
58 兌為沢 爻辞
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○
初九、和兌、吉、
初九(しょきゅう)、和(わ)して兌(よろこ)ぶ、吉(きち)なり、
今、兌の時に当たって、初九は正を得ている。
これは剛正にして、物事を為すことができる爻とする。
しかし、その応位の九四もまた同じ陽剛なので、相応じない。
したがって、上より助けを得ることは難しいので、初九は正を得ているとしてもなかなか和することができない者とする。
そもそも、例え悦ぶことが有るとしても、人と共に相和して行うのでなければ、その事を遂げ成すことは難しい。
そこで今、初九の取るべき道は、一によくその和して悦ぶの義を主として務め行うことである。
そうすれば、九四の爻も、やがては同徳を以って悦び和して応じてくれるというものである。
そうして後に事に臨む時には、その行うことは吉となるのである。
だから、和して兌ぶ、吉なり、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━
九二、孚兌吉、悔亡、
九二(きゅうじ)、孚(まこと)あって兌(よろこ)べば吉(きち)なり、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、
二は臣の定位である。
応の位の五は君の定位である。
もとより九二は剛中の才が有るとしても、九五の君の爻もまた陽剛なので、なかなか和して応じない。
そこで九二は、身近な六三に和して比そうとする。
その六三は、兌口の主にして、巧言令色を以って悦ばそうと求める者である。
ここに九二の爻が、己が宜しく応じるべき九五を捨てて、巧言令色の媚びを献じる六三に比し悦ぶ時には、悔いが有ること必然である。
したがって、九二はよく臣としての道を守り、巧言令色の六三の比爻を振り切り、その君である九五に専らに忠誠を尽くし、和し応じることが大事なのであって、そうしてこそ、吉なのである。
だから、孚あって兌べば吉なり、悔い亡ぶ、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━
六三、来兌、凶、
六三(りくさん)、来(きた)し兌(よろこ)ばさんとす、凶(きょう)なり、
六三は陰柔にして不中不正であり、兌の悦ぶの主にして、兌口の主である。
これを以って巧言令色を以って悦びを来たすことを謀る者とする。
もとより六三には正応がなく、身近に九二と九四との二陽剛が有るので、この二陽剛に相密比し、彼等を巧言令色を以って悦ばせ来たらせようと謀る。
これは悦びの正しくないことであり、その凶であることは必然である。
だから、来し兌ばさんとす、凶なり、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
九四、商兌、未寧、介疾有喜、
九四(きゅうし)、兌(よろこ)びを商(はか)れり、未(いま)だ寧(やす)からず、疾(やまい)に介(かい)たれば喜(よろこ)び有(あ)るべし、
介とは節操堅固の義にして、雷地予の六二の辞に「石に介して」とある介と同様の意味合いである。
九四は六三と九五との間に在り、五は君の位だが同じ陽爻なので比さず、三は陰爻なので九四とはその情が通じて悦び比す。
さて、九四の爻の悦ぶということには二途ある。
情を以って言う時には、六三の陰柔にして好言甘語を以って諂い媚びるの主に比することを悦びとする。
道を以って言う時には、九五の剛健の君主に、同じ陽剛として同徳を以って比し悦びとする。
今、九四は、忠信賢良といった誉れも欲しい願うと同時に、情欲の好みも快く果たしたいと思っている。
要するに、悪いことと良いことの両方に魅力を感じ、どちらがよいか迷っているのである。
したがって、心を安寧にすることができない。
だから、兌びを商れり、未だ寧からず、という。
この迷いの原因は、六三が兌口の主で好言甘語が巧みな陰邪なことによるのであって、言わば人の身を苦しめる疾病みたいなものである。
さらに言えば、六三に比し悦ぶのは私の情欲であり、同徳の九五に比し悦ぶのは、公であり正義である。
陽剛の君子ならば、私の情欲を捨てて、公の道の正義に従事するべきである。
六三と比し親しむことは身に疾病を抱えるようなものであって、そのようであればいつか九四は道を失う。
このような時であるからこそ、九四は暫らく己が陽剛の徳を以って、節操を堅固にし、六三の巧言便口の比爻を絶し離して、一に九五の君上に従い悦ぶべきなのである。
そうすれば、必ず喜びがあるものである。
これは疾病が癒えて喜ぶのと同様である。
