
43 沢天夬 爻辞
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、壮于前趾、往不勝為咎、
初九(しょきゅう)、趾(あし)を前(すす)むるに壮(さか)んなり、往(な)すこと勝(か)たざれば咎(とが)ありと為(な)す、
この卦は十二消長のひとつにして、雷天大壮の四陽剛の上に、さらにまた一陽剛を長じた卦象である。
そのために、雷天大壮の義を兼ね帯びてもいる。
さて、この初爻だが、前とは進むの義にして、雷天大壮にまた一陽剛が増し進んだという義を兼ねている。
初九は趾(あし)の位に当たるとともに、陽剛にして、乾の進むの卦の一体に居る。
これは、進むことに専らな様子である。
今は、五陽が同じように進んで一陰を決(さく)り去るの時にして、初九はその始めに居る。
したがって初九は、衆陽の中にても、最も先に進んで上六を誅殺しようと欲する者である。
だから、趾を前むるに壮んなり、という。
趾を進めれば、身もその趾に従って進むので、要するに、身を進めるに壮んなことを示している。
上六を決ることは、五陽の君子の同じく共に願うところなので、初九の進むのを敢えて咎めることはないが、慌てて事を起こし、上六を決り損なったときには、大なる害を生じる。
こうなったら、大なる咎を免れない。
だから、往すこと勝たざれば咎ありと為す、という。
これは、血気に焦って進むに専らなことを深く戒めてのことである。
なお、ここでの「往す」とは、上六を決ることを指す。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、号、莫夜有戎勿恤、
九二(きゅうじ)、(おそ)れて号(さけ)ぶ、莫夜(ぼや)に戎(じゅう)有(あ)りとも恤(うれ)へ勿(な)し、
今、五陽が並び進んで一陰を決り去る時に当たって、九二は下卦乾の一体に居て陽剛だが、中を得て柔位に居る。
したがって、初九にありがちな軽躁鋭進の失はなく、事に臨んでは惧(おそ)れよく考えてから動く者であり、常に事の不慮を(おそ)れて、予め衆陽剛に号(さけ)び戒めて、その防御を厳しくする用心堅固な者である。
これにより、たとえ莫夜(夕闇の頃)に思わぬ戎事(敵の攻撃)が有っても、驚き恤うることはなく、きちんと迎撃できる。
だから、れて号ぶ、莫夜に戎有りとも恤へなし、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三、壮于*頬有凶、君子夬夬、独行遇雨如濡、有慍无咎、
*頬は、正しくは「九頁」をひとつにした字で、九がヘンで頁がツクリ、意味は「つらぼね=頬あたりの骨」。
この字(図形として作成)→
しかし、この字はJIS規格にもユニコードにもないので、意味が近い*頬で代用しておく。
九三(きゅうさん)、*頬(キュウ=つらぼね)に壮(さか)んなれば凶(きょう)なること有(あ)らん、君子(くんし)は夬(さく)るべきを夬(さく)る、独行(どくこう)すれば雨(あめ)に遇(あ)うて濡(ぬ)れるが如(ごと)し、慍(うらま)るること有(あ)らん、咎(とが)无(な)し、
今、五陽を以って一陰を決り去る時に当たって、九三は過剛不中にして、下卦乾の進むの卦の極に居る。
これは、進むに鋭尖(えいせん)な者であり、上六を決り去ろうと欲する情が顕然として顔色に露われる。
だから、*頬に壮んなり、という。
九三が短慮性急にしてその怒りの猛々しさを、忽ちに面色に発する様子である。
そもそも兵事は機密を貴ぶものである。
それを、このように怒りを面色に発すれば、敵は必ずその機を察して守りの防備を設け、却って姦謀を巡らして、これを決り去り難くするのみならず、君子を暗ますことすらもある。
だから、凶なること有らん、と戒める。
君子とは、九三の爻を指す。
五陽爻の中、独り九三のみ君子と称するのは、九三は上六の応の位にして、上六を決り去るの主だからである。
なおかつ、上六の小人に対して、応位ではあるが、これに害応して、和同しない義を示しているのである。
だから、君子は夬るべくを夬る、という。
夬るべくとは、もちろん上六を指し、決して和同せず、害応せよという戒めである。
さて、五陽が同じく進むの中で、九三独りが上六に害応しているわけだが、害応しているというのは、要するに九三と上六が陰陽相応じている関係にあるのである。
そこで、このまま九三が独り行けば、他の衆陽爻からは、恰も九三と上六が陰陽相応じて和合してしまうのではないかと疑われる。
だから、独行すれば雨に遇うて濡れるが如し、という。
雨は陰陽の和合した様子を示す。
天(陽)が地(陰)に施す恵みが雨である。
しかし、このように衆陽に疑われ慍れることがあっても、九三と上六は害応であって、応じ和することは決してなく、そもそも九三は上六を決り去るの主である。
