
60 水沢節 爻辞
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○
初九、不出戸庭、无咎、
初九(しょきゅう)、戸庭(こてい)をも出(い)でざれば、咎(とが)无(な)し、
初九は節の始まりである。
陽爻にして陽の位に居て、正を得ているので、よく時の通塞進退を知り、正しく節を守れる者とする。
戸庭とは、人の出入り毎に、課ならば通る要路のことである。
その出入りの要路である戸庭にすら出ないとは、その履(ふ)み行うところを慎んで、妄りに出ない節度が有り、よく止まれる人とする。
だから、戸庭をも出でされば、咎无し、という。
また、初爻は、爻の象にしては、戸の位に当たるとともに、足の位である。
したがって、節に止まるの始めである義を教え諭しているのでもある。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━
九二、不出門庭、凶、
九二(きゅうじ)、門庭(もんてい)をも出(い)でざれば、凶(きょう)なり、
まず、初九の爻は、節の始めなので、正の位を得て以って節を守る義を善とする。
これは、初九が無位にして野に在るの爻の象位であることによる。
対するこの九二の爻は、剛中の才徳が有るとともに、臣の定位に居る。
これは、節に中(あた)るという義がある。
としても、尚も強いて門庭をも出ずに、節を高尚にして家に居るべきの位ではないし、時でもないし、道でもない。
そもそも君子の道は、出る時には出て仕え、退くぺき時には退き家に居て、黙すべき時には黙して言わず、語すべき時には便々として言うものである。
こういったことが、時宜に適中するを以って道とする。
要するに、君子は幾を見て為すべきことを為すのである。
もとより九二は臣の定位に居て、剛中の才徳を得ているのであって、君臣の大義としては、同徳を以って相応じて、臣としての節を尽くし、九五の君の国政を輔佐するべきである。
また、この卦の初九は、なお乾為天の卦の初九の潜竜のようなものである。
したがって、戸庭にも出ないのが時であり道なのであり、また節なのである。
対するこの九二は、乾為天の九二の見竜のようなものである。
出て仕えて才徳を現すのが、時であり、道であり、また節なのである。
だから、門庭をも出でざれば、凶なり、という。
節に固執して、出て仕えない時には、終にはその時を失うのである。
今、九二は速やかに往き、九五の君に応じ仕えれば、共に剛中なのを以って、必ず同徳相応じ相合して成功が有るのである。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━
六三、不節若、則嗟若、无咎、
六三(りくさん)、節若(せつじゃく)たらざれば、則(すなわ)ち嗟若(さじゃく)たらん、咎(とが)むること无(な)かれ、
節の時に当たって、六三は陰柔不中不正なので、その節操を固く正しくすることができない。
節するべき時に当たって、節することができないのである。
このようであれば、失敗して憂いを来たし、嘆くに至ることになるのである。
だから、節若たらざれば、則ち嗟若たらん、という。
節若とは、節を軽んじること、嗟若とは、嘆くことである。
今、六三が嗟若として嘆くとしても、それは己が不中正にして節の道を失ったからであって、自ら悔いて反省するべきことである。
誰かのせいではないので、他人を咎めるべきではない。
だから、咎むる无かれ、という。
なお、この爻の辞は、節若でなければ、物事は上手く行き、嗟若となることはない、と教えているという面もある。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
六四、安節、亨、
六四(りくし)、節(せつ)に安(やす)んず、亨(とお)る、
六四の爻は、節の時に当たって柔正を得て、九五の君とは陰陽正しく比し承けている。
これは、節に安んじる者である。
上は君上に陰陽親しみ比し、内には自ら臣としての節に安んじる。
こうであれば、その道は亨通するものである。
だから、節に安んず、亨る、という。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
九五、甘節、吉、往有尚、
九五(きゅうご)、節(せつ)に甘(あま)んず、吉(きち)なり、往(ゆ)けば尚(たっと)ばるること有(あ)り、
節の時に当たって、九五の爻は君の位に在って、剛健中正にして、よく自ら節制して楽しむ者である。
だから、節に甘んず、吉なり、という。
甘と楽とは同義である。
往くとは、為ること有るの義である。
九五の君位に在って、自ら節を楽しみ、その行実もまた節に中っている。
ここを以って、天下の節を制すのである。
これによって、天下の民は、九五を仰ぎ見て尊敬することが特に甚だしい。
だから、往けば尚ばるること有り、という。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
上六、苦節、貞凶、悔亡、
上六(じょうりく)、節(せつ)に苦(くるし)めり、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、悔(く)い亡(ほろ)びん、
上六は節の卦の極に居り、その身は重陰不中である。
これは、節に過ぎている者である。
もとより君子の道は、節度節制節操がないといけない。
しかし節とは、本来は限りが有って止るの義にして、「ほどよい」という意である。
したがって、強いて節を過剰にする時は、節に善なる者ではない。
卦辞にも、苦節不可貞とあるが、これはこの上六の爻を指しているのである。
もし少しでも、節がほどよい加減を過ぎると、それは却って凶を取る道である。
だから、節に苦しめり、貞くすれば凶なり、という。
このことを弁えて、節を過剰にせず、ほどよいところに制する時には、節に苦しむような悔いに至ることはないものである。
だから、節に苦しむようなら悔い改めよ、という意味で、悔い亡びん、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○
初九、不出戸庭、无咎、
初九(しょきゅう)、戸庭(こてい)をも出(い)でざれば、咎(とが)无(な)し、
初九は節の始まりである。
