、煮炊きをして食を調える大事な作用功徳を具えている。
しかし、その取り扱いを誤ると、火事を起こし、大切なものすらも焼き滅ぼしてしまう。
人の心にしても、正しいことに麗き、善なることに用いれば、身を修め、家を済(ととの)え、国天下をも治めることができる。
しかし、正しくないことに麗き、不善なることに用いるときには、忽ち身を滅ぼし、家を破り、国天下をも喪うに至るものである。
これをもって、人の心の火の用心、取り扱いは至って厳重に、最も大切にし、常に戦々兢々として、その麗くところ、用いるところを惧れ慎むべきなのである。
だから、その用心の大切さを強調し、貞しきに利ろし、という。

牝牛とは、至って柔順の比喩である。
坤為地の卦では牝馬を以って柔順の意義を諭し、この離為火の卦では、牝牛を以って柔順の意義を諭している。
馬も牛も、共によく人に馴れ従う柔順の性質があるわけだが、次のような違いがある。
馬は蹄がひとつで(奇蹄類)、奇数は陽、その行くことは健やかで陽の性質である。
対する牛は蹄がふたつで(偶蹄類)、偶数は陰、その行くこと緩やかで陰の性質である。
このように、牛は馬と違って、その根本的性質からして陰であるのだから、その柔順さは至極である。
また、卦象を観ると、坤は純陰にして柔順の卦ではあるが、同じ陰が三本相連なっている。
一方の離は、一陰二陽の卦象であるが、これは一陰の微弱なるを以って、上下両陽剛の中に麗き従っているのである。
陰同士が連なっているのではなく、陽の中に陰が麗き従うには、陽の反感を買わないように、至って柔順でなければならない。
だから離を柔順の至極とする。
離の火を扱うことも、至って柔順ではなく、不善な扱いであれば、忽ち火事を招き、大害が有る。
だから、その火を扱う心がけで物事に対処せよと諭すために、柔順至極であることを牝牛を畜うことに喩え、そのようであれば吉だとして、牝牛を畜えば吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
離、麗也、柔麗乎中正、故亨、是以畜牝牛吉也、
離(り)は、麗(つ)く也(なり)、柔(じゅう)中正(ちゅうせい)に麗(つ)けり、故(ゆえ)に亨(とお)る、是(これ)を以(も)って牝牛(ひんぎゅう)を畜(やしな)えば吉(きち)なる也(なり)、

日月麗乎天、百穀艸木、麗乎地、重明以麗乎正、乃化成天下、
日月(ひづき)は天(てん)に麗(つ)き、百穀(ひゃっこく)艸木(そうもく)は、地(ち)に麗(つ)き、重(かさ)ねたる明(あき)らかさは以(も)って正(ただ)しきに麗(つ)きて、乃(すなわ)ち天下(てんか)を化成(かせい)すべし、


象伝(原文と書き下しのみ)
明両、作離、大人以継明照于四方、
明(めい)を両(ふた)つ作(つく)るは離(り)なり、大人(たいじん)以(も)って明(めい)に継(つ)ぎ四方(しほう)を照(て)らすべし、


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坎為水

29 坎為水(かんいすい)
kanisui.gif 坎下坎上(かんか かんじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

この卦は、八卦の坎を重ねた卦。
坎とは、陥る、険難、穴などの意。
同じ八卦を重ねた卦は、その八卦の名称で呼ぶ。

卦辞
坎、有孚惟心亨、行有尚、

坎は孚(まこと)有(あ)れば惟(ひと)り心(こころ)のみ亨(とお)る、行(い)けば尚(たっと)ばれること有(あ)り、

この卦は、重なる険難である上に、二五の君臣共に険難の中に陥っている様子。
これは実に険難の至極のときである。
このような険難のときに当たっては、その願いが亨通する道理はない。
ただ、君子は卦徳の中実の孚有るときにして、惟り心のみ亨通することは可能である。
言わば、願いは却下されても誠意だけは通じる、ということである。
だから、孚有れば惟り心のみ亨る、という。

こんなときだからこそ、九二剛中の臣としては、九五の君の元へ、その険難を救いに行き、よく国家を補佐するときにはその功績を認められ、九五の君から格別の引き立てを受けられる。
だから、行けば尚ばれること有り、という。

なお、この卦は二陽剛が上下に別れて対峙している形だが、これは一国二君の様子でもある。
上卦に九五定位の君の一陽剛が在り、坎の険難の主となっていると同時に、下卦にもまた一陽剛あって、一方に割拠の威を振るい、その権力を逞しくし、その勢いが上下を二分している。
このよう卦は、すべからく険難の卦にして、乱世の様子とする。
水雷屯、水山蹇、そしてこの坎為水である。
特にこの坎為水は、下卦に在る一陽剛は九二に居る。
二は臣の定位にして、五の君の爻の応位である。
とすれば、よくその臣としての道を守り、節を尽くして九五の君のところに出向き、国家の坎険を救済するべきである。
そのようにして九五の君を補佐するときは、忽ち一に帰して国家安泰になるのである。
だから九二の臣に対して、九五の君のところへ行けば尚ばれること有り、と、帰服して補佐するように勧め戒めているのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
坎、険也、水流而不盈也、
坎(かん)は、険(けん)也(なり)、水(みず)流(なが)れて而(しこう)して盈(みた)ざる也(なり)、

有孚、行険、而不失其信也、
孚(まこと)有(あ)りとは、険(けん)を行(おこな)って、而(しこう)して其(そ)の信(しん)を失(うしな)わざる也(なり)、

維心亨、以剛中也、行有尚、往有功也、
維(ひと)り心(こころ)のみ亨(とお)るとは、剛(ごう)中(ちゅう)なるを以(も)ってなり、行(ゆ)けば尚(たっと)ばるること有(あ)りとは、往(な)して功(こう)有(あ)る也(なり)、

天険不可升也、地険、山川邱陵也、
天(てん)の険(けん)は升(のぼ)る不可(べからず)、地(ち)の険(けん)は、山川(さんせん)邱陵(きゅうりょう)也(なり)、
王公設険、以守其国、坎之時用大矣哉
王公(おうこう)険(けん)を設(もう)けて、以(も)って其(そ)の国(くに)を守(まも)るなり、坎(かん)之(の)時(とき)の用(よう)大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
水臶至、坎、君子以常徳行習教事、
水(みず)臶(ふたた)び至(いた)るは、坎(かん)なり、君子(くんし)以(も)って徳行(とくぎょう)を常(つね)にし、教事(きょうじ)を習(なら)わすべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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沢風大過

28 沢風大過(たくふうたいか)
takufu.gif大過 巽下兌上(そんか だじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

大過とは、大いに過ぎる、大なる者が過ぎる、ということ。
易では、陽を大、陰を小とするのだが、この卦は四陽二陰にして、陽爻が陰爻よりその数が過ぎている。
だから大過と名付けられた。
なお、四陽二陰の卦は、他に雷天大壮、天山遯をはじめ、いくつかあるが、それならなぜ、ことさらにこの卦だけ大過というのか、ということになるが、それは、内外主客をもって、卦の形を判断するからである。
そもそも主は内にして、客は外に位置するものである。
したがって、主を陽とし、客を陰とすれば、この卦は四陽が主として内にあり、二陰が客として外にあるわけである。
とすると、主が客よりも大いに過ぎている。
だから大過と名付けられた。
逆に、雷山小過の場合は、二陽が内に主としてあり、四陰が外に客としてあるが、これは客の小なる陰が主の陽なる大よりも過ぎているから、小過と名付けられたのである。
念のために付け加えると、陰は主となるべきものではないので、陰が内にある山雷頤や風沢中孚は、大小過と名付けられなかったのである。

もとより主には勢いがあり、客には勢いはないのは、兵家の主戦客戦という語にもあるとおりである。
この卦は、勢いのある主たる陽剛が、勢いのない客たる陰柔に過ぎている。
対する雷山小過の場合は、客の勢いのない陰柔が、主の勢いのある陽剛に過ぎているわけだが、客は過ぎているとしても、そもそもが勢いのない者だから、大いに過ぎるとは言えないので、小過と名付けられたのである。

また、この卦は、兌を沢、巽を木とすれば、沢が木を滅ぼすという意もある。
沢は水草が集まり蓄えられている場所であり、本来は木を潤養するところである。
しかしこの卦にあっては、巽の木は、兌の沢の中に入って滅没している。
これは、その潤養が却って大いに過ぎた様子である。
だから大過と名付けられた。
また、兌を悦ぶとし、巽を従うとすれば、悦んで従う様子である。
心に悦楽して従事するときは、その事は必ず大いに過ぎるものである。
だから大過と名付けられた。
また、兌を少女とし、巽を長女とすれば、この卦は少女が長女の上に位置している。
これを少女について言えば、長女を凌ぐことが過ぎているのであって、長女について言えば、少女に譲ることが過ぎている様子である。
これもまた、大過と名付けられた所以である。

卦辞
大過、棟橈、利有攸往、亨、

大過(たいか)なれば、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

棟とは、屋根を支える大事な木なので、材木の中でも、その材質が傑出大過なものを選んで使うものである。
しかしその棟も、多くの木材を載せ負うと、材力の分に大いに過ぎ、橈んでしまう。
これは、人事に於いても同様である。
人それぞれ能力には限度があり、その人の能力を大いに過ぎる仕事を任されれば、棟が橈んでしまうように、その任に堪えられず、失敗を招いてしまう。
だから、大過なれば棟橈めり、という。

そもそも天運には窮通があり、時勢にも過不及がある。
君子ならば、それを弁え知る必要がある。
今、大過のときに当たって、その任に居り、その職を掌ろうとする者は、必ず大いに過ぎる非常な大材力大手段がないときは、その事を遂げるのは難しい。
しかし、その大いに過ぎる大材力大手段があれば、しかる後には、物事を成すことは可能である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
そして、しかる後に事物は遂げ成るから、亨る、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
大過、大者過也、棟撓、本来弱也、
大過(たいか)は、大(だい)なる者(もの)の過(過)すぎたる也(なり)、棟(ムネ)撓(たわ)むとは、本末(ほんまつ)の弱(よわ)ければ也(なり)、

剛過、而中、巽而説、利有攸往、行乃亨也、大過之時大矣哉
剛(ごう)過(す)ぎたれども、而(しか)も中(ちゅう)にして、巽(ととの)って而(しこう)して説(よろこ)ぶをもって、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、行(おこな)えば乃(すなわ)ち亨(とお)るとなり、大過(たいか)之(の)時大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢滅木、大過、君子以独立而不懼、遯世无悶、
沢(さわ)が木(き)を滅(め)っするは、大過(たいか)なり、君子(くんし)以(も)って独立(どくりつ)して而(しこう)して懼(おそ)れず、世(よ)を遯(のが)れても悶(いきどお)ること无(な)かるべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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山雷頤

27 山雷頤(さんらいい)
sanrai.gif 震下艮上(しんか ごんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

頤とは、おとがい、上顎と下顎、すなわち口のこと。
この卦は、最上最下は陽、中間の四本は陰なので、外実内虚であって口の形とする。
また、最上最下の陽を上顎下顎とし、中間の四陰を歯が列なっている形とする。
また、下顎は震にして動き、上顎は艮にして止まるという意があるわけだが、これこそ口の機能である。
口は上顎は止まり、下顎が動くことで、食物を咀嚼するものである。
だから頤と名付けられた。
また、生物は口から食物を摂取し、自らを養い生きるものである。
だから頤には、養うという意もある。

