
03水雷屯 爻辞
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○
初九、盤桓、利居貞、利建侯、
初九(しょきゅう)、盤桓(はんかん)たり、貞(つね)に居(お)るに利(よ)ろし、建(た)ちて侯(きみ)たるに利(よ)ろし、
盤桓とは、進もうとして進み難く、立ち尽くす様子。
貞は貞常の意。
この初九の爻は、屯難のときに当たって、内卦震の動くの卦の主爻である。
しかし妄りに動き進むと、六四の坎の険難の穴に陥る。
震の主爻としての性により、進もうとするが、上卦に坎の険難が有って、進み難いのである。
妄りに応じ往くときには、必ずその険難に陥る。
だから、盤桓として、立ち尽くすのである。
確かに、初九と六四は応じているが、この場合は、相助けるのではなく、却って傷害する者なのである。
これを害応と称す。
害応とは、応じてはいるが、通常の応とは逆に、助け合わず、却って敵対する者同士のことを言う。
この卦の初九と六四とは、その害応なので、初九は貞常(つね)を守り、妄りに動かないことを宜しいとする。
だから、貞に居るに利ろし、という。
そもそもこの初九は成卦の主爻であり、陽剛の才能力量があり、それでも衆陰爻の最下に居る。
これは謙遜の道を用いて、よく民の心を掴んでいるからである。
まして、震の主にして正位を得ていのだから、よく世間の屯難を解消し、天下を救う才徳力量ある豪傑の爻である。
したがって、六五の君から、礼を以って優待され、諸侯として封ぜられるようならば、辞し拒むことなく、建って侯となるべきである。
だから、建ちて侯たるに利ろし、という。
なお、卦辞には、九五の君の立場で、初九を取り立てて侯とするべきだとして、侯を建てるに利ろし、とあるが、初九はその取り立てられる侯なので、その侯の立場で、建ちて侯たるに利ろし、というのである。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━
六二、屯如邅如、乗馬班如、匪寇婚媾、女子貞不字、十年乃字、
六二(りくじ)、屯如(ちゅんじょ)たり邅如(てんじょ)たり、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、寇(あだ)するに匪(あら)ず婚媾(こんこう)せんとす、女子(じょし)貞(ただ)しくして字(あざな)せず、十年(じゅうねん)にして乃(すなわ)ち字(あざな)ゆるす、
屯如とは、屯難のとき、進み難きとき、といった意である。
邅如とは、同じ場所をぐるぐる回る、といった意である。
班如とは、進もうとしつつ退こうとする優柔不断な様子である。
さて、この六二の爻は、臣の位に居て、九五に応じてはいる。
としても、元来が陰柔不才にして、天下の屯難を解消して、九五の坎の険難の主を救うほどの能力はない。
これでは、臣としての指針を提案することはできない。
そこで、陰爻であることから女子として、爻の意義を解説する。
六二を女子とするときには、中正を得ているので貞正な女子とする。
既に九五正応の夫は有るが、屯難のときなので、往ってその世話に従事することはできない。
夫を慕う情から、進み従いたいと思い願っても、屯難の障壁があって行けない。
だから、屯如たり?如たり、という。
だとしても、その進み行きたい思いは、急迫であり、馬に乗って駆けて行きたい、とも考える。
しかし、屯難のときにして、往くことは無理である。
でも、きっぱりと往くのを諦めることもできない。
だから、馬に乗りて班如たり、という。
このとき、初九の男子が、比爻であることを以って、六二を娶って配偶にしようと言い寄って来る。
しかし初九の思いとは裏腹に、六二の女子は中正の徳が有るので、その節操を正しくして、初九の求めに応じず、却って初九を忌み避けること、寇仇のように思う。
初九は寇として害を加えようとしているのではなく、単に婚媾を求めているだけである。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
不貞節の女子ならば、得てして近くの男子に靡きやすく、遠い男子は忘れてしまいがちである。
遠距離恋愛でも、同様だろう。
六二は中正の徳が有るからこそ、初九の比爻を忌み避けて、専らに九五の正応を待つのであって、これは、その貞操の堅く正しいからこそのことである。
