
55 雷火豊 爻辞
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○
初九、遇其配主、雖旬无咎、往有尚、
初九(しょきゅう)、其(そ)の配主(はいしゅ)に遇(あ)えり、旬(ひとし)と雖(いえど)も咎(とが)无(な)し、往(ゆ)けば尚(たっと)ばるること有(あ)り、
この卦は、上卦震と下卦離を合わせて、「明らかにして動く」という義象であり、そうであるのなら、事の上においても、物の上においても、その勢いは盛大であって、卦名も卦辞も、豊多盛大の義を主意としている。
しかし、爻辞の場合は、内卦離の日の上に二陰の物が有り、日の光を覆い暗ますという象義を取って、書かれていて、明らかな者は隠蔽され、賢者は暗まされる、ていう義とする。
そこで、爻の象義を以って観る時には、地火明夷の卦のやや軽い象とする。
地火明夷は、上卦坤の三陰の暗い物を以って内卦離の日の明るさを覆い暗まし夷(やぶ)るという義である。
この雷火豊の卦は、六五上六の二陰の暗い物を以って内卦離の日の明を覆い暗ますという義である。
したがって、明夷よりは一陰爻だけ軽いのである。
要するにこの卦は、卦と爻と別義なのである。
さて、初九の爻も、覆い暗まされる時に遇っているわけだが、幸いに初九は、上の六五上六の二陰邪の爻とは応比の関係にないので、その係累ではなく、覆い暗まされるという義を以ってしては書かない。
そして、初九も九四も共に陽剛なので普通は相応じていないとする。
しかし、初九は内卦離明の卦の一体の陽剛であり、九四は外卦震の動くの卦の一体の陽剛にして、明動相助けて、その覆い暗ますところの難(なや)みを、相助け合って脱するという意味が有るので、相応じるの義とする。
これを同徳相応じるという。
だから、其の配主に遇えり、という。
配とは対等の義にして、九四と初九が同じ陽剛だということを指す。
主とは、これを尊び呼ぶの義である。
本来であれば、両剛相応じることは咎が有るものだが、今は覆い暗ます時なので、明動相助けて、二陰邪の覆い暗ます難みを脱することが先決である。
したがって、同徳相応じるの変例によって、咎を免れるのである。
だから、旬と雖も咎无し、という。
旬とは均等の義にして、初も四も共に同じ陽剛であることを指す。
しかも、同徳相応じるは、単に咎がないのみでなく、往きてこれを助けるときには、九四も必ず初九を尊崇するようになるものである。
だから、往けば尚ばるること有り、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━
六二、豊其蔀、日中見斗、往得疑疾、有孚発若吉、
六二(りくじ)、其(そ)の蔀(しとみ)を豊(おお)いにせらる、日中(にっちゅう)に斗(と)を見(み)る、往(ゆ)くは疑(うたが)い疾(にく)まるることを得(え)ん、孚(まこと)有(あ)って発若(はつじゃく)たれば吉なり、
六二は離明の主にして、賢明な者である。
もとより六五君位の爻は応爻だが、六五は元来陰暗なので、却って六二が忠臣であることに気付かず、これに害応して覆い暗まそうとする。
だから、其の蔀を豊いにせらる、という。
蔀とは、明かりを遮蔽する物で、六五がその蔀を大にして、六二を暗ます義である。
そして、明るい日中であっても、上に陰物が有り、これを覆い暗ますときには昏暗にして夜陰のようになり、北斗七星をも見えるに至る。
だから、日中に斗を見る、という。
昔は、快晴の日に部屋を暗くして北向きの小窓から空を見上げると、実際に星が微かに見えることがあったらしい。
今は大気汚染などで、まず見えないが・・・。
ともあれ、これは六五が六二を深く覆い暗ますことを喩えたのである。
さて、この時に当たって六二の臣は、忠臣であるので、なんとか六五の君を輔けに行こうと欲する。
しかし六五は陰暗なので、却って六二を疑い疾んで、その輔けを拒んでしまう。
だから、往くは疑い疾まるることを得ん、という。
このような時に六二がするべきことは、己の無二の忠貞の誠を凝して、六五の心を感じ発させることである。
だから、孚有りて発若たれば吉なり、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━
九三、豊其沛、日中見沫、折其右肱、无咎、
