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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

雷山小過 爻辞

62 雷山小過 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、飛鳥、以凶、

初六(しょりく)、飛鳥(とぶとり)なれば、以(も)って凶(きょう)なり、

この卦は、全卦で飛ぶ鳥の象形となっていて、初と上との両爻は翼の位に当たっている。
鳥は翼を以って飛ぶ。
したがって、初上の両爻に飛鳥という。
これは、沢風大過に棟(むなぎ)の象が有り、三四両爻の棟の真ん中に当たるところで、棟撓む、棟隆んなり、とあるのと同例である。

今、初六は陰柔不中不正にして、上の九四の爻に応じている。
もとより初六は下卦艮の止るの卦の体中に居て、陰爻なので、静かにして守り止まるべき者である。
しかし今は小過の時なので、九四に応じようという意が過ぎて、速やかに九四の方へ飛んで行こうと躁(さわ)いでいるのである。
その九四は宰相の位に居て、陽剛にして権勢が有る。
とすると、初九の匹夫が速やかに進んでこれに応じようとするのは、陰柔の卑夫が利欲のために権門に媚び諂うことに他ならない。
だから、飛鳥なれば、以って凶なり、という。
飛鳥とは、速やかに進んで九四に応じようとする意を喩えたものである。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、過其祖、遇祖妣、不及其君、遇其臣、无咎、

六二(りくじ)、其(そ)の祖(そ)に過(よ)ぎって、其(そ)の妣(ひ)に遇(あ)えり、其(そ)の君(くん)に及(およ)ばざれども、其(そ)の臣(しん)に遇(あ)えり、咎(とが)无(な)し、

五を父母の位とし、また祖妣の位とする。
陽爻を父とし祖とし、陰爻を母とし祖妣とする。
単に祖とあれば祖父のこと、祖妣は祖母のことである。
二は五と応の位である。
五を父母とすれば、二は子であり、五を祖妣とすれば、二は孫である。
今、五を妣とするのは、火地晋の六二に六五を指して王母というのと同類で、六五が陰爻であることによる。
また、過(よ)ぎるとは、避けるという意である。

さて、六二の孫娘が、その祖父のところを黙って通り過ぎ、その妣(祖母)に遇うことは、男尊女卑の立場で言えば、非礼で過ちのようでもある。
しかし、古代中国では、孫は祖父に付き、孫娘は妣(祖母)に付くという風習もあったので、孫娘としては、祖父のところを通り過ぎて直接祖母に遇うことのほうが、却って道に適うことになるのである。
だから、其の祖に過ぎって、其の妣に遇えり、という。
この、遇えりとは、道に適うということである。

また、五を君とし、二を臣とする。
しかし今、二五共に陽爻にして、君臣相応じない。
したがって、六二は中正の忠臣だが、その志が君に通じない。
このとき六二は、例え君に志が通じなくても、よく己の中正の道を以ってその職に尽くす時は、臣の臣としての道に適うのである。
こちらの遇うも、適うということである。
だから、其の君に及ばざれども、其の臣に遇えり、という。

そもそも過不及があれば、咎が有るものだが、このように、道に遇うのであれば、その咎もないのである。
だから、咎无し、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━

九三、弗過防之、従、或戕之、凶、

九三(きゅうさん)、過(す)ぎたるに弗(あら)ず、之(これ)を防(ふせ)ぐ、従(したが)はば、之(これ)を戕(そこな)うこと或(あ)らん、凶(きょう)なり、

小過の時に当たって、九三は過剛不中ではあるが、上六と応じている。
しかし上六は陰邪不中不正にして、小過の卦の極に不満気にして居る。
これは、厳しく防ぐべきの姦邪の小人である。
しかも九三は、過剛不中なので、普通の卦、普通の時ならば、剛強に過ぎる恐れも有る。
不中を慎むことは重要だが、今は小過の時である。
ましてこの卦は、四陰二陽の卦なので、陰邪の小人を防ぐことにおいては、九三はためらうことなく、積極的にこれを防ぐことが大事である。
これは決して過ぎていることではない。
だから、過ぎたるに弗ず、之を防ぐ、という。
之とは上六の陰邪の小人の害を指す。

