
40 雷水解 爻辞
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○
初六、无咎、
初六(しょりく)、咎(とが)无(な)し、
初六は陰柔不才にして、坎の険(なや)みの底に陥っている。
これは、その身に険みが有る者である。
今、険みを解く時の初めに当たって、幸いにも上に九四の応爻が有る。
とすれば、宜しくこの応爻の九四に応じ往き、縋り頼んで、身の険みを解いてもらうべきである。
およそ、他の卦においては、初六の陰柔を以って、九四の権門に応じる者は、媚び諂いを献じる義として、深くこれを咎有りとする。
雷地予、雷風恒、天風姤、雷山小過などの卦の初六の義は、これである。
しかしひとりこの雷水解の初六の爻にては、権門に媚び諂う者とせず、己の身に切迫の険みが有るので、これを在上有力の応爻に依り頼み、その険みから解き救ってもらう義とする。
そもそも陰柔不才の者は、非力であるために、己の身に必至の険みが有る時には陽剛有力の者に頼り従わなければ、その険みを解くことはできないものである。
今、初六は陰柔にして下に在り、九四は陽剛にして上に居る。
また、下の者に険みがあるとき、上の者に救いを求めるのは当然のことである。
まして応爻の九四は、成卦の主爻にして、険みを解く主爻たる者である。
とすると、初六が九四に険みを解いてもらうのに、何の咎があるだろうか。
だから、咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━
九二、田獲三狐、得黄矢、貞吉、
九二(きゅうじ)、田(かり)に三狐(さんこ)を獲(えもの)す、黄矢(こうし)を得(え)たり、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、
田とは田猟=狩猟の義である。
狐とは陰獣にしてよく人を惑わす動物である。
これを以って、阿(おもね)り諂(へつら)い佞媚(ねいび)をもって君上を惑わす姦臣に喩える。
さて、九二の爻は、剛中の才力が有り、六五の君に陰陽正しく応じている。
これは険みを解く任に、よく堪える大臣である。
およそ国家の大なる険みは、阿り諂いする小人が君の左右に寵遇し、日夜に君の明徳を蠱惑するより甚だしいことはない。
そこで九二の剛中の忠臣が、これから険みを解こうとするときには、まず阿り諂い佞媚する小人を遂い斥けて、君の左右を清浄にし、常に賢良の君子が、君主の側に居るようにすることである。
だから、田に三狐を獲す、という。
三は多数の義にして、これは、佞媚にして狐のように人を惑わす姦賊が幾多在るということの喩えである。
黄とは、中央の土の正色にして、中徳の義である。
矢とは、直なことの喩えである。
直を矢と喩えたのは、田(田猟)という言葉に対応したものである。
さて、姦佞の小人を除き去ろうとする者は、まず自身が優れて中直貞正であることが大事である。
自身が中直貞正であれば、その賞罰に偏私の有ることはないので、他人もこれを怨み憤ることはない。
したがって、このようであってこそ、姦邪を除き、険難を解くのに、吉なのである。
だから、黄矢を得たり、貞しくして吉なり、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━
六三、負且乗、致寇至、貞吝、
六三(りくさん)、負(お)い且(か)つ乗(の)れり、寇(あだ)の至(いた)ることを致(いた)す、貞(かた)くすれば吝(いや)し、
負うとは、その物が自分の身の上に在る、ということである。
乗るとは、その物が自分の身の下に在る、ということである。
今、国家の大険難を解くという時に当たって、六三は内卦臣の位の極に居る爻である。
これは、宜しく才力を振るって天下の険みを解き治めるべき位である。
しかし、元来陰柔不才にして、なおかつ不中不正の志行がある者であり、さらには、上には応爻の援けもなく、妄りに九四陽剛の賢者の爻を負い、九二陽剛の明者に乗っている。