卦辞
頤、貞吉、観頤、自求口実、

頤(い)は、貞(ただし)くして吉、頤(い)を観(み)て、自(みずか)ら口実(こうじつ)を求(もと)むべし、

この卦は、頤口の形であり、口は生物を養うための大事な器官であり、人命と深く関係するところである。
したがって、その意義は至って重く、至って大なるものである。
だからこそ、最も正しく慎むべきところである。
しかし、口は誰しもが日々用いるところであのことから、得てしていい加減に扱ってしまう。
その結果、ヘンなモノを食べて食中毒を起したりもする。
だから、正しく扱わなければいけないのであって、貞くして吉、という。
正しくなければ凶になる。

さて、口から入るところのものは飲食である。
飲食は正しくしないと、食中毒など、とんでもないことになるわけだが、口から出るものも同時に正しくしなければいけない。
口から出るものというのは、言葉である。
人間関係を円滑にするためには、不用意な言葉は慎まなければいけない。
したがって、頤の作用をよく観て、飲食と言語の二つを、よく慎んで節にし正しくして、以って身を養い、徳を養うことが大事なのである。
これは、正実を尚び、利貞を守ることであって、君子ならば、自らの裁量で、口にするべきか否かを判断し、正実を求めるべきなのである。
だから、頤を観て自ら口実を求むべし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
頤、貞吉、養正、則吉也、
頤(い)は、貞(ただ)しくして吉(きち)なりとは、養(やしな)うこと正(ただ)しければ、則(すなわ)ち吉(きち)なると也(なり)、

観頤観其所養也、自求口実、観其自養也、
頤(い)を観(み)るとは、其(そ)の養(やしな)う所(ところ)を観(み)る也(なり)、自(みずか)ら口実(こうじつ)を求(もと)むべしとは、其(そ)の自(みずか)ら養(やしな)うことを観(み)るなり、

天地養万物、聖人養賢、以及万民、頤之時大矣哉、
天地(てんち)は万物(ばんぶつ)を養(やしな)い、聖人(せいじん)は賢(けん)を養(やしな)い、以(も)って万民(ばんみん)に及(およ)ぼす、頤(い)之(の)時(とき)大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山下有雷頤、君子以慎言語節飲食、
山(やま)の下(した)に雷(かみなり)有(あ)るは頤(い)なり、君子(くんし)以(も)って言語(げんご)を慎(つつし)み飲食(いんしょく)を節(せつ)にす、


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山天大畜

26 山天大畜(さんてんたいちく)
santen.gif大畜 乾下艮上(けんか ごんじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、konchi-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

大畜とは、大きく止める、という意。
また、大きく蓄える、養う、集める、といった意もある。
この卦は、上卦の艮を以って、下卦の乾の進むを止める様子である。
だから大畜と名付けられた。
また、六五の君と六四の宰相が共に志を同じくして、下卦乾の剛強の下民のなりふり構わず進むのを制し止める様子でもある。
だから大畜と名付けられた。
また、乾天が艮山の中にある様子である。
天と山では、天は大にして、山は小なる者である。これは小を以って大を蓄える様子である。
だから大畜と名付けられた。
また、乾の剛健と艮の篤実を備えるときには、その徳は大いに蓄え集まるものである。
だから大畜と名付けられた。
また、来往生卦法によれば、もとは地天泰から来たとする。
地天泰のときには、天地陰陽の二気相交わり、上下が志を合わせるので、その国は繁栄し安泰である。
しかし六五の君は陰柔にして泰平の主であり、左右の群臣も皆陰柔である。
このままだと、陰に流され、君は逸楽に興じ驕奢に耽り、剛強な民衆はそんな君上をないがしろにして、やりたいように冒し進む可能性がある。
それでは秩序は崩壊し、国はまとまらない。
憂い危ぶみ、それを止める者がいなければいけない。
そこで、上九の一陽剛が、卦の外から上り往き、上爻に居て、艮の止めるの主爻となり、成卦の主として、下卦乾の剛強にして冒し進むのを止める者となった。
これは、王者の賢師が、君上が非道に向かうのを制し止め、正しい道を訓導する様子でもあり、賢を尊び徳を養う様子である。
だから大畜と名付けられた。

卦辞
大畜、利貞、不家食、吉、利渉大川、

大畜(たいちく)は、貞(ただし)きに利(よ)ろし、家食(かしょく)せざれば吉(きち)、大川(たいせん)を渉(わた)るに利ろし、

誰かの行動を止めようとするときには、自分はそのことについて正しくなければ説得力がない。
だから、大畜は貞きに利ろし、という。
もとよりこの卦の主意は、進む者を止めるにある。
進む者を止めるときは、その情は背き、その志は違い、その事は逆らい、その言は争うことになる。
だからこそ、貞きに利ろし、と警鐘を鳴らすのでもある。

さて、大畜には、集め養うという意味もあるわけだが、人に使われる者はその人に養われ、人を使う者はその人を養っているのである。
とすれば、人を養う者は、収入のすべてを自分の好き勝手に使い果たしてはいけないし、同じ養うのなら、賢者を養うことこそ大切である。
家食とは、養うことを疎かにして、言うなれば食道楽にばかり収入うことである。
だから、家食せざれば吉、という。

また、大川は険難の場所であり、渡るときは、人命にも係わる大事である。
剛健豪強だからといって、自分の力を過信して、不用意に渡ろうとすれば、溺没の恐れもある。
よく止まり、状況を冷静に観察する慎重さが必要である。
大畜には、大いに止まる、という意もある。
大川を前にして、大いに止まる慎重さがあれば、流れや風をよく観察し、安全に渡れる時を選んで渡ることになる。
だから、大川を渉るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
大畜、剛健篤実輝光、日新其徳、
大畜は、剛健(ごうけん)篤実(とくじつ)輝光(きこう)あって、其(そ)の徳(とく)を日新(にっしん)せり、

剛上而尚賢、能止健、大正也、
剛(ごう)上(のぼ)って而(しこう)して賢(けん)を尚(た)っとび、能(よ)く健(すこや)かなるを止(とど)めしむるは、大(おお)いに正(ただ)しければ也(なり)、

不家食吉、養賢也、利渉大川、応乎天也、
家食(かしょく)せざれば吉(きち)なりとは、賢(けん)を養(やしな)うのときなれば也(なり)、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、天(てん)のときに応(おう)ぜよと也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天在山中、大畜、君子以多識前言往行、以畜其徳、
天(てん)が山中(さんちゅう)に在(あ)るは、大畜(たいちく)なり、君子(くんし)以(も)って多(おお)く前言(ぜんげん)往行(おうこう)を識(しる)しおぼえて、以(も)って其(そ)の徳(とく)を畜(たくわ)うべし、


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天雷无妄

25 天雷无妄(てんらいむぼう)
tenrai.gif无妄 震下乾上(しんか けんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

无妄とは、妄(みだら)では无(な)い、妄想、妄念ではなく、天性自然のあるがまま、至誠至実といった意。
この卦は乾を天、震を動くとすれば、天の動き、すなわち天道の運行ということになる。
天道の運行には意志はないので、妄であろうはずがない。
だから无妄と名付けられた。
人間社会に於いて言えば、天道のように無心で動くことが大切なときである。
また、来往生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否は、乾と坤と相対して、天地がその位置を定めている形であるが、三才(天地人)の大義を備えてはいない。
そこで初九の一陽の人が、卦の外よりやって来て正位を得て成卦の主爻となり、震の長男の祭主となったのである。
これにより、天地人の三才の大義が備わったことになり、これこそ、天性自然にして内に主となる者、である。
だから无妄と名付けられた。
また、天の下に雷が行く様子でもある。
天も動き、雷も動くものだが、その動くことは無為自然である。無為自然に動くことは、真誠性正ということである。
だから无妄と名付けられた。

ところで、このように无妄とは、ミダラではないのだから、真正である、と言っても差し支えないはずだ。
しかし、なぜ真正と言わず、回りくどく无妄としたのだろうか。
それは、易が儒教のモノだからなのだ。
論語は儒教の入門書、易経は奥義書といった位置付けである。
その儒教では、真と呼べるものは何ひとつないと考えていて、そのため、儒教の典籍には、真という字は一度も出てこないのである。
老荘などには真の字が出てきて、その道の至極を説くときに、それを真(真理)と呼ぶ。
しかし、真が本当に真であるか否かは、合理的に説明ができないものである。
儒教は思想、哲学、宗教といったものではなく、言うなれば社会を安泰にするための学問なのである。
学問であるのなら、それは仮説の積み重ねでしかないわけであり、それを真理だとするわけにはいかない。
真理という言葉を持ち出せば、そこで学問的考察はストップしてしまい、それが真理だと信じる必要が出てくる。
真理を信じるのは学問ではなく宗教である。
だから、真の字は使わず、ここでも敢えて无妄としたのである。

卦辞
无妄、元亨、利貞、其匪正有眚、不利有攸往、

无妄(むぼう)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただし)きに利(よ)ろし、其(そ)れ正(ただ)しきに匪(あら)ざれば眚(わざわ)い有(あ)り、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしからず、

ものごとは无妄すなわち無為無心で行えば、大いに通じるのは言うまでもない。
また、乾を健やかとして、震を動くとすれば、健やかにして動く様子となるが、このようであれば、これもまた大いに亨通するものである。
だから、元いに亨る、という。
そもそも天雷无妄は天性の卦である。
天性とは天の性すなわち天の秩序正しい運行であり、簡単に言うと貞正ということである。
だから、貞しきに利ろし、という。
これが私欲をもって行動すれば、貞正ではないのだから、亨ることもなく、眚いが有る。
だから、其れ正しきに匪ざれば眚い有り、という。
そして、往く攸というのは、希望であり願いでり求めるところである。
希望や願いや求めるところは、要するに私欲から出ていることである。
无妄は無為無心にして、私欲を持たないことである。
だから、往く攸有るに利ろしからず、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
无妄、剛自外来、而為主於内、
无妄(むぼう)は、剛(ごう)外(そと)より来(き)て、而(しこう)して内(うち)に主(しゅ)為(た)り、

動而健、剛中而応、
動(うご)いて而(しこう)して健(すこや)かに、剛(ごう)中(ちゅう)にして而(しこう)して応(おう)あり、

大亨以正、天之命也、
大(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってするは、天(てん)之(の)命(めい)なれば也(なり)、

其匪正有眚、不利有攸往、无妄之往、何之矣、天命不佑行矣哉、
其(そ)の正(ただ)しきに匪(あら)ざれば眚(わざわ)い有(あ)り、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしからず、无妄(むぼう)のときに之(こ)れ往(せい)することありとも、何(いず)くにか之(ゆ)かんや、天命(天命)佑(たす)けざれば行(おこな)はれんや、

象伝(原文と書き下しのみ)
天下雷行无妄、先王以茂対時育万物、
天(てん)の下(した)に雷(かみなり)行(ゆ)くは无妄(むぼう)なり、先王(せんおう)以(も)って茂(さかん)に時(とき)に対(たい)して万物(ばんぶつ)を育(いく)せり、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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地雷復

24 地雷復(ちらいふく)
chirai.gif 震下坤上(しんか こんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、konchi-n.gif
坤(こん)を重ねた形。

