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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

山沢損 爻辞

41 山沢損 爻辞

上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━○

初九、已事遄往无咎、酌損之、

初九(しょきゅう)、事(こと)を已(や)めて、遄(すみや)かに往(ゆ)けば咎(とが)无(な)し、酌(しゃく)して之(これ)を損(へら)すべし、

今は損のときだから、何かを損(へら)すべきである。
初九は、陽剛の才徳があり、六四柔正の爻と陰陽正しく応じている。
そこで初九は、自身の私事を止めて損し、自身の才徳を以って、速やかに六四の応爻を助けるべきである。
もし、応爻の六四を助けず、私事を専らとする時には、咎を免れ難い。
だから、事を已めて、遄かに往けば咎无し、という。

そもそも応爻の六四は、執政宰相の位に居るが、陰柔不才である。
これは、たとえば疾(やま)いを抱えているようなものである。
一方の初九は、無位卑賤の爻ではあるが、陽剛の才徳が有り、正を得ている。
とすると、これは、在下の賢者であって、その疾いを救う者である。
疾を救うには、速やかでなければいけない。
四の五の言っていると、手遅れにもなる。
もとよりその疾いを救うの道は、マニュアルに従って緩急軽重の勢いを審らかにするとともに、時宜の斟酌が大事である。
もし、粗暴にして徒に疾いを攻めるだけでは、その疾いは損るとしても、体力がもたないこともある。
逆に、慎重過ぎて、疾いを治療できずに悪化させてしまうこともある。
よくその疾いを観察して、攻めるも守るも、進むも退くも、特にその中を得ることが大事である。
人事においての、人の不足を補い驕奢を損す道も、またこの疾いの治療のようにするべきである。
余分なところを損らし、足りないところを補い、中正に適うことを尚ぶのである。
だから、酌して之を損らすべし、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初九━━━

九二、利貞、征凶、弗損益之、

九二(きゅうじ)、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、征(な)すは凶(きょう)なり、弗損(へらさず)して之(これ)を益(ま)せよ、

九二は剛中の才徳が有り、臣の位に居る。
これは、自ら民を掌(つかさど)り治めるところの大臣である。
今は損の時にして、何かを損(へら)すべきときではあるが、その損すにも、正と不正との二途が有る。
下を損し、民の財を損して害を生じるは、不正の道である。
だから、辞の初めにこれを戒めて、貞しきに利ろし、という。

征は往と同じく、為すことが有る義にして、今は損の卦、損の時なので、為すこととは下を損して上に益すことである。
下を損して上の驕りを益すことは、道義的によくない。
だから、深くこれを戒めて、征すは凶なり、という。

そもそも下民を損し、財を剥ぐ時には、その国は滅亡に近いものである。
とすると、損の時だとしても、下を損さずに、上に益すことを考えるべきである。
上の財源のために、民に重税を科して民の財を損すのではなく、上が当面は倹約をして、下を損さないようにすることである。
そうすれば、民は自ら豊饒になり、民が豊饒ならば国は富むものである。
国が富み、民が豊饒ならば、君にとっては計り知れない利益があるものである。
今、九二は在下の大臣にして、民を直接に知り掌る任に当たっている。
だから、九二に戒めて、弗損して之を益せよ、という。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初九━━━

六三、三人行、則損一人、一人行、則得其友、

六三(りくさん)、三人(さんにん)行(い)けば、則(すなわ)ち一人(ひとり)を損(へら)し、一人(ひとり)行(い)けば、則(すなわ)ち其(そ)の友(とも)を得(え)る、

この爻の辞は、専ら生卦法を以って、象により書かれたものである。
その生卦法とは、地天泰の交代生卦法である。
地天泰の卦は、下卦の乾の三陽剛はみな同じく連なり進み行く者だが、その乾の三陽剛のうちの九三の一爻だけが独り離れて行った。
それが、この山沢損であり、三人で行こうとしたのに、いつしか一人だけ遠くに離れて行ってしまったのである。
だから、三人行けば、則ち一人を損(へら)し、という。
また、一人だけ離れて行った陽剛の立場で言えば、独り上爻に行き、上卦の一体となり、二陰の友を得たことになる。
だから、一人行けば、則ち其の友を得る、という。

これを、地天泰の上卦坤について言えば、坤の三陰の中の上六の一陰を損して下卦に益したことになり、動いた上六の立場で言えば、独り三の爻へ行き、二陽の友を得たことになる。

とにかく、地天泰の三爻の位置にあった一陽が上爻へ行き、上爻にあった一陰が三爻に来たのが、この山沢損であり、この三爻が動いたことにより、成立したのである。
したがってこの六三こそが、この山沢損の主、成卦の主爻なのであって、陽を損すことの方が陰を益すことよりも重大なので、損すことが主体となっているのである。

また、純陽純陰にては、相交わることはできない。
相交わることがなければ、夫婦の道は絶える。
したがって、互いにこれを損益して、共に陰陽相交わることを得る、という義を示しているのである。
ここでいう友とは、陰ならば陽、陽ならば陰を得ることを指す。
これは、夫の妻を、妻の夫を得るというのと同様である。