もし、九三がこれ(=上六の陰邪な小人)を防がず、陰陽相応じてこれに従うことが有れば、遂にはこの上六のために戕われ害されるのである。
だから、従はば、之を戕うこと或り、凶なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

九四、无咎、弗過遇之、往、必戒勿用、永貞、

九四(きゅうし)、咎(とが)无(な)し、過(す)ぎたるに弗(あら)ず、之(これ)に遇(あ)えり、往(ゆ)けば(あやう)し、必(かなら)ず戒(いまし)めて用(もち)うること勿(なか)け、永(なが)く貞(つね)あるべし、

九四は小過の時に当たって、陽剛にして宰相の位に居るので、六五柔中の君に正しく比し輔佐し、政教徳化を布き施すのが、その任であり職である。
しかしまた、初六の小人とも陰陽正しく応じている。
要するに、九四執政の大臣は、六五に比し、初六に応じている。
応は重く、比は軽い。
とすると、自然に任せれば、九四の宰相は正応である初六の小人に重くして、比の五の君に疎くなりやすい。
陰柔の小人に私情厚くする時は、罪咎が有るものである。
したがって、初六の正応の小人を絶し捨てて、六五の君に専ら比し輔佐するべきである。
もっとも、正応の位を捨てて、比爻に専らになることこそ、咎が有るかのようにも思われる。
だから、まず、咎无し、という言葉を掲出して、意を決し心を専らにして、六五に比し輔佐するべきだと教え戒める。

ただし、今は四陰二陽の卦にして、陰が過ぎている時なので、九四の鼎臣は陽剛の威厳を強く盛んにし、この正応の陰柔の小人を断絶しようとするように、他の陰柔の小人も同様に断絶しないといけない。
これでは陽剛の威厳が過ぎるかのようではあるが、この卦この時は二五の君臣の位が共に陰弱にして、上下陰柔に流される時なので、陽剛に過ぎてはいないのである。
だから、過ぎたるに弗ず、之に遇えり、という。
之とは道を指し、道とはその時に適った行動のことである。

このように戒めても、それでも初六の小人に応じて往こうとするのであれば、忽ち災害に至るであろう。
小人が美辞麗句を以って諂い媚びを薦めることは、人情の好むところではあるが、とにかくこのような者を用いてはいけないのである。
だから、往くはし、必ず戒めて用うること勿れ、という。
用うるとは、初六を用いることを指す。

このようなときには、小人に対して毅然と絶する節操を持つことこそが、常に大事なのである。
だから、永く貞あるべし、という言葉で、この辞を締めくくっている。


上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

六五、密雲不雨、自我西郊、公弋取彼在穴、

六五(りくご)、密雲(みつうん)して不(いま)だ雨(あめ)ふらず、我(わ)が西郊(せいこう)自(より)す、公(こう)弋(よく)して彼(か)の穴(あな)に在(あ)るを取(と)るべし、

密雲不雨、自我西郊、という言葉は、風天小畜の卦辞と同じである。
およそ陰陽の道は、相和すれば雨を成し、相和しない時は、雨を成さない。
風天小畜は、陰を以って陽を止めているので、密雲するとしても未だ和していないので、雨を成さないのである。
対するこの雷山小過の卦は、四陰二陽と、陰が陽より過ぎているので、密雲するとし、未だ和していないので雨を成すことができないのである。
そもそも陰陽は、相均等であって後に相和するものである。
過ぎるも不及も、共に和することは難しい。
この卦の名の小過は、小(すこ)し過ぎるであって、そうだからこそ、君臣上下が和しない。
だから、この君の位の六五の爻にて、密雲して不だ雨ふらず、という義を示したのである。

ただし、この爻の密雲して不雨というは、六五の君の仁徳が未だ天下に遍く行き渡っていないことを指す。
しかし、やがては雨を成すほどの勢いが有る。
だから、我が西郊自す、という。
天気は偏西風のために、西から変わり、雨も西から降り出すのが通例なので、そう言う。