だから、疾に介たれば喜び有るべし、という。
上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
九五、孚于剥有、
九五(きゅうご)、剥(はく)に孚(まこと)あれば(あやう)きこと有(あ)り、
剥とは陰邪なるものの陽正なる者を削り落とすの義にして、ここでは上六の陰柔を指している。
もとより九五は君の位に在って、剛健中正の徳が有るとともに、上六と密比している。
その上六は陰柔不中の爻にして、不満を抱えて全卦の極にいる兌口の主であり、巧言便口を以って悦びを求めようとする者である。
これは九五の徳を輔佐する者ではない。
しかし九五は、これと陰陽密比しているので、親しみ睦もうとする。
さらには、陰陽密比しているので、九五は上六を信用し切ってしまいやすい。
とすると、その上六の陰柔のために、九五の徳は剥し尽くされるというものである。
上六の巧言佞媚を悦んで信用すれば、大変なことになり、危険である。
だから、剥に孚あればきこと有り、という。
上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
上六、引兌、
上六(じょうりく)、引(ひ)きて兌(よろこ)ぶ、
この爻は兌の悦ぶの主であるとともに、成卦の主爻にして悦ぶの卦の極に在る。
したがって、自分が悦ぶの至極なるを以って、人もまたその悦ぶ様子に感じ引かれて来たり集まり悦ぶのである。
だから、引きて兌ぶ、という。
ただし、その悦ぶところの邪と正とによって、その吉凶は異なる。
したがって、吉凶の辞は付いていないのである。
なお、この爻の義は、九五の爻にては、巧言便口を以って佞媚を薦めて君の徳を剥すところの陰邪な小人としているが、この上六の本位では兌の卦極の義を主として、悦ぶの至極としている。
このように、爻の義は、どの爻から観るかで、その爻の意味合いが変わって来る場合がときどきあるので、注意が必要である。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
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九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○
初九、和兌、吉、
初九(しょきゅう)、和(わ)して兌(よろこ)ぶ、吉(きち)なり、
今、兌の時に当たって、初九は正を得ている。
これは剛正にして、物事を為すことができる爻とする。
しかし、その応位の九四もまた同じ陽剛なので、相応じない。
したがって、上より助けを得ることは難しいので、初九は正を得ているとしてもなかなか和することができない者とする。
そもそも、例え悦ぶことが有るとしても、人と共に相和して行うのでなければ、その事を遂げ成すことは難しい。
そこで今、初九の取るべき道は、一によくその和して悦ぶの義を主として務め行うことである。
そうすれば、九四の爻も、やがては同徳を以って悦び和して応じてくれるというものである。
そうして後に事に臨む時には、その行うことは吉となるのである。
だから、和して兌ぶ、吉なり、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━
九二、孚兌吉、悔亡、
九二(きゅうじ)、孚(まこと)あって兌(よろこ)べば吉(きち)なり、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、
二は臣の定位である。
応の位の五は君の定位である。
もとより九二は剛中の才が有るとしても、九五の君の爻もまた陽剛なので、なかなか和して応じない。
そこで九二は、身近な六三に和して比そうとする。
その六三は、兌口の主にして、巧言令色を以って悦ばそうと求める者である。
ここに九二の爻が、己が宜しく応じるべき九五を捨てて、巧言令色の媚びを献じる六三に比し悦ぶ時には、悔いが有ること必然である。
したがって、九二はよく臣としての道を守り、巧言令色の六三の比爻を振り切り、その君である九五に専らに忠誠を尽くし、和し応じることが大事なのであって、そうしてこそ、吉なのである。
だから、孚あって兌べば吉なり、悔い亡ぶ、という。
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九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━
六三、来兌、凶、
六三(りくさん)、来(きた)し兌(よろこ)ばさんとす、凶(きょう)なり、
