
61 風沢中孚 爻辞
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○
初九、虞吉、有佗不燕、
初九(しょきゅう)、虞(もっぱら)なれば吉(きち)なり、佗(た)有(あ)れば燕(やす)からず、
初九は孚信の初めに在って、正の位を得て、六四の爻に応じている。
これはその志が専ら六四の応爻にのみ信有るべき者とする。
もしその信じ応じるべきところの六四を捨て、応の位ではない他の爻において何かをするのであれば、卦の象義に背き悖(もと)る。
卦の象義に背くとは、天の時命に悖ることであり、凶の道である。
よく六四に信じ応じることが専らならば、燕安(やすらか)なることを得るのである。
だから、虞なれば吉なり、佗有れば燕からず、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━
九二、鳴鶴在陰、其子和之、我有好爵、吾与爾摩之、
九二(きゅうじ)、鳴鶴(めいかく)陰(いん)に在(あ)り、其(そ)の子(こ)之(これ)に和(わ)す、我(われ)に好爵(こうしゃく)有(あ)り、吾(われ)爾「なんじ)と与(とも)に之(これ)を摩(ま)せん、
通本は摩を靡とするが、中州は「子夏易伝」を根拠に、正しくは摩だとして、解釈している。
鳴鶴とは、鶴の親が鳴くこと。
在陰とは夜陰のこと。
其子とは雛鶴のこと。
和之とは、親鶴に応えて鳴き、親鶴に和すること。
暗い夜空を飛ぶ親子の鶴は、親は子と離れないように鳴いて場所を知らせ、子も自分の居場所を知らせようと、親鶴の鳴き声に応じて鳴き返し、雲路を行くのである。
このように、夜の空を飛ぶ鶴の親子の情は、とても深いのである。
さて、この卦は下卦の正兌と上卦の倒兌(=巽は逆方向から見ると兌になる)と、二つの兌が向かいあっている。
卦象の兌を鶴とし、口とする。
これは二つの鶴が相対して向かって鳴く様子である。
鶴は沢に遊ぶ鳥なので、兌の象となり、兌は身体の部分では口の象である。
親鶴とは、卦においては上卦倒兌の象とし、爻においては九五の象である。
一方の子鶴とは、卦においては下卦兌の象としし、爻においては九二の象である。
この卦は二五共に陽剛なので、通例では応じていないことになるが、全体が孚信の卦にして、二五共に中実なので、同徳を以って相応じているのである。
これを以って、親鶴は呼び、子鶴は応じるの象義が有る。
だから、鳴鶴陰に在り、其の子之に和す、という。
これは、鶴を借りて人事に喩えているのである。
続く辞は、九五の親が九二の子を呼んで、我に好い爵禄が有り、これは信の徳を以って得たものであるから、今後も信の徳を以ってこれを承け保つべきであって、願わくば、吾と爾と共に、この信の徳を琢磨して、この爵禄信徳を保ち守りたい、と教え戒しめているのである。
だから、我に好爵有り、吾爾と与に之を摩せん、という。
我と吾の字は、共に五が自ら称して、九二の爻へ言いかけているのであり、爾とは九二を呼んでいるのである。
爵とは爵禄のことにして、信徳の意を兼ね含んでいる。
また、この言葉は、親子と同時に君臣の信を諭してもいる。
爵禄は君より賜うものであり、もとより二五は父子の位であるとともに君臣の位である。
摩とは、、善い方に向かうよう精進する、という意である。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━
六三、得敵、或鼓、或罷、或泣、或歌、
六三(りくさん)、敵(てき)を得(え)たり、或(あ)るときは鼓(つづみ)うち、或(あ)るときは罷(や)め、或(あ)るときは泣(な)き、或(あ)るときは歌(うた)うたう、
六三は卦においては中虚の位置にして、自らの確乎とした信念はなく、単に孚信なる者である。
単なる孚信とは、相手を心からは信じず、表面的なことを軽い気持ちで信じているだけ、ということで、これは不信とも言える。
また、爻においては、陰柔不中不正にして、兌の口の主であり、上九の不中不正なる者と相応じている。
これは、自己が既に不信にして、他の不中不正の不信なる者と与するの義である。
だから、敵を得たり、という。
敵とは、相匹対するところの者にして、上九の応爻を指している。
もとより小人の情態というものは、秩序なく乱れ、その場限りで浮ついていて、定まりがないものである。
固く契りを交わしたとしても、利害がもつれたりすると、忽ち相手を寇仇のように捉え、鼓を打ってこれを攻めようとしたり、その怒りが罷むと、また笑顔で迎えたりする。
さらにまた、あるときは怨み悲しんで号泣し、またあるときは楽しみ和して歌を歌うに至る。
これは、不信=相手を心から信じないから、そうなるのである。
だから、或るときは鼓うち、或るときは罷め、或るときは泣き、或るときは歌うたう、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
六四、月幾望、馬匹亡、无咎、
六四(りくし)、月(つき)望(ぼう)に幾(ちか)し、馬(うま)の匹(たぐい)を亡(うしな)えば、咎(とが)无(な)し、
今、孚信の時に当たって、六四の執政の大臣は、君に近い位に居て、柔正の徳を得て、九五の君とは陰陽正しく承け比し、親しみ仕えている。
これは、信の正しい者である。
その柔正の徳が盛んなことは、例えば満月が近いようなものである。
月は陰のもの、陰徳が満ちたのが満月である。
だから、月望に幾し、という。