と同時に、自身は初六、九ニ、六三の坎と、六三、九四、六五の坎の間に挟まって居る。
これでは、国家の険みを解くことが不可能であるだけでなく、却って自ら自身の険みを重ねる者である。
だから、負い且つ乗れり、という。
また、負うとは、荷ったり担いだりすることにして、小人卑賤者の事であり、乗るとは、君子の器であることを指す。
今、六三の爻は、その身は陰柔不才不中不正にして、負い荷ったりするべき小人卑賤者の志行にして、その身の居所は内卦の極、人臣の上位にして、君子賢人の宜しく居るべきところに居る。
これは、君子の位を犯し、賢人の路を塞いでいることになる。
したがって、他人もまたその禄位を奪おうとする。
だから、寇の至ることを致す、という。
このような人物が、なおも貞固にして悔い改めいときは、吝しいものである。
だから、貞くすれば吝し、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
九四、解而拇、朋至斯孚、
九四(きゅうし)、而(なんじ)が拇(おやゆび)を解(と)く、朋(とも)至(いた)りて斯(そ)れ孚(まこと)とせん、
而(なんじ)とは九四を指す。
拇(おやゆび)とは、足の親指のことであって、初六の爻を指す。
これは沢山咸の初六に拇とあるのと同義である。
朋とは、同朋の陽剛のことにして、九二の爻を指す。
今、九四は成卦の主爻にして、陽剛の才力が有り、宰相の位に居る。
これは、解の時に、天下の大険難を解くべきところの任職に当たり、その才力徳量も申し分ない者である。
しかしこの九四の爻には、ひとつ問題もある。
初六陰柔卑賤の小人が、初四応の位であることから、九四の門に親しみ来ることである。
これは九四にとって利益となることではなく、私係の陰累の疑いが有る。
したがって、九四は、よくその私係陰累の初六の応爻の拇を解き去るべきである。
そうすれば、同朋の九二陽剛の賢者が、九四の元にやって来て、その志を同じくして力を輔け合わせて、共に天下の険みを解くことができるのである。
もし、私係陰累の拇を用い親しむことが有るときには、同朋の九二の賢者は、九四の志操を疑って、来て助けることはない。
だから、而が拇を解く、朋至りて斯れ孚とせん、という。
上六━ ━
六五━ ━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六五、君子維有解、吉、有孚于小人、
六五(りくご)、君子(くんし)維(こ)れ解(と)くこと有(あ)り、吉(きち)なり、小人(しょうじん)に孚(まこと)とせらるること有(あ)り、
君子とは、九ニと九四のニ陽剛を指す。
今、ニと四の両大臣は、共に陽剛の才徳が有り、よく天下の険難を解くに堪える者なので、これを称美して君子と言う。
小人とは、ここでは天下の民衆を総称する義である。
これは、在位の君子に対する文言である。
さて、六五は柔中の徳を以って、恭しく君位に居る。
これは天下の険みを解くの主である。
もとより九四陽剛の執政大臣とは陰陽親しく比し、また、九二剛中の賢臣とは陰陽正しく応じている。
とすると六五は、よく人を知り、賢を官にしているのであって、股肱の良臣に委ね任して疑い慮ることがない明主である。
そもそも九二は、すでに三狐の佞人を除き去り、九四は私係陰累の初六の拇を解き去っている。
要するに、ニ四の両大臣は共に偏りなく公正の道を以って天下の険みを解いているのである。
したがって六五の君上は、自分からあれこれ動くことなく、この二人に任せて、見守っているだけでよいのである。
だから、君子維れ解くこと有り、吉なり、という。
およそ民を治める道は、寛仁と威権と兼ね備わるに在るものだが、その中について、なお細かに割論すれば、臣を以って民に臨むには公正を先として威権を主とし、君を以って民に臨むには慈愛を先とし寛仁を主とする、ということになる。
今、九ニと九四の両大臣は、剛明の威権を以って、天下の険みを解き去ることを主としているので、六五柔中の君としては、柔中の仁徳を以って、万民を懐柔することを主とするのがよい。
