
31 沢山咸 爻辞
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━○
初六、咸其拇、
初六(しょりく)、咸(かん)じて其(そ)れ拇(あしのおやゆび)なり、
およそ咸じるということは、いろいろな事物に対してあるが、これを推し究めるときには、我が身より近く親しいことはない。 したがって、咸の六爻は、これを人身に配当して、辞を書いている。
初爻は咸の始めにして、人の身に取れば、足の位である。
なおかつ上の九四の爻に応じている。
これは、九四に咸じているのである。
そもそも、その心に咸じるところが有るときは、その身は忽ち動いて、その咸じるところに至るものであるが、その身を動かそうとする時には、必ず足より始めるものである。
その足を進めるには、必ず拇(ぼ=あしのおやゆび)に力を入れることから始める。
人間が歩行するときは、必ず足の親指に力を入れて踏み出すものである。
だから、咸じて其れ拇なり、という。
なお、この爻には吉凶の辞がないが、それは、初爻が咸の初めにして、まず最初に少し咸じただけだからである。
その咸じたことの善悪によって、吉凶を異にするので、ここでは予めに吉凶の辞を書いていないのである。
今はまだ善なのか悪なのか判然としないレベルで咸じただけである。
例えば、声をかけられて振り向いただけ、といったようなものである。
良い話があるなのか、悪い話なのか、あるいは・・・???
それが明らかにならなければ、善悪吉凶はわからないものである。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初六━ ━
六二、咸其腓、凶、居吉、
六二(りくじ)、咸(かん)じて其(そ)れ腓(こむら)なり、凶(きょう)なり、居(お)れば吉(きち)なり、
初を拇(ぼ=足の親指)とし、三を股(もも)とし、二はその中間に在る。
これは腓(こむら)の位である。
六二は陰柔にして、上の九五と陰陽正しく応じている。
これは、九五に咸じて、他の志を持つべきではない爻である。
しかし咸というものは、そもそもが情欲意念から発するのであって、なおかつ六二は陰柔にして節操が弱く、遠くに咸じることは日夜に疎くなり、近くに馴れ親しみ咸じやすい。
かくして、遂に六二の陰爻は、まず比爻の九三の陽爻に比し咸じてしまう。
これを以って、九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まるのだが、その様子はまさに股と腓が共に動き止まるが如くである。
これを人事に当てれば、その人に定まった志念などなく、卓立した見識もなく、ただ他人に就いて進退動止する者とする。
苦楽是非もすべて他人任せで気概節操のない惰夫であり、このような態度で行動するのが凶であることは、言うまでもない。
だから、咸じて其れ腓なり、凶なり、という。
しかし、今日よりこのような態度を戒め改め、まず、自らよく物事に主宰たる見識を張り立て、志を堅固に定め、妄りに動かないようにすれば、吉を得られるものである。
だから、居れば吉なり、という。
居るとは、九三に比し咸じるという不正の動きを止めて、九五正応に咸じるようにしなさい、という義を込めての垂戒である。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初六━ ━
九三、咸其股、執其随、往吝、
九三(きゅうさん)、咸(かん)じて其(そ)れ股(もも)なり、執(しっ)して其(そ)れ随(した)がう、往(ゆ)くは吝(はずか)し、
九三は腓(こむら)の上に居る。
これは股(もも)の位置である。
この爻は、上に上六の応爻があれば、宜しくこれに咸じるべきことが正しい道だが、近くに咸じやすいので、上六の遠くには疎くして、近い六二に咸じ比す。
これは九三が過剛不中なためである。
だから、咸じて其れ股なり、という。
股もまた、足に随がって動き止まるものなので、進退共に足によるところの者である。
およそ陽が求め咸じるところの者は陰である。
九三に最も近いのは六二である。
したがって九三は、この六二の陰爻に咸じ、これに執着し、束縛されて、六二が動けば共に動き、六二が止れば共に止る。
これは、まったく内に自守堅確の貞操なく、進退共に外見聞の情欲に執着して随う様子である。
自身の天稟の明徳を捨てて、陰暗な情欲に服従し、上位に在る身を以って、下位の六二に随がうのである。
要するに、己に如かざる者に服従するのである。
これは鄙吝醜辱の極である。
だから、執して其れ随がう、往くは吝し、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━
九四、貞吉、悔亡、憧憧往来、朋従爾思、
九四(きゅうし)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、悔(く)い亡(ほろ)びん、憧憧(しょうしょう)として往来(おうらい)せば、朋(とも)爾(なんじ)が思(おも)いに従(した)がわんのみ、
三の爻を股に当てれば、四は必ず腹か胸の位である。
しかしこの爻の辞には、胸とも腹とも言わず、心の義を以って書いている。
これは、胸や腹が心の居場所だとしてのことである。
さて、その心というものは、内に位置して形のないものなので、見ることも捉えることもできない。
したがって、思いと言って、その義を表現しているのである。
その思いというものは、心の発現するところにして、心の作用である。
その心の体は寂然不動であり、心の用は咸じて遂に通じるものである。
