
32 雷風恒 爻辞
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○
初六、浚恒、貞凶、无攸利、
初六(しょりく)、浚(ふか)きことを恒(つね)にせんとす、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、
およそ何かをするときには、まずは簡単なところから入り、徐々に難しい内容に進むのが基本である。
しかしこの初六の爻は、恒久の卦の初めに居て、自らは陰柔不才にして不中不正なのに、その陽位の志のみ昂ぶり、恒久の修行を捨て、いきなり当然の如くに深いことを望む。
だから、浚きことを恒にせんとす、という。
これは、恒久の卦の初めに居て、速やかに成就を謀(はか)る者である。
したがって、すでに卦象の大義に悖(もと)り、甚だよろしくない。
それでもなお、そんな姿勢を改めず、貞固に固執し、いきなり深いことを行うのであれば、凶であることは必定である。
だから、貞くすれば凶なり、利ろしき攸无し、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━
九二、悔亡、
九二(きゅうじ)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、
九二は臣の位に在って、剛中の才を以って六五柔中の君を輔佐する象義が有る。
また五を夫の位とするときには、二は妻の位である。
二五陰陽相応じ相助けるという象義が有る。
臣が君を輔佐し、妻が夫を助けことは、これ恒常の道にして、善である。
だから、悔い亡ぶ、という。
悔いとは、この爻が不正であることから、その恒常の道を怠る可能性を恐れて言うものである。
しかし、同時に剛中の徳が有り、よく恒久恒常にその徳を守るので、恒常の道を怠る可能性は杞憂に過ぎない。
そこで、その恒常の道を怠る可能性の悔いは、亡び消滅するのである。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━
九三、不恒其徳、或承之羞、貞吝、
九三(きゅうさん)、其(そ)の徳(とく)を恒(つね)にせざれば、之(これ)が羞(はじ)を承(う)けること或(あ)り、貞(かた)くすれば吝(りん)なり、
徳とは、各人天性の中に具え得ているものである。
自分自身の固有の徳は、これを恒久のものとし、しばしば改変しないのがよい。
一度決めたら、それで貫き通せ、ということである。
仮に、その志その行がしばしば変わる時には、子に在っては不孝の子であり、臣に在っては不忠の臣であり、妻に在っては不貞の婦であり、兄弟に在っては不悌不敬であり、朋友に在っては不信である。
もとより易の辞は、広く万般の義に融通して教えることを基本としているので、これは孝である、これは忠である、などと、直接的には言及しない。
したがって、広くその徳と言うのである。
今、九三は過剛不中にして、内卦巽の躁(さわ)ぐの卦の極に居るので、落ち着かず、その志も定まらない。
これでは、その恒常の徳である孝悌忠信を喪い、羞じを承けるのが当然の理であり、不善の極である。
だから、其の徳を恒にせざれば、之が羞を承けること或り、という。
このような態度を固持するようでは、さらに多くの辱めを受けるものである。
だから、貞くするは吝なり、という。
上六━ ━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━
九四、田无禽、
九四(きゅうし)、田(かり)に禽(えもの)无(な)し、
九四は初六と陰陽相応じている。
応じているとは、例えば、狩に行って運良く獲物を得るようなことである。
しかし今、九四の応爻である初六は、陰柔不才にして不中不正である。
これは卑賤在下の小民である。
九四執政大臣に応じて何をか輔佐できるような者ではない。
したがって、狩で得たとしても獲物=禽として喜ばしいものではない。
釣りなら、雑魚ばかりで本命が釣れない、ということである。
だから、田に禽无し、という。
田という字は、かつては田んぼと同時に、狩をすることも意味した。
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六五━ ━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━
六五、恒其徳、貞、婦人吉、夫子凶、
六五(りくご)、其(そ)の徳(とく)を恒(つね)にせり、貞(かた)くすること、婦人(ふじん)は吉(きち)なれども、夫子(ふうし)には凶なり、
六五は恒久恒常の卦に在って、柔中の徳が有り、よくその徳を恒にする者である。
かの九三の爻の過剛不中にして、妄りに躁ぎ、その徳を恒にせざる者と相反する。
だから、其の徳を恒にせり、という。
元来六五の君は、柔中の徳があり、九二の剛中の大臣とは陰陽相応じ、九四の陽剛の大臣とは陰陽相比している。
このように、応じ、また、比しているのは、その徳を恒にしている君であればこそのことである。
ところが、今、六五は陰柔不正であるので、常を常として原理原則に縛られ、気転が利かないといった面がある。
それでも婦女であるのなら、貞節貞固を主として黙って従っていれば、それでよい。
しかし、夫子=君子たらんとする者は、そうはいかない。
夫子は自分で判断して動かないといけない場面もあり、そんなときは、貞節や原理原則に固執せず、臨機応変に義を制し、気転を利かせないといけない。
したがって、夫子であるのに貞固に原理原則を守っているだけならば、時宜に対応できず、大凶なのである。
だから、貞くすること、婦人は吉なり、夫子は凶なり、という。
上六━ ━○
六五━ ━
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初六━ ━
上六、振恒凶、
上六(じょうりく)、恒(つね)を振(ふる)う、凶(きょう)なり、
ここでの恒は、常久の義にして変動しないことを言う。
振とは、動揺の愈々急速な様子である。
今、上六の爻は、重陰不中にして、恒の卦の極に居る。
およそ物事は、極まれば必ず変化する。
止ることが極まれば必ず進むように、恒も極まれば必ず動くものである。
その上この爻は、上卦震の震動の卦の極でもあるので、その恒を守ることはできず、妄りに動いて常を失う者である。