決り去った後には、疑いも晴れ、咎もないのである。
だから、慍るること有らん、咎无し、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九四、臀无膚、其行次且、牽羊悔亡、聞言不信、
九四(きゅうし)、臀(いさらい)に膚(にく)无(な)し、其(そ)の行(い)くこと次且(ししょ)たり、羊(ひつじ)を牽(ひ)けば悔(く)い亡(ほろ)ぶ、言(げん)を聞(き)いても信(しん)ぜられず、
臀は尻、膚は肌肉=皮のすぐ下の部分のことである。
今、五陽を以って一陰柔を決り去ろうとする時に当たって、九四は陽爻だが陰位に居るので、才徳は有るが志が弱い者である。
したがって、進み行くことを怖れて、止り退こうとも欲する。
しかし内卦の三陽爻が上り進んで、すぐ後ろに逼っているので、九四は怖気づいて退くことはおろか、止り居ることもできない。
例えれば、臀(尻)に膚肉がなく、座ると痛いので、立って歩くしかないような様子である。
とは言っても、進み行こうとしても、志が弱いので、敵を怖れることが甚だしく、足が前に出ない。
だから、臀に膚无し、其の行くこと次且たり、という。
次且とは、行きたくても進めない様子。
そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。
このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。
上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九五、*莫陸、夬夬、中行无咎、
*莫の字は、通本は莫のままだが、中州は、それでは象と辞との関係がおかしくなるから誤りだとして、似ている別の字に正して解釈している。
この字(図形として作成)→
小さくてわかりにくいかもしれないが、上の部分は草冠ではなく、真中が切れていて、その下は見ではなく、目の下に兎の字の足の部分を合わせた字形で、カンと読み、意味は山羊の細くて大きい角のこと。
しかし、この字はJIS規格にもユニコードにもないので、音も意味も異なるが、*莫で代用しておく。
九五(きゅうご)、陸(おか)に*莫(かん)あり、夬(さ)くべきを夬(さ)くれよ、中行(ちゅうこう)なれば咎(とが)无(な)し、
*莫は山羊の細い角のうちの、形が大きいものである。
山羊は、外質(見た目)は柔弱で、内性(性格)は悪賢くひねくれているが、食べるとその味は美味い。
これは、上六が、兌の口の主にして佞弁甘語を以って人主の九五の気に入られ、その内性が陰邪にして甚だ悪賢いことに喩えているのである。
陸とは高い原にして、上爻の象である。
今、上六は、陰柔不中にして九五の君に密比し、兌口の主であるを以って、甘言美語を以って君に媚び諂う姦人である。 それでも、君よりも上位に居て君辺に近侍し、君意をよく得ている。
だから、陸に*莫あり、という。
さて、この卦中に、ただ、一陰爻のみ、九五に密比する。
もとより九五も、兌の和悦の卦の一体に在るので、一旦は上六と陰陽親比し、その甘言を信じ、絶大な寵恩を与えてしまう。
そのために国家の勢いが危険になるところだが、幸いに九五の君は、剛健中正の徳が有るを以って、やがてはかの上六の佞邪姦曲なことを悟って反省し、これを斥け、その佞人の語を聞き入れず、ついにはこれに害比して、決り去るのである。
しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。
上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
上六、无号、終有凶、
上六(じょうりく)、号(さけ)ぶこと无(な)かれ、終(おわ)りに凶(きょう)なること有(あ)らん、
上六は陰柔不中の小人にして、高く上爻に居て甘言佞語を以って君に媚び諂い寵恩を擅(ほしいまま)にし、重陰の姦邪を以って威を振り権を弄し、九四執政の大臣をさえ、畏れて足恭させるに至らせる者である。
その上、自らは、天下に恐れ憂いることは何もないと嘯き、意気揚揚と自負する。
しかし衆陽の君子等は、この上六のために国家が傾くのを静観しているわけにはいかない。
これを王庭に揚げて、王命を以って公明正大に処罰誅殺する。
そのときには、どんなに泣け叫んでも、すでに遅い。
上六は身も家も共に滅亡に至るだけである。
だから、号ぶこと无かれ、終りに凶なること有らん、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
☆ キリスト処刑との類似 ☆
ところで、この沢天夬の卦辞や爻辞を読んでいると、『聖書』のイエス・キリスト処刑物語を思い出さないだうか?
