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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

掃除の時間は朱子学が起源だった!

日本の小学校では児童に掃除をさせる。

しかし欧米では、子供たちに掃除をさせることはない。

このことから、 子供たちに掃除をさせるのはよいことなのか悪いことなのか、
メディアでも、ときどき議論になる。

 

そんなとき、
なぜ日本の学校には掃除の時間があるのか?
という問いの答えとして用意されているのは、
江戸時代の寺子屋の頃にあった風習を引き継いだからだ、とか、
仏教では掃除を大事なことだとしているからだ、
といった曖昧な答えしかない。

 

これはおそらく、本当のことは言いたくない、
ということなのではないかと思う。

子供たちに掃除をさせるのは、
戦後教育が悪しきものとレッテルを貼っている朱子学の教育の基本だからだ。

 

朱子学とは、古典漢籍の解釈学のひとつで、
中国、宋の時代の朱熹が中心となってまとめあげたものである。

その朱子学では、四書と呼ばれる四つの入門書がある。

大学、中庸、論語、孟子だ。

このうちの大学と中庸は、
五経のひとつ礼記の大学篇と中庸篇を独立させたもので、
その大学は、権力の側の人間として相応しい人格、
どうすれば権力者が民衆から慕われるのかを書いたものである。

簡単に言えば、何事も私利私欲を捨て、公徳心を大切にし、
民衆の幸福を最優先に考えて行うことが第一だ、
ということである。

 

これに対して、
取り敢えず子供に教えるべき最低限の教養をまとめて、
朱子は小学という書物を作った。

 小学掃除

この画像は、明治時代に早稲田大学が出版した漢籍國字解全書のもので、
江戸時代、元禄の頃に活躍した中村惕斎という儒学者が、
漢籍を独学で勉強する人のためにと、
日本語で解説を施したものを、活字に直して復刻したものである。

漢籍國字解全書は戦後廃刊になったが、
今は国立国会図書館デジタルコレクションで公開しているので、
リンクを貼っておく。

漢籍國字解全書 小学 https://dl.ndl.go.jp/pid/1904123/1/16

その小学には、古者は小学にして人を教えるに、
灑掃(サイソウ)応対進退之節、愛親敬長、隆師親友之道を以ってす、
とある。

 

前半の灑掃応対進退之節は、次のようなことである。

灑は水を注いでチリを湿らすこと、
掃は地をはらってチリを除くことだから、合わせて灑掃で掃除のこと。

応は呼ぶに答える声、対は問いに答える言葉で、
要するに呼ばれたり質問されたら答えること、
簡単に言えば、名前を呼ばれたら「はい」と返事をする、といったこと。

進退の節は立ち居振る舞い、
授業の始まりや終わりにする「起立」「礼」「着席」のことなどである。

何かを教わるときには、
まず「よろしくお願いします」という気持ちを込めて一礼する。

正座しているときはそのまま上半身を前に倒して一礼すればよいが、
椅子に腰かけたまま一礼するのは失礼になる。

だから号令をかけて一度起立し、一礼して着席する。

授業が終わったときも、
「ありがとうございました」という気持ちを込めて一礼する。

なお、頭を下げるのは日本だけのことで、
古代中国では、拱手や揖をするのが礼になるようである。

後半の愛親敬長、隆師親友之道は、
親を慈しみ愛し、目上の人を敬い、
先生を尊び教えを受け、友と仲良くすることである。

 

要するに、
この灑掃、応対、進退をきちんと行い、
愛親、敬長、隆師、親友の気持ちを大切にする人間になることを目指すのが、
小学教育なのだ。

とにかく江戸時代の寺子屋ではこの小学に基づいて、
掃除や返事の仕方、授業の始まりや終わりの礼が行われ、
それが明治になって学校ができると、
これはよいことだとして引き継がれた、
ということなのだろう。

 

寺子屋はお寺だから朱子学=儒学に基づいて教育するのは変だ、
と思われるかもしれないが、
奈良平安の昔から、お寺は仏典と共に儒学を学ぶところでもあったのだ。

 

仏教のお経は漢文である。

今は大学でも現代語訳でお経の意味を勉強するのが一般的らしく、
普通のお寺では、漢文が読める僧侶はほとんどいないようだが、
明治維新頃までの僧侶は、お経を漢文として読んで勉強していたのだ。

 

漢文を読めるようになるためには、論語または孝経から読み始める。

この両書は文章が比較的簡単だから、入門には丁度よいのだ。

その後、いろいろな漢籍を読んで漢文の読解力を養い、
儒学の奥義とされている易経を読み、この世の中がどう動くのかを勉強し、
ようやく哲学的で難解なお経が読めるようになるのだ。