だから、恒を振う、凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初六、浚恒、貞凶、无攸利、
初六(しょりく)、浚(ふか)きことを恒(つね)にせんとす、貞(かた)くすれば凶(きょう)なり、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、
およそ何かをするときには、まずは簡単なところから入り、徐々に難しい内容に進むのが基本である。
しかしこの初六の爻は、恒久の卦の初めに居て、自らは陰柔不才にして不中不正なのに、その陽位の志のみ昂ぶり、恒久の修行を捨て、いきなり当然の如くに深いことを望む。
だから、浚きことを恒にせんとす、という。
これは、恒久の卦の初めに居て、速やかに成就を謀(はか)る者である。
したがって、すでに卦象の大義に悖(もと)り、甚だよろしくない。
それでもなお、そんな姿勢を改めず、貞固に固執し、いきなり深いことを行うのであれば、凶であることは必定である。
だから、貞くすれば凶なり、利ろしき攸无し、という。
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九二、悔亡、
九二(きゅうじ)、悔(く)い亡(ほろ)ぶ、
九二は臣の位に在って、剛中の才を以って六五柔中の君を輔佐する象義が有る。
また五を夫の位とするときには、二は妻の位である。
二五陰陽相応じ相助けるという象義が有る。
臣が君を輔佐し、妻が夫を助けことは、これ恒常の道にして、善である。
だから、悔い亡ぶ、という。
悔いとは、この爻が不正であることから、その恒常の道を怠る可能性を恐れて言うものである。
しかし、同時に剛中の徳が有り、よく恒久恒常にその徳を守るので、恒常の道を怠る可能性は杞憂に過ぎない。
そこで、その恒常の道を怠る可能性の悔いは、亡び消滅するのである。
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九三、不恒其徳、或承之羞、貞吝、
九三(きゅうさん)、其(そ)の徳(とく)を恒(つね)にせざれば、之(これ)が羞(はじ)を承(う)けること或(あ)り、貞(かた)くすれば吝(りん)なり、
徳とは、各人天性の中に具え得ているものである。
自分自身の固有の徳は、これを恒久のものとし、しばしば改変しないのがよい。
一度決めたら、それで貫き通せ、ということである。
仮に、その志その行がしばしば変わる時には、子に在っては不孝の子であり、臣に在っては不忠の臣であり、妻に在っては不貞の婦であり、兄弟に在っては不悌不敬であり、朋友に在っては不信である。
もとより易の辞は、広く万般の義に融通して教えることを基本としているので、これは孝である、これは忠である、などと、直接的には言及しない。
したがって、広くその徳と言うのである。
今、九三は過剛不中にして、内卦巽の躁(さわ)ぐの卦の極に居るので、落ち着かず、その志も定まらない。
これでは、その恒常の徳である孝悌忠信を喪い、羞じを承けるのが当然の理であり、不善の極である。
だから、其の徳を恒にせざれば、之が羞を承けること或り、という。
このような態度を固持するようでは、さらに多くの辱めを受けるものである。
だから、貞くするは吝なり、という。
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九四、田无禽、
九四(きゅうし)、田(かり)に禽(えもの)无(な)し、
九四は初六と陰陽相応じている。
応じているとは、例えば、狩に行って運良く獲物を得るようなことである。
しかし今、九四の応爻である初六は、陰柔不才にして不中不正である。
これは卑賤在下の小民である。
九四執政大臣に応じて何をか輔佐できるような者ではない。
したがって、狩で得たとしても獲物=禽として喜ばしいものではない。
釣りなら、雑魚ばかりで本命が釣れない、ということである。
だから、田に禽无し、という。
田という字は、かつては田んぼと同時に、狩をすることも意味した。
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六五、恒其徳、貞、婦人吉、夫子凶、
六五(りくご)、其(そ)の徳(とく)を恒(つね)にせり、貞(かた)くすること、婦人(ふじん)は吉(きち)なれども、夫子(ふうし)には凶なり、
六五は恒久恒常の卦に在って、柔中の徳が有り、よくその徳を恒にする者である。
かの九三の爻の過剛不中にして、妄りに躁ぎ、その徳を恒にせざる者と相反する。
だから、其の徳を恒にせり、という。
元来六五の君は、柔中の徳があり、九二の剛中の大臣とは陰陽相応じ、九四の陽剛の大臣とは陰陽相比している。
このように、応じ、また、比しているのは、その徳を恒にしている君であればこそのことである。
ところが、今、六五は陰柔不正であるので、常を常として原理原則に縛られ、気転が利かないといった面がある。
それでも婦女であるのなら、貞節貞固を主として黙って従っていれば、それでよい。
しかし、夫子=君子たらんとする者は、そうはいかない。
夫子は自分で判断して動かないといけない場面もあり、そんなときは、貞節や原理原則に固執せず、臨機応変に義を制し、気転を利かせないといけない。
したがって、夫子であるのに貞固に原理原則を守っているだけならば、時宜に対応できず、大凶なのである。
だから、貞くすること、婦人は吉なり、夫子は凶なり、という。
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六五━ ━
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上六、振恒凶、
上六(じょうりく)、恒(つね)を振(ふる)う、凶(きょう)なり、
ここでの恒は、常久の義にして変動しないことを言う。
振とは、動揺の愈々急速な様子である。
今、上六の爻は、重陰不中にして、恒の卦の極に居る。
およそ物事は、極まれば必ず変化する。
止ることが極まれば必ず進むように、恒も極まれば必ず動くものである。
その上この爻は、上卦震の震動の卦の極でもあるので、その恒を守ることはできず、妄りに動いて常を失う者である。
だから、恒を振う、凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