九三(きゅうさん)、其(そ)の沛(とばり)を豊(おお)いにす、日中(にっちゅう)に沫(ばい)を見(み)る、其(そ)の右肱(うこう)を折(たお)る、咎(とが)无(な)し、
沛とは、幕の類にして、その覆い暗ますことが蔀よりもさらに深いことの喩えである。
沫とは、北斗星などとは違う名も無い小さく弱々しく光る星のことである。
暗まされることが愈々甚だしく、日中に小さく弱々しく光る星さへも見える、ということである。
そもそも九三は離明の卦の一体に在って、上は上六の爻に害応されている。
その害応するところの上六は、覆い暗ますところの主にして、人を暗ますことは六五よりも甚だしい。
だから、其の沛を豊いにす、日中に沫を見る、という。
右肱とは、右の腕を指す。
右は利き手にして、有用の股肱の臣という義である。
ただし、この九三の爻は、上六の応位なので、上六の股肱の忠臣である。
としても、上六は昏暗残忍の主なので、自己の悪を助けて諂い媚びる者でないと、却ってこれを不忠、不良と思う。
そこで、真面目な忠臣である股肱の輔弼の九三を害応して、毀折(きせつ)する。
これは愚昧の至り、昏暗の極たる者である。
だから、其の右肱を折る、という。
しかし、害されたとしても、それは九三に落ち度があるわけではない。
だから、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
九四、豊其蔀、日中見斗、遇其夷主吉、
九四(きゅうし)、其(そ)の蔀(しとみ)を豊(おお)いにせられ、日中(にっちゅう)に斗(と)を見(み)る、其(そ)の夷主(いしゅ)に遇(あ)えば吉(きち)なり、
この爻は、六五に害比されているので、六五のために覆い暗まされるのは、六五に害応されている六二と相同じである。 だから六二と同じように、其の蔀を豊いにせらる、日中に斗を見る、という。
さて、九四はそもそも初九の応の位だが、共に陽剛なので、相応じ難い。
九四は外卦震の動くの主にして、自分から何かをやるという行動力のある爻であり、初九は内卦離の文明の一体にして、剛正である。
今は、六五上六の二陰邪が天下を覆い暗まそうとする時なので、九四と初九の両陽剛は同徳を以って相応じ助けて、覆い暗まされる難みを脱すべき大義が有る。
したがって、速やかに初九に遇って、互いに相親しみ相助ける時には、吉なのである。
だから、其の夷主に遇えば吉なり、という。
夷とは、ここでは蔑みの意ではなく、同等という意である。
九四と初九が同じ陽剛だから同等であるとして、夷と言う。
主とは、その徳を尊ぶ辞である。
上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
六五、来章、有慶誉、吉、
六五(りくご)、章(あや)を来(き)たすべし、慶(よろこ)び誉(ほま)れ有(あ)らん、吉(きち)なり、
この卦の諸爻にては、六五と上六との二陰邪の爻を以って天下の賢明なる者を覆い暗ますという義を以って、爻辞が書かれている。
しかしこの六五の爻に至っては、いささか事情が異なる。
六五は柔中の君だが、今は上六の陰暗昏迷の姦人が天下の明を暗ます時である。
としても、六五の君は陰弱微力にして、これを正し明らかにすることができないばかりか、遂には六五も上六のために昏迷させられて、その結果、己が身も位も共に安寧にならない君なのである。
したがって、六五の君には、身と位を安寧にする道を教え諭すのである。
章とは、六二中正にして内卦離の文明の主たる者を指す。
もとより六五は、六二とは応の位だが、共に陰爻なので、相応じようとはしない。
しかし今、六五は君の位に居て、柔中の徳が有る。
とは言っても、今は昏暗の時にして、身も位も安寧ではない。
この時に当たって、六五の君が、その身と位とを安寧にしたいのならば、一にその応の位である六二中正の徳が有る文明の賢臣に応じて、心を降してこれを迎え来らすことである。
そうすれば、自然に身と位とが安寧になるだけではなく、なお余りある慶びと、後世までの誉れが有るものである。
だから、章を来たすべし、喜び誉れ有らん、吉なり、という。
上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
上六、豊其屋、蔀其家、闚其戸、闃其无人、三歳不覿、凶、