陽爻にして陽の位に居て、正を得ているので、よく時の通塞進退を知り、正しく節を守れる者とする。
戸庭とは、人の出入り毎に、課ならば通る要路のことである。
その出入りの要路である戸庭にすら出ないとは、その履(ふ)み行うところを慎んで、妄りに出ない節度が有り、よく止まれる人とする。
だから、戸庭をも出でされば、咎无し、という。
また、初爻は、爻の象にしては、戸の位に当たるとともに、足の位である。
したがって、節に止まるの始めである義を教え諭しているのでもある。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━
九二、不出門庭、凶、
九二(きゅうじ)、門庭(もんてい)をも出(い)でざれば、凶(きょう)なり、
まず、初九の爻は、節の始めなので、正の位を得て以って節を守る義を善とする。
これは、初九が無位にして野に在るの爻の象位であることによる。
対するこの九二の爻は、剛中の才徳が有るとともに、臣の定位に居る。
これは、節に中(あた)るという義がある。
としても、尚も強いて門庭をも出ずに、節を高尚にして家に居るべきの位ではないし、時でもないし、道でもない。
そもそも君子の道は、出る時には出て仕え、退くぺき時には退き家に居て、黙すべき時には黙して言わず、語すべき時には便々として言うものである。
こういったことが、時宜に適中するを以って道とする。
要するに、君子は幾を見て為すべきことを為すのである。
もとより九二は臣の定位に居て、剛中の才徳を得ているのであって、君臣の大義としては、同徳を以って相応じて、臣としての節を尽くし、九五の君の国政を輔佐するべきである。
また、この卦の初九は、なお乾為天の卦の初九の潜竜のようなものである。
したがって、戸庭にも出ないのが時であり道なのであり、また節なのである。
対するこの九二は、乾為天の九二の見竜のようなものである。
出て仕えて才徳を現すのが、時であり、道であり、また節なのである。
だから、門庭をも出でざれば、凶なり、という。
節に固執して、出て仕えない時には、終にはその時を失うのである。
今、九二は速やかに往き、九五の君に応じ仕えれば、共に剛中なのを以って、必ず同徳相応じ相合して成功が有るのである。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━
六三、不節若、則嗟若、无咎、
六三(りくさん)、節若(せつじゃく)たらざれば、則(すなわ)ち嗟若(さじゃく)たらん、咎(とが)むること无(な)かれ、
節の時に当たって、六三は陰柔不中不正なので、その節操を固く正しくすることができない。
節するべき時に当たって、節することができないのである。
このようであれば、失敗して憂いを来たし、嘆くに至ることになるのである。
だから、節若たらざれば、則ち嗟若たらん、という。
節若とは、節を軽んじること、嗟若とは、嘆くことである。
今、六三が嗟若として嘆くとしても、それは己が不中正にして節の道を失ったからであって、自ら悔いて反省するべきことである。
誰かのせいではないので、他人を咎めるべきではない。
だから、咎むる无かれ、という。
なお、この爻の辞は、節若でなければ、物事は上手く行き、嗟若となることはない、と教えているという面もある。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
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九二━━━
初九━━━
六四、安節、亨、
六四(りくし)、節(せつ)に安(やす)んず、亨(とお)る、
六四の爻は、節の時に当たって柔正を得て、九五の君とは陰陽正しく比し承けている。
これは、節に安んじる者である。
上は君上に陰陽親しみ比し、内には自ら臣としての節に安んじる。
こうであれば、その道は亨通するものである。
だから、節に安んず、亨る、という。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
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九二━━━
初九━━━
九五、甘節、吉、往有尚、
九五(きゅうご)、節(せつ)に甘(あま)んず、吉(きち)なり、往(ゆ)けば尚(たっと)ばるること有(あ)り、
節の時に当たって、九五の爻は君の位に在って、剛健中正にして、よく自ら節制して楽しむ者である。
だから、節に甘んず、吉なり、という。
甘と楽とは同義である。
往くとは、為ること有るの義である。
九五の君位に在って、自ら節を楽しみ、その行実もまた節に中っている。
ここを以って、天下の節を制すのである。
これによって、天下の民は、九五を仰ぎ見て尊敬することが特に甚だしい。
だから、往けば尚ばるること有り、という。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
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九二━━━
初九━━━
上六、苦節、貞凶、悔亡、
上六(じょうりく)、節(せつ)に苦(くるし)めり、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、悔(く)い亡(ほろ)びん、
上六は節の卦の極に居り、その身は重陰不中である。
これは、節に過ぎている者である。
もとより君子の道は、節度節制節操がないといけない。
しかし節とは、本来は限りが有って止るの義にして、「ほどよい」という意である。
したがって、強いて節を過剰にする時は、節に善なる者ではない。
卦辞にも、苦節不可貞とあるが、これはこの上六の爻を指しているのである。
もし少しでも、節がほどよい加減を過ぎると、それは却って凶を取る道である。
だから、節に苦しめり、貞くすれば凶なり、という。
このことを弁えて、節を過剰にせず、ほどよいところに制する時には、節に苦しむような悔いに至ることはないものである。
だから、節に苦しむようなら悔い改めよ、という意味で、悔い亡びん、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