六三は陰柔にして不中不正であり、兌の悦ぶの主にして、兌口の主である。
これを以って巧言令色を以って悦びを来たすことを謀る者とする。
もとより六三には正応がなく、身近に九二と九四との二陽剛が有るので、この二陽剛に相密比し、彼等を巧言令色を以って悦ばせ来たらせようと謀る。
これは悦びの正しくないことであり、その凶であることは必然である。
だから、来し兌ばさんとす、凶なり、という。
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九五━━━
九四━━━○
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九二━━━
初九━━━
九四、商兌、未寧、介疾有喜、
九四(きゅうし)、兌(よろこ)びを商(はか)れり、未(いま)だ寧(やす)からず、疾(やまい)に介(かい)たれば喜(よろこ)び有(あ)るべし、
介とは節操堅固の義にして、雷地予の六二の辞に「石に介して」とある介と同様の意味合いである。
九四は六三と九五との間に在り、五は君の位だが同じ陽爻なので比さず、三は陰爻なので九四とはその情が通じて悦び比す。
さて、九四の爻の悦ぶということには二途ある。
情を以って言う時には、六三の陰柔にして好言甘語を以って諂い媚びるの主に比することを悦びとする。
道を以って言う時には、九五の剛健の君主に、同じ陽剛として同徳を以って比し悦びとする。
今、九四は、忠信賢良といった誉れも欲しい願うと同時に、情欲の好みも快く果たしたいと思っている。
要するに、悪いことと良いことの両方に魅力を感じ、どちらがよいか迷っているのである。
したがって、心を安寧にすることができない。
だから、兌びを商れり、未だ寧からず、という。
この迷いの原因は、六三が兌口の主で好言甘語が巧みな陰邪なことによるのであって、言わば人の身を苦しめる疾病みたいなものである。
さらに言えば、六三に比し悦ぶのは私の情欲であり、同徳の九五に比し悦ぶのは、公であり正義である。
陽剛の君子ならば、私の情欲を捨てて、公の道の正義に従事するべきである。
六三と比し親しむことは身に疾病を抱えるようなものであって、そのようであればいつか九四は道を失う。
このような時であるからこそ、九四は暫らく己が陽剛の徳を以って、節操を堅固にし、六三の巧言便口の比爻を絶し離して、一に九五の君上に従い悦ぶべきなのである。
そうすれば、必ず喜びがあるものである。
これは疾病が癒えて喜ぶのと同様である。
だから、疾に介たれば喜び有るべし、という。
上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
九五、孚于剥有、
九五(きゅうご)、剥(はく)に孚(まこと)あれば(あやう)きこと有(あ)り、
剥とは陰邪なるものの陽正なる者を削り落とすの義にして、ここでは上六の陰柔を指している。
もとより九五は君の位に在って、剛健中正の徳が有るとともに、上六と密比している。
その上六は陰柔不中の爻にして、不満を抱えて全卦の極にいる兌口の主であり、巧言便口を以って悦びを求めようとする者である。
これは九五の徳を輔佐する者ではない。
しかし九五は、これと陰陽密比しているので、親しみ睦もうとする。
さらには、陰陽密比しているので、九五は上六を信用し切ってしまいやすい。
とすると、その上六の陰柔のために、九五の徳は剥し尽くされるというものである。
上六の巧言佞媚を悦んで信用すれば、大変なことになり、危険である。
だから、剥に孚あればきこと有り、という。
上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━
上六、引兌、
上六(じょうりく)、引(ひ)きて兌(よろこ)ぶ、
この爻は兌の悦ぶの主であるとともに、成卦の主爻にして悦ぶの卦の極に在る。
したがって、自分が悦ぶの至極なるを以って、人もまたその悦ぶ様子に感じ引かれて来たり集まり悦ぶのである。
だから、引きて兌ぶ、という。
ただし、その悦ぶところの邪と正とによって、その吉凶は異なる。
したがって、吉凶の辞は付いていないのである。
なお、この爻の義は、九五の爻にては、巧言便口を以って佞媚を薦めて君の徳を剥すところの陰邪な小人としているが、この上六の本位では兌の卦極の義を主として、悦ぶの至極としている。
このように、爻の義は、どの爻から観るかで、その爻の意味合いが変わって来る場合がときどきあるので、注意が必要である。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