上六(じょうりく)、其(そ)の屋(やね)を豊(おお)いにし、其(そ)の家(いえ)を蔀(しとみ)にす、其(そ)の戸(と)を闚(うかが)えば、闃(げき)として其(そ)れ人(ひと)无(な)し、三歳(さんさい)まで覿(み)ず、凶(きょう)なり、
この卦は諸爻ともに覆い暗まされる時であって、その覆い暗ます者は、上六と六五の二陰爻である。
その二陰の中でも、特に上六は、覆い暗ます魁首である。
これは、地火明夷の上六とその義は同様である。
さて、人の賢明なるを覆い暗ます者は、そもそも己が昏暗なのである。
それはまず、私欲を以っ十分に己が明徳を覆い暗まし、少しも明るさがなく、人を覆い暗ますことをするのである。
これは至愚至暗の小人の常である。
少しでも明るさがあれば、人を暗まし人を悩ませることを、快いとは思わないものである。
今、上六は陰暗にして高く卦の極に居て、情欲私曲を以って、天授の自身の明徳を覆い汚し、残忍刻暴の者となり、人の賢明を悉くに覆い暗ますのである。
これを以って、その障蔽の重なり覆えることは、至って厚く強く、昏暗の甚だしいことは誰にも負けない。
だから、其の屋を豊いにし、其の家を蔀にす、という。
なお、其の屋を豊いにし、とは、他を覆い暗ますことを指し、其の家を蔀にす、とは、己の明徳を覆い暗ます義を言う。
その上、上六は陰邪にして卦の極に居るので、その志気も高ぶり傲慢で、その心は残忍酷烈である。
これを以って、内外親疎共に誰一人として親しみ輔ける者はいない。
このようであっては、誰からも歓迎されず、孤独である。
だから、この旨を喩えて、其の戸を闚えば、闃として其れ人无し、という。
このような残忍な者は、例え何年経っても、誰も親しみ輔けてはくれない。
これは凶の至極である。
だから、三歳まで覿ず、凶なり、という。
三歳とは、厳密な年数ではなく、多年の義であり、覿ずとは、訪ねて来る人がいない、という義である。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○
初九、遇其配主、雖旬无咎、往有尚、
初九(しょきゅう)、其(そ)の配主(はいしゅ)に遇(あ)えり、旬(ひとし)と雖(いえど)も咎(とが)无(な)し、往(ゆ)けば尚(たっと)ばるること有(あ)り、
この卦は、上卦震と下卦離を合わせて、「明らかにして動く」という義象であり、そうであるのなら、事の上においても、物の上においても、その勢いは盛大であって、卦名も卦辞も、豊多盛大の義を主意としている。
しかし、爻辞の場合は、内卦離の日の上に二陰の物が有り、日の光を覆い暗ますという象義を取って、書かれていて、明らかな者は隠蔽され、賢者は暗まされる、ていう義とする。
そこで、爻の象義を以って観る時には、地火明夷の卦のやや軽い象とする。
地火明夷は、上卦坤の三陰の暗い物を以って内卦離の日の明るさを覆い暗まし夷(やぶ)るという義である。
この雷火豊の卦は、六五上六の二陰の暗い物を以って内卦離の日の明を覆い暗ますという義である。
したがって、明夷よりは一陰爻だけ軽いのである。
要するにこの卦は、卦と爻と別義なのである。
さて、初九の爻も、覆い暗まされる時に遇っているわけだが、幸いに初九は、上の六五上六の二陰邪の爻とは応比の関係にないので、その係累ではなく、覆い暗まされるという義を以ってしては書かない。
そして、初九も九四も共に陽剛なので普通は相応じていないとする。
しかし、初九は内卦離明の卦の一体の陽剛であり、九四は外卦震の動くの卦の一体の陽剛にして、明動相助けて、その覆い暗ますところの難(なや)みを、相助け合って脱するという意味が有るので、相応じるの義とする。
これを同徳相応じるという。
だから、其の配主に遇えり、という。
配とは対等の義にして、九四と初九が同じ陽剛だということを指す。
主とは、これを尊び呼ぶの義である。
本来であれば、両剛相応じることは咎が有るものだが、今は覆い暗ます時なので、明動相助けて、二陰邪の覆い暗ます難みを脱することが先決である。
したがって、同徳相応じるの変例によって、咎を免れるのである。
だから、旬と雖も咎无し、という。
旬とは均等の義にして、初も四も共に同じ陽剛であることを指す。
しかも、同徳相応じるは、単に咎がないのみでなく、往きてこれを助けるときには、九四も必ず初九を尊崇するようになるものである。
