
04山水蒙 爻辞
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○
初六、発蒙、利用刑人、用説桎梏、以往吝、
初六(しょりく)、蒙(もう)を発(ひら)くべし、用(もち)いて人(ひと)を刑(けい)し、用(もち)いて桎梏(しっこく)を説(ぬきとか)しむるにに利(よ)ろし、以(もっ)て往(な)すは吝(はずか)し、
初六は陰柔不才、不中不正であり、なおかつ六爻の最下に居て、さらには下卦坎の険難の底に陥り、その身は艱難困窮の爻とする。
およそ無知蒙昧な者は、その志行が不中不正にして、己の身に険難困窮が迫る時には得てして罪咎を犯すものである。
この初六は、まさにそういう者である。
そこでこの爻辞は、その無知蒙昧な者が険難に困苦して罪を犯したときの、改心させる道を説くのである。
人が罪過を犯すのは、その人の心が垢や汚れで陰暗になることによる。
心が陰暗であれば、物事を明らかに把握できず、善悪の区別がつかず、まるで子供のような無知蒙昧な状態になってしまう。
だからまず、蒙を発くべし、という。
蒙を発くとは、蒙昧な者を啓蒙して明らかになるよう指導することである。
しかし、無知蒙昧な者に対しては、犯した罪の善悪を言葉で教え諭すだけでは、理解されない。
子供に善悪を教えるときには「おしおき」が必要なように、ある程度の刑罰が必要である。
手枷足枷すなわち桎梏で自由を奪い、反省させるのである。
ただし、そうして拘束され、罪を悔やみ、自ら反省する善心が萌芽した時には、速やかにその桎梏を外して自由にするべきである。
だから、用いて人を刑し、用いて桎梏を説(ぬきとか)しむるに利ろし、という。
ところが、反省してもさらに刑を与え続けたままでいると、その罪人は罪を悔やむどころか、却って反抗心を強くし、将来、大悪の魁首ともなる可能性が出てくる。
これは、刑罰を与える者として、最も恥ずべきことである。
心から反省しても、刑罰をそのまま続けるのは、イジメである。
だから、以って往(な)すは吝(はずか)し、という。
往すとは、反省しても刑を与え続けることを言う。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━
九二、包蒙吉、納婦吉、子克家、
九二(きゅうじ)、蒙(もう)を包(か)ぬ吉(きち)、婦(ふ)を納(い)る吉(きち)、子(こ)家(いえ)を克(よくおさ)む、
九二は臣の位置であり、この九二の臣は剛中の才徳が有り、六五柔中の君に応じ、天下群陰の蒙昧を包容して、よく治める者である。
だから、蒙を包ぬ吉、という。
これは、君上がよく大臣に委ね任して国家を治めている様子である。
また、九二を妻の位置とすれば、その妻が剛中の貞徳を以って六五の夫に仕え、群陰の侍女を統帥して、その家政を斉えている様子である。
これは理想的な妻であり、こういう女性を娶るのがよい。
だから、婦を納る吉、という。
婦を納るとは、女性を娶ることである。
また、九二を子の位置とすれば、この子が剛中の才徳を以って六五の父に仕えて、よく家業を継ぎ治めている様子である。
だから、子、家を克(よくおさ)む、という。
爻は、二を臣とすれば五を君とし、二を妻とすれば五を夫とし、二を子とすれば五を父母とするのである。
この三義をひとつの文章にまとめたのが、この爻辞である。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━
六三、勿用取女、見金夫、不有躬、无攸利、
六三(りくさん)、女(おんな)取(めと)るに用(もち)いる勿(なか)れ、金夫(きんぷ)を見(み)れば、躬(み)を有(たも)たず、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、
六三は陰柔不才、不中不正の志行の爻である。
これは、女子であれば不貞節であり、娶るべきではない者である。
だから、女取るに用いる勿れ、という。
六三は上九に応じ、九二に比している。
応は遠くにいる正式な夫、比は言うなれば近くにいる不倫相手である。
この六三の女子は、不中不正であるために、近くにカッコイイ男性を見つけると、すぐチョッカイを出し、遠くにいる夫を蔑ろにする傾向がある。
だから、金夫を見れば、躬を有(たも)たず、という。
金夫とは九二を指す。
才徳がある陽爻だから、金と形容しているのである。
ともあれ、すぐに近くの男性と不倫するような女性を妻とするのは、よいこととは言えない。
だから、利ろしき攸无し、という。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六四、困蒙、吝、
六四(りくし)、蒙(もう)に困(くる)しむ、吝(はずか)し、
六四は陰柔不才にして、なおかつ応も比もない。
これは、性質が暗昧惰弱の者にして、賢師範も良友もいない様子である。
応がないことは賢師範がいないこと、比がないことは良友がいないことである。
したがって、生涯その蒙を発(ひら)くことはなく、困窮し、恥辱に耐えながら暮らすしかない。
だから、蒙に困しむ、吝し、という。