この卦は十二消長のひとつである。
純陽の乾為天から、天風姤、天山遯、天地否、風地観、山地剥と、次第に陰柔が増長し、陽剛を消し滅ぼし、ついには純陰の坤為地となり果てたところに、今、乾為天の初爻の一陽剛が、奮然として復活して、その原位に来復したのが、この卦である。
だから復と名付けられた。
十二消長は、旧暦の一年十二ヶ月を陰陽の消長で表現し、十二の卦を配したものであり、この地雷復は、太陽の力が復活する冬至に配されている。
旧暦では、十一月を冬至とし、以後順に、十二月を地沢臨、正月を地天泰、二月を雷天大壮、三月を沢天夬、四月を乾為天、夏至の五月を天風姤、六月を天山遯、七月を天地否、八月を風地観、九月を山地剥、十月を坤為地とし、再び十一月の地雷復に戻るのである。
冬至を指して一陽来復というのは、この卦の形をそう呼んだのである。

また、八卦の組み合わせでみると、震の雷が坤の地の中に在る様子である。
雷は陽気が動くエネルギーであり、もともとは天に属するものである。
それが今、下って地中に入っている。
これは、いつか必ず地中を発出して、天に復帰するものである。
だから、復と名付けられた。

卦辞
復、亨、出入无疾、朋来无咎、反復其道、七日来復、利有攸往、

復(ふく)は、亨(とお)る、出入(でい)りともに疾(やまい)无(な)し、反復(はんぷく)するに、其(そ)れ道(みち)あり、七日(なのか)にして来復(らいふく)せん、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

この地雷復は、一陽が復(かえ)り生じた卦であり、君子の道がこれから長じようとするときなのである。
だから、復は亨る、という。
また、震を動くとし、坤を順(したが)うとすれば、下卦の自分が動き、上卦の相手が順う様子であるが、これもまた、亨る、という根拠である。
しかしこの卦の陽は、初九の一陽剛のみであり、その勢いは微弱である。
したがって、元いに亨る、とは言えないのである。

そもそも陰陽消長は、出入共に少しの障り隔てはないものであり、天運の循環であるところの自然の流れである。
これに対して疾病は、陰陽の出入りが障り滞り、気血の不和より起こるものである。
したがって、陽が消滅し、今ここに再び来復したということは、疾病のときのような、陰陽の出入に障り隔たり滞りがあってのことではなく、まったく自然の流れなのである。
だから、出入りともに疾い无し、という。

また、この地雷復は、一陽初めて復り生じたのであって、今その勢いは微弱だが、次第に同朋の陽爻が来たって地沢臨となり地天泰となって行くわけである。
その来るところの朋は陽であり君子であるわけだから、朋来りて咎无し、という。
これが逆に、天風姤から天山遯、天地否となるときは、陰邪な小人の朋が来るわけだから、咎有りということになる。

また、この地雷復は、元々純陽の乾為天より段々と陽が消滅して行き、ついに純陰の坤為地となってしまったところに、今再び元の乾為天の初九の一陽剛がその本位に来復したのであって、その一陽剛が反(かえ)って来た意義は、陽であるがゆえに正しく大いにして、よく道に適うところである。
だから、反復するに其れ道あり、という。

さて、この一陽の復活だが、乾為天の初九が陰にとって代わられた天風姤から、天山遯、天地否、風地観、山地剥、坤為地、地雷復と、七卦にして、最下に陽が復(かえ)り来っている。
だから、七日にして来復す、という。
もとよりその来復するのは陽である。
だから七日という。
七は奇数なので陽の数であり、日は陽物だからである。
陽が来復することは吉であり、吉は速やかに来て欲しいと願うものである。
だから日にかけて七日と言ったのである。
地沢臨では、陰邪が来ることを、八月に至れば凶有らん、と示しているが、陰が来ることは凶であり、凶はすぐに来て欲しくないことである。
そして八は偶数なので陰の数であり、月も陰物である。
だから地沢臨では、地雷復とは逆に、少しでも遅くと、日ではなく月で言っているのだ。

また地雷復は、君子の道が長じ、小人の道が消えるときであって、下卦の自分が震で動けば、上卦の相手は坤で順(したが)うときでもあり、さらには順をもって動くという様子でもある。
そうであるのなら、何事でも、行うに問題はない。
だから、往く攸有るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
復、亨、剛反、
復(ふく)は、亨(とお)るとは、剛(ごう)反(かえ)ればなり、

動而以順行、是以出入无疾、朋来无咎、反復其道、七日来復、天行也、
動(うご)きて而(しこう)して順(じゅん)を以(も)って行(ゆ)く、是(これ)を以(も)って出入(でいり)疾(やまい)无(な)く、朋(とも)来(き)たりて咎(とが)无(な)し、

反復其道、七日来復、天行也、
反復(はんぷん)するに其(そ)れ道(みち)あり、七日(なのか)にして来復(らいふく)するは、天(てん)の行(みち)たれば也(なり)、

利有攸往、剛長也、復其見天地之心乎、
往(ゆ)攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしとは、剛(ごう)長(ちょう)すれば也(なり)、復(ふく)は其(そ)れ天地之心(てんちのこころ)見(み)るなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
雷在地中、復、先王以致日閉関、商旅不行、后不省方、
雷(かみなり)が地中(ちちゅう)に在(あ)るは、復(ふく)なり、先王(せんおう)以(も)って至日(しじつ)には、関「せき)を閉(と)じて、商旅(しょうりょ)をして、不行(しめず)、后(きさき)方(ほう)を省(はぶき)不(ざり)き、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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山地剥

23 山地剥(さんちはく)
sanchi.gif 坤下艮上(こんか ごんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

この卦は十二消長のひとつである。
純陽の乾為天から、天風姤、天山遯、天地否、風地観と、次第に陰柔が増長し、陽剛を消し滅ぼし、ついに今、僅かに上九の一陽剛のみが、どうにか残り止まっている。
しかし、この最後の一陽剛も、最早、剥され、消し尽されようとする時勢である。
だから剥と名付けられた。
また、艮山が崩れて坤の大地に付く様子でもある。
そもそもは、山の地上に聳え立つ様子だが、見上げると怖いくらいに高く聳えた山は、崩れ落ちて地に付くのではないか、と思わせるものである。
だから剥と名付けられた。
また、山が地上にあれは、いつかは消し剥がされて平地となりそうにも思えるものである。
だから剥と名付けられた。

卦辞
剥、不利有攸往、

剥(はく)は、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしからず、

まずこの卦は、坤を順(したが)うとし、艮を止まるとする。
これは順って止まることの重要性を示しているのである。
したがって、君子は宜しく順って止まり、その道を守るべきときとする。
また、陰を小人の道、陽を君子の道とすれば、小人の道が増長し、君子の道が消滅しようとしているときである。
君子としては、新たに事を起すようなことは慎み、時に順い止まり守るしかないときである。
そもそも易は、君子たる人間の生き方を尊び教える書である。
したがって、君子に戒めて、往く攸有るに利ろしからず、というのである。
何かをやろうとしても、小人の勢いが強く、とても太刀打ちできないのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
剥削也、柔変剛也、
剥(はく)は削(けず)る也(なり)、柔(じゅう)が剛(ごう)に変(かわ)らんとする也(なり)、

不利有攸往、小人長也、
剛(ごう)を分(わか)ち上(あげ)て柔(じゅう)に文(かざ)れり、故(ゆえ)に小(すこ)しく往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

順而止観象、君子尚消息盈虚、天行也、
順(したが)って而(しこう)して止(とど)まるは象(しょう)を観(み)れば也(なり)、君子(くんし)は消息(しょうそく)盈虚(えいきょ)を尚(たっ)とぶ。天(てん)の道(みち)なり、


象伝(原文と書き下しのみ)
山附於地、剥、上以厚下賁、安宅、
山(やま)が地(ち)に附(つ)くは、剥(はく)なり、上(うえ)以(も)って下(した)を厚(あつ)くし、宅(たく)を安(あん)ぜしむ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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山火賁

22 山火賁(さんかひ)
sanka.gif 離下艮上(りか ごんじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

賁とは飾るという意。
上卦艮を山とし、下卦離を火とすれば、山の下に火がある様子。
山の下に火があれば、その火は必ず山を照らし、草木は飾りのように輝く。
例えば夕陽が山裾を照らしている様子である。
だから賁と名付けられた。
また、八卦の離は陰を陽で包んだ形であって、艮は陰の上を陽で覆っている形である。
陰陽を美醜で対比すると、陰=醜、陽=美、となる。
したがって、離、艮、ともに陽の美しさをもって陰の醜さを包み覆っていることになる。
飾るといのは、まさにそういうことである。
だから賁と名付けられた。
また、来往生卦法によると、もとは山天大畜から来たとする。
一陰柔の爻が山天大畜の外からやって来て、内卦の二に麗(つ)いて離明の主爻となったのが、この山火賁である。
山天大畜のときには、剛(かた)く健やかにして止まるという要素はあるが、離明の徳を欠いている。
質実剛健だけでは、息が詰まる。
少しは飾りも欲しいものである。
今、来往して山火賁の卦となるときには、下卦乾の純陽の中に一陰柔の和を得て離となり、文明の徳を備え、飾ったことになる。
だから賁と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは地天泰から来たとする。
地天泰の九二と上六が交代したのである。
地天泰は、純陰純陽の組み合わせであるがゆえに、いろどりはない。
それが今、交代して山火賁となると、陰陽交錯のいろどりができ、卦が飾られたではないか。
だから賁と名付けられた。
また、この卦は、図らずも天地人の三才の文(あや)を兼ね備えている。
まず、地天泰の九二が上って、山火賁の上九となるのは、陰を陽に飾ることであって、これは天文である。
地天泰の上六が下り来て、山火賁の六二となるのは、陽を陰に飾ることであって、これは地文である。
離を文明、艮をとどまる、として「文明にしてとどまる」とこの卦を読めば、これは人文である。
だから、賁と名付けられた。
また、離を文明とし、艮を篤実とすれば、文明にして篤実に止まる、となり、これは君子の飾るべき徳である。
だから賁と名付けられた。
また、離を美とし、艮を止めるとすれば、美しさを止める、ということになるが、美しさをいつまでも止めようとするのが、飾ることでもある。
だから賁と名付けられた。

卦辞
賁、亨、小利有攸往、

賁(ひ)は、亨(とお)る、小(すこ)しく往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

およそ事物は、実質をもって根本とする。
しかし、文飾もなければいけない。
論語にも、文質彬彬(ひんひん)として然る後に君子なり=文(装飾)質(質朴)の両方が並び備わってこそ君子なのだ、とある。
今、この卦は、飾り=文をのみ主として、その質の徳には言及しない。
とすると、元いに亨る、とまでは言えないので、単に、亨る、とのみ言う。
また、交代生卦法によれば、地天泰の上六が二爻に来て、中正を得て、離の文明の主爻となったのである。
だから亨通する要素がある。
しかし、文だけではなく、文質両方が備わって、初めて大事を成し遂げることに、堪えられるのである。
だから、小しく往く攸有るに利ろし、という。
小しくとは、ちょっとした、といった程度である。
また、地天泰の九二が往きて上九に居り、柔に飾るとしても、中正を得ていないので、これもまた、小事ならなんとかできるとしても、大事を成すにはよくないのである。