だから、往けば尚ばるること有り、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━
六二、豊其蔀、日中見斗、往得疑疾、有孚発若吉、
六二(りくじ)、其(そ)の蔀(しとみ)を豊(おお)いにせらる、日中(にっちゅう)に斗(と)を見(み)る、往(ゆ)くは疑(うたが)い疾(にく)まるることを得(え)ん、孚(まこと)有(あ)って発若(はつじゃく)たれば吉なり、
六二は離明の主にして、賢明な者である。
もとより六五君位の爻は応爻だが、六五は元来陰暗なので、却って六二が忠臣であることに気付かず、これに害応して覆い暗まそうとする。
だから、其の蔀を豊いにせらる、という。
蔀とは、明かりを遮蔽する物で、六五がその蔀を大にして、六二を暗ます義である。
そして、明るい日中であっても、上に陰物が有り、これを覆い暗ますときには昏暗にして夜陰のようになり、北斗七星をも見えるに至る。
だから、日中に斗を見る、という。
昔は、快晴の日に部屋を暗くして北向きの小窓から空を見上げると、実際に星が微かに見えることがあったらしい。
今は大気汚染などで、まず見えないが・・・。
ともあれ、これは六五が六二を深く覆い暗ますことを喩えたのである。
さて、この時に当たって六二の臣は、忠臣であるので、なんとか六五の君を輔けに行こうと欲する。
しかし六五は陰暗なので、却って六二を疑い疾んで、その輔けを拒んでしまう。
だから、往くは疑い疾まるることを得ん、という。
このような時に六二がするべきことは、己の無二の忠貞の誠を凝して、六五の心を感じ発させることである。
だから、孚有りて発若たれば吉なり、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━
九三、豊其沛、日中見沫、折其右肱、无咎、
九三(きゅうさん)、其(そ)の沛(とばり)を豊(おお)いにす、日中(にっちゅう)に沫(ばい)を見(み)る、其(そ)の右肱(うこう)を折(たお)る、咎(とが)无(な)し、
沛とは、幕の類にして、その覆い暗ますことが蔀よりもさらに深いことの喩えである。
沫とは、北斗星などとは違う名も無い小さく弱々しく光る星のことである。
暗まされることが愈々甚だしく、日中に小さく弱々しく光る星さへも見える、ということである。
そもそも九三は離明の卦の一体に在って、上は上六の爻に害応されている。
その害応するところの上六は、覆い暗ますところの主にして、人を暗ますことは六五よりも甚だしい。
だから、其の沛を豊いにす、日中に沫を見る、という。
右肱とは、右の腕を指す。
右は利き手にして、有用の股肱の臣という義である。
ただし、この九三の爻は、上六の応位なので、上六の股肱の忠臣である。
としても、上六は昏暗残忍の主なので、自己の悪を助けて諂い媚びる者でないと、却ってこれを不忠、不良と思う。
そこで、真面目な忠臣である股肱の輔弼の九三を害応して、毀折(きせつ)する。
これは愚昧の至り、昏暗の極たる者である。
だから、其の右肱を折る、という。
しかし、害されたとしても、それは九三に落ち度があるわけではない。
だから、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
九四、豊其蔀、日中見斗、遇其夷主吉、
九四(きゅうし)、其(そ)の蔀(しとみ)を豊(おお)いにせられ、日中(にっちゅう)に斗(と)を見(み)る、其(そ)の夷主(いしゅ)に遇(あ)えば吉(きち)なり、
この爻は、六五に害比されているので、六五のために覆い暗まされるのは、六五に害応されている六二と相同じである。 だから六二と同じように、其の蔀を豊いにせらる、日中に斗を見る、という。
さて、九四はそもそも初九の応の位だが、共に陽剛なので、相応じ難い。
九四は外卦震の動くの主にして、自分から何かをやるという行動力のある爻であり、初九は内卦離の文明の一体にして、剛正である。
今は、六五上六の二陰邪が天下を覆い暗まそうとする時なので、九四と初九の両陽剛は同徳を以って相応じ助けて、覆い暗まされる難みを脱すべき大義が有る。
したがって、速やかに初九に遇って、互いに相親しみ相助ける時には、吉なのである。
だから、其の夷主に遇えば吉なり、という。