上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六五、童蒙、吉、
六五(りくご)、童蒙(どうもう)のごとくならば、吉(きち)
六五は柔中の徳が有り、九二に応じ、上九に比している。
その九二は賢明剛中の才徳が有り、成卦の主爻であって、よく六五の君を補佐する賢臣である。
また、上九は剛明の才徳が有り、王者の師の位置に居て、よく六五の君を教導輔弼する者である。
したがって六五の君は、自身が陰柔であることを弁え、富貴栄誉を欲することなく、謙虚に六二の賢臣に委ね任せ、上九の賢師の助言に降り服し、その純心精一なることが、童子のように天真自然であれば、吉である。
だから、童蒙のごとくならば吉、という。
上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上九、撃蒙、不利為寇、利禦寇、
上九(じょうきゅう)、蒙(もう)を撃(う)、寇(あだ)と為(な)さしむるに利(よ)ろしからず、寇(あだ)を禦(ふせ)ぐに利(よ)ろし、
この卦は四陰二陽にして、四陰はすべて蒙昧な者である。
二陽は共に剛明にして、よく蒙を発(ひら)く者である。
ことに九二の爻は、剛中の徳が有るので、その寛容と厳格の度合いも丁度よい者である。
これに対して上九は、剛明の才力有れども卦の極に居り、かつ不中不正である。
したがって、厳格に過ぎる傾向にある。
だから、蒙を撃つ、という。
蒙昧な者に教え諭すのではなく、敵を撃つかのような言行になってしまいがちだ、ということである。
初九の蒙を発くの「発」、九二の蒙を包ぬの「包」の字と比較すれば、「撃」の過激さはわかるだろう。
そもそも人に何かを教える師としての道は、厳律を主とするものではあるが、厳刻に過ぎると、教えられる者は僻んで愛し慕う純心さを失うだけではなく、その厳刻さを避け逃れようとして、遂には欺き偽りを生じ、寇仇のような反抗心を醸すに至るものである。
これは、その師たる者の寛容と厳格との中を得ない過失である。
例え、教え導くのに手間取ったとしても、師弟が寇仇のようになることはよくない。
だから、寇と為さしむるに利ろしからず、という。
これは要するに、師範たる者の過失がないようにと、予め戒めているのである。
師の道の大切なことは、童蒙の暗昧なる者から旧染の悪習弊風を除き去り、これより以後の外誘の邪蕩陰佚を防ぎ止めて、日々に善に遷らせることに在る。
だから、寇を禦ぐに利ろし、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○
初六、発蒙、利用刑人、用説桎梏、以往吝、
初六(しょりく)、蒙(もう)を発(ひら)くべし、用(もち)いて人(ひと)を刑(けい)し、用(もち)いて桎梏(しっこく)を説(ぬきとか)しむるにに利(よ)ろし、以(もっ)て往(な)すは吝(はずか)し、
初六は陰柔不才、不中不正であり、なおかつ六爻の最下に居て、さらには下卦坎の険難の底に陥り、その身は艱難困窮の爻とする。
およそ無知蒙昧な者は、その志行が不中不正にして、己の身に険難困窮が迫る時には得てして罪咎を犯すものである。
この初六は、まさにそういう者である。
そこでこの爻辞は、その無知蒙昧な者が険難に困苦して罪を犯したときの、改心させる道を説くのである。
人が罪過を犯すのは、その人の心が垢や汚れで陰暗になることによる。
心が陰暗であれば、物事を明らかに把握できず、善悪の区別がつかず、まるで子供のような無知蒙昧な状態になってしまう。
だからまず、蒙を発くべし、という。
蒙を発くとは、蒙昧な者を啓蒙して明らかになるよう指導することである。
しかし、無知蒙昧な者に対しては、犯した罪の善悪を言葉で教え諭すだけでは、理解されない。
子供に善悪を教えるときには「おしおき」が必要なように、ある程度の刑罰が必要である。
手枷足枷すなわち桎梏で自由を奪い、反省させるのである。
ただし、そうして拘束され、罪を悔やみ、自ら反省する善心が萌芽した時には、速やかにその桎梏を外して自由にするべきである。
だから、用いて人を刑し、用いて桎梏を説(ぬきとか)しむるに利ろし、という。
ところが、反省してもさらに刑を与え続けたままでいると、その罪人は罪を悔やむどころか、却って反抗心を強くし、将来、大悪の魁首ともなる可能性が出てくる。
これは、刑罰を与える者として、最も恥ずべきことである。
心から反省しても、刑罰をそのまま続けるのは、イジメである。
だから、以って往(な)すは吝(はずか)し、という。
往すとは、反省しても刑を与え続けることを言う。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━
九二、包蒙吉、納婦吉、子克家、
九二(きゅうじ)、蒙(もう)を包(か)ぬ吉(きち)、婦(ふ)を納(い)る吉(きち)、子(こ)家(いえ)を克(よくおさ)む、
九二は臣の位置であり、この九二の臣は剛中の才徳が有り、六五柔中の君に応じ、天下群陰の蒙昧を包容して、よく治める者である。
だから、蒙を包ぬ吉、という。