望は満月のことである。
これは、風天小畜の上九と同義同例である。
続く辞の馬とは、初九を指し、匹とは匹偶の義にして、四爻と初爻とが応の位にあるを以って匹と言う。
馬は進むの義に喩えていて、初九が進んで四に応じ来ることを言う。
六四は五に比し初に応じている爻である。
もとより孚信の道とは、二心なく一に従うことが大事である。
今、六四は鼎臣執政のことなれば、私の応爻を捨て、一に公の君上に忠信を尽くすべきである。
そうでなければ、咎があることを免れない。
私に執着しては公が疎かになるものである。
だから、馬の匹を亡えば、咎无し、という。
上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
九五、有孚恋如、无咎、
九五(きゅうご)、孚(まこと)有(あ)って恋如(れんじょ)たり、咎(とが)无(な)し、
今、孚信の時に中って、九五は君の位に居て、中正を得ている。
としても、九二は同じ陽剛なので、応じていない。
したがって、ひとり六四の陰爻にのみ比し親しんでいる。
これは、近くに信は有っても、遠くには及ばないという象義である。
そもそも九五の君上として、六四の一臣にのみ係恋して、信を遠くに失うことは、人君公正博愛の徳においては、欠けている。
したがって、吉とは言えない。
しかし、九五の君にして、六四の宰相を信じ寵愛することは、大なる失ではない。
だから、孚有って恋如たり、咎无し、という。
恋とは一途といった意である。
なお、この有孚恋如という言葉は、風天小畜の九五にもあるが、共に同象同義である。
上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
上九、翰音登于天、貞凶、
上九(じょうきゅう)、翰音(かんおん)天(てん)に登(のぼ)る、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、
上九の爻は、孚信の卦の極に居るとしても、不中不正にして信を失っている者である。
例えば鶏が身重くて飛べないのに、ただその声のみ飛揚して遠くに聞こえるようなものである。
これは、有名でも実績がない、ということである。
だから、翰音天に登る、という。
翰音とは鶏の声のことである。
人として不信なることがこのようであれば、その宜しいわけがない。
速やかに改めるを吉の道とする。
尚も固執して改めないときには、それが凶であることを思い知らされる時が来る。
だから、貞くするは凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○
初九、虞吉、有佗不燕、
初九(しょきゅう)、虞(もっぱら)なれば吉(きち)なり、佗(た)有(あ)れば燕(やす)からず、
初九は孚信の初めに在って、正の位を得て、六四の爻に応じている。
これはその志が専ら六四の応爻にのみ信有るべき者とする。
もしその信じ応じるべきところの六四を捨て、応の位ではない他の爻において何かをするのであれば、卦の象義に背き悖(もと)る。
卦の象義に背くとは、天の時命に悖ることであり、凶の道である。
よく六四に信じ応じることが専らならば、燕安(やすらか)なることを得るのである。
だから、虞なれば吉なり、佗有れば燕からず、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
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九二━━━○
初九━━━
九二、鳴鶴在陰、其子和之、我有好爵、吾与爾摩之、
九二(きゅうじ)、鳴鶴(めいかく)陰(いん)に在(あ)り、其(そ)の子(こ)之(これ)に和(わ)す、我(われ)に好爵(こうしゃく)有(あ)り、吾(われ)爾「なんじ)と与(とも)に之(これ)を摩(ま)せん、
通本は摩を靡とするが、中州は「子夏易伝」を根拠に、正しくは摩だとして、解釈している。
鳴鶴とは、鶴の親が鳴くこと。
在陰とは夜陰のこと。
其子とは雛鶴のこと。
和之とは、親鶴に応えて鳴き、親鶴に和すること。
暗い夜空を飛ぶ親子の鶴は、親は子と離れないように鳴いて場所を知らせ、子も自分の居場所を知らせようと、親鶴の鳴き声に応じて鳴き返し、雲路を行くのである。
このように、夜の空を飛ぶ鶴の親子の情は、とても深いのである。
さて、この卦は下卦の正兌と上卦の倒兌(=巽は逆方向から見ると兌になる)と、二つの兌が向かいあっている。
卦象の兌を鶴とし、口とする。
これは二つの鶴が相対して向かって鳴く様子である。
鶴は沢に遊ぶ鳥なので、兌の象となり、兌は身体の部分では口の象である。
親鶴とは、卦においては上卦倒兌の象とし、爻においては九五の象である。
一方の子鶴とは、卦においては下卦兌の象としし、爻においては九二の象である。
この卦は二五共に陽剛なので、通例では応じていないことになるが、全体が孚信の卦にして、二五共に中実なので、同徳を以って相応じているのである。
これを以って、親鶴は呼び、子鶴は応じるの象義が有る。
だから、鳴鶴陰に在り、其の子之に和す、という。
これは、鶴を借りて人事に喩えているのである。
続く辞は、九五の親が九二の子を呼んで、我に好い爵禄が有り、これは信の徳を以って得たものであるから、今後も信の徳を以ってこれを承け保つべきであって、願わくば、吾と爾と共に、この信の徳を琢磨して、この爵禄信徳を保ち守りたい、と教え戒しめているのである。
