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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

沢水困 爻辞

47 沢水困 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、臀困于株木、入幽谷、三歳不覿、

初六(しょりく)、臀(いさらい)株木(しゅぼく)に困(くる)しみ、幽谷(ゆうこく)に入(い)る、三歳(さんさい)までも覿(み)ず、

およそ人が立っているときは、臀部は身の中程にある。
そこで、沢天夬の卦では九四の爻にて臀を言い、天風姤の卦にては九三の爻にて臀を言う。
これは、天風姤も沢天夬も、共に人が立って行くことを前提にしているからである。
これに対して、この沢水困の卦にては、臀を初爻にて言う。
およそ、人が座っているときは、臀が底下に在る。
そもそも困は、鉢植えの木を象った文字にして、根底幹枝共に畏縮して、自由に伸びることができない様子である。
株とは、土の上に在る木の根である。

さて、困の時に当たって、初六は陰柔不才にして不中不正であり、なおかつ下卦坎の険(なや)みの底に陥って出ることができない。
これは、木の株に座り、その臀部を傷(やぶ)るようなものである。
だから、臀株木に困しみ、という。
また、上卦の兌は谷とし幽とする卦であり、下卦の坎も穴とし幽とする卦である。
その上、陰爻もまた穴を意味する。
これは、幽谷に入っている様子でもある。
だから、幽谷に入る、という。

その幽谷に入ってしまったような険難に陥ると、初六は陰柔不才なので、自らその険みを脱し、困を免れる力がないどころか、不中不正なので思慮が浅く、容易に脱出の手がかりをすら、明らかに見出せない。
また、易で時間の経過を考えるときは、一年目が初爻、二年目が二爻、三年目が三爻といった具合になる。
このように初爻から数えると、三年目は三爻で、三爻はまだ下卦坎の険難の卦の一体である。
したがって、少なくとも三年目までは、坎の険難を脱出する手がかりすら見出せないのである。
だから、三歳まで不覿ず、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、困于酒食、朱紱方来、利用亨祀、征吉、无咎、

九二(きゅうじ)、酒食(しゅしょく)に困(くる)しむ、朱紱(しゅふつ)方(まさ)に来(き)たらんとす、亨祀(こうし)を用うるに利ろし、征(ゆ)くは吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、

酒とは宴楽の義、食とは頤養の義を指し、心を楽しませることを酒に喩え、身を養うことを食に喩えているのである。
九二は、剛中の才徳は有るが、内卦坎の険(なや)みの主にして、上に応爻の援助はない。
これは、未だ君に知られず、君に遇されていない者である。
したがって、眼前に困苦の民がいても、彼らを賑わし養い、宴楽させることができない。
これが九二の君子の困しみである。
だから、酒食に困しむ、という。

この時に当たって、九五の応位も、また困の時の君上にして、輔弼する臣がいないので、応位の九二に援助を求めて来る。
そもそも、この九二九五は、共に剛中なので、同徳相応じ、九五の君が九二の臣に輔けられる義があるのである。
そこで、九五は九二に援助を求めて招聘する。
朱紱とは天子の飾りにして、九五君位の爻を指す。
だから、朱紱方に来たらんとす、という。

九二が九五の招聘に応じて仕える時には、必ずその徳を庶民に施すことを得て、その従来の志の困窮するところのことは、一時に脱することを得る。
なおかつ、二五が同徳相応じるところの孚信を以って、誠敬を尽くして亨祀する時には、神人共に感じ格(いた)って必ず多福を降し来たし、庶民の困の難(なや)みを済(すく)うことを得るのである。
したがって、招聘に応じて九五に行き仕えることが一番よいのであって、九二と九五が陰陽正しく応じていなくとも、咎はないのである。
だから、亨祀を用うるに利ろし、征くは吉なり、咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、困于石、據于蒺*梨、入于其宮、不見其妻、凶、
*梨は正しくは草冠に梨という字で、茨など棘がある植物のこと。
この字(図形として作成)→ri_toge.gif
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、意味は異なるが音が同じ*梨で代用しておく。