六五は柔中にして、六二の中正なる者と応位だが、今は過ぎるの時なので、君臣上下不和にして、未だ応じない。
したがって、六五の君より、ことさらによく心を配って、在下の中正の臣を求めるべきである。
そうすれば必ず上下和睦し、しかる後に雨沢を施せるのである。
だから、公弋して彼の穴にあるを取るべし、という。
公とは六五、穴とは六二を指す。


上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━

上六、弗遇過之、飛鳥離之凶、是謂災眚、

上六(じょうりく)、遇(あ)えるに弗(あ)らず之(これ)に過(す)ぐ、飛鳥(とぶとり)之(これ)が凶(きょう)に離(かか)る、是(これ)を災眚(さいせい)と謂(い)う、

この卦は四陰二陽にして、過陰の象であり、この上六は重陰にして卦極に居る。
これは陰の多さが甚だしい者である。
したがってこの上六は、九三や九四の弗過遇之とは反対に、過ぎて道に合わないのである。
だから、遇えるに弗らず之に過ぐ、という。
之とは道のことである。

さて、上六も全卦飛鳥の象の翼に当たっている。
その義は初六と同じである。
上六は高く卦極に在って、高ぶり誇ることに過ぎることが、まるで、鳥が高く飛ぶようなのである。
高ぶり誇ることが凶であることは、言うまでもないし、そうであれば、天災と人眚が交互に至るというものである。
だから、飛鳥之が凶に離る、是を災眚と謂う、という。

なお、ここでの離は、「はなれる」ではなく離卦の「付着する」という意であって、「凶が付着する」ということを「凶にかかる」と訓んでいるのである。
この上六が陰から陽に変じれば、上卦は離になるから、ここではこの離の字が使われたのである。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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雷山小過

62 雷山小過(らいざんしょうか)
raizan.gif小過 艮下震上(ごんか しんじょう)

八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

小過とは、小なる者が過ぎている、少し過ぎている、といった意。
この卦は、陽を主(あるじ)とし、陰を客とすれば、二陽が内側に在って主となり、四陰が外側に在って客となっている。
これは、その主よりも客が、数の上で過ぎている様子である。
客より主が過ぎているのが沢風大過である。
したがってその大過と対比して、この主より客が過ぎている卦は、小過と名付けられた。
また、艮を山とし、震を雷とすれば、山は止まって動かず、雷は動いて止まらず、である。
これは雷が山上を震い過ぎる様子である。
だから小過と名付けられた。
また、艮を止まるとし、震を動くとすれば、あることでは止まり、あることでは動き去る、という様子である。
彼是互いに行き違うのであれば、その過ぎることは大きいが、あることでは止まり、あることでは動き去るということだから、完全に行き違っているわけではない。
だから小過と名付けられた。
また、震を長男とし、艮を少男とすれば、二人の年齢差が、やや過ぎている様子である。
兄弟の序次は長男、中男、少男だから、長男と中男、中男と少男であれば、年齢差は最も小さく、親子であれば最も大きい。
この長男と少男の場合は、やや開きがあるものである。
だから小過と名付けられた。
なお、沢風大過の場合は、兌の少女と巽の長女だから、こちらも年齢差があるわけだが、それ以上に、兌の少女が上卦、巽の長女が下卦と、その姉妹の序列を犯して少女が上位にいる。
年齢差だけならば小過と言えるが、こちらは年齢差だけではなく、このように序列も犯しているのであって、だから大過なのである。

卦辞
小過、亨、利貞、可小事、不可大事、飛鳥遺之音、不宜上、宜下、大吉、

小過は、亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、小事(しょうじ)には可(か)なり、大事(だいじ)には不可(ふか)なり、飛鳥(とぶとり)之(これ)が音(おと)を遺(のこ)す、上(のぼ)るに宜(よろ)しからず、下(くだ)るに宜し、大吉(だいきち)なり、