だから、女子貞(ただ)しくして字(あざな)せず、という。
字せずとは、嫁入りを承諾しない、ということである。
古代中国の女子は、嫁入りのときに、新たな名前を付け、それを字(あざな)と呼んだ。
ちなみに男子は、一人前になると、字を名乗った。
十年にして乃ち字ゆるす、というのは、屯難の障害が解けるのを待って、正応の九五に嫁ぐ、ということである。
そもそも数は一に始まり十に終わる。
したがって、十年とは数の極を用いた喩えであって、ある期間が過ぎることを示す。
ある期間とは、乃ち屯難の障害が解けるまで、ということである。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━
六三、即鹿、无虞、惟入于林中、君子幾、不如舎、往吝、
六三(りくさん)、鹿(しか)に即(つ)き、虞(ぐ)无(な)し、惟(ひとり)林中(りんちゅう)に入(い)る、君子(くんし)は幾(きざし)をみる、舎(やむる)に如かず、往(ゆ)くは吝(はずか)し、
六三は屯難のときに当たって、その身は陰柔不才にして、その志と行いとは不中不正であり、なおかつ内卦の極に居る。 これは人位改革の危地にして、僅かに一歩進めば忽ち外卦坎険の中に陥るのである。
とすると、日夜に戦々兢々と惧れ慎むべきではあるが、内卦震の動き進むという卦の極に居るので、妄りに進み動いて止まらない性情がある。
しかも、応爻比爻の援助もない。
したがって、己の利欲のみで、危うき地をも省みず、妄りに動き進むだけで、己を諭し導き教える賢師範や善い朋友もいないのである。
とすれば、終には罪咎に陥り、身を滅ぼし、家を喪うに至るというものである。
だからこれを、鹿を追う者が、地元の案内人も無いのに、自己判断で危うき地をも省みずに林中に入り、鹿を獲ることだけに気を取られ、いつしか険難に陥る、ということに喩える。
鹿に即き、虞无し、惟林中に入る、とは、地元の案内人もいないのに、鹿を見つけたので、とにかく獲ようとして、そのまま道も分らない林中へついて行く、ということである。
鹿を追うには、その土地に詳しい人の案内がなければ危険である。
林の中に入れば、道に迷うこともあるし、崖から転落することもあるだろう。
虞とは、地元の案内人のことである。
この六三は内卦の震の極であるが、同時に三爻~五爻に至る倒震の極でもある。
倒震とは、震を逆にした形、要するに艮のことである。
八卦の震は、木とし、繁るとする卦である。
内卦震の極であり三~五の倒震の極でもある六三は、震の木々が繁る中に当たる。
また、三~五の艮の最下とすれば、山の麓の木々が繁るところである。
だから、惟(ひとり)林中に入る、という。
さて、鹿を追って勝手にひとりで林中に入るのは、言うなれば愚か者である。
君子ならば、冷静に状況を察知し、止めるのが一番だと考え、引き返すものである。
このように、この爻に遇う人は、決して財禄利欲を遂げ得ることは不可能であるのは勿論だが、だからこそこのまま進めば己の身を害する可能性を察知して、速やかに改め、退き守るべきなのである。
もしも舎(や)めずに欲を遂げようとし続ければ、愚か者と辱められ、吝かしきに至る。
だから、君子は幾を見る、舎むるに如かず、往くは吝し、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
六四、乗馬班如、求婚媾、往吉、无不利、
六四(りくし)、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、婚媾(こんこう)を求(もと)めらるれば、往(ゆ)きて吉(きち)、利(よ)ろしからざる无(な)し、
六四は陰柔不才である。
これでは、坎の険難に陥っている君を救い天下の屯難を解き済(すく)うことが不可能なのは勿論である。
が、さらには、自身の屯(なや)みの解決を、格下の初九の応爻に求める者である。
これでは、執政大臣の位置だとしても、股肱の大臣とは言えない。
そこで、六二のように、陰爻であることから女子のこととして、爻の意義を解説する。
六四を女子とするときには、柔正を得ているので、貞静の女子とする。
六二は屯如?如・・・等と、困難辛苦の様子であるが、この六四の爻の辞には、難みの言葉は少ない。
この異同軽重の違いは、次のようなことである。
六二は初九の剛に乗っていて、屯難の時の初めに居る。