そうすればね天下億兆の小人は、両大臣の剛明の威権に謹み畏(かしこ)み、反対したり罪を犯したりせず、君上の寛仁に懐き服すものである。
だから、小人に孚とせらるること有り、という。
上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上六、公用射隼于高墉之上、獲之无不利、
上六(じょうりく)、公(こう)用(もち)いて隼(はやぶさ)を高墉(こうよう)之(の)上(うえ)に射(い)る。之(これ)を獲(えもの)にして不利(よろしからざ)る无(な)し、
隼とは、山野を飛び回る肉食の鳥である。
これは、横逆者が権勢を逞しくして、万民を残害するのに喩えている。
そもそも狐というのは、淫獣にして、よく人を蠱惑する者にして、坎の象である。
これは在朝の佞官の内に在る者に喩える。
したがって、九二の爻では狐とあるのである。
対するこの隼は、猛禽類の残虐残害な鳥にして、震の象である。
これは、外藩の暴臣が外に在って人民を残害することに喩える。
そこで、この外卦震の極の上爻の喩え、隼が高墉(こうよう=高い垣)の上に居る象とするのである。
これは、上六の諸侯が、遠い外卦の外藩に居て、王化に服せず、震の威権を振るい逞しくして、万民を残害する象である。
公とは九四の臣を指す。
九二の大臣は、すでに三狐を捕獲し、これで朝家の内の険みは既に解き終わった。
しかし上六の隼は、外国遠方に在って、王民を残害する。
したがって六五の君より九四の大臣に命じて、これを征伐させるのである。
だから、公用いて隼を高墉之上に射る、という。
そして、そもそも九四執政の大臣は、険みを解くための職に居るのであって、王民を残害するところの姦賊を討伐するのは当然のことであって、何ら問題はない。
だから、之を獲にして不利る无し、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初六━ ━○
初六、无咎、
初六(しょりく)、咎(とが)无(な)し、
初六は陰柔不才にして、坎の険(なや)みの底に陥っている。
これは、その身に険みが有る者である。
今、険みを解く時の初めに当たって、幸いにも上に九四の応爻が有る。
とすれば、宜しくこの応爻の九四に応じ往き、縋り頼んで、身の険みを解いてもらうべきである。
およそ、他の卦においては、初六の陰柔を以って、九四の権門に応じる者は、媚び諂いを献じる義として、深くこれを咎有りとする。
雷地予、雷風恒、天風姤、雷山小過などの卦の初六の義は、これである。
しかしひとりこの雷水解の初六の爻にては、権門に媚び諂う者とせず、己の身に切迫の険みが有るので、これを在上有力の応爻に依り頼み、その険みから解き救ってもらう義とする。
そもそも陰柔不才の者は、非力であるために、己の身に必至の険みが有る時には陽剛有力の者に頼り従わなければ、その険みを解くことはできないものである。
今、初六は陰柔にして下に在り、九四は陽剛にして上に居る。
また、下の者に険みがあるとき、上の者に救いを求めるのは当然のことである。
まして応爻の九四は、成卦の主爻にして、険みを解く主爻たる者である。
とすると、初六が九四に険みを解いてもらうのに、何の咎があるだろうか。
だから、咎无し、という。
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九二、田獲三狐、得黄矢、貞吉、
九二(きゅうじ)、田(かり)に三狐(さんこ)を獲(えもの)す、黄矢(こうし)を得(え)たり、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、
田とは田猟=狩猟の義である。
狐とは陰獣にしてよく人を惑わす動物である。
これを以って、阿(おもね)り諂(へつら)い佞媚(ねいび)をもって君上を惑わす姦臣に喩える。
さて、九二の爻は、剛中の才力が有り、六五の君に陰陽正しく応じている。