 

四書五経は現実世界で人々が人間らしく幸福に生きるためのノウハウを書いたもの、
仏教のお経は心の中の問題を解決するためのものである。

人間らしくとは、動物と人間の違いを認識することである。

 

動物は成長すると親兄弟関係なく、能力による序列だけで、
いわゆる弱肉強食で暮らす。

一方の人間は、他の動物よりもかなり知能が高いので、
成長しても親兄弟を認識し、先祖にも思いを馳せ、
能力による序列以外にも、親族など血の繋がりも重視して、
能力が劣る人でも血の繋がりを考えて見捨てず、
みんなで助け合って暮らすことができる。

つまり、親兄弟や親族、先祖との繋がりを大切にして生活することが、
最も人間らしいことなのであって、
親兄弟親族先祖を大切にする気持ちによって育まれるのが思いやりの心なのだ、
と、儒学では考えたのである。

 

よく、現代の権力者の価値観を指して、今だけ金だけ自分だけ、
と言うことがあるが、
そういう人間にならないようにするのが儒学であって、
その手始めが小学であり、
自分で身の回りを掃除すること、
呼ばれたらきちんと返事をすること、
目上の人にはきちんと挨拶すること、なのである。

 

現代社会は、ひたすら西洋の模倣に終始して、
日本の伝統文化は観光資源としてしか顧みず、
儒学をないがしろにして、
論語すら読んだことがない人が権力の中枢でふんぞり返っている。

だから、今だけ金だけ自分だけで生きることに、
何ら後ろめたさを持たないのだろう。

剣呑剣呑

令和6年(2684年)4月12日

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左翼と右翼、どっちが好きか?

左翼と右翼という言葉がある。

イギリスの議会の右側に保守派、左側に革新派の議員の席があるから、
そう呼ばれるようになったらしい。

しかし、左と右と言われると、
日本人としては、左の方が優れているかのような錯覚に陥りやすいように思う。

陰陽では、左が陽、右が陰だからだ。

南面したとき、左は東で太陽が昇る方角、
右は西で太陽が沈む方角だということによる。

この理論により、かつての朝廷では、
左大臣の方が右大臣よりも上位だった。

雅楽でも唐楽が左、高麗楽が右、
中国から伝来した唐楽の方が、朝鮮から伝来した高麗楽よりも上位とされてきた。

このような左右の伝統的認識が身体に染みついているからか、
そんなこととは関係ないとしても、
何やら左の方が優れているかの錯覚をする。

だから日本人の多くは、本質とは無関係に、
左翼を歓迎し、右翼は劣った思想のように感じるのかもしれない…。

仮に、イギリス議会の議席が、右と左が逆で、
保守派が左、革新派が右だったら、
日本での保守革新に対する認識もかなり変わっていたのかも…。

令和6年(2684年)3月30日

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竹島は江戸時代の庶民も知っていた!

私は古書が好きで、ときどき神田神保町の古書店街を徘徊している。

三十年程前、何気に入った古書店に、
江戸時代、安政2年に出版された掌中和漢年代記集成という本があった。

日本と中国の簡単な歴史、地理、占いなどが簡単にまとめられている本である。

序文は漢文、本編は草書の平仮名にところどころ漢字が交ざっている文語文なので、
読むのに骨が折れるが、
安かったし、当時の庶民の歴史観や地理観が垣間見られるので、フラッと買ってしまった。

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家に帰ってページをめくり、しばし楽しんだ後は、本棚の片隅に放置していた。

 

が、ふと先日、手に取って改めてページをめくっていたら、
日本地図に、昨今話題の竹島が掲載されているのを見つけた。

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今の竹島は、当時は松島と呼ばれ、
鬱陵島のことを竹島と呼んでいた、と、
外務省のサイトに書いてあるが、
この地図にも、タケシマ、マツシマと、縦に並べて書いてある。

版本なので、小さい字は目を凝らしてよく見ないとわかりにくいが…。

 

とにかく日本では、
江戸時代の、こんな庶民向けの雑な本にも竹島が掲載されているのだから、
庶民でも日本海に浮かぶ竹島を、そこそこ知っていたのだろう。

 

韓国=当時の李氏朝鮮の庶民は、文盲が多かったと聞くが、
どの程度竹島(独島)を認識していたのだろうか?