なお、中正というのは、二爻が陰、五爻が陽であることを言う。
そもそも易は、陽位=下から一・三・五番目の爻が陽、陰位=下から二・四・六番目の爻が陰、であることを正しいという。 陽は奇数、陰は偶数である。
また中庸という言葉があるように、中を得る=真ん中の位置にある、ということが大事なので、内卦と外卦、それぞれの真ん中すなわち二爻と五爻が一番よい位置となるのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
賁、柔来而文剛、故亨、
賁(ひ)は、柔(じゅう)来(き)たって而(しこう)して剛(ごう)に文(かざ)る、故(ゆえ)に亨(とお)るなり、

分剛上而文柔、故小利有攸往、
剛(ごう)を分(わか)ち上(あげ)て柔(じゅう)に文(かざ)れり、故(ゆえ)に小(すこ)しく往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

剛柔交錯天文也、文明以止人文也、
剛柔(ごうじゅう)交錯(こうさく)は天文(てんぶん)なる也(なり)、文明(ぶんめい)にして以(も)って止(とど)まるは人文(じんぶん)なる也(なり)、

観乎天文、以察時変、観乎人文、以化成天下、
天文(てんぶん)を観(み)て、以(も)って時変(じへん)を察(さ)っしね人文(じんぶん)を観(み)て、以(も)って天下(てんか)を化成(かせい)す、

象伝(原文と書き下しのみ)
山下有火、賁、君子以明庶政、无敢折獄、
山(やま)の下(した)に火(ひ)有(あ)るは、賁(ひ)なり、君子(くんし)以(も)って庶政(しょせい)を明(あき)らかにすとも、敢(あ)えて獄(うったえ)を折(わか)つこと无(な)し、


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火雷噬嗑

21 火雷噬嗑(からいぜいこう)
karai.gif噬嗑 震下離上(しんか りじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

噬嗑とは、噛み合わせる、という意である。
この卦は来往生卦法によれば、元は山雷頤より来たものとする。
山雷頤は頤(い=おとがい)すなわち口の形の卦であり、その頤口の中へ九四の一陽爻が内卦の外から入り来て、上下を隔てて障りをなしている様子である。
頤の中に物があり、隔て障りをなすときには、必ずこれを噛み砕き、その後に上下相合うことを得るものである。
だから、噛み砕いて合うという意で、噬嗑と名付けられた。
ちなみに、口は、上の歯は動かず、下の歯(顎)だけが動いて、口の中の物を噛み砕くものである。
この卦は、上卦の離は付着、下卦の震は動くとすれば、九四の一陽爻は上の歯に付着していて、それを下の歯が震で動いて噛み砕く様子である。
だから、噬嗑と名付けられた。

卦辞
噬嗑、亨、利用獄、

噬嗑(かみあわせ)れば、亨(とお)る、獄(訴えを聞く)に用(もち)いるに利(よ)ろし、

噬嗑、亨、というのは、直ちに亨ることではない。
口の中に物があれば、それを噛み砕いた後に亨る、ということである。
自分と相手との間に何かがあり、それが障りとして両者を隔て、和合できないような場合は、口の中に物があるのと同じようなことである。
だから、その物を噛み合わせて砕いてしまえば、その後に、両者は心が通じ、和合もできようというものである。
獄とは、牢獄のことであり、罪人を入れて置く場所である。
罪人とするか否かは、訴えを聞いて、その理非曲直を断じて決するものである。
そこで、この場合の獄の字は、訴えを聞いて、その理非曲直を断じることを、指し示すのである。
そもそも訴えは、自分と相手との間に障壁があり、両者を隔て塞ぎ、彼我上下相合うことができないから、その情も互いに乖離し、不和となり、起こるのである。
今、訴えを聞くというのは、頤の中の一物を噛み砕いて、上下相合わせるようなものである。
とすると、訴えを聞く人は、威厳と文明を兼ね備えていなければ、その任に耐えないものである。
しかしこの卦は、震の威厳と離の文明を兼ね備えている。
そして、六五の君の爻は柔中の仁徳がある。
その威厳と文明と仁徳は、訴えを聞くにあたっては、とても重要なことである。
文明でなければ、相手の言いなりになってしまい、偽りを察し、理非曲直を分かつことができない。
威厳がなければ、侮られ軽視され信服されない。
仁徳がなければ、明徳威断に過ぎて、人々はビクビクしていなければならない。
この卦には、これら重要なことが全部揃っているわけだが、訴えを聞くためには、その罪状により、牢獄を用いることもある。
火雷噬嗑は、最上最下の二陽爻は剛実であり、中は空虚の間に九四の一陽があるが、これは牢獄の中に一人の囚人がいる様子でもある。
だから、獄を用いるに利ろし、という。
また、交代生卦法によると、元は天地否から来たものとする。
天地否の九五が下にやって来て、初爻の位に居り、初六が上に往き、五爻に居るのが、この火雷噬嗑である。
天地否のときには、坤は純陰、乾は純陽であり、両者は否塞して理非も分らない様子だが、これが今、剛柔分かち動き、明らかになったのが火雷噬嗑である。
また、来往生卦法によれば、元は天雷无妄から来たとする。
天雷无妄のときは、上卦の乾は剛強なだけで明徳がないが、今、内卦の外から一陰がやってきて、六五となり火雷噬嗑となると、五爻は離明の主となり、柔中の徳も有することになったのである。
もとより訴えを聞く者は、剛決であることを要するが、それだけではなく、文明も仁徳も必要である。
この三つが揃ってこそ、適正な裁きができるのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
頤中有物曰噬嗑、
頤中(いちゅう)に物(もの)有(あ)るを噬嗑(ぜいこう)と曰(い)う、

噬嗑而亨、
噬嗑(かみあわ)して而(しこう)して亨(とお)るとなり、

剛柔分、動而明、雷電合而章、柔得中而上行、雖不当位、利用獄也、
剛(ごう)柔(じゅう)分(わか)ち、動(うご)いて而(しこう)して明(めい)なり、雷電(らいでん)合(ごう)して而(しこう)して章(あや)なり、

柔得中而上行、雖不当位、利用獄也、
柔(じゅう)中(ちゅう)を得(え)て而(しこう)して上行(じょうこう)す、位(くらい)当(あ)たらずと雖(いえど)も、獄(うった)えをきくに用(もち)うるに利(よ)ろしき也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
電雷、噬嗑、先王以明罰勅法、
電雷(でんらい)あるは、噬嗑(ぜいこう)なり、先王(せんおう)以(も)って罰(ばつ)を明(あき)らかにし法(ほう)を勅(ただ)せり、


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風地観

20 風地観(ふうちかん)
fuuchi.gif 坤下巽上(こんか そんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

観とは、観る、という意。
この卦は、易位生卦法によれば、元は地風升から来たものとする。
地風升は、巽の木の種子が坤の地の下に蒔かれた様子だが、その時点では、どんなに成長のエネルギーを秘めていたとしても、まだ誰も気にしない。
それが今、巽の木の種子が坤の地の上に芽を出し成長して大木となると、誰しもがその姿を観望する。
風地観は、その巽の大木が坤の地の上に聳えている様子である。
だから、観と名付けられた。
また、二陽剛は上に在って、下四陰にその姿を観せ示している。
だから、観と名付けられた。
また、巽を風とし、坤を地とすれば、風が地上を行く様子である。
風が地上を行くときは、万物に触れ、万物を靡かせるが、これは遍く観せ示していることになる。
だから、観と名付けられた。
また、二陽は四陰を、四陰は二陽をと、上下が互いに相観している様子でもある。
だから、観と名付けられた。
また十二消長で言えば、天風姤で生じた一陰が、今や四陰と増え、さらに上二陽を消し落とそうとしているとき、言うなれば大衰のときである。
陽の君子としては、周囲の状況をよく観察して対処しないと危険である。
だから、観と名付けられた。

卦辞
観、盥而不薦、有孚顒若、

観は、盥(てあら)いて薦めず、孚(まこと)有(あ)りて顒若(ぎょうじゃく)たるべし、

盥いとは、手を洗い清めることであり、清浄潔白という意。
薦めるとは、亨祀(まつり)の犠牲(そなえもの)を進献すること。
この卦は、四陰の小人が長じ上って、二陽の君子を消し落とそうとしているとき。
二陽の君子にとっては、甚だ危険なときである。
特に九五の君は、陰と隣接しているわけであり、その身に災難が迫っている。
しかしそんなときに、慌てふためいてジタバタしても始まらない。
祭祀の大事大礼に臨むときのように、至敬至誠をもって対応する姿勢を、下の四陰の小人たちに観せ示すのがよい。
そうすれば、下の四陰の小人は、その厚徳の化に感じて、危ういとしても、最悪の事態だけは避けられる。
それか若し、君上の意念に、ほんのちょっとでも怠惰放恣の隙間があれば、忽ち四陰小人の害を受け、最悪の事態を招いてしまうだろう。
要するに、祭祀のときに盥いて身を清めてから、供え物を薦め献するまでの間の如くのように、冷や汗がしたたり、毛髪は立ち上がり、薄氷を踏む如くに、顒若(うやうやしくおごそかなこと)として慎み敬って群下に臨めば、なんとかその災害は間逃れるのである。
だから、盥いて薦めず、孚有りて顒若たるべし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
大観在上、順而巽、中正以観天下、
大(おお)いなる観(み)もの上(うえ)に在(あ)り、順(じゅん)にして而(しこう)して巽(したが)う、中正(ちゅうせい)にして以(も)って天下(てんか)に観(み)せしめすべし、

観、盥而不薦、有孚顒若、下観而化也、
観(かん)は、盥(てあら)って不(いま)だ薦(すす)めざるときのごとく、孚(まこと)有(あ)って顒若(ぎょうじゃく)るべしとは、下(しも)観(み)ならって而(しこう)して化(か)すれば也(なり)、

観天之神道、而四時不*岱、聖人以神道、設教、而天下服矣、
*岱は正しくは代の下に心という字で、「たがう」という意。
この字(図形として作成)→tagau.gif
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、形が似ている岱で代用しておく。
天之(てんの)神道(しんとう)を観(み)るに、而(しか)も四時(しじ)*岱(たが)わず、聖人(せいじん)神道(しんとう)を以(も)って、教(きょう)を設(もう)けて、而(しこう)して天下(てんか)服(ふく)す、


象伝(原文と書き下しのみ)
風行地上、観、先王以省方民観設教、
風(かぜ)が地上(ちじょう)を行(ゆ)くは、観(かん)なり、先王(せんおう)以(も)って方(ほう)を省(かえり)み民(たみ)を観(み)て教(きょう)を設(もう)けり、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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地沢臨

19 地沢臨(ちたくりん)
chitaku.gif 兌下坤上(だか こんじょう)

八卦のsdataku-n.gif兌(だ)の上に、konchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

臨とは、臨(のぞ)む、臨み見る、という意。
この卦は、上の四陰爻から下の二陽爻を臨み見る様子。
だから臨と名付けられた。
これは風地観の、四陰爻から二陽爻を仰ぎ見るということの反対である。
また、下二陽爻から上四陰爻を臨み見る様子であるとともに、上下互いに臨み見る様子でもある。
だから、臨と名付けられた。
また、地雷復は一陽が始めて生じた卦であり、この地沢臨は陽が二本に増えた卦である。
陽が増えることは衆人の願い臨むところである。
だから、臨と名付けられた。
また、陽が増えるということは、君子の道が長じることであって、君子の道が長じることは、衆人の願い臨むところである。
だから、臨と名付けられた。
また、兌を悦ぶとし、坤を順うとすれば、悦んで順う様子である。
世の中には、不満だけど順わなければならないことが多い。
悦んで順えることばかりなら、これほど素晴しいことはなく、これこそ誰しもが臨むことである。
だから、臨と名付けられた。
また、坤を母とし、兌を少女とすれば、母子が相互に臨んでいる様子である。
だから、臨と名付けられた。
また、兌を沢、坤を地とすれば、沢の上に地がある様子だが、地上の水は流れて沢に入り集まって増え、沢の中の水は人々に汲み上げられることで地上の乾きを潤し助ける。
これは、地と沢とが相互に臨み合っている様子である。
だから、臨と名付けられた。