初爻はキリスト処刑(決去)を渇望するユダヤの民衆。
三爻は処刑首謀者のユダの行動(裏切り者のユダ)。
五爻は優柔不断なユダヤ総督ピラト。
そして上爻が処刑されるイエス・キリスト・・・。
なぜ、こんなにも共通点があるのだろうか。
易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからだろうか?
いや、そんなことはない。
だから、筮竹で占うことが必要なのだ。
では、このキリスト処刑と沢天夬との一致はどういうことなのか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他ならない。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いかもしれない。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのだ。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことである。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのだ。
拙著『聖書と易学』は、その易の理論がどのようにキリスト教に取り入れられ、あの壮大な『聖書』と呼ばれる書物を作り出したのかを検証したものです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、壮于前趾、往不勝為咎、
初九(しょきゅう)、趾(あし)を前(すす)むるに壮(さか)んなり、往(な)すこと勝(か)たざれば咎(とが)ありと為(な)す、
この卦は十二消長のひとつにして、雷天大壮の四陽剛の上に、さらにまた一陽剛を長じた卦象である。
そのために、雷天大壮の義を兼ね帯びてもいる。
さて、この初爻だが、前とは進むの義にして、雷天大壮にまた一陽剛が増し進んだという義を兼ねている。
初九は趾(あし)の位に当たるとともに、陽剛にして、乾の進むの卦の一体に居る。
これは、進むことに専らな様子である。
今は、五陽が同じように進んで一陰を決(さく)り去るの時にして、初九はその始めに居る。
したがって初九は、衆陽の中にても、最も先に進んで上六を誅殺しようと欲する者である。
だから、趾を前むるに壮んなり、という。
趾を進めれば、身もその趾に従って進むので、要するに、身を進めるに壮んなことを示している。
上六を決ることは、五陽の君子の同じく共に願うところなので、初九の進むのを敢えて咎めることはないが、慌てて事を起こし、上六を決り損なったときには、大なる害を生じる。
こうなったら、大なる咎を免れない。
だから、往すこと勝たざれば咎ありと為す、という。
これは、血気に焦って進むに専らなことを深く戒めてのことである。
なお、ここでの「往す」とは、上六を決ることを指す。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、号、莫夜有戎勿恤、
九二(きゅうじ)、(おそ)れて号(さけ)ぶ、莫夜(ぼや)に戎(じゅう)有(あ)りとも恤(うれ)へ勿(な)し、
今、五陽が並び進んで一陰を決り去る時に当たって、九二は下卦乾の一体に居て陽剛だが、中を得て柔位に居る。
したがって、初九にありがちな軽躁鋭進の失はなく、事に臨んでは惧(おそ)れよく考えてから動く者であり、常に事の不慮を(おそ)れて、予め衆陽剛に号(さけ)び戒めて、その防御を厳しくする用心堅固な者である。
これにより、たとえ莫夜(夕闇の頃)に思わぬ戎事(敵の攻撃)が有っても、驚き恤うることはなく、きちんと迎撃できる。
だから、れて号ぶ、莫夜に戎有りとも恤へなし、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三、壮于*頬有凶、君子夬夬、独行遇雨如濡、有慍无咎、
*頬は、正しくは「九頁」をひとつにした字で、九がヘンで頁がツクリ、意味は「つらぼね=頬あたりの骨」。
この字(図形として作成)→

しかし、この字はJIS規格にもユニコードにもないので、意味が近い*頬で代用しておく。
九三(きゅうさん)、*頬(キュウ=つらぼね)に壮(さか)んなれば凶(きょう)なること有(あ)らん、君子(くんし)は夬(さく)るべきを夬(さく)る、独行(どくこう)すれば雨(あめ)に遇(あ)うて濡(ぬ)れるが如(ごと)し、慍(うらま)るること有(あ)らん、咎(とが)无(な)し、
今、五陽を以って一陰を決り去る時に当たって、九三は過剛不中にして、下卦乾の進むの卦の極に居る。
これは、進むに鋭尖(えいせん)な者であり、上六を決り去ろうと欲する情が顕然として顔色に露われる。
