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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

震為雷爻辞

51 震為雷 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、震来虩々、後笑言唖々、吉、

初九(しょきゅう)、震(しん)来(き)たりて虩々(げきげき)たり、後(のち)には笑言(しょうげん)唖々(あくあく)たり、吉(きち)なり、

まず、初九の爻は、正を得ている上に、内卦震雷の主にして、成卦の主爻でもある。
したがって、この爻は、卦辞の一部を取って爻の辞としている。
なお、後(後には)の一字を加えているのは、解釈の意を丁寧に示しているのである。
もとよりこの爻は、正を得て成卦の主爻であって、震雷が迫り撃つような危難に出遇うとしても、とにかく恐れ慎み時が過ぎるのを待っていれば、やがて自然に危難は過ぎ免れて、笑い合えるようになるのである。
だから、震来たりて虩々たり、後には笑言唖々たり、吉なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、震来、意喪貝、躋于九陵、勿逐、七日得、

六二(りくじ)、震(しん)来(き)たりて(あやう)し、意(はか)って貝(ばい)を喪(うしな)えり、九陵(きゅうりょう)に躋(のぼ)るべし、逐(お)うこと勿(なか)れ、七日(なのか)にして得(え)ん、

この卦は、二つの雷が震い起きる象である。
しかし六二は、陰柔にして、震雷の主爻である初九成卦の主の険に乗っている。
これは、危難が切迫している様子である。
だから、震来たりてし、という。

およそ人が危難切迫の時に当たっては、身一つで逃げるべきである。
もし、家の中に財貨などを残しておくのを惜しみ、無理に持ち出そうとすれば、得てしてその危難を脱することはできず、却って身命をも共に喪うものである。
身命と財貨とは、これ共に人情の愛惜するものだが、その軽重は天地が遥かに隔たっているのと同様に、言わずもがな明らかである。
とすると、財貨を惜しんで身命を落とすのは、至って愚かなことである。
今、幸いにもこの六二の爻は、中正なるを以って、よくその軽重を意(はか)って、その財貨を喪うことを厭わず、身一つで安全な場所に避難する器量がある。
だから、意って貝を喪えり、九陵に躋るべし、という。
貝とは財貨のことである。
古代には貝が通貨の役割をしていた。
だから、貨幣や財貨の貨の字には、貝がついているのである。
九陵とは、高遠のところすなわち、遠く危難の及ばない場所の喩えである。

そして、残した財貨に逐い縋ることなく、身命さえ保っていれば、その財貨は時が来ればまた復(かえ)り得られるものである。
だから、逐うこと勿れ、七日にして得ん、という。
七日とは、一爻を一日として一卦六爻が終わることを指す。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、震蘇々、震行无眚、

六三(りくさん)、震(しん)のとき蘇々(そそ)たり、震(しん)行(ゆ)きされば眚(わざわ)い无(な)し、

六三は陰柔不中不正にして、上下二つの雷の間に挟まっているとともに、内卦震動の卦極に居る。
これを以って、種々の危難に遇うことを示唆する。
そもそも人が危難の夥しいときには、生きた心地がしない。
危難のたびに何度も死んで、危難がちょっと落ち着くと生き返る。
その様子を形容して蘇々という。
だから、震のとき蘇々たり、という。

しかし、危難に遇うとしても、元来自分自身が引き起こした危難ではなく、雷が過ぎ去れば、災いも同時に終息するのである。
だから、震行けば眚无し、という。
眚とは、人為の災害をいう。
眚い无しとは、咎无しというのとほぼ同義である。


上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四、震遂泥、

九四(きゅうし)、震(しん)遂(つい)に泥(なず)めり、

この爻も初九と同じく震雷の主である。
しかし、初爻は下卦にして成卦の主でもあり本である。
この九四は末である。
したがって、初九はその勢い強く盛んな震雷にして、九四はその勢い弱く衰えている震雷である。
そこで、初九にては、震来たりて虩々たり、とあるが、この九四では、震遂に泥めり、という。
泥むとは、雷がエネルギーを使い果たした様子の表現である。
エネルギーを使い果たした雷なので、恐れる要素は初二三よりも軽い。
したがってこの爻には、凶悔吝などの辞はついていないのである。