これは、君上がよく大臣に委ね任して国家を治めている様子である。
また、九二を妻の位置とすれば、その妻が剛中の貞徳を以って六五の夫に仕え、群陰の侍女を統帥して、その家政を斉えている様子である。
これは理想的な妻であり、こういう女性を娶るのがよい。
だから、婦を納る吉、という。
婦を納るとは、女性を娶ることである。
また、九二を子の位置とすれば、この子が剛中の才徳を以って六五の父に仕えて、よく家業を継ぎ治めている様子である。
だから、子、家を克(よくおさ)む、という。
爻は、二を臣とすれば五を君とし、二を妻とすれば五を夫とし、二を子とすれば五を父母とするのである。
この三義をひとつの文章にまとめたのが、この爻辞である。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━
六三、勿用取女、見金夫、不有躬、无攸利、
六三(りくさん)、女(おんな)取(めと)るに用(もち)いる勿(なか)れ、金夫(きんぷ)を見(み)れば、躬(み)を有(たも)たず、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、
六三は陰柔不才、不中不正の志行の爻である。
これは、女子であれば不貞節であり、娶るべきではない者である。
だから、女取るに用いる勿れ、という。
六三は上九に応じ、九二に比している。
応は遠くにいる正式な夫、比は言うなれば近くにいる不倫相手である。
この六三の女子は、不中不正であるために、近くにカッコイイ男性を見つけると、すぐチョッカイを出し、遠くにいる夫を蔑ろにする傾向がある。
だから、金夫を見れば、躬を有(たも)たず、という。
金夫とは九二を指す。
才徳がある陽爻だから、金と形容しているのである。
ともあれ、すぐに近くの男性と不倫するような女性を妻とするのは、よいこととは言えない。
だから、利ろしき攸无し、という。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六四、困蒙、吝、
六四(りくし)、蒙(もう)に困(くる)しむ、吝(はずか)し、
六四は陰柔不才にして、なおかつ応も比もない。
これは、性質が暗昧惰弱の者にして、賢師範も良友もいない様子である。
応がないことは賢師範がいないこと、比がないことは良友がいないことである。
したがって、生涯その蒙を発(ひら)くことはなく、困窮し、恥辱に耐えながら暮らすしかない。
だから、蒙に困しむ、吝し、という。
上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六五、童蒙、吉、
六五(りくご)、童蒙(どうもう)のごとくならば、吉(きち)
六五は柔中の徳が有り、九二に応じ、上九に比している。
その九二は賢明剛中の才徳が有り、成卦の主爻であって、よく六五の君を補佐する賢臣である。
また、上九は剛明の才徳が有り、王者の師の位置に居て、よく六五の君を教導輔弼する者である。
したがって六五の君は、自身が陰柔であることを弁え、富貴栄誉を欲することなく、謙虚に六二の賢臣に委ね任せ、上九の賢師の助言に降り服し、その純心精一なることが、童子のように天真自然であれば、吉である。
だから、童蒙のごとくならば吉、という。
上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上九、撃蒙、不利為寇、利禦寇、
上九(じょうきゅう)、蒙(もう)を撃(う)、寇(あだ)と為(な)さしむるに利(よ)ろしからず、寇(あだ)を禦(ふせ)ぐに利(よ)ろし、
この卦は四陰二陽にして、四陰はすべて蒙昧な者である。
二陽は共に剛明にして、よく蒙を発(ひら)く者である。
ことに九二の爻は、剛中の徳が有るので、その寛容と厳格の度合いも丁度よい者である。
これに対して上九は、剛明の才力有れども卦の極に居り、かつ不中不正である。
したがって、厳格に過ぎる傾向にある。
だから、蒙を撃つ、という。
蒙昧な者に教え諭すのではなく、敵を撃つかのような言行になってしまいがちだ、ということである。
初九の蒙を発くの「発」、九二の蒙を包ぬの「包」の字と比較すれば、「撃」の過激さはわかるだろう。
そもそも人に何かを教える師としての道は、厳律を主とするものではあるが、厳刻に過ぎると、教えられる者は僻んで愛し慕う純心さを失うだけではなく、その厳刻さを避け逃れようとして、遂には欺き偽りを生じ、寇仇のような反抗心を醸すに至るものである。
これは、その師たる者の寛容と厳格との中を得ない過失である。
例え、教え導くのに手間取ったとしても、師弟が寇仇のようになることはよくない。
だから、寇と為さしむるに利ろしからず、という。
これは要するに、師範たる者の過失がないようにと、予め戒めているのである。
師の道の大切なことは、童蒙の暗昧なる者から旧染の悪習弊風を除き去り、これより以後の外誘の邪蕩陰佚を防ぎ止めて、日々に善に遷らせることに在る。
だから、寇を禦ぐに利ろし、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