これは、これからの難(なや)みが最も深い様子である。
六四は九五の剛に承(う)けているとしても、屯難の世は、早くも内卦を経て半ばは過ぎ去っているので、これからの難みは軽く浅い。
だから六四の辞には、深刻さが薄いのである。
そもそも、承けると乗るとでは、乗るの難みの方が甚だしいのである。
とは言っても、屯難のときではあるので、六四の陰爻はその応爻の助けを求めることが、至って急切である。
これは六二が九五に往こうと欲するのと同じである。
だから、馬に乗りて班如たり、という。
しかし、六四は屯難の時も半ばを過ぎている。
六二のように十年待つといったようなことはない。
したがって、初九の正応より親しく婚媾を求められたら、往って嫁いで吉なのである。
だから、婚媾を求めらるれば往きて吉、という。
さて、六二の正応の夫九五は、外卦坎の険難の主爻であって、ここへ往くのは、わざわざ険難の中に飛び込むことである。
だから、十年でも険難が解消するのを待ってから往けという。
これに対し、六四の正応の夫初九は、内卦震の「為ること有る」という意を持つ卦の主爻であって、ここへ行くのは、険難からの脱出でもある。
険難から脱出し、「為ること有る」という前向きな意を持つ卦のところへ往って嫁ぐのに、何の悪いことがあるだろうか。
だから、利ろしからざる无し、という。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
九五、屯其膏、小貞吉、大貞凶、
九五(きゅうご)、其(そ)の膏(こう)に屯(なや)む、小(しょう)には貞(ただ)しくして吉、大(だい)には貞(かた)くするは凶(きょう)なり、
九五は君位に居る。
一方では初九の成卦の主爻が、内卦震の為ること有るの主爻にして、下に在って大いに勢いを得て、六二はこれに比し、六四はこれに応じている。
したがって、天下の勢いは二分されている。
しかし九五の君は、坎の険難の中に陥って、屯難甚だしく、この情勢を打開する術はなく、膏を民に施すことができない。 膏とは、恩恵のことである。
そもそもこの爻に膏のことを言うのは、この卦が雷雨の盈満する様子を具えるとともに、この爻が坎水の主爻であって、坎水は天が地に施す恩恵であるところの雨である。
だから、其の膏に屯む、という。
さて、今は屯難のときだが、それでも日常の小さな事ならば、貞正を守っていれば、通じて吉である。
だから、小事には吉、という。
としても、道が開けるといった意ではない。
困ったときは平常心を失いやすいものなので、日常のことまで狼狽して上ずらないようにとの戒めも込められている。
日常のことがなんとかなるとしても、君主としては、屯難をそのままにしてはおけない。
抜本的に対策を講じようと考えることもあるだろう。
しかし、賊を討ち、乱を鎮圧し、天下の屯難を解き済(すく)うような一大事に臨んでは、時宜に通ぜず、権変に達せず、貞固となり、徒に旧例先格に固執してしまうと、却って大いに事を誤ってしまう。
だから、大事には貞くするは凶、という。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
上六、乗馬班如、泣血漣如、
上六(じょうりく)、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、血(ち)に泣(な)くこと漣如(れんじょ)たり、
上六は、坎の険難の卦の極に居るが、ここはまた、全体の極でもある。
しかも、己が身は陰柔不才にして、応援もなく、また、九五の陽剛に乗っている。
これは屯難の至極な者である。
したがって、その屯難に苦しみ救いを求めることを急ぐ様子は、馬に乗って駆けて行くが如くである。
しかし、応の助けを求めるべきところはないので、進退決意できない。
だから、馬に乗って班如たり、という。
漣如とは、涙が連なって落ち続ける様子である。
血に泣くとは、憂患困苦が甚だしく、血の涙を流すほどであることであって、険難の至極を示す。
だから、血に泣くこと漣如たり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初九━━━○
初九、盤桓、利居貞、利建侯、
初九(しょきゅう)、盤桓(はんかん)たり、貞(つね)に居(お)るに利(よ)ろし、建(た)ちて侯(きみ)たるに利(よ)ろし、