上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六五、震往来、意无喪有事、

六五(りくご)、震(しん)往(ゆ)き来(き)たりて(あやう)し、意(はか)って有事(ゆうじ)を喪(うしな)うこと无(なか)れ、

ここでの有事とは、祭祀のことを指す。
さて、六五は二雷の上に居る。
これは、漸く一雷の恐怖が過ぎてホッとしたと思ったら、また一雷が下より震い来る様子であって、危難に驚き恐れている象である。
そもそも六五は君位に在って中を得ているわけだが、陰弱にして威重は薄く、六二の大臣もまた陰弱にして輔佐する能力が足りず、なおかつ九四は近君の位に迫り居って、陽剛にして外卦震の威権を逞しくしている。
しかも、初九は成卦の主にして、陽剛にして内卦震の主である猛勢を下に振るっている。
これは二つの雷が続き震い来るのと同等に、人事の時勢が至っていときである。
だから、震往き来たりてし、という。

まして六五の爻は、至尊の君位なので、諸余の爻の危難に対処するとは、その道理大義が同じではない。
六二の爻ならば、財貨を喪ってもその身命を保全すれば、それで道理に適っているわけだが、今、六五の君位の爻が重んずるのは宗廟社稷である。
宗廟社稷は、安易に喪ってよいものではない。
身命を委ね致して、よく意(はか)って守護して保持しなければいけない。
これが諸余の爻と同じではない道理である。
だから、意って有事を喪うこと无れ、という。
この言葉は、卦辞の震百里を驚かせども匕鬯を喪わず、と同義だが、六五君位なので、これを有事と表現する。
有事とは、国家を運営するに当たっての一番大事なことをいう。
宗廟社稷を守護し、保有するためには、君徳が崇く盛んにして、仁政恩沢が四海に満ち溢れるようであることが大事である。


上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上六、震索々、視矍々、征凶、震不于其躳、于其鄰、无咎、婚媾有言、

上六(じょうりく)、震(しん)のとき索々(さくさく)たり、視(み)ること矍々(きゃくきゃく)たり、征(ゆ)けば凶(きょう)なり、震(しん)其(そ)の躳(み)に于(お)いてせず、其(そ)の鄰(となり)に于(お)いてす、婚媾(こんこう)には言(ものい)い有(あ)り、

上六は陰柔にして、震動の卦の極に居り、二雷が震い起きる時に当たって、恐怖の極に出遇っているのである。
したがって、その志気は消え沈み、何かを視ようとしても慌てて視点が定まらない。
だから、震のとき索々たり、視ること矍々たり、という。
索々とは、志気が尽きた様子、矍々とは、慌てて視る様子である。
慌てて視るというのは、心神顛覆混乱の義である。
このようであれば、何をするにもよくない。
まして今は、危難の極にして、言わば、どうしてよいかわからず、狼狽しているのである。
だから、征は凶なり、という。
征は、ここではどこかへ行くということではなく、何かを行うという義である。

さて、卦象を以って言うときは、二雷の震い起こる象である。
爻象を以って言うときは、六五は九四震の主に迫り近く、この上六は、六五を中に隔てている。
これは、雷がその隣に震ってはいるが、我が身には震わない象である。
だから、震其の躳に于いてせず、其の鄰に于いてす、という。

最後の、婚媾には言い有り、というのは、別象別義である。
おそらく、周易が体系化される前からある卜筮の言葉なのであろう。

この解釈は、まず、陽を男とし、陰を女とする。
上六は陰爻なので女子とする。
初と四とは、卦中の二陽爻なので男子とする。
しかし、上六から初九までは遠いので求め難い。
そこで九四に求める。
としても、九四は上六の応位ではないので、これも和合する位ではない。
要するに、上六の陰の女性が婚姻を求めても、相手となる男性は応でも比でもないので、縁を結ぶのは容易ではないのである。
だから、婚媾には言い有り、という。
婚媾とは、結婚、婚姻といった意である。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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震為雷

51 震為雷(しんいらい)
shinirai.gif 震下震上(しんか しんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

この卦は八卦の震を重ねた形。
震とは動くという意。
八卦の震は一陽が二陰の下に在るが、陽はそもそも上り進む性質のものである。
とするとこの一陽は、二陰の下に抑えつけられていることになる。
陽ならば、それをよしとはしない。
憤激して動き出そうとするものである。
だから震と名付けられた。