これは険みを解く任に、よく堪える大臣である。
およそ国家の大なる険みは、阿り諂いする小人が君の左右に寵遇し、日夜に君の明徳を蠱惑するより甚だしいことはない。
そこで九二の剛中の忠臣が、これから険みを解こうとするときには、まず阿り諂い佞媚する小人を遂い斥けて、君の左右を清浄にし、常に賢良の君子が、君主の側に居るようにすることである。
だから、田に三狐を獲す、という。
三は多数の義にして、これは、佞媚にして狐のように人を惑わす姦賊が幾多在るということの喩えである。
黄とは、中央の土の正色にして、中徳の義である。
矢とは、直なことの喩えである。
直を矢と喩えたのは、田(田猟)という言葉に対応したものである。
さて、姦佞の小人を除き去ろうとする者は、まず自身が優れて中直貞正であることが大事である。
自身が中直貞正であれば、その賞罰に偏私の有ることはないので、他人もこれを怨み憤ることはない。
したがって、このようであってこそ、姦邪を除き、険難を解くのに、吉なのである。
だから、黄矢を得たり、貞しくして吉なり、という。
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六三、負且乗、致寇至、貞吝、
六三(りくさん)、負(お)い且(か)つ乗(の)れり、寇(あだ)の至(いた)ることを致(いた)す、貞(かた)くすれば吝(いや)し、
負うとは、その物が自分の身の上に在る、ということである。
乗るとは、その物が自分の身の下に在る、ということである。
今、国家の大険難を解くという時に当たって、六三は内卦臣の位の極に居る爻である。
これは、宜しく才力を振るって天下の険みを解き治めるべき位である。
しかし、元来陰柔不才にして、なおかつ不中不正の志行がある者であり、さらには、上には応爻の援けもなく、妄りに九四陽剛の賢者の爻を負い、九二陽剛の明者に乗っている。
と同時に、自身は初六、九ニ、六三の坎と、六三、九四、六五の坎の間に挟まって居る。
これでは、国家の険みを解くことが不可能であるだけでなく、却って自ら自身の険みを重ねる者である。
だから、負い且つ乗れり、という。
また、負うとは、荷ったり担いだりすることにして、小人卑賤者の事であり、乗るとは、君子の器であることを指す。
今、六三の爻は、その身は陰柔不才不中不正にして、負い荷ったりするべき小人卑賤者の志行にして、その身の居所は内卦の極、人臣の上位にして、君子賢人の宜しく居るべきところに居る。
これは、君子の位を犯し、賢人の路を塞いでいることになる。
したがって、他人もまたその禄位を奪おうとする。
だから、寇の至ることを致す、という。
このような人物が、なおも貞固にして悔い改めいときは、吝しいものである。
だから、貞くすれば吝し、という。
上六━ ━
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初六━ ━
九四、解而拇、朋至斯孚、
九四(きゅうし)、而(なんじ)が拇(おやゆび)を解(と)く、朋(とも)至(いた)りて斯(そ)れ孚(まこと)とせん、
而(なんじ)とは九四を指す。
拇(おやゆび)とは、足の親指のことであって、初六の爻を指す。
これは沢山咸の初六に拇とあるのと同義である。
朋とは、同朋の陽剛のことにして、九二の爻を指す。
今、九四は成卦の主爻にして、陽剛の才力が有り、宰相の位に居る。
これは、解の時に、天下の大険難を解くべきところの任職に当たり、その才力徳量も申し分ない者である。
しかしこの九四の爻には、ひとつ問題もある。
初六陰柔卑賤の小人が、初四応の位であることから、九四の門に親しみ来ることである。
これは九四にとって利益となることではなく、私係の陰累の疑いが有る。
したがって、九四は、よくその私係陰累の初六の応爻の拇を解き去るべきである。
そうすれば、同朋の九二陽剛の賢者が、九四の元にやって来て、その志を同じくして力を輔け合わせて、共に天下の険みを解くことができるのである。