卦辞
臨、元亨、利貞、至于八月、有凶、
臨(りん)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、八月(はちがつ)に至(いた)りて凶(きょう)有(あ)らん、

およそ事業というものは、その願い臨むことの情が正しく、志も堅く、行いも篤いときには、その事業は必ず遂げられるものである。
だから、臨は元いに亨る、という。
しかし邪な情に流され、自己中心的になり、自分だけの利益を考えるようでは、臨みは儚く消えてしまうもの。
だから、貞しきに利ろし、という。
八月とは、十二消長で風地観に当たる月である。
十二消長では、地沢臨は旧暦十二月の卦であり、正月は地天泰、二月は雷天大壮、三月は沢天夬、四月は乾為天、五月は天風姤、六月は天山遯、七月は天地否、八月は風地観、九月は山地剥、十月は坤為地、十一月は地雷復である。
八月の風地観は、地沢臨の顚倒卦(上下逆さにした卦)であるとともに、雷天大壮の裏卦であるので、これを大衰の卦ともいう。
地沢臨は二陽下に長じる卦であり、風地観は二陽上に衰える卦である。
したがって、今は地沢臨で陽が長じて吉であっても、陰陽消長は天地の定理にして、いつかは陽が衰え、陰が長じて風地観となるときも来るのであって、そうなったら凶となることも有るから、やるべきことは早くやってしまわないといけないのである。
だから、八月に至れば凶有らん、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
臨、剛浸而長、説而順、剛中而応
臨(りん)は、剛(ごう)浸(すす)んで而(しこう)して長(ちょう)ず、説(よろこ)んで而(しこう)して順(したが)う、剛中(ごうちゅう)にして而(しこう)して応(おう)あり、

大亨以正、天之道也、
大(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってするは、天之道(てんのみち)也(なり)、

至于八月、有凶、消不久也、
八月(はちがつ)に至(いた)って、凶(きょう)なること有(あ)りとは、消(しょう)すること久(ひさ)しからざると也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢上有地、臨、君子以教道衆无竆、容保民、无畺、
沢(さわ)の上(うえ)に地(ち)が有(あ)るは、臨(りん)なり、君子(くんし)以(も)って衆(しゅう)を教道(きょうどう)すること竆(かぎ)り无(な)く、民(たみ)を容保(ようほ)すること、畺(かぎ)り无(な)し、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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山風蠱

18 山風蠱(さんぷうこ)
sanpuu.gif 巽下艮上(そんか ごんじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

蠱は、腐敗・壊乱・淫溺・惑乱といった意。
この卦は、巽を長女とし、艮を少男とすれば、長女が少男に先立ち、長女の色情をもって少男を媚い惑わす様子となる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽風をもって艮山を粛殺(しゅくさつ=秋の厳しい風で草木を枯らすこと)する様子である。
だから、蠱と名付けられた。
また、上卦の艮を止める、下卦の巽を服従とすれば、上の恵みが止まって下に及ばず、下は巽従に過ぎて佞媚に流れる様子となる。
このようでは、国家は必ず壊乱する。
だから、蠱と名付けられた。
また、艮は一陽が上に在り二陰が下に居て、巽は二陽が上に在り一陰が下に居るわけだが、これでは上下共に陰陽交わらず、陰陽交わらなければ、必ずや物事は壊れる。
また、艮は一陽が上に止まり、巽は一陰が下伏せている形だが、これでは剛柔交わることがなく、剛柔交わらなければ、必ず物事は壊れる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽を臭いとし気とし、艮を止めるとし覆う蓋とすれば、蓋で覆った中に臭気が発生している様子となる。
臭気が発生すれば、必ず腐敗して虫=蟲が生じる。
だから、蠱と名付けられた。
蠱は皿の上に蟲がたかっている様子の文字である。
また、交代生卦法によれば、元は地天泰から来たとする。
地天泰の初九の陽が上に往き、上るに過ぎて不中の高き極みの上爻に居り、上六の陰が下り来て、下るに過ぎて不中の最下の底の初爻に居る形である。
これでは陰陽交わらず壊れを生じる。
だから、蠱と名付けられた。

卦辞
蠱、元亨、利渉大川、先甲三日、後甲三日、
蠱(こ)は、元(おお)いに亨(とお)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲に後(おく)れること三日、

この卦は、敗壊の意であり、そんなときに元いに亨ることはない。
しかし、だからと言って、敗壊を放っておくわけにはいかない。
折りを見て、いつかは修復する必要がある。
としても、修復するには、そのことについて深い知識と技能が必要である。
要するに、その蠱の敗れたことについて、元いに亨通している必要があり、そういう人物であればこそ、敗壊を修復可能なのである。
だから、蠱は元いに亨る、という。
例えば、パソコンが壊れたとき、パソコンのことをよく知らなければ、修理に出すしかないが、パソコンに精通していれば、自分でどこが壊れたかを調べ、部品を取替えて直せるのと、同じことである。

また、巽を従うとし艮を止めるとすれば、従って止まる様子である。
大きな川を渡るときは、人命に係わる大事であり、逆を慎み順を尚ぶことが第一である。
無理せず時に従って止まり、風、波、水嵩の利ろしきを得て渡れば、過失も少ない。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

また、甲(こう=きのえ)は十干の始めである。
だから、甲の日を事の始めとする。
甲に先立つこと三日は辛(しん=かのと)の日であり、辛は新と同音同義である。
甲に後れること三日は丁(てい=ひのと)であり、丁は丁寧の義である。
壊れ極まって、今これを修復する道は、先ず既往の敗壊の原因を悉く改めて新しくし、改新した以後は丁寧に扱い、再び壊れないようにしないといけない。
だから、甲に先だつこと三日、甲に後れること三日という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
蠱、剛上、而柔下、巽而止、蠱、
蠱(こ)は、剛(ごう)上(のぼ)って、而(しこう)して柔(じゅう)下(くだ)り、巽(ととの)って而(しこう)して止(とどま)るは、蠱(こ)なり、

蠱、元亨、而天下治也、
蠱(やぶれ)のときにあたって、元(おお)いに亨(とお)るべしとは、而(しこう)してのちに天下(てんか)治(おさ)まるべければなり、

利渉大川、往有事也
大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、往(ゆ)きて事(こと)有(あ)る也(なり)、

先甲三日、後甲三日、終則有始、天行也、
甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲(こう)に後(おく)るること三日(みっか)、終(おわ)れば則(すなわ)ち始(はじ)まること有(あ)るは、天(てん)の行(みち)なれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山下有風、蠱、君子以振民育徳、
山(やま)の下(した)に風(かぜ)が有(あ)るは、蠱(こ)なり、君子(くんし)以(も)って民(たみ)を振(ふる)い徳(とく)を育(はぐく)むべし、


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沢雷随

17 沢雷随(たくらいずい)
takurai.gif 震下兌上(しんか だじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

随は、したがう、という意。
易位生卦法によれば、元は雷沢帰妹である。
雷沢帰妹のときは、震の長男が兌の少女の上に位置していたが、今、この沢雷随の卦は、震の長男が兌の少女の下に下り随っている様子となる。
だから、随と名付けられた。
そもそも天地の定理では、男は尊く女は卑しい、長は尊く少は卑しい、である。
しかしこの卦は、男が女の下に下り、長が少の下に下っている。
これは、本来随わせるべき者に随っていることであって、随い難き道である。
だから、その随い難きを随うことの重要性を鑑みて、随と名付けられた。
これは、天沢履の履み行い難きをもって卦名としたのと同じスタンスである。
また、内卦を自分とし、外卦を相手とし、震を動くとし、兌を悦ぶとすれば、自分が動いて相手を悦ばせ、自分が積極的に相手に随う様子である。
だから、随と名付けられた。
また交代生卦法によれば、元は天地否から来たものとする。
天地否の上九の爻が来たり下って初九となったのが、この沢雷随である。
これは、高く卦の極に居た一陽剛が、初九の最下の地に下って、他の五爻の下に随っている様子である。
だから、随と名付けられた。
また、上卦の兌は二陽の尊きをもって一陰の卑しきに下り随い、下卦の震は一陽の尊きをもって二陰の卑しきに下り随っている。
このように上下とも、陽をもって陰に下り随っているのがこの卦である。
だから、随と名付けられた。

卦辞
随、元亨、利貞、无咎、
随(ずい)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、

およそ天下万般のことは、人に随い従って行うときには、その事業は容易であり、容易であればこそ、成し遂げることができるものである。
だから、随うということを念頭に行えば、物事は元いに亨るのである。
そもそも人に随うときには、一にも二にも、正しくすることが大事であり、そのようであれば、咎められることはない。
これが、悪に随い、邪に随うようであれば、言わずもがな、大いに咎められるものである。
だから、貞しきに利ろし、咎无し、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
随、剛来、而下柔、動而説、随、
随(ずい)は、剛(ごう)来(き)たりて、而(しこう)して柔(じゅう)に下(くだ)る、動(うご)きて而(しこう)して説(よろこ)ぶは、随(ずい)なり、

大亨以正、故无咎、而天下随之、随之時義大矣哉、
大(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってす、故(ゆえ)に咎(とが)无(な)し、天下(てんか)之(これ)に随(したが)う、随之時義(ずいのときのぎ)大(だい)なる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢中有雷、随、君子以嚮晦入宴息、
沢(さわ)の中(なか)に雷(かみなり)が有(あ)るは、随(ずい)なり、君子(くんし)以(も)って晦(くら)きに嚮(むか)って入(い)りて宴息(えんそく)すべし、


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雷地予

16 雷地予(らいちよ)
raichi.gif 坤下震上(こんか しんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

予とは和順悦楽のこと。
この卦は、陽が九四のみで、他は陰である。
したがって、執政大臣の位である九四の一陽剛が、剛明の才徳を発揮し、よく国家を治め、他の五陰爻は陰であるがゆえに、九四に任せて和順悦楽している様子である。
だから予と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、元は地雷復から来たとする。
地雷復の時には、震雷が坤地の下にあったわけだが、今、予の時を得て、発し出でて地の上に奮う様子であり、その発するところは欝蟄の気を散じ、その志を達するものである。
欝蟄の気が散じ、志が達せられれば、喜びに溢れる。
だから予と名付けられた。

また、坤を従順とし、震を動くとすれば、順をもって動く様子である。
順をもって動くのは、天に在っては四時序を失わず、人に在っては動止和順ということになる。
だから予と名付けられた。

また、震を動くとして上卦にあり、坤を従順として下卦にあるわけだが、上が動いて下が順うのは、上の威令に下が和して順う様子である。
だから予と名付けられた。
また、震を春とし陽気とし動くとし、坤を地とすれば、春陽の気が地上に動くときには草木が発し生じるが、これは悦楽和順の景色である。
だから予と名付けられた。