およそ、過ぎるということと及ばぬということとは、共に道の規則に適中していないことである。
しかし、少し過ぎることで、却って宜しきに合うことも、ときにはある。
特に、程よいところが判然としないときは、少し過ぎる程度がよい。
例えば、目上と対するときは多少恭しさに過ぎたほうが好感を持たれ、葬儀のときは周囲よりもやや哀しみに過ぎたほうが人情厚いように思われ、日常の経済もやや倹約に過ぎたほうが無難である。
これが、小過は亨る、という所以である。
ただし、少し過ぎて道に適うというのは、必ずそれが貞正なときである。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも日常の些細なことならば、少しくらい度を過ぎたとしても、大目に見て許されるし、そのほうがよい場合もある。
だから、小事には可なり、という。
しかし、天下国家の公儀大事に至っては、必ず礼と和とを以って行わなければいけない。
度を過ごしたことがあれば、大問題に発展する。
というと、何やら堅苦しくしろ、と言っているかのように思われるかもしれないが、もっと単純に考えてよい。
現代の政治家も、ほんの些細な失言で政治生命を絶たれることがある、ということである。
だから、大事には不可なり、という。
この卦は、震は動き、艮は止まり、雷は震い去り、山は静かにして動かず、である。
したがって、上卦と下卦はまったく違う性質なのであって、その志も不和なのである。
このような状態で大事を行えば、必ず大失敗を招く。
これは火沢睽が小事には吉とし、大事にはよくないとするのと同じことである。
また、二爻と五爻が、共に柔中の徳が有るから、小事には可なり、と言えるのでもある。
また、三爻と四爻の両陽剛は、共に君臣の位を失い、なお且つ不中なので、大事には不可なり、と言えるのである。
陰は柔であり小であり、陽は剛であり大である。

飛ぶ鳥というのは、この卦の全体の形である。
陽の三爻と四爻を胴体とし、陰の初爻と二爻、五爻と上爻を翼とすれば、鳥が翼を広げて飛んでいるように見えるからである。
飛ぶ鳥、之が音を遺こす、というのは、鳥が飛んで過ぎ去って行くときに、その音を遺こして行く、ということで、鳥が上空を飛ぶことに憧れ、自分も上に向かおうとするのは宜しくない、と示しているのである。
人の道について言えば、上るは高く傲慢になることである。
傲慢な人は受け入れられない。
逆に、鳥が空を行くのにつらされず、下に向かうのであれば、その人は謙遜だと歓迎される。
だから、下るに宜し、上るに宜しからず、という。
人は謙遜であればこそ、今以上に自分を高められるものである。
だから、大吉、という。
ただし、あくまでも、下れば大吉、ということである。
上れば凶である。


彖伝(原文と書き下しのみ)
小過、小者過、而亨也、
小過(しょうか)は、小(しょう)なる者(もの)の過(す)ぎて、而(しこう)して亨(とお)る也(なり)、

過以利貞、与時行也、
過(す)ごして以(も)って貞(ただ)しきに利(よ)ろしとは、時(とき)と与(とも)に行(おこな)えよと也(なり)、

柔得中、是以小事吉也、剛失位、而不中、是以不可大事也、
柔(じゅう)中(ちゅう)を得(え)て、是(これ)を以(も)って小事(しょうじ)には吉(きち)也(なり)、剛(ごう)位(くらい)を失(うしな)って、而(しこう)して不中(ふちゅう)なら、是(これ)を以(も)って大事(だいじ)には不可(ふか)なると也(なり)、

有飛鳥之象焉、飛鳥遺之音、
飛鳥(とぶとり)之(の)象(しょう)有(あ)るをもって、飛鳥(とぶとり)之(これ)が音(おと)を遺(のこ)すという、

不宜上、宜下、大吉、上逆、下順也、
上(のぼ)るに宜(よろ)しからず、下(くだ)るに宜(よろ)し、大吉(だいきち)なりとは、上(のぼ)るは逆にして、下(くだ)るは順(じゅん)なれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
山上有雷、小過、君子以行過乎恭、喪過乎哀、用過乎倹、
山(やま)の上(うえ)に雷(かみなり)が有(あ)るは、小過(しょうか)なり、君子(くんし)以(も)って行(おこな)いは恭(うやうや)しきに過(す)ごし、喪(そう)は哀(かな)しきに過(す)ごし、用(よう)は倹(けん)に過(す)ごすべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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