上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六四、損其疾、使遄有喜、无咎、

六四(りくし)、其(そ)の疾(やま)いを損(へら)す、遄(すみや)かなら使(し)めば喜(よろこ)び有(あ)らん、咎(とが)无(な)し、

六四は宰相の位に在って、正を得てはいるが、自身は陰柔にして才力が足りないので、君を補佐して国を治めるのは難しい。
これは、自身に疾病があるようなものである。
しかし今、初九陽剛の賢者が下に在る。
初九は応位なので、呼び寄せれば応じ来るし、国政を補佐させれば、良医が疾病を治すように、国が治まるのである。

およそ疾病があるときは、速やかに治療するべきである。
六四が速やかに初九を呼んで疾いが癒えれば、喜びである。
もし、遅ければその病勢も壮んになり、最早手がつけられなくもなる。
国政も同じである。
国勢が傾き、民心が離れれば、立て直そうとしても、困難である。
そうなれば、大いに咎が有る。
だからこそ、早く手を打てば、疾いも癒えて、咎もないのであり、
其の疾いを損す、遄かなら使めば喜び有りて、咎无し、という。

なお、「疾いを癒す」ではなく「損す」というのは、損の卦、損の時だからである。


上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

六五、或益之、十朋之亀、弗克違、元吉、

六五(りくご)、之(これ)を益(ま)すこと或(あ)り、十朋(じっぽう)之(の)亀(き)も違(たご)うこと弗克(あたわじ)、元吉(げんきち)なり、

十朋の亀とは、とてつもなく高価な亀、という意である。
ここでの朋とは、古代の貨幣単位で、高額を示す。
十朋は、その十倍だから、買うことはできないほど高価な、という意になる。
古代には、亀は霊物にして、よく吉凶を前知することから、卜(ぼく)して吉凶を質す道具とした。

さて、六五の君は柔中にして、下は九二剛中の賢臣に陰陽正しく応じ、なおかつ上九の賢師に比している。
これは、下は臣の補佐を得、上は師に請い益す様子である。
したがって、大いにその徳を益すのである。
君上が大いにその徳を益せば、天下の億兆も大いにその益を承けるものである。
だから、之を益すこと或り、という。
之とは六五の君および天下万民を指す。

このように君民共に益すのであれば、どんな高価で霊験あらたかな神亀霊亀で卜しても、間違いなく大善の吉と出るものである。
だから、十朋之亀も違うこと弗克、元吉なり、という。


上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初九━━━

上九、弗損益之、无咎、貞吉、利有攸往、得臣无家、

上九(じょうきゅう)、弗損(へらさず)して之(これ)を益(ま)さしむ、咎(とが)无(な)し、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、臣(しん)を得(え)ること家(いえ)无(な)けん、

損の時に当たって、上九は陽明の賢徳が有り、六五の君に教道して、よく四海を統御させる。
これは、下をも損さず、上をも損さず、また自分も損さずして、人を益す様子である。
このようであれば、何ら咎があろうはずがない。
だから、弗損して之を益さしむ、咎无し、という。

さて、人に何かを教える者は、まず自身がそのことについて貞正であることが大事である。
自分が貞正でなければ、貞正にするべきだと教えても、何の説得力もない。
だから、貞しくして吉なり、往く攸有るに利ろし、という。
往く攸というのは、ここでは教え導くことを意味する。

このようにして教え導けば、その教化を蒙る臣は数多く、その臣の家数を数えようしても、多すぎて数えられないほどである。
もとより君上ひとりをよく教え導けば、その教訓の徳化は四海に溢れ流れ、天下の億兆が、悉く皆、臣のように親しみを以って従うのである。
だから、臣を得ること家无けん、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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山沢損

41 山沢損(さんたくそん)
santaku.gif 兌下艮上(だか ごんじょう)

八卦のsdataku-n.gif兌(だ)の上に、gonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

損は、減らす、という意。

交代生卦法によれば、もとは地天泰より来たものとする。
地天泰の九三の一陽剛が上り往きて上爻に止まって艮の主爻となり、同じく地天泰の上六の一陰柔が下り来て三爻に居て兌の主爻となったのが、この山沢損である。
これは下の一陽剛を減らして上に益す様子である。
だから損と名付けられた。

しかし、内卦下卦の一陽を減らして、外卦上卦に一陽を益すと言っても、全体から観れば剛柔の交代のみであって損益はない。
それなのに、ことさら損という。
それは、下の国民の辛労して得た財を剥ぎ取って、上の君上の驕奢を益すと、その国はついには損じ破綻するからである。
また、相手と自分の関係で言えば、内卦は自分、外卦は相手であり、内卦から取って外卦に加えれば、相手は益、自分は損である。
また、一家のこととして言えば、内財を損(へら)して外観を益し飾ることであり、そんなことばかりしていれば、やがて滅亡のときが来るものである。
また、家屋をもって言えば、下の柱を損らして上の棟木を益せば、強度が足りず、必ず傾き倒れる。
したがって、これらの様子から、ことさらに、損と名付けられた。