卦辞
予、利建侯行師、
予(よ)は、侯(きみ)を建(た)て師(いくさ)を行(おこな)うに利(よろ)し、

震を侯とし建てるとし、坤を国とし民とし順うとすれば、侯を建て民衆が従い順う様子となる。
だから、侯を建てるに利ろし、という。
また、来往生卦法によれば、坤為地より来たものとする。
坤為地のときには、国土原野はあっても、これを治める人はいない。
そこに一陽剛がやって来て、内卦の外から往き進んで九四の位に至り、成卦の主爻、震の主爻として、上は六五の君に陰陽正しく比し、万国諸侯の頭となり、よく諸侯をまとめ、万民を安んじ、天下の上下をよく悦楽和順させているのが、この卦である。
だから、侯を建てるに利ろし、という。
また、地雷復の運移生卦法によれば、地雷復では地中で時を待っていた一陽剛が、今、予の時に応じで上り進んで九四の執政の位を得て生卦の主爻となったのが、この卦である。
だから、侯を建てるに利ろし、という。
また、坤を順、震を動とすれば、順をもっと動くわけだが、これは王者の仁義の師のことである。
六五柔中の仁君が安寧な世の中にしようとしても、中に不順の逆臣があり、国民を苛虐することもあるだろう。
そんなときは、止むを得ず九四の侯に命じ、天に代わって征伐の師を出だす必要もある。
九四は成卦の主であり、宰相、大将たる才能をもっている。
六五は君であっても柔中の身で、征伐などできないから、九四に師を任せ行うのである。
だから、師を行うに利ろし、という。

そこで、侯を建てるに利ろし、師を行うに利ろし、という二つの意をひとつにまとめ、侯を建て師を行うに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
予、剛応而志行、順以動予、
予は、剛(ごう)応(おう)じて而(しこう)して志(こころざし)行(おこな)わる、順(じゅん)にして以(も)って動(うご)くは予(よ)なり、

予順以動、故天地如之、而况建侯行師乎、天道虧盈、
予(よ)は順(じゅん)にして以(も)って動(うご)く、故(ゆえ)に天地(てんち)之(こ)の如(ごと)くなり、况(いわん)や侯(きみ)を建(た)て師(いくさ)を行(や)るがごときをや、

天地以順動、故日月不過而四時不忒、
天地(てんち)は順(じゅん)を以(も)って動(うご)く、故(ゆえ)に日月(ひづき)四時(しじ)忒(たがわ)ずして過(あやま)たず、

聖人以順動、則刑罰清而民服、予之時義、大矣哉、
聖人(せいじん)順(じゅん)を以(も)って動(うご)く、則(すなわ)ち刑罰(けいばつ)清(きよ)くして而(しこう)して民(たみ)服(ふく)す、予之時義(よのときのぎ)、大(だい)なる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
雷出地奮予、先王以作楽州崇徳殷薦之上帝、以配祖考、
雷(らい)地(ち)を出(い)で奮(ふる)うは予(よ)なり、先王(せんおう)以(も)って楽(がく)を作(な)して徳(とく)を崇(たか)くし之(これ)を上帝(じょうてい)に殷薦(いんせん)して、以(も)って祖考(そこう)に配(はい)す、


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地山謙

15 地山謙(ちざんけん)
chizan.gif 艮下坤上(ごんか こんじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、konchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

謙とは「へりくだる」という意。
易位生卦法をもってすると、山地剥から来た卦ということになる。
山地剥は、艮の山が坤の地の上に聳え立っているわけだが、その艮の山が、坤の地の下に謙って入たのが、この地山謙である。
これは、山の高きをもって地の低きに下る様子であって、尊きをもって卑しきに下るという意である。
だから謙と名付けられた。

また、内卦は艮にして止まり、外卦は坤にして柔順の意である。
これは、内なる私欲を自制し、外の人に従う者であり、これ即ち謙の道である。
だから謙と名付けられた。

また、九三の一陽爻が、他がすべて陰であるにもかかわらず、謙って下卦に止まり、上位を陰に譲ったまま、そこを出ようとしない様子である。
だから謙と名付けられた。

卦辞
謙、亨、君子有終吉、
謙(けん)は、亨(とお)る、君子(くんし)は、終(おわ)り有(あ)りて吉(きち)、

謙遜は徳の根本、礼節の基本である。
このようであれば、誰からも好感をもって迎えられる。
好感を持って迎えられれば、相手はこちらの言うことを聞いてくれる。
だから、謙は亨る、という。
君子ならば、この謙るということを常に心がけるべきであって、そうすれば、身を終えるまで、大した失敗もなく無事に過ごせるから吉である。
だから、君子は終わり有りて吉、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
謙亨、天道下済、而光明、地道卑、而上行、
謙(けん)は亨(とお)るとは、天道(てんどう)は下(した)を済(な)すをもって、而(しこう)して光明(こうみょう)、地道(ちどう)は卑(ひく)きをもって、而(しこう)して上(のぼ)り行(おこな)わる、

天道虧盈、而益謙、地道変盈、而流謙、
天道(てんどう)は盈(み)つるを虧(か)きて、而(しこう)して謙(へりくだ)るに益(ま)す、地道(ちどう)は盈(み)つるを変(へん)じて、而(しこう)して謙(へりくだ)るに流(なが)る、

鬼神害盈、而福謙、人道悪盈、而好謙、
鬼神(きしん)は盈(み)つるを害(がい)し、而(しこう)して謙(へりくだ)るに福(ふく)す、人道「じんどう)は盈(み)つるを悪(にく)んで、而(しこう)して謙(へりくだ)るを好(よ)くす、

謙尊而光、卑而不可踰、君子之終也、
謙(けん)は、尊(とうと)くして光(ひか)り、卑(ひく)くして踰(こ)ゆる不可(べからざ)るは、君子(くんし)之(の)終(おわ)りあるに也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
地中有山、謙、君子以裒多益寡、称物平施、
地中(ちちゅう)に山(やま)が有(あ)るは、謙(けん)なり、君子(くんし)以(も)って多(おお)きより裒(あつ)めへらし、寡(すくな)きに益(ま)し、物(もの)を称(はか)り施(ほどこ)しを平(たい)らかにす、


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火天大有

14 火天大有(かてんたいゆう)
katen.gif大有 乾下離上(けんか りじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、rika-n.gif離(り)を重ねた形。

大有とは、有(たも)つところが大なること言う。
一陰が六五の君位にあって、他の五陽爻を有っている様子。
だから大有と名付けられた。

およそ天地陰陽の道理は、陽を剛健強動とし、陰を柔順弱静とする。
したがって、陽をもって陰を有つことは容易く、陰をもって陽を有つことは難しい。
その難しいことができてしまっているのが、この卦である。
それは素晴しいことではあるが、同時にその状態を維持するには、それなりの方法が必要である。
だから、陰が陽を有つとして大有という卦名を立てているのである。

そもそも国を有つ者は、第一に威厳がなければいけない。
威厳がなければ令は行われず、民衆は服従しない。
そして、文明(聡明なこと)でなければ、邪な考えに惑わされる。
そして、柔中の仁徳をもって、臣の諫めを聞き入れることも大事である。
そして、決断力がなければ、賢者を見つけても登用することはできず、不肖者を見つけても退けることができない。
今、この卦は、乾を威厳とし決断とし、離を文明とし、さらには、六五柔中温良の得有ってよく諫めを聞き入れ、民衆を懐柔する様子となる。
だから大有と名付けられた。

六五の君位の爻は、陰だからこその陰柔暗弱の意があるのだが、同時に上卦離明の主爻にして、内卦に乾の威厳・決断がある。
これにより、暗弱な君とはせず、文明柔中の君とするのである。
文明柔中の君は、何を置いても第一に諫めをよく聞き入れるから、国を有つことができるのである。

また、離を太陽とし、乾を天とすれば、太陽が天上に在り、遍く万国を照らし、その有つところ大なるときである。
だから大有と名付けられた。

また、離明の徳があって、万事に迷うことなく、その行動は乾の健やかにして、怠惰になることはない、ということであって、このようであれば、何事でも大いに有つことになる。
だから大有と名付けられた。

卦辞
大有、元亨、
大(おお)いに有(たも)つならば、元(おお)いに亨(とお)る、

上に述べたような大いに有つ徳があれば、無理をせず、状況をきちんと把握し、天に応じ時に従って行動するので、どんな願いでも叶うもの。
だから、元いに亨る、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
大有、柔得尊位、大中、而上下応之曰大有、
大有(たいゆう)は、柔(じゅう)尊位(そんい)を得(え)て、大中(たいちゅう)して、而(しこう)して上下(じょうげ)之(これ)に応(おう)ずるを、大有(たいゆう)と曰(い)う、

其徳剛健而文明、応乎天、而時行、是以元亨、
其(そ)の徳(とく)は剛健(ごうけん)にして文明(ぶんめい)、天(てん)に応(おう)じ、時(とき)に行(おこな)う、是(これ)を以(も)って元(おお)いに亨(とお)る、


象伝(原文と書き下しのみ)
火在天上、大有、君子以遏悪揚善、順天休命、
火(ひ)が天上(てんじょう)に在(あ)るは、大有(たいゆう)なり、君子(くんし)以(も)って悪(あく)を遏(とど)め善(ぜん)を揚(あ)げ、天(てん)の休命(きゅうめい)に順(したが)う、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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天火同人

13 天火同人(てんかどうじん)
tenka.gif同人 離下乾上(りか けんじょう)

八卦のrika-n.gif離(り)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

同人とは、人と同じくする、といった意。
また、単に、同じ、という意でもある。
この卦は乾を天とし、離を火とすれば、天も火も、ともに上るという同じ性質を持っている。
だから同人と名付けられた。
また、乾を天とし、離を太陽とすれば、天に太陽があることは、万国どこでも同じであるとともに、天も太陽も同じように東から西へ動くものである。
だから同人と名付けられた。
また、太陽は天を離れないが、これも同じくしている、ということになる。
また、六二の一陰爻を他の五陽が同じように求めている様子でもある。
だから同人と名付けられた。

卦辞
同人於野、亨、利君子貞、利渉大川、
人(ひと)と同(おな)じくするに野(の)に於(お)いてすれば、亨(とお)る、君子(くんし)の貞(ただ)しきに利(よ)ろし、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、

野というのは郊外広遠の地のこと。
広く公明正大にして隠蔽偏私のないことの喩えである。
公明正大ならば、道に合い、その事を遂げ成すことも可能だが、私偏なることは道に背き、遂げ成すことは難しい。
なお且つ、私をもって同じくすることは、その事が狭く、公をもって同じくすることは、その事が広いものである。
だから、人と同じくするのに野に於いてすれば、亨る、という。

およそ天下の事、ひとりをもって成すのは難しい。
しかし、人と志を合わせて同じくするときには、その事を成功させられるものである。
そして、小人の正しからざる道に同じくすることを忌み憎み、君子の正しき道に同じくすることを求め好むことが大事である。
だから、君子の貞しきに利ろし、という。

また、大きな川の険難を舟で渉ることは、人命の大事に係わることにして、最も慎むべきことである。
人心和同しない時には、渉るべきではない。
だから、この人と同じくするという意の卦のこのときに、大川を渉るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
同人、柔得位得中、而応乎乾、曰同人、
同人(どうじん)は、柔(じゅう)位(くらい)を得(え)て中(ちゅう)を得(え)て、而(しこう)して乾(けん)に応(おう)ずるを、同人(どうじん)と曰(い)う、