 

ふと、そんなことが頭を過った…。

令和6年(2684年)2月29日

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紫式部はアヒル座りをしていた!?

今年の大河ドラマは、紫式部の話らしい。

私はテレビを持っていないし、
どうせ、もし紫式部が現代人の価値観で生きていたら、
というコンセプトで描かれているだけなので、
観たいとは思わない。

が、ここで取り上げたのは、
平安時代の女性の座り方が気になったからだ。

ドラマの中ではどうなっているのだろうか…。

 

正座は室町時代以降のことだから、平安時代は正座ではない。

では、どんな座り方をしていたのか。

定説では、朝鮮半島の文化を模倣した立膝だったということらしい。

本当にそうなのだろうか?

確かに時と場合によっては立膝で座る場合もあるだろう。

しかし普段、ずっと立膝で座っていたとは思えない。

 

十二単を着るときは長袴をはいている。

十二単

長袴は、忠臣蔵の浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかる場面で、
両者がはいているヤツでもある。

殿中

長袴は両手で腿のあたりを持ち上げ、ゆっくり慎重に歩くか、
すり足でソロソロ歩かないとコケる。

なんでそんな面倒なものをはかせるのか?

忠臣蔵の時代は、江戸城内で暴れることができないようにするためだった。

で、長袴だと、座るときは正座になる。

長袴で胡坐座りをすると、
立ち上がるときにからまってコケる危険があるからだ。

だから正座をするしかないのだ。

私は以前、貸衣装で長袴をはいてみたことがあり、そのとき、実感した。

 

平安時代の十二単を着る女性も、
浅野内匠頭や吉良上野介がはいたような長袴をはいている。

とすると、胡坐や片足を前に持ってきて立膝で座るのは、かなり大変なことだ。

立膝から立ち上がるには、袴を踏んでコケないように、細心の注意が必要だ。

正座なら、そのまますっと立てば問題ない。

 

そこで私はハタと気づいた。

十二単を着ていた平安時代の正式な座り方は、アヒル座りだったのではないかと。

女の子座り、おばあちゃん座りなどとも呼ばれる、女性ならではの座り方で、
正座の両足を身体の外側に離して、お尻をペタッと床につける座り方だ。

男性は、股関節の関係で、ほぼ不可能な座り方である。

このアヒル座りならば、正座と同じように、そのまますっと立ち上がれる。

 

現代でも、女性はアヒル座りで長時間平気で座っている。

田舎のおばちゃん、ひとり部屋で寛ぐOL、繁華街で地べたに座るJK…。

漸く座れるようになったばかりの女の子も、
誰に教わるとなく、アヒル座りをしていることがよくある。

ただ、アヒル座りは下品だからダメ!
と叱る母親も、ときどき居るようだ…。

なんで下品なのか、私はわからないが、
あるいは、男性ができない座り方は下品だ、男性に合わせろ!
という男尊女卑の考えなのかな?

 

が、それはともかく、
寡聞にして、アヒル座りの歴史を研究している人を、
私は知らない。

検索しても出て来ない

しかし女性にとっては、当たり前の座り方だから、
有史以前から、アヒル座りをしていたはずだ。

とすると、
十二単の長袴も、アヒル座りを前提に作られたのではないだろうか。

当時の男性にしても、普段は胡坐とかではなく、
両足を前でくの字に曲げて足の裏を合わせて座る、
楽座と呼ばれる赤ちゃん座りのような座り方をしていた、
というのが定説である。

現代で赤ちゃん座りをする大人は、
太っていて胡坐もかけないお相撲さんくらいだが、
平安時代はまだ、座り方についてのこだわりはなく、
男女共に生まれつきの自然な座り方をしていたのではないだろうか。

男性は自然な赤ちゃん座りをして、
女性は胡坐や立膝など、不自然な座り方をしていた、
なんてことはないはずだ。

まして、胡坐や立膝前提ならば、男性用の袴と同じように、
立つときにコケないよう短くすると思うのだが…。

とにかく平安時代の女性は、
女性にとって最も自然な座り方のアヒル座りをしていた、
と、私は思うのだが…。

令和6年(2684年)1月31日

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おせちとお雑煮

今年も蒲鉾と金団以外すべて自作のおせちとお雑煮で新年を迎えた。

r060101元旦おせち&雑煮

令和6年=平成以来36年=昭和以来99年
=大正以来113年=明治以来157年
=建仁以来824年=延喜以来1124年
=大宝以来1324年=神武以来2684年

ということで、本年も宜しく御願い申し上げます。

令和6年(2684年)1月1日

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