夷とは、ここでは蔑みの意ではなく、同等という意である。
九四と初九が同じ陽剛だから同等であるとして、夷と言う。
主とは、その徳を尊ぶ辞である。
上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
六五、来章、有慶誉、吉、
六五(りくご)、章(あや)を来(き)たすべし、慶(よろこ)び誉(ほま)れ有(あ)らん、吉(きち)なり、
この卦の諸爻にては、六五と上六との二陰邪の爻を以って天下の賢明なる者を覆い暗ますという義を以って、爻辞が書かれている。
しかしこの六五の爻に至っては、いささか事情が異なる。
六五は柔中の君だが、今は上六の陰暗昏迷の姦人が天下の明を暗ます時である。
としても、六五の君は陰弱微力にして、これを正し明らかにすることができないばかりか、遂には六五も上六のために昏迷させられて、その結果、己が身も位も共に安寧にならない君なのである。
したがって、六五の君には、身と位を安寧にする道を教え諭すのである。
章とは、六二中正にして内卦離の文明の主たる者を指す。
もとより六五は、六二とは応の位だが、共に陰爻なので、相応じようとはしない。
しかし今、六五は君の位に居て、柔中の徳が有る。
とは言っても、今は昏暗の時にして、身も位も安寧ではない。
この時に当たって、六五の君が、その身と位とを安寧にしたいのならば、一にその応の位である六二中正の徳が有る文明の賢臣に応じて、心を降してこれを迎え来らすことである。
そうすれば、自然に身と位とが安寧になるだけではなく、なお余りある慶びと、後世までの誉れが有るものである。
だから、章を来たすべし、喜び誉れ有らん、吉なり、という。
上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
上六、豊其屋、蔀其家、闚其戸、闃其无人、三歳不覿、凶、
上六(じょうりく)、其(そ)の屋(やね)を豊(おお)いにし、其(そ)の家(いえ)を蔀(しとみ)にす、其(そ)の戸(と)を闚(うかが)えば、闃(げき)として其(そ)れ人(ひと)无(な)し、三歳(さんさい)まで覿(み)ず、凶(きょう)なり、
この卦は諸爻ともに覆い暗まされる時であって、その覆い暗ます者は、上六と六五の二陰爻である。
その二陰の中でも、特に上六は、覆い暗ます魁首である。
これは、地火明夷の上六とその義は同様である。
さて、人の賢明なるを覆い暗ます者は、そもそも己が昏暗なのである。
それはまず、私欲を以っ十分に己が明徳を覆い暗まし、少しも明るさがなく、人を覆い暗ますことをするのである。
これは至愚至暗の小人の常である。
少しでも明るさがあれば、人を暗まし人を悩ませることを、快いとは思わないものである。
今、上六は陰暗にして高く卦の極に居て、情欲私曲を以って、天授の自身の明徳を覆い汚し、残忍刻暴の者となり、人の賢明を悉くに覆い暗ますのである。
これを以って、その障蔽の重なり覆えることは、至って厚く強く、昏暗の甚だしいことは誰にも負けない。
だから、其の屋を豊いにし、其の家を蔀にす、という。
なお、其の屋を豊いにし、とは、他を覆い暗ますことを指し、其の家を蔀にす、とは、己の明徳を覆い暗ます義を言う。
その上、上六は陰邪にして卦の極に居るので、その志気も高ぶり傲慢で、その心は残忍酷烈である。
これを以って、内外親疎共に誰一人として親しみ輔ける者はいない。
このようであっては、誰からも歓迎されず、孤独である。
だから、この旨を喩えて、其の戸を闚えば、闃として其れ人无し、という。
このような残忍な者は、例え何年経っても、誰も親しみ輔けてはくれない。
これは凶の至極である。
だから、三歳まで覿ず、凶なり、という。
三歳とは、厳密な年数ではなく、多年の義であり、覿ずとは、訪ねて来る人がいない、という義である。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
![]() | 聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く (2005/04) 水上 薫 商品詳細を見る |
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