だから、*頬に壮んなり、という。
九三が短慮性急にしてその怒りの猛々しさを、忽ちに面色に発する様子である。
そもそも兵事は機密を貴ぶものである。
それを、このように怒りを面色に発すれば、敵は必ずその機を察して守りの防備を設け、却って姦謀を巡らして、これを決り去り難くするのみならず、君子を暗ますことすらもある。
だから、凶なること有らん、と戒める。
君子とは、九三の爻を指す。
五陽爻の中、独り九三のみ君子と称するのは、九三は上六の応の位にして、上六を決り去るの主だからである。
なおかつ、上六の小人に対して、応位ではあるが、これに害応して、和同しない義を示しているのである。
だから、君子は夬るべくを夬る、という。
夬るべくとは、もちろん上六を指し、決して和同せず、害応せよという戒めである。
さて、五陽が同じく進むの中で、九三独りが上六に害応しているわけだが、害応しているというのは、要するに九三と上六が陰陽相応じている関係にあるのである。
そこで、このまま九三が独り行けば、他の衆陽爻からは、恰も九三と上六が陰陽相応じて和合してしまうのではないかと疑われる。
だから、独行すれば雨に遇うて濡れるが如し、という。
雨は陰陽の和合した様子を示す。
天(陽)が地(陰)に施す恵みが雨である。
しかし、このように衆陽に疑われ慍れることがあっても、九三と上六は害応であって、応じ和することは決してなく、そもそも九三は上六を決り去るの主である。
決り去った後には、疑いも晴れ、咎もないのである。
だから、慍るること有らん、咎无し、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九四、臀无膚、其行次且、牽羊悔亡、聞言不信、
九四(きゅうし)、臀(いさらい)に膚(にく)无(な)し、其(そ)の行(い)くこと次且(ししょ)たり、羊(ひつじ)を牽(ひ)けば悔(く)い亡(ほろ)ぶ、言(げん)を聞(き)いても信(しん)ぜられず、
臀は尻、膚は肌肉=皮のすぐ下の部分のことである。
今、五陽を以って一陰柔を決り去ろうとする時に当たって、九四は陽爻だが陰位に居るので、才徳は有るが志が弱い者である。
したがって、進み行くことを怖れて、止り退こうとも欲する。
しかし内卦の三陽爻が上り進んで、すぐ後ろに逼っているので、九四は怖気づいて退くことはおろか、止り居ることもできない。
例えれば、臀(尻)に膚肉がなく、座ると痛いので、立って歩くしかないような様子である。
とは言っても、進み行こうとしても、志が弱いので、敵を怖れることが甚だしく、足が前に出ない。
だから、臀に膚无し、其の行くこと次且たり、という。
次且とは、行きたくても進めない様子。
そももそ九四は執政の大臣なので、衆陽を率いて前進するべきであるわけだが、このように、その志情が弱く、臆病風に吹かれて、進むことができない。
これは執政の大臣としては、甚だ不甲斐なく、悔いが残る。
そこで、羊飼いに倣う。
羊は前から牽こうとすると、言うことを聞かず、止まり退くが、後ろから追い立てるとよく前に進む行くという性質がある。
したがって、羊飼いは、羊たちを進ませる時にはその羊たちの後ろからついて行くものなのである。
要するに、自分の立場を羊飼いだと考え、衆陽爻を羊に見立て、その衆陽爻の後ろから羊飼いのようについて行くのである。
そうすれば、その志が柔弱だとしても、前の衆陽に従って自分も進んで行け、不甲斐なさの悔いはなくなるのである。
だから、羊を牽けば悔い亡ぶ、という。
このように九四は、執政大臣ではあるがその志気萎弱にして臆病者である。
臆病者であるがために、上六の小人が親比する九五の君の寵愛を得て、威権を逞しくするのに畏怖して、逃げ腰になる。
そこで、衆陽が上六を誅殺するべき根拠をいろいろと九四執政大臣に話しても、臆病風に吹かれ、そんな進言は聞き入れず、信じられず=或いは信じないふりをしてしまう。
だから、言を聞いても信ぜられず、という。
上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九五、*莫陸、夬夬、中行无咎、
*莫の字は、通本は莫のままだが、中州は、それでは象と辞との関係がおかしくなるから誤りだとして、似ている別の字に正して解釈している。
この字(図形として作成)→

小さくてわかりにくいかもしれないが、上の部分は草冠ではなく、真中が切れていて、その下は見ではなく、目の下に兎の字の足の部分を合わせた字形で、カンと読み、意味は山羊の細くて大きい角のこと。
しかし、この字はJIS規格にもユニコードにもないので、音も意味も異なるが、*莫で代用しておく。