もし、私係陰累の拇を用い親しむことが有るときには、同朋の九二の賢者は、九四の志操を疑って、来て助けることはない。
だから、而が拇を解く、朋至りて斯れ孚とせん、という。
上六━ ━
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初六━ ━
六五、君子維有解、吉、有孚于小人、
六五(りくご)、君子(くんし)維(こ)れ解(と)くこと有(あ)り、吉(きち)なり、小人(しょうじん)に孚(まこと)とせらるること有(あ)り、
君子とは、九ニと九四のニ陽剛を指す。
今、ニと四の両大臣は、共に陽剛の才徳が有り、よく天下の険難を解くに堪える者なので、これを称美して君子と言う。
小人とは、ここでは天下の民衆を総称する義である。
これは、在位の君子に対する文言である。
さて、六五は柔中の徳を以って、恭しく君位に居る。
これは天下の険みを解くの主である。
もとより九四陽剛の執政大臣とは陰陽親しく比し、また、九二剛中の賢臣とは陰陽正しく応じている。
とすると六五は、よく人を知り、賢を官にしているのであって、股肱の良臣に委ね任して疑い慮ることがない明主である。
そもそも九二は、すでに三狐の佞人を除き去り、九四は私係陰累の初六の拇を解き去っている。
要するに、ニ四の両大臣は共に偏りなく公正の道を以って天下の険みを解いているのである。
したがって六五の君上は、自分からあれこれ動くことなく、この二人に任せて、見守っているだけでよいのである。
だから、君子維れ解くこと有り、吉なり、という。
およそ民を治める道は、寛仁と威権と兼ね備わるに在るものだが、その中について、なお細かに割論すれば、臣を以って民に臨むには公正を先として威権を主とし、君を以って民に臨むには慈愛を先とし寛仁を主とする、ということになる。
今、九ニと九四の両大臣は、剛明の威権を以って、天下の険みを解き去ることを主としているので、六五柔中の君としては、柔中の仁徳を以って、万民を懐柔することを主とするのがよい。
そうすればね天下億兆の小人は、両大臣の剛明の威権に謹み畏(かしこ)み、反対したり罪を犯したりせず、君上の寛仁に懐き服すものである。
だから、小人に孚とせらるること有り、という。
上六━ ━○
六五━ ━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上六、公用射隼于高墉之上、獲之无不利、
上六(じょうりく)、公(こう)用(もち)いて隼(はやぶさ)を高墉(こうよう)之(の)上(うえ)に射(い)る。之(これ)を獲(えもの)にして不利(よろしからざ)る无(な)し、
隼とは、山野を飛び回る肉食の鳥である。
これは、横逆者が権勢を逞しくして、万民を残害するのに喩えている。
そもそも狐というのは、淫獣にして、よく人を蠱惑する者にして、坎の象である。
これは在朝の佞官の内に在る者に喩える。
したがって、九二の爻では狐とあるのである。
対するこの隼は、猛禽類の残虐残害な鳥にして、震の象である。
これは、外藩の暴臣が外に在って人民を残害することに喩える。
そこで、この外卦震の極の上爻の喩え、隼が高墉(こうよう=高い垣)の上に居る象とするのである。
これは、上六の諸侯が、遠い外卦の外藩に居て、王化に服せず、震の威権を振るい逞しくして、万民を残害する象である。
公とは九四の臣を指す。
九二の大臣は、すでに三狐を捕獲し、これで朝家の内の険みは既に解き終わった。
しかし上六の隼は、外国遠方に在って、王民を残害する。
したがって六五の君より九四の大臣に命じて、これを征伐させるのである。
だから、公用いて隼を高墉之上に射る、という。
そして、そもそも九四執政の大臣は、険みを解くための職に居るのであって、王民を残害するところの姦賊を討伐するのは当然のことであって、何ら問題はない。
だから、之を獲にして不利る无し、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