六三(りくさん)、石(いし)に困(くる)しみ蒺*梨(しつり)に據(よ)る、其(そ)の宮(みや)に入(い)りて、其(そ)の妻(つま)を見(み)ず、凶(きょう)なり、

石とは九四を指し、蒺*梨とは九二を指す。
宮とは六三の居所、妻とは上六を指す。

今、困の時に当たって、六三は陰柔不才、不中不正にして、下卦坎の険(なや)みの卦の極に居る。
その上、応爻の援助はなく、九四の陽剛に承け、九二の陽剛に乗っている。
したがって、前に進もうとすれば九四の堅剛な石に遮られて進めず、後ろに退こうとすれば、九二の蒺*梨の鋭利な棘に刺され阻まれて退くこともできず、進退共に窮まっているのである。
これは、困窮の至って甚だしい者である。
だから、石に困しみ蒺*梨に據る、という。

まして六三は、九四の陽に承けると九二の陽に乗るという険みが有るだけではない。
自身の居所の六三の位もまた、坎の険みの極にして、あまつさえ上六の応位の妻が有るとしても、これもまた陰柔にして相応じてはいないので、その妻に会えない。
したがって、安んじるところがなく、援助もない。
困の至極、凶の最大なる者である。
だから、其の宮に入りても其の妻を見ず、凶なり、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九四、来徐々、困于金車、吝有終、

九四(きゅうし)、来(き)たること徐々(じょじょ)たり、金車(きんしゃ)に困(くる)しむ、吝(やぶさか)しけれども終(おわ)り有(あ)らん、

金とは陽剛の喩え、車とは進み行くことの喩えであり、金車とは九二の陽剛を指す。
もとより九四は、執政宰輔の位に居て、陽剛の才が有るとしても、今は困の時に当たって、一人を以って天下の困を済(すく)うことはできない。
そこで、在下の賢者を得て、これと共に力を合わせて、天下の困を済おうと欲する。
しかし今、在下の剛明の才徳がある者は、九二以外にはない。
その九二は下卦坎の険(なや)みの主にして、その身も険みに陥っているので、自家の困の険みも甚だしい。
なおかつ九四の爻とは、応でもなければ比でもない。
したがって、呼んでも来ることは徐々として遅く緩い。
これは九四の困(なや)むところである。
だから、来たること徐々たり、金車に困しむ、という。

そもそも九四は執政の任に当たり、宰相の職に居るわけだが、このような天下の困厄のときに遇って、慌てて済(すく)いを他人に求め、補佐を在下の賢者に乞い、困を済おうとするのは、普段からの備えを怠り、安易なことばかり考えていたからである。
このようであれば、天下後世から吝(いや)しめ笑われるものである。
九四は不中正なので、このような謗りを免れないのである。
しかし、一に天下のために賢者を求め、能力のある者に任せるのだから、その事業を成功させることはできる。
だから、吝しけれども終り有らん、という。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五、劓刖、困于赤紱、乃徐有説、利用祭祀、

九五(きゅうご)、劓(はなきら)れ刖(あしきら)れ、赤紱(せきふつ)に困(くる)しむ、乃(すなわ)ち徐(おもむろ)に説(よろこ)び有(あ)らん、祭祀(さいし)を用(もち)うるに利(よ)ろし、

劓(はなきら)れとは、上に在る者の困難の喩えであって、君上の困である。
刖(あしきら)れとは、下に在る者の困難の喩えであって、下民の困である。
赤紱(せきふつ)は諸侯の飾りにして、九二を指しての喩えである。

今、困の時に当たって、九五は君の位に居る。
そもそも人君の主たる務めは、天下の憂いを以って自身の憂いとし、天下の困苦を以って自身の困苦とすることである。
これを以って、上下の困難厄窮を一身に集め、自身が刑罰を受けているかのように苦しむ。
だから、劓れ刖れ、という。

もとより九五の爻は、剛健中正の徳が有るとしても、今、天命困窮の時にして、とても一人では天下億兆の困を済(すく)うことはできない。
そこで、九二の賢者が下に在るので、援助を求めようとするが、共に陽剛なので、相応じ難い。
これが九五の困(なや)むところである。
だから、赤紱に困しむ、という。