また、易は艮を山とし、兌を沢とするわけだが、山沢はそもそも損益のものである。
地を損(へら)して溝を造れば沢になり、地に土を益せば山になる。
この道理をよく観察し、損益の全体像を把握するのが大事である。
この卦は、沢という低い者をさらに損して、山という高い者にさらに益す様子である。
高いところにさらに土を加えれば、却って崩れて周辺の沢も埋まってしまうものである。
これでは山沢共に損してしまう。
だから損と名付けられた。

また、易位生卦法によれば、もとは沢山咸から来たものとする。
沢山咸は山を下、沢を上にしている。
本来、山は上にあり、沢は下にあるべきである。
このように上にあるべきものが下、下にあるべきものが上にあることは、現実には有り得ないから、それは上下の気がそのようになっている、ということである。
したがって沢山咸は、山の気が下り、沢の気が上った様子とする。
これは、上下の気が相交わり相通じている様子である。
それが今、山沢損となると、上にあるべき山が上にあり、下にあるべき沢が下にと、現実の位置関係と同じである。
これは上下の気が交わらず通じない様子である。
山と沢の気が交わらないときには、山は草木を生じず、沢は魚や亀などを育まないので、山沢両者ともに益すところがない。
だから損と名付けられた。

また、兌を悦ぶとし、艮を止まるとすれば、悦んで止まる様子となる。
止まるというのは進まないということであり、勉め励まないという意である。
そもそも人間は、善を善と知って悦び、道を道と知って悦ぶものである。
しかし、善や道を知って悦んだとしても、善を修め道を行う人は少ない。
人間は堕落するものだからである。
堕落すれば、益すところはない。
益すところがなければ損である。
だから損と名付けられた。

卦辞
損、有孚元吉、无咎、可貞、利有攸往、曷之用、二簋、可用亨、

損は、孚(まこと)有(あ)れば元吉(げんきち)なり、咎(とが)无(な)し、貞(ただ)しくす可(べ)し、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、曷(なにをか)之(こ)れ用(もち)いん、二簋(にき)に用(もち)いて亨(すすめま)つる可(べ)し、

この卦は損であり、減らすべきときである。
そうであるのなら、どういう理由で何を減らすかが大事である。
それには、大きくわけて二つある。
孚あって減らすのと、孚なくして減らすことである。
ここで言う孚とは、道あるいは正当な理由といった意である。
道=正当な理由があって減らすのであれば、元吉であり、誰からも咎められないが、不道=邪な理由で減らすのであれば、大凶にして多くの人々から咎められるものである。
その不道にして減らすというのは、酒食に溺れ、驕奢に長じて散財し、家を喪うの類である。
道があって減らすというのは、自分を減らして他人に益すこと、『論語』の「志士仁人は、生を求めて以て仁を害すること無し」といったことであり、この卦においては、九三の陽剛を損して上爻に益すことである。
これは内卦の自分を損して外卦の他人(相手)に益すことであって、仁を行ってその道上達するということである。
だから、孚有れば元吉なり、咎无し、という。

もとより損(へら)すときは、貞正であるべきである。
自分はそのままにして、自分より下を損したり、他を損すようなことは、損の正しい行いではない。
だから、貞しくす可し、という。
続く、往く攸有るに利ろし、の「往く攸」とは、為す所、ということであって、損(へら)す所があれば、自分がまず貞正に判断して、損すべきものを損す、ということである。
これならば道理に違うことはない。

曷之れ用いん、というのは、問いかけであり、その損すべきところを次に例示するための語句であって、その例示が、二簋を用いて亨つる可し、である。
簋とは、祭りのときに供え物を載せる器である。
およそ祭りのときに供え物を並べるのは、八簋を豊、四簋を中、二簋を簡約とする。
今は損のときであり、本来ならば八簋の供え物を並べるところだが、節約して二簋のみにしても、誠意敬意があれば、願いはその祭神に通じるものだ、ということである。
逆に、生活費など日常に必要なものを切り詰めてまで、祭りのお供えを豪華にするのであれば、道に反するというものである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
損、損下益上、其道上行、
損(そん)は、下(した)を損(へ)らして上(うえ)に益(ま)す、其(そ)の道(みち)上行(じょうこう)す、

損、有孚元吉、无咎可貞、利有攸往、曷之用、二簋可用亨、二簋、応有時、損剛益柔有時、
損(そん)は、孚(まこと)有(あ)れば、咎(とが)无(な)し貞(ただ)しくす可(べ)し、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、曷(なに)をか之(これ)用(もち)いん、二簋(にき)用(もち)いて亨(こう)す可(べ)しとは、二簋(にき)に、時(とき)有(あ)りて応(おう)じ、剛(ごう)を損(へ)らして柔に益(ま)すも、時(とき)有(あ)るべし、

損益盈虚、与時偕行、
損益(そんえき)盈虚(えいきょ)、時(とき)与(と)偕(とも)に行(おこな)わる、

象伝(原文と書き下しのみ)
山下有沢、損、君子以懲忿窒欲、
山(やま)の下(した)に沢(さわ)が有(あ)るは、損(そん)なり、君子(くんし)以(も)って忿(いかり)を懲(こ)らし欲(よく)を窒(ふさ)ぐべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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