同人於野亨、利渉大川、乾行也、
人(ひと)と同(おな)じくすること野(の)に於(お)いてすれば亨(とお)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、乾(つと)め行(おこな)へば也(なり)、

文明以健、中正而応、君子正也
文明(ぶんめい)にして以(も)って健(すこや)かなり、中正(ちゅうせい)にして而(しこう)して応(おう)ず、君子(くんし)の正(ただ)しき也(なり)、

唯君子為能通天下之志、
唯(ひと)り君子(くんし)のみ能(よ)く天下之志(てんかのこころざし)に通(つう)ずることを為(な)す、


象伝(原文と書き下しのみ)
天与火、同人、君子以類族弁物、
天(てん)と火(ひ)与(と)は、同人(どうじん)なり、君子(くんし)以(も)って族(ぞく)を類(るい)にして物(もの)を弁(わか)つ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。


☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
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天地否

12 天地否(てんちひ)
tenchi.gif 坤下乾上(こんか けんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

否とは閉塞否定といった意。
前卦地天泰とはまったく逆の形であり意味である。
この卦も地天泰同様、乾を天の気、坤を地の気とするが、上にある天の気が上昇、下にある地の気が下降だから、意味は逆になる。
要するに、陰陽の気が交わらないのだ。
陰陽の気が交わらなければ雨は降らず、草木百物は育たない。
このような状態を否塞という。
だから否と名付けられた。
また、上にある者がことさら上にあることを主張し、下にある者がことさら下にあることを主張し、上下が対立しているのだ。
君臣が心を一つにするのではなく、双方が共に相手の言い分を否定するだけで、決して譲り合わないのである。
だから否と名付けられた。
また、夫婦で言えば、乾の夫と坤の妻が、自己主張ばかりで相手の気持ちを汲もうとしない様子である。
夫婦が互いに相手を思いやり、心を通わせてこそ、結婚生活は上手く行き、子孫繁栄にも恵まれるというものだが、これではそういう明るい未来は否定され、離婚が待ち構えているだけである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤は柔弱、外卦の乾は剛健とすれば、優柔不断で自分自身の考えが曖昧なのに、物事はその場の思いつきで威圧的に決め付けてしまう様子である。
これでは何事も失敗するばかりである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤を小人、外卦の乾を君子とすれば、小人が国政を弄び、君子たる資質を備えた人間が外に左遷されている様子。
これでは必ずその国は傾き凋落する。
だから否と名付けられた。
また、十二消長で言えば、天風姤で生じた陰気が半分を占めるまでになったところである。
したがって、陽を君子の道、陰を小人の道とすれば、小人の道が幅を利かせ、君子の道が尊ばれなくなってきた様子。 これでは世の中は混迷する一方で、先行きは不透明である。
だから否と名付けられた。

卦辞
否、大往小来、不利君子貞、
否(ひ)は、大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(き)たる、君子(くんし)の貞(かた)くなしきに利ろしからず、

前卦地天泰とは逆に、こちらから出て行くのは大、入り来るのは小である。
十二消長で言えば、陽の大なる者が卦外へ行き、その数を減らし、陰の小なる者が卦内に来て、その数を増やしているときである。
だから、大往き小来たる、という。
大きく投資しても、儲けは少ない、という意味に取ってもよいだろう。
とにかく陰陽が交わらなければ、何も生まれないのだから、これは大凶である。
君子ならば、小人の道が盛んになろうとする兆しを見極め、原理原則に捉われず、小人から害されないように、時が過ぎるのを待つのが得策だろう。


彖伝(原文と書き下しのみ)
否、大往小来、不利君子貞、則是天地不交、而万物不通也、
否(たい)は、大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(きた)る、君子(くんし)の貞(かた)くなしきに利(よ)ろしからずとは、則(すなわ)ち是(これ)天地(てんち)が交(まじわ)らずして、而(しこう)して万物(ばんぶつ)が通(つう)ぜざれば也(なり)、

上下不交、而天下无道、
上下(じょうげ)交(まじわ)らず、而(しこう)して天下(てんか)に道(みち)无(な)き也(なり)、

内陰而外陽、内柔而外剛、内小人而外君子
内(うち)陰(いん)にして外(そと)陽(よう)なり、内(うち)柔(じゅう)かにして外(そと)剛(ごう)う、内(うち)小人(しょうじん)にして外(そと)君子(くんし)なり、

小人道長、君子道消也、
小人(しょうじん)の道(みち)は長(ちょう)じ、君子(くんし)の道(みち)は消(しょう)する也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天地不交、否、君子以倹徳辟難、不可栄以禄、
天地(てんち)が交(まじわ)ざるは、否(ひ)なり、君子(くんし)以(も)って徳(とく)を倹(つつまし)やかにし難(なや)みを辟(さ)け、栄(えい)するに禄(ろく)を以(も)って不可(すべからざ)るべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
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地天泰

11 地天泰(ちてんたい)
chiten.gif 乾下坤上(けんか こんじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、konchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

泰とは安泰といった意。
この卦は、乾坤の二卦を天地の実体として観るときには、天地が逆さまになっている様子だが、そんなことは現実には有り得ない。
したがって、乾を天の気、坤を地の気とし、天の気が下降し、地の気が上昇した様子とする。
天の気が下降し、地の気が上昇するとは、陰陽の二気が交わり和することである。
陰陽の二気が交わり和するというのは、自然界では雨が降ることであり、雨が降れば草木百物が生育する。 このようであれば、自然は安泰である。
だからこの卦は泰と名付けられた。
また、乾を君、地を臣とすれば、臣が君の心をよく知り、敬服して従い、君も臣の心をよく知り、信愛して任せている様子となるが、君臣の心が交わり和すれば国家も安泰である。
だから泰と名付けられた。
また、内卦の乾を健やかとし、外卦の坤を柔順とすれば、健やかさに判断し、物事に柔軟に対応している様子であり、このようであれば物事は安泰に進む。
だから泰と名付けられた。
また、内卦の乾を君子とし、外卦の坤を小人とすれば、君子が内に在って国政を執り、小人は外に在って国事に服し従う様子であり、このようであれば国家は安泰である。
だから泰と名付けられた。
また、十二消長で言えば、地雷復で生じた陽気が半分を占めるまでになったところである。
したがって、陽を君子の道、陰を小人の道とすれば、君子の道が小人の道を消滅させるだけの力を得た様子である。
君子の道を尊ぶ気風が小人の邪な道に流れる気風を凌ぐ力があれば、世の中は安泰である。
だから泰と名付けられた。
なお、この卦は、次の天地否と反対の卦なので、互いにその意味を照らし合わせてみると面白いだろう。

卦辞
泰、小往大来、吉亨、
泰(たい)は、小(しょう)往(ゆ)き大(だい)来(き)たる、吉(きち)にして亨(とお)る、

往くとは、こちらから行くことであって、来たるとは、向こうから来ることである。
小とは少ない、大とは大きいである。
十二消長で言えば、陰の小なる者が卦外へ行き、その数が減り、陽の大なる者が卦内に来て、その数が増えているときである。
だから、小往き大来たる、という。
少ない投資で大きく儲けられる、という意味に取ってもよいだろう。
陰陽が交わり和することは、この上なく喜ばしいことであり、そこからいろいろなものが生まれる。
お互いに相手の心を知り、相手と交わり和するのは、人間関係の基本でもある。
交わり和すれば、どのようなことも可能になる。
しかし、互いが我を張り合い、交わり和さなければ、どんなに頑張っても結局は不可能になってしまう。
だからこそ、この泰の心がけで物事をやれば、何事も吉にして亨るのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
泰、小往大来、吉亨、則是天地交而万物通也、
泰(たい)は、小(しょう)往(ゆ)き大(だい)来(きた)る、吉(きち)にして亨(とお)るとは、則(すなわ)ち天地(てんち)が交(まじわ)って而(しこう)して万物(ばんぶつ)通(つう)じる也(なり)

上下交、而其志同也、
上下(じょうげ)交(まじわ)って、而(しこう)して其(そ)の志(こころざし)同(おな)じき也(なり)、

内陽而外陰、内健而外順、内君子而外小人
内(うち)陽(よう)にして外(そと)陰(いん)なり、内(うち)健(すこや)かにして外(そと)順(したが)う、内(うち)君子(くんし)にして外(そと)小人(しょうじん)なり、

君子道長、小人道消也、
君子(くんし)の道(みち)は長(ちょう)じ、小人(しょうじん)の道(みち)は消(しょう)する也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天地交、泰、后以裁成天地之道、輔相、天地之義、以左右民、
天地(てんち)が交(まじわ)るは、泰(たい)なり、后(きみ)以(も)って天地之道(てんちのみち)を裁成(さいせい)し、天地之義(てんちのぎ)を輔相(ほそう)して、以(も)って民(たみ)を左右(さゆう)すべし、


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第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
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天沢履

10 天沢履(てんたくり)
tentaku.gif 兌下乾上(だか けんじょう)

八卦のsdataku-n.gif兌(だ)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

履は、履歴といった言葉があるように、履(ふ)む、履み行う、という意。
この卦は乾の剛健な者が前を進み行き、兌の至弱な者がその後より履行する様子である。
そもそも至弱な者の後を剛健な者が履行するのは容易いものである。
しかしこの卦は、それに反して、剛健な者の後を至弱な者が履行する様子となるわけだが、これは至って行い難いことである。
したがって、その行い難く為し難い道を戒めとして、卦名としたのである。
また、六三の一陰の柔弱な者が、五陽の剛健な者の中に混ざって、陽と同じように履み行なおうとしている様子。
これもまた、行い難いことである。
また、乾を天とし、兌を沢とすれば、この世の中に天より高いものはなく、沢より低いものもないのであって、乾の天を上卦に配し、兌の沢を下卦に配したこの卦は、上下分別明らかな様子である。
上下尊卑、その位に応じてそれぞれ正しいことをするのが礼であり、礼とは人が履み行うべきものである。
だからこの卦は履と名付けられた。

卦辞
履虎尾、不咥人、亨、
虎(とら)の尾(お)を履(ふ)む、人を咥(くら)わざるがごとくすれば、亨(とお)る、

虎は人をも咥う猛獣である。
したがって、虎の尾を履むとは、虎の後より履み行うことであって、危険で恐ろしいことの譬えである。
また虎は、乾の剛健なる者に譬えられる動物であるので、剛健なる者の後から履行することを意味している。
さて、虎に近づき、その尾を履めば、虎は怒り、人を咥いもする。
だからこそ、虎に近づかなければいけない今、下卦の兌としては、その特性を生かし、柔順和悦の道をもって、愛敬を込めて従容として仕えるのがよい。
そうしていれば、剛健である上に厳しい君(虎)だとしても、害を加えるのは忍びないとして、無事を保つことを得られるのである。
しかし、甘く見ると、この限りではない。
一にも二にも兌の和悦愛敬の道をもって、君に仕えなければいけない。
それが、人を咥わざるがごとくすれば亨る、ということである。

君というのはワンマンな上司だと考えれば、わかりやすいだろうか。
アタマに来ても、平身低頭してニコニコ愛敬をもってヨイショしないと、どこかへ飛ばされる、そんな状況を示しているのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
履、柔履剛也、
履(り)は、柔(じゅう)が剛(ごう)を履(ふ)みゆく也(なり)、