しかし、九五の君からすれば、九二以外に、応位の求めるべき者はいないので、心を専らにし、志をひとつにし、礼を崇(たか)くして、懇ろに九二の賢者を求めるべきである。
そうすれば、九二もまた剛中にして同徳相応じる象義があるので、時間はかかるが、必ずや来て九五を補佐してくれる。
九二が来て、君臣が徳を合わせれば、天下の困窮を済(すく)うことができる。
困窮から済われれば、大いに悦び楽しめる。
だから、乃ち徐に説び有らん、という。

さて、天下に君たらん人は、天下の困窮険難を見ては、一日片時も徒然として空しく過ごしてはいけない。
千慮百計して、以って困を済う方策を求めることは勿論であるが、粉骨砕身して人事人力を尽くしても解決しないことは、天地神明に祈り求めるべきである。
要するに、人事を尽くすだけでは足りないところを、祭祀を行い、天地神明に祈るのであって、今がその時その位なのである。
だから、祭祀を用うるに利ろし、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上六、困于葛藟、于臲*危、曰動悔、有悔往吉、
*危は正しくは兀に危という字で、コツと読み、意味は不安定なこと。
この字(図形として作成)→kotsu.gif
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、意味も音も異なるが似ている*危で代用しておく。

上六(じょうりく)、葛藟(かつるい)に、臲*危(げっこつ)に困(くる)しむ、曰(ここ)に動(うご)けば悔(く)いあり、悔(く)いあらためること有(あ)れば、往(ゆ)きて吉(きち)なり、

葛藟は蔓を延ばす植物のこと。
臲*危は不安定で危険な様子。

上六は、困の全卦の至極に居て、陰柔不才不中にして応の位の援助もない。
したがって、日夜共に居所に困(くる)しんで安んじることができない。
まるで、葛藟が高く樹上へ延び上がったように、不安定で危険である。
喩えれば、上六は陰柔の葛藟にして弱力なので、己が身は自立できない者である。
とすると、九五の剛木に比し絡みつき、己が身を安定させるべきなのである。
そして、その分を守り、そこに止まり居ればよいのだが、陰柔小人の常として、坐の下が暖まれば次第に欲を強くし、どんどん蔓を延ばし、ついには九五の木を離れて、なおも蔓を延ばし続け、手を出し足を垂れて、強い風に吹き動かされ、極めて不安定で危険な状態になるのである。
だから、葛藟に、臲*危に困しむ、という。

今、この困難危険な状態のときに、思慮工夫をしてなんとか打開しようとしても、所詮は陰柔不才であり、自力ではどうすることもできない。
付け焼刃で何かやろうとしても失敗する。
まして、応爻の助けもない。
したがって、妄りに動けば、悔いる結果になるだけである。
だから、曰に動けば悔いあり、という。

そこで上六は、自らの分を省みて、元来陰柔不才にして独立する能力がないことを自覚し、九五の大木に伏し従い居るべきである。
だから、悔いあらためること有れば往きて吉なり、という。
往きてとは、延び過ぎた手足を曲げ縮め、九五を凌がないようにし、深く引き退き、慎み惧れてその分を守り、九五の比の大木の恩を忘ないよう、改心することを指す。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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沢水困

47 沢水困(たくすいこん)
takusui.gif 坎下兌上(かんか だじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

困とは、苦しむ、困窮して自らの力では打開できない、という意。

易位生卦法によれば、もとは水沢節から来たものとする。
水沢節は、坎の水が兌の沢の上に在り、沢水が溢れず枯れずほどよくある様子である。
それが今、上下が入れ替わると、兌の水は悉く漏れ下り、この沢水困となる。
これは、沢水が涸渇した様子であり、困窮厄難を示す。
だから困と名付けられた。