盤桓とは、進もうとして進み難く、立ち尽くす様子。
貞は貞常の意。
この初九の爻は、屯難のときに当たって、内卦震の動くの卦の主爻である。
しかし妄りに動き進むと、六四の坎の険難の穴に陥る。
震の主爻としての性により、進もうとするが、上卦に坎の険難が有って、進み難いのである。
妄りに応じ往くときには、必ずその険難に陥る。
だから、盤桓として、立ち尽くすのである。
確かに、初九と六四は応じているが、この場合は、相助けるのではなく、却って傷害する者なのである。
これを害応と称す。
害応とは、応じてはいるが、通常の応とは逆に、助け合わず、却って敵対する者同士のことを言う。
この卦の初九と六四とは、その害応なので、初九は貞常(つね)を守り、妄りに動かないことを宜しいとする。
だから、貞に居るに利ろし、という。
そもそもこの初九は成卦の主爻であり、陽剛の才能力量があり、それでも衆陰爻の最下に居る。
これは謙遜の道を用いて、よく民の心を掴んでいるからである。
まして、震の主にして正位を得ていのだから、よく世間の屯難を解消し、天下を救う才徳力量ある豪傑の爻である。
したがって、六五の君から、礼を以って優待され、諸侯として封ぜられるようならば、辞し拒むことなく、建って侯となるべきである。
だから、建ちて侯たるに利ろし、という。
なお、卦辞には、九五の君の立場で、初九を取り立てて侯とするべきだとして、侯を建てるに利ろし、とあるが、初九はその取り立てられる侯なので、その侯の立場で、建ちて侯たるに利ろし、というのである。
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初九━━━
六二、屯如邅如、乗馬班如、匪寇婚媾、女子貞不字、十年乃字、
六二(りくじ)、屯如(ちゅんじょ)たり邅如(てんじょ)たり、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、寇(あだ)するに匪(あら)ず婚媾(こんこう)せんとす、女子(じょし)貞(ただ)しくして字(あざな)せず、十年(じゅうねん)にして乃(すなわ)ち字(あざな)ゆるす、
屯如とは、屯難のとき、進み難きとき、といった意である。
邅如とは、同じ場所をぐるぐる回る、といった意である。
班如とは、進もうとしつつ退こうとする優柔不断な様子である。
さて、この六二の爻は、臣の位に居て、九五に応じてはいる。
としても、元来が陰柔不才にして、天下の屯難を解消して、九五の坎の険難の主を救うほどの能力はない。
これでは、臣としての指針を提案することはできない。
そこで、陰爻であることから女子として、爻の意義を解説する。
六二を女子とするときには、中正を得ているので貞正な女子とする。
既に九五正応の夫は有るが、屯難のときなので、往ってその世話に従事することはできない。
夫を慕う情から、進み従いたいと思い願っても、屯難の障壁があって行けない。
だから、屯如たり?如たり、という。
だとしても、その進み行きたい思いは、急迫であり、馬に乗って駆けて行きたい、とも考える。
しかし、屯難のときにして、往くことは無理である。
でも、きっぱりと往くのを諦めることもできない。
だから、馬に乗りて班如たり、という。
このとき、初九の男子が、比爻であることを以って、六二を娶って配偶にしようと言い寄って来る。
しかし初九の思いとは裏腹に、六二の女子は中正の徳が有るので、その節操を正しくして、初九の求めに応じず、却って初九を忌み避けること、寇仇のように思う。
初九は寇として害を加えようとしているのではなく、単に婚媾を求めているだけである。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
不貞節の女子ならば、得てして近くの男子に靡きやすく、遠い男子は忘れてしまいがちである。
遠距離恋愛でも、同様だろう。
六二は中正の徳が有るからこそ、初九の比爻を忌み避けて、専らに九五の正応を待つのであって、これは、その貞操の堅く正しいからこそのことである。
だから、女子貞(ただ)しくして字(あざな)せず、という。
字せずとは、嫁入りを承諾しない、ということである。
古代中国の女子は、嫁入りのときに、新たな名前を付け、それを字(あざな)と呼んだ。
ちなみに男子は、一人前になると、字を名乗った。