九五(きゅうご)、陸(おか)に*莫(かん)あり、夬(さ)くべきを夬(さ)くれよ、中行(ちゅうこう)なれば咎(とが)无(な)し、
*莫は山羊の細い角のうちの、形が大きいものである。
山羊は、外質(見た目)は柔弱で、内性(性格)は悪賢くひねくれているが、食べるとその味は美味い。
これは、上六が、兌の口の主にして佞弁甘語を以って人主の九五の気に入られ、その内性が陰邪にして甚だ悪賢いことに喩えているのである。
陸とは高い原にして、上爻の象である。
今、上六は、陰柔不中にして九五の君に密比し、兌口の主であるを以って、甘言美語を以って君に媚び諂う姦人である。 それでも、君よりも上位に居て君辺に近侍し、君意をよく得ている。
だから、陸に*莫あり、という。
さて、この卦中に、ただ、一陰爻のみ、九五に密比する。
もとより九五も、兌の和悦の卦の一体に在るので、一旦は上六と陰陽親比し、その甘言を信じ、絶大な寵恩を与えてしまう。
そのために国家の勢いが危険になるところだが、幸いに九五の君は、剛健中正の徳が有るを以って、やがてはかの上六の佞邪姦曲なことを悟って反省し、これを斥け、その佞人の語を聞き入れず、ついにはこれに害比して、決り去るのである。
しかし、一度は寵恩を与えた者を、決り去るには、決心が必要である。
だから、これを教え戒めて、夬くべきを夬くれよ、中行なれば咎无し、という。
逆に、いつまでも上六に寵恩を与え続け、夬くべきを夬くらないときは、咎が有るのである。
上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
上六、无号、終有凶、
上六(じょうりく)、号(さけ)ぶこと无(な)かれ、終(おわ)りに凶(きょう)なること有(あ)らん、
上六は陰柔不中の小人にして、高く上爻に居て甘言佞語を以って君に媚び諂い寵恩を擅(ほしいまま)にし、重陰の姦邪を以って威を振り権を弄し、九四執政の大臣をさえ、畏れて足恭させるに至らせる者である。
その上、自らは、天下に恐れ憂いることは何もないと嘯き、意気揚揚と自負する。
しかし衆陽の君子等は、この上六のために国家が傾くのを静観しているわけにはいかない。
これを王庭に揚げて、王命を以って公明正大に処罰誅殺する。
そのときには、どんなに泣け叫んでも、すでに遅い。
上六は身も家も共に滅亡に至るだけである。
だから、号ぶこと无かれ、終りに凶なること有らん、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
☆ キリスト処刑との類似 ☆
ところで、この沢天夬の卦辞や爻辞を読んでいると、『聖書』のイエス・キリスト処刑物語を思い出さないだうか?
初爻はキリスト処刑(決去)を渇望するユダヤの民衆。
三爻は処刑首謀者のユダの行動(裏切り者のユダ)。
五爻は優柔不断なユダヤ総督ピラト。
そして上爻が処刑されるイエス・キリスト・・・。
なぜ、こんなにも共通点があるのだろうか。
易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからだろうか?
いや、そんなことはない。
だから、筮竹で占うことが必要なのだ。
では、このキリスト処刑と沢天夬との一致はどういうことなのか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他ならない。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いかもしれない。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのだ。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことである。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのだ。
拙著『聖書と易学』は、その易の理論がどのようにキリスト教に取り入れられ、あの壮大な『聖書』と呼ばれる書物を作り出したのかを検証したものです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
![]() | 聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く (2005/04) 水上 薫 商品詳細を見る |
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
![]() | 聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く (2005/04) 水上 薫 商品詳細を見る |