説而応乎乾、是以履虎尾不咥人、亨、
説(よろこ)んで而(しこう)して乾(けん)に応(おう)ず、是(これ)を以(も)って虎(とら)の尾(お)を履(ふ)めども、人(ひと)を咥(くら)わずして、亨(とお)るなり、

剛中正履帝位、而不疚、光明也、
剛中正(ごうちゅうせい)をもって帝位(ていい)を履(ふ)めども、而(しか)も疚(やま)しからざるは、光明(こうめい)なれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
上天下沢、履、君子以弁上下定民志、
天(てん)を上(上)にし沢(さわ)を下(した)にせるは、履(り)なり、君子(くんし)以(も)って上下(じょうげ)を弁(ことわけ)し、民(たみ)の志(こころざし)を定(さだ)むべし、


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風天小畜

09 風天小畜(ふうてんしょうちく)
fuuten.gif小畜 乾下巽上(けんか そんじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

小畜は、少し止まる、少し蓄える、という意。
小をもって大を止めるということではない。
そもそもこの卦は、巽の柔順微弱な者が、乾の剛健にして邁進する者を止める様子であるが、どうすれば、柔順微弱な下卦が剛健に邁進する上卦を止められようか。
目の前で行く手を邪魔しても、所詮は微弱なのだから、無理である。
とすると、ひたすら巽順しながら上卦をなだめ静めて、止まるようお願いするしかない。
しかしそれでは、少し止めることはできても、大きく止めることはできない。
だから、小畜と名付けられた。
また、乾を天とし、巽を風とすれば、巽風が乾天の上にあって、日月星が地に落ちないよう畜めている様子。
古は、天の上を吹く風により日月星は動き、地に落ちないのだと、考えていたらしい。
だから、小畜と名付けられた。
また、六四の一陰が宰相執政の位にあって、上下五陽の進むのを止める様子とすれば、次のように解釈できる。
宰相の任は、下は万民の罪悪に進むのを制し止め、上は君上の不善に進もうとするのを諫め止めるべきものである。
しかし、たった一人で億兆万民を制し、臣下をもって君上の過ちを諫めることは、いささか無理である。
少しは止めることはできても、大いに止めることは不可能である。
だから、小畜と名付けられた。

卦辞
小畜、亨、密雲不雨、自我西郊、
小畜は、亨(とお)る、密雲(みつうん)すれども不(いま)だ雨(あめ)ふらず、我(わ)が西郊(せいこう)よりす、

※ 不は未と同義。

小畜は止めるということだが、一陰の六四が心を尽くして五陽を止め得れば、陰陽の情は相和し、双方の思いは亨通する。
だから、小畜は亨る、という。
密雲とは、陰雲が隙間なく覆っている様子。
不雨は、まだ雨が降らない、ということ。
雨は陰陽の調和を意味する。
この卦は、巽陰卦が上にあり、乾陽の進むを止める様子だが、陰気が陽気を止めるというのは、陰が陽に対して何らかのアクションを起していることになる。
その陰が起すアクションを表現したのが密雲である。
陰のアクションを陽が受け入れれば、陰陽は調和し、密雲は雨となって降る。
しかし、陰の力は弱く、まだ陰陽は調和していない。
だから、密雲すれども不だ雨ふらず、という。
調和して雨が降るためには、陰の雲がさらに増える必要がある。
雲は、北半球では偏西風の関係で、西からやってくるものである。
だから、我が西郊よりす、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
小畜、柔得位、而上下応之、曰小畜、
小畜(しょうちく)は、柔(じゅう)位(くらい)を得(え)て、而(しこう)して上下(じょうげ)之(これ)に応(おう)ずるをもって小畜(しょうちく)と曰(い)う、

健而巽、剛中而志行、乃亨、
健(すこや)かにして巽(した)がい、剛中(ごうちゅう)にして而(しこう)して志(こころざ)し行(おこな)わる、乃(すなわ)ち亨(とお)るなり、

密雲不雨、施未行也、自我西郊、尚往也、
密雲(みつうん)すれども不(いま)だ雨(あめ)ふらずとは、施(ほどこ)し未(いま)だ行(おこな)われざるとなり、我(わ)が西郊(せいこう)自(より)すとは、往(な)すことあるを尚(たっと)べる也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
風行天上、小畜、君子懿文畜徳、
風(かぜ)が天上(てんじょう)を行(ゆ)くは、小畜(しょうちく)なり、君子(くんし)以(も)って、文(ぶん)を懿(うつく)しくし徳(とく)を畜(あつ)むべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。


☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

商品詳細を見る


ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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水地比

08 水地比(すいちひ)
suichi.gif 坤下坎上(こんか かんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、kansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

比は親しみ輔(たす)け合うという意。
この卦は、坎の水が坤の地の上にあるが、水が地の上にあるときは、水は地にしみ込み馴染み、その居所とし、水がしみ込んだ土は植物を育む。
これは、水と土が互いに輔け合い、親しんでいる様子である。
だから比と名付けられた。
また、九五の君位の一陽爻が五陰爻と親しみ、五陰爻はこの一陽の君に親しみ従う様子でもある。
だから比と名付けられた。

卦辞
比、吉、原筮、元永貞、无咎、不寧方来、後夫凶、
比は、吉(きち)なり、原(たず)ね筮(わか)って、元(おお)いに永(なが)く貞(つね)あれば、咎(とが)无(な)し、いまだ寧(やす)からざりしも方(まさ)に来(き)たらんとす、後(おく)れる夫(ひと)は凶(きょう)なり、

比は親したみ輔け合うことだが、このように接すればこそ、人間関係は円滑になるものである。
だから、比は吉なり、という。
原筮とは、根本を究め択び分ける、という意。
『論語』に「益者三友、損者三友」とあるように、世の中には親しむべき人と、親しむべきではない人がいる。
いつも、それをよく見極め、親しむべき人を択び分けて親しむように心がけていれば、困った人と係わり合いを持つこともなく、咎められることもないものである。
だから、原ね筮って元いに永く貞あれば咎无し、という。
そして、そういう人間関係を作っておけば、最初は遠巻きに見ていて邪な心を持った人たちも、やがては感化され、心を入れ変えて、こちらにし親しみを持ってやって来るものである。
だから、いまだ寧からざりしも方に来たらんとす、という。
しかし、みんながそうして親しみ和していても、ひとりだけ我を張り、ソッポを向いているといった人が、世の中にはいる。 そういう人は、結局は和に加われず孤独になるだけである。
だから、後れる夫は凶なり、という。
夫とは、一般的な人のこと。


彖伝(原文と書き下しのみ)
比、輔也、柔輔剛也、
比(ひ)は、輔(たす)ける也(なり)、柔(じゅう)が剛(ごう)を輔(たす)ける也(なり)、

比、吉、下順従也、原筮、元永貞、无咎、以剛中也、
比(ひ)は、吉(きち)なるなりとは、下(しも)順従(じゅんじゅう)する也(なり)、原(たづ)ね筮(わか)って、元(おお)いに永(なが)く貞(つね)あれば、咎(とが)无(な)しとは、剛中(ごうちゅう)なるを以(も)って也(なり)、

不寧方来、上下応也、後夫凶、其道窮也、
不(いま)だ寧(やす)からざると方(まさ)に来(き)たらんとすとは、上下(じょうげ)応(おう)じれば也(なり)、後(おく)るる夫(ひと)は凶(きょう)なりとは、其(そ)の道(みち)窮(きゅう)すれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
地上有水、比、先王以建万国親諸侯、
地上(ちじょう)に水(みず)が有(あ)るは、比(ひ)なり、先王(せんおう)以(も)って万国(ぱんこく)を建(た)て諸侯(しょこう)を親(した)しむ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、この08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、この08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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地水師

07 地水師(ちすいし)
chisui.gif 坎下坤上(かんか こんじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上にkonchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

師は、民衆の悩みを解決する戦争の指導者、という意であるとともに、衆兵が集まった軍事組織のことである。
また、二千五百人の部隊を師団というように、師には大勢=衆という意味もある。
この卦は、内卦の坎を悩みとし、外卦の坤を民衆とし従うとすれば、民衆の内に秘めた悩みの事に従う様子となる。
悩みの事に従うとは、武力行使も辞さないことすなわち戦争である。
戦争は為政者の欲望ではなく、このように民衆の悩みを解決する目的で行われるべきものである。
指導者=師はそのことを肝に銘じなければならない。
だから、師と名付けられた。
また、六五の君と九二の臣は陰陽よく応じているが、これは君が能ある臣に委ね任して、指導者=師とする様子である。
だから師と名付けられた。
また、上爻を先頭、初爻を最後尾とすれば、九二の一陽の指導者を他の五陰の衆兵が守りながら、正しく隊列を組んでいる様子である。
だから師と名付けられた。
また、坤を地として坎を水とすれば、水が地中に群がり集まること衆多な様子だが、師団という言葉があるように、師は衆多な集まりのことでもある。
だから師と名付けられた。
また、坎を謀略とし隠すとし、坤を平静とすれば、平静に装いつつ、内には謀略を隠している様子。
仲間同志で謀略を計るのはよくないが、戦時下で敵に対して謀略を計ることは、重要である。
だから師と名付けられた。

卦辞
師、貞、大人吉、无咎、
師は、貞(ただ)しかるべし、大人(たいじん)を用いれば吉(きち)、咎(とが)无(な)し、

武力衝突は、例え勝ったとしても、こちらにも損害が出る。
多くの者が死ぬ。
だからこそ、安易に戦争を仕掛けてはいけない。
しかし、相手が話してわからないのであれば、止むを得ず戦わなければいけない場合もある。
状況を貞しく見極めて決断することが必要である。
だから、師は貞しかるべし、という。

そのためには、指揮官は有能であり人間的にも優れた者=大人でなければいけないし、
そういう人物を指揮官にすれば、衆兵も命を預けて必死に戦い、必ずや勝利を導く。
多くの戦死者を出したとしても、その遺族たちにもなんとか我慢してもらえる。
だから、大人を用いれば吉、咎无し、という。
ただし、あくまでも戦争に勝ってこそ、どうにか、咎められることはない、ということである。
勝ち目のない戦いは、大人を用いても凶であり、負けて大いに咎められるものである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
師、衆也、貞正也、
師(し)は、衆(もろもろ)なると也(なり)、貞(ただ)しくしてとは正(ただ)しかるべしと也(なり)、

能以衆正、可王矣、
能(よ)く衆(もろもろ)を以(ひき)いて正(ただ)しくは、王(おう)たるを以(も)って可(すべ)し、

剛中而応、行険而順、
剛中(ごうちゅう)にして而(しこう)して応(おう)あり、険(なや)みを行(おこな)えども而(しか)も順(じゅん)なり、

以此*毒天下、而民従之、吉、又何咎矣、
*毒は、正しくは生の下に母がある字で、意味は毒とは大きく異なる「篤く育てる」ということ。
この字(図形として作成)→atsukusodateru.gif
しかし、JIS企画にもユニコードにもないので、意味は大きく異なるが、*毒で代用しておく。
此(こ)れを以(も)って天下(てんか)を*毒(あつくそだ)つ、而(しこう)して民(たみ)之(これ)に従(したが)えり、吉(きち)なり、又(また)何(なに)の咎(とが)かあらん、


象伝(原文と書き下しのみ)
地中有水、師、君子以容民畜、
地中(ちちゅう)に水(みず)が有(あ)るは、師(し)なり、君子(くんし)以(も)って民(たみ)を容(い)れ畜(あつめやしな)う、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
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