十年にして乃ち字ゆるす、というのは、屯難の障害が解けるのを待って、正応の九五に嫁ぐ、ということである。
そもそも数は一に始まり十に終わる。
したがって、十年とは数の極を用いた喩えであって、ある期間が過ぎることを示す。
ある期間とは、乃ち屯難の障害が解けるまで、ということである。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
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初九━━━
六三、即鹿、无虞、惟入于林中、君子幾、不如舎、往吝、
六三(りくさん)、鹿(しか)に即(つ)き、虞(ぐ)无(な)し、惟(ひとり)林中(りんちゅう)に入(い)る、君子(くんし)は幾(きざし)をみる、舎(やむる)に如かず、往(ゆ)くは吝(はずか)し、
六三は屯難のときに当たって、その身は陰柔不才にして、その志と行いとは不中不正であり、なおかつ内卦の極に居る。 これは人位改革の危地にして、僅かに一歩進めば忽ち外卦坎険の中に陥るのである。
とすると、日夜に戦々兢々と惧れ慎むべきではあるが、内卦震の動き進むという卦の極に居るので、妄りに進み動いて止まらない性情がある。
しかも、応爻比爻の援助もない。
したがって、己の利欲のみで、危うき地をも省みず、妄りに動き進むだけで、己を諭し導き教える賢師範や善い朋友もいないのである。
とすれば、終には罪咎に陥り、身を滅ぼし、家を喪うに至るというものである。
だからこれを、鹿を追う者が、地元の案内人も無いのに、自己判断で危うき地をも省みずに林中に入り、鹿を獲ることだけに気を取られ、いつしか険難に陥る、ということに喩える。
鹿に即き、虞无し、惟林中に入る、とは、地元の案内人もいないのに、鹿を見つけたので、とにかく獲ようとして、そのまま道も分らない林中へついて行く、ということである。
鹿を追うには、その土地に詳しい人の案内がなければ危険である。
林の中に入れば、道に迷うこともあるし、崖から転落することもあるだろう。
虞とは、地元の案内人のことである。
この六三は内卦の震の極であるが、同時に三爻~五爻に至る倒震の極でもある。
倒震とは、震を逆にした形、要するに艮のことである。
八卦の震は、木とし、繁るとする卦である。
内卦震の極であり三~五の倒震の極でもある六三は、震の木々が繁る中に当たる。
また、三~五の艮の最下とすれば、山の麓の木々が繁るところである。
だから、惟(ひとり)林中に入る、という。
さて、鹿を追って勝手にひとりで林中に入るのは、言うなれば愚か者である。
君子ならば、冷静に状況を察知し、止めるのが一番だと考え、引き返すものである。
このように、この爻に遇う人は、決して財禄利欲を遂げ得ることは不可能であるのは勿論だが、だからこそこのまま進めば己の身を害する可能性を察知して、速やかに改め、退き守るべきなのである。
もしも舎(や)めずに欲を遂げようとし続ければ、愚か者と辱められ、吝かしきに至る。
だから、君子は幾を見る、舎むるに如かず、往くは吝し、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
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初九━━━
六四、乗馬班如、求婚媾、往吉、无不利、
六四(りくし)、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、婚媾(こんこう)を求(もと)めらるれば、往(ゆ)きて吉(きち)、利(よ)ろしからざる无(な)し、
六四は陰柔不才である。
これでは、坎の険難に陥っている君を救い天下の屯難を解き済(すく)うことが不可能なのは勿論である。
が、さらには、自身の屯(なや)みの解決を、格下の初九の応爻に求める者である。
これでは、執政大臣の位置だとしても、股肱の大臣とは言えない。
そこで、六二のように、陰爻であることから女子のこととして、爻の意義を解説する。
六四を女子とするときには、柔正を得ているので、貞静の女子とする。
六二は屯如?如・・・等と、困難辛苦の様子であるが、この六四の爻の辞には、難みの言葉は少ない。
この異同軽重の違いは、次のようなことである。
六二は初九の剛に乗っていて、屯難の時の初めに居る。