だから、我に好爵有り、吾爾と与に之を摩せん、という。
我と吾の字は、共に五が自ら称して、九二の爻へ言いかけているのであり、爾とは九二を呼んでいるのである。
爵とは爵禄のことにして、信徳の意を兼ね含んでいる。
また、この言葉は、親子と同時に君臣の信を諭してもいる。
爵禄は君より賜うものであり、もとより二五は父子の位であるとともに君臣の位である。
摩とは、、善い方に向かうよう精進する、という意である。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━
六三、得敵、或鼓、或罷、或泣、或歌、
六三(りくさん)、敵(てき)を得(え)たり、或(あ)るときは鼓(つづみ)うち、或(あ)るときは罷(や)め、或(あ)るときは泣(な)き、或(あ)るときは歌(うた)うたう、
六三は卦においては中虚の位置にして、自らの確乎とした信念はなく、単に孚信なる者である。
単なる孚信とは、相手を心からは信じず、表面的なことを軽い気持ちで信じているだけ、ということで、これは不信とも言える。
また、爻においては、陰柔不中不正にして、兌の口の主であり、上九の不中不正なる者と相応じている。
これは、自己が既に不信にして、他の不中不正の不信なる者と与するの義である。
だから、敵を得たり、という。
敵とは、相匹対するところの者にして、上九の応爻を指している。
もとより小人の情態というものは、秩序なく乱れ、その場限りで浮ついていて、定まりがないものである。
固く契りを交わしたとしても、利害がもつれたりすると、忽ち相手を寇仇のように捉え、鼓を打ってこれを攻めようとしたり、その怒りが罷むと、また笑顔で迎えたりする。
さらにまた、あるときは怨み悲しんで号泣し、またあるときは楽しみ和して歌を歌うに至る。
これは、不信=相手を心から信じないから、そうなるのである。
だから、或るときは鼓うち、或るときは罷め、或るときは泣き、或るときは歌うたう、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
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九二━━━
初九━━━
六四、月幾望、馬匹亡、无咎、
六四(りくし)、月(つき)望(ぼう)に幾(ちか)し、馬(うま)の匹(たぐい)を亡(うしな)えば、咎(とが)无(な)し、
今、孚信の時に当たって、六四の執政の大臣は、君に近い位に居て、柔正の徳を得て、九五の君とは陰陽正しく承け比し、親しみ仕えている。
これは、信の正しい者である。
その柔正の徳が盛んなことは、例えば満月が近いようなものである。
月は陰のもの、陰徳が満ちたのが満月である。
だから、月望に幾し、という。
望は満月のことである。
これは、風天小畜の上九と同義同例である。
続く辞の馬とは、初九を指し、匹とは匹偶の義にして、四爻と初爻とが応の位にあるを以って匹と言う。
馬は進むの義に喩えていて、初九が進んで四に応じ来ることを言う。
六四は五に比し初に応じている爻である。
もとより孚信の道とは、二心なく一に従うことが大事である。
今、六四は鼎臣執政のことなれば、私の応爻を捨て、一に公の君上に忠信を尽くすべきである。
そうでなければ、咎があることを免れない。
私に執着しては公が疎かになるものである。
だから、馬の匹を亡えば、咎无し、という。
上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
九五、有孚恋如、无咎、
九五(きゅうご)、孚(まこと)有(あ)って恋如(れんじょ)たり、咎(とが)无(な)し、
今、孚信の時に中って、九五は君の位に居て、中正を得ている。
としても、九二は同じ陽剛なので、応じていない。
したがって、ひとり六四の陰爻にのみ比し親しんでいる。
これは、近くに信は有っても、遠くには及ばないという象義である。
そもそも九五の君上として、六四の一臣にのみ係恋して、信を遠くに失うことは、人君公正博愛の徳においては、欠けている。
したがって、吉とは言えない。
しかし、九五の君にして、六四の宰相を信じ寵愛することは、大なる失ではない。
だから、孚有って恋如たり、咎无し、という。
恋とは一途といった意である。
なお、この有孚恋如という言葉は、風天小畜の九五にもあるが、共に同象同義である。
上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
上九、翰音登于天、貞凶、
上九(じょうきゅう)、翰音(かんおん)天(てん)に登(のぼ)る、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、
上九の爻は、孚信の卦の極に居るとしても、不中不正にして信を失っている者である。
例えば鶏が身重くて飛べないのに、ただその声のみ飛揚して遠くに聞こえるようなものである。
これは、有名でも実績がない、ということである。
だから、翰音天に登る、という。
翰音とは鶏の声のことである。
人として不信なることがこのようであれば、その宜しいわけがない。
速やかに改めるを吉の道とする。
尚も固執して改めないときには、それが凶であることを思い知らされる時が来る。
だから、貞くするは凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