卦辞
震、亨、震来虩虩、笑言唖唖、震驚百里、不喪匕鬯、

震は、亨(とお)る、震(しん)来(き)たりて虩虩(げきげき)たり、笑言(しょうげん)唖唖(あくあくたり)、震(しん)百里(ひゃくり)を驚(おどろ)かせども、匕鬯(ひちょう)を喪わず、

震は動くであり、やればできる、ということである。
やればできる、というのは、今は二陰の下に抑えつけられていても、陽にはそれを跳ね除けて上に行く能力がある、ということである。
動いて、やればできるのであれば、万般のことは遂げられるものである。
だから、亨る、という。
また、震は雷であり、雷は陽気の発動であり、よく欝蟄の気を払い散らす。
気分がよくなれば、物事は亨通するものである。
だから、亨る、という。
そもそも六十四卦のうちで、勢いということを示すのは、震の卦だけである。
しかし勢いというのは、天の時と地の利と兼ね合わせ至るものであり、亨るとは時機が熟したことをいう。

さて、震雷が来たときには、君子ならばどうするべきかだが、震来たりて以下が、その対処についてである。
震来るというのは、雷が近づいて来たこと、虩虩とは、恐れ慄き驚いている様子をいう。
雷が近づくと、誰でもその音にびっくりするから、このように、震来りて虩虩たり、という。
しかし、いつしか遠ざかり、雨も上がり、晴れ間が除くと、みんなホッと安んじて笑い、雷の様子を言い合ったりする。
唖唖とは、笑い合っている様子のことをいう。
だから、笑言唖唖たり、という。

要するに震雷とは、音は大きくまるで百里先まで驚かせるようであっても、静かにしていれば、そのうち去って行くものである。
だからこそ、君子ならば冷静さを失わないことである。
例えば、神事を行っているのなら、雷の音に驚き震え上がって匕鬯を落としてしまうなんてのは、もってのほかである。
普段よりも慎重丁寧に扱い、いつ驚かされても大丈夫なように覚悟を決めて事を行うようにしたいものである。
匕とは鼎の中から実を掬い上げてお供えの器に移す匙(さじ)、鬯は祭祀に使う香酒のことである。
だから、震百里を驚かせるも、匕鬯を喪わず、という。

この卦は震を二つ重ねた卦であることから、雷が次々に震い起きる様子である。
だから雷をもって辞が設けられているのだが、これを社会に於いて言えば、雷が次々に来るような危難があることを示唆する。
そんなときは、雷のときと同様に、覚悟を決め、努めて平常心でいることである。
そうすれば、災い転じて福となすことにもなろう。

また、震は長男を意味し、長男は祖先の祭祀を行う者である。
だから祭祀の道具である匕鬯を例に出すのであって、震雷のような危難に遭遇しても、祭祀を行うときのように恐れ敬い慎んで行動すれば危難はいつしか去って行く、ということも、匕鬯を喪わず、という言葉に込めているのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
震亨、震来虩々、恐致福也、笑言唖々、後有則也、
震(しん)は亨(とお)る、震(ふる)い来(きた)りて虩々(げきげき)とは、恐(おそ)るれば福(ふく)を致(いた)す也(なり)、笑言(しょうげん)唖々(あくあく)たりとは、後(のち)には則(のっとること)有(あ)ると也(なり)

震驚百里、驚遠而懼邇也、
震(ふる)うこと百里(ひゃくり)を驚(おどろ)かすとは、遠(とお)くを驚(おどろ)かして而(しこう)して邇(ちか)きを懼(おそ)れしむる也(なり)、

不喪匕鬯、可以守宗廟社稷、以為祭主也、
匕鬯(ひちょう)を喪(うしな)わずとは、以(も)って宗廟(そうびょう)社稷(しゃしょく)を守(まも)り、祭主(さいしゅ)と為(な)す可(べ)きとなり、


象伝(原文と書き下しのみ)
洊雷震、君子以恐懼修省、
洊(かさな)りて雷(いかづち)なるは、震(しん)なり、君子(くんし)以(も)って恐懼(きょうかく)して修省(しゅうせい)す、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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