これは、これからの難(なや)みが最も深い様子である。
六四は九五の剛に承(う)けているとしても、屯難の世は、早くも内卦を経て半ばは過ぎ去っているので、これからの難みは軽く浅い。
だから六四の辞には、深刻さが薄いのである。
そもそも、承けると乗るとでは、乗るの難みの方が甚だしいのである。
とは言っても、屯難のときではあるので、六四の陰爻はその応爻の助けを求めることが、至って急切である。
これは六二が九五に往こうと欲するのと同じである。
だから、馬に乗りて班如たり、という。
しかし、六四は屯難の時も半ばを過ぎている。
六二のように十年待つといったようなことはない。
したがって、初九の正応より親しく婚媾を求められたら、往って嫁いで吉なのである。
だから、婚媾を求めらるれば往きて吉、という。
さて、六二の正応の夫九五は、外卦坎の険難の主爻であって、ここへ往くのは、わざわざ険難の中に飛び込むことである。
だから、十年でも険難が解消するのを待ってから往けという。
これに対し、六四の正応の夫初九は、内卦震の「為ること有る」という意を持つ卦の主爻であって、ここへ行くのは、険難からの脱出でもある。
険難から脱出し、「為ること有る」という前向きな意を持つ卦のところへ往って嫁ぐのに、何の悪いことがあるだろうか。
だから、利ろしからざる无し、という。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
九五、屯其膏、小貞吉、大貞凶、
九五(きゅうご)、其(そ)の膏(こう)に屯(なや)む、小(しょう)には貞(ただ)しくして吉、大(だい)には貞(かた)くするは凶(きょう)なり、
九五は君位に居る。
一方では初九の成卦の主爻が、内卦震の為ること有るの主爻にして、下に在って大いに勢いを得て、六二はこれに比し、六四はこれに応じている。
したがって、天下の勢いは二分されている。
しかし九五の君は、坎の険難の中に陥って、屯難甚だしく、この情勢を打開する術はなく、膏を民に施すことができない。 膏とは、恩恵のことである。
そもそもこの爻に膏のことを言うのは、この卦が雷雨の盈満する様子を具えるとともに、この爻が坎水の主爻であって、坎水は天が地に施す恩恵であるところの雨である。
だから、其の膏に屯む、という。
さて、今は屯難のときだが、それでも日常の小さな事ならば、貞正を守っていれば、通じて吉である。
だから、小事には吉、という。
としても、道が開けるといった意ではない。
困ったときは平常心を失いやすいものなので、日常のことまで狼狽して上ずらないようにとの戒めも込められている。
日常のことがなんとかなるとしても、君主としては、屯難をそのままにしてはおけない。
抜本的に対策を講じようと考えることもあるだろう。
しかし、賊を討ち、乱を鎮圧し、天下の屯難を解き済(すく)うような一大事に臨んでは、時宜に通ぜず、権変に達せず、貞固となり、徒に旧例先格に固執してしまうと、却って大いに事を誤ってしまう。
だから、大事には貞くするは凶、という。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
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初九━━━
上六、乗馬班如、泣血漣如、
上六(じょうりく)、馬(うま)に乗(の)りて班如(はんじょ)たり、血(ち)に泣(な)くこと漣如(れんじょ)たり、
上六は、坎の険難の卦の極に居るが、ここはまた、全体の極でもある。
しかも、己が身は陰柔不才にして、応援もなく、また、九五の陽剛に乗っている。
これは屯難の至極な者である。
したがって、その屯難に苦しみ救いを求めることを急ぐ様子は、馬に乗って駆けて行くが如くである。
しかし、応の助けを求めるべきところはないので、進退決意できない。
だから、馬に乗って班如たり、という。
漣如とは、涙が連なって落ち続ける様子である。
血に泣くとは、憂患困苦が甚だしく、血の涙を流すほどであることであって、険難の至極を示す。
だから、血に泣くこと漣如たり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
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