また、内卦の坎は一陽二陰の間に陥り、二陰のために覆われている様子、外卦の兌は一陰が二陽の上に在り、これも二陽が一陰に覆われている様子である。
また、下の坎は陽卦、上の兌は陰卦であり、陰卦をもって陽卦を覆っている様子である。
また、陰は小人の道、陽は君子の道であり、陽を男子とし、陰を女子とすれば、君子は小人に覆われ、男子は女子に覆われている様子である。
男子が女子に覆われるというのは、男性が色仕掛けで誘惑する女性の言いなりになっていることである。
これらは、困窮の至って甚だしいことである。
だから困と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の六二が往きて上爻に居て、上九が来たって二爻に居るのが沢水困である。
その上六は兌沢の主爻であり、九二は坎水の主爻である。
これは兌沢より坎水が漏れ下り困窮している様子である。
天地否は否塞して通らないことだが、今、僅かに剛柔交代すれば、忽ちこのように困窮してしまう。
だから困と名付けられた。
また、天地否は塞がるという意の卦であっても、乾の純陽が上に位置し、坤の純陰が下に居る。
それが今、妄りにひとたび交わり動いただけで、忽ちこのように剛明なる者が柔暗なる者に覆われてしまう。
だから困と名付けられた。

卦辞
困、亨、貞、大人吉、无咎、有言不信、

困は、亨(とお)る、貞(ただ)しかるべし、大人(たいじん)は吉(きち)、咎(とが)无(な)し、言うこと有れども信ぜられじ、

この卦は、坎を険難、兌を悦ぶとすれば、険難のときに悦んでいる様子となる。
険難のときであっても悦んでいるのは、一見問題がありそうだが、実はこれこそ困のときの正しい道なのである。
天命に身を委ね、その困窮に甘んじ、時期を待つしかないときである。
徒に悩んでも解決するものではない。
とすれば、その険難に置かれている状況を悦び楽しみとするのが、一番精神衛生にもよいし、そのようにしていれば、人間としての器の大きさも評価されるのである。
逆に、困窮を脱しようと右往左往しても、おいそれとは脱出できないものである。
なんとか現状を打開するためにと、甘い見通しを立てて無理して金策に走り、結局は失敗し、さらに借金に借金を重ね、ついには泥沼に陥ることがあるように。
したがって、今置かれている険難の状況を悦び楽しむ余裕こそが大事なのである。
そうしていれば、やがて必ず困窮を脱するときが来るものである。
だから、困は亨る、貞しかるべし、という。
亨るというのは、今すぐにではない。
貞しく、というのは、この場合は、険難を悦ぶ余裕で耐えることである。
困のときだからこそ、貞しく険難を悦ぶ余裕で耐えていれば、いつか困窮から脱して、そのときに亨通する、ということである。
大人ならば、どんなに困窮しても、天を恨まず、他人を咎めず、ひたすら貞正の道を守り、険難を悦び、時が至るのを待つものである。
右往左往するのは小人である。
だから、大人は吉、咎无し、という。
咎无しとは、道に違はざることである。
これが小人ならば、凶、咎有り、ということになる。
およそ人は困苦のときに遇うと、必ずその困窮を緩和し、険難を脱しようと、数々の辛酸を舐め、恥辱を耐え、耳を低くして尾を伏せ、他人に哀れみを求め、救済を乞い、哀しみ訴えるものである。
しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有れども信じられじ、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
困、剛揜也、
困(こん)は、剛(ごう)揜(おお)はるる也(なり)、

険以説、困而不失其所亨、其唯君子乎、
険(けん)にして以(も)って説(よろこ)ぶ、困(くる)しんで而(しこう)して其(そ)の亨(とお)る所(ところ)を失(うしな)わざるは、其(そ)れ唯(ただ)君子(くんし)乎(か)、

貞、大人吉、以剛中也、
貞(ただ)しくせよ、大人(たいじん)なれば吉(きち)なりとは、剛中(ごうちゅう)なるを以(も)って也(なり)、

有言不信、尚口乃竆也、
言(い)うこと有(あ)りとも信(しん)ぜられずとは、口(くち)に尚(たよ)れば乃(すなわ)ち竆(きゅう)する也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
沢无水、困、君子以致命遂志、
沢(さわ)に水(みず)无(な)きは、困(こん)なり、君子(くんし)以(も)って命(めい)を致(いた)し志(こころざし)を遂(と)ぐ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
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