したがって、その心の作用に至っては、億兆無量にして善悪邪正、明暗浄穢、混沌錯雑にして、ひと呼吸の間に、千転万変、起滅跡なくして、決して予めに思い議することも、計算することもできない。
ただし、その心の主が正しく寂然である時には、その駆馳(はせひき)するところの意は、自然に誠となるものである。
心正しく意が誠になる時には、その作用である思い咸じるところのものも、自然に正中の道理に符合するものである。
だから、この義を教えて、貞しくして吉、悔い亡びん、という。
この貞の字は、貞正の本義であることは勿論にして、貞恒貞固の義をも兼ね備えている。
貞正の正の字は、一に止と書くから、一に従い、止まるに従う、ということである。
一とは天の公の義、その天の公の道に従い止まって、少しも私がないことを正と言う。
貞恒の恒とは、正字体では恆と書き(偏の忄は心、旁は二の間に舟に似た形がある)、忄=心に従い、二に従い、舟に従うということである。
二は天地陰陽の二気、舟は二気の運行を象っている。
二気の運行は万古から間断なく続いている。
したがって、心を取り守ることが、二気の運行のように間断ないのが、恒の徳である。
貞固の固は、堅固節操の義にして、凛乎として動揺せず、確乎として気を抜かないことである。
この爻辞の貞の字には、この三義三徳を合わせ具えているのである。
要するに、心の本原が貞正なときには、その咸じるところは即ち天性の自然に発して、少しも人為の妄想の交わることはないので、悔いもないのである。
憧憧とは、行って絶えない様子である。
したがって、意思が定まらない義とする。
往来とは、進退というのとほぼ同義であり、憧憧として往来せば、思慮工夫を以って咸を求めることを喩えたものである。
そもそも、咸の道というものは、天地自然の無垢な状態のままに咸じることである。
それを今、思慮工夫を以って咸を求めようとしている。
これでは、自身の知識思慮の及ばないことについては、何も咸じられない。
例えば、おカネに執着している人が、おカネにはいろんなことを咸じるとしても、自然の美しさには何も咸じないか、おカネに換算しての価値しか咸じないように。
このように思慮工夫を以って咸じるときは、その範囲がとても狭いのであって、人事で言えば、僅かに自身の朋類のみが思い従い咸じ、その他の人々には、全く通じることも咸じることもないのである。
いわゆる、内輪受けはするが、世間的には評価されない、ということである。
だから、憧憧として往来せば、朋爾が思いに従わんのみ、という。
爾とは九四を指し、朋とは九四の応爻の初六を指す。
上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━
九五、咸其*晦、无悔、
九五(きゅうご)、咸(かん)じて其(そ)れ*晦(ばい)なり、悔(く)い无(な)し、
*晦は、正しくは月毎=にくづきに毎と書くのだが、この字はJIS規格及びユニコードにないので、やむを得ず*晦で代用しておく。
*晦(ばい)とは、心と口の中間に在る想像上の場所であって、九四の心で咸じ、その咸じたことを上六の口から声に出して言おうと欲する間のことである。
その咸じることの邪と正とは、九四の心の在り方によるのであって、この九五の*晦(ばい)が与るところではない。
九五の*晦(ばい)は、心と口との中間にして、咸じることなく声を発することもない位である。
したがって、善悪是非共に、九五は関与せず、例えその九四が咸じたことが悪いことであっても、悔いることもないのである。
だから、咸じて其れ*晦なり、悔い无し、という。
ただし、九五は剛健中正の君位である。
とすると、その君が、自身の心の安らぎのみを楽しみ、天下億兆の飢寒に無関心な様子でもある。
側近がしっかりしていれば、それでも問題はないが、このような君は、君徳が薄く小さいわけである。
今はそれでよくても、将来何があるかはわからないものである。
もっと君徳を大きくするよう修養しなければいけない。
上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━
上六、咸其輔頬舌、
上六(じょうりく)、咸(かん)じて其(そ)れ輔頬舌(ふきょうぜつ)なり、
輔頬舌とは、要するに口を動かすことである。
上六は首の位にして、兌の口の主爻に当たっている。
元来陰柔不中にして、全卦咸の極に居て、兌口の主なのだから、佞弁利口を以って咸を求める者である。
だから、咸じて其れ輔頬舌なり、という。
佞弁利口(ねいべんりこう=おもねりへつらいの言葉ばかりを並べて話をすること)を以って人を悦ばせ、知計を以って咸を求めることは、小人の常套手段にして、君子の大いに憎み賤しむところである。
したがって、君子への警鐘を込めて、その蔑みから敢えて口とはせず、輔頬舌と書いたのである。
凶とは書いてないが、これが凶であることは、当然である。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初六、咸其拇、
初六(しょりく)、咸(かん)じて其(そ)れ拇(あしのおやゆび)なり、
およそ咸じるということは、いろいろな事物に対してあるが、これを推し究めるときには、我が身より近く親しいことはない。 したがって、咸の六爻は、これを人身に配当して、辞を書いている。
初爻は咸の始めにして、人の身に取れば、足の位である。
なおかつ上の九四の爻に応じている。
これは、九四に咸じているのである。
そもそも、その心に咸じるところが有るときは、その身は忽ち動いて、その咸じるところに至るものであるが、その身を動かそうとする時には、必ず足より始めるものである。
その足を進めるには、必ず拇(ぼ=あしのおやゆび)に力を入れることから始める。
人間が歩行するときは、必ず足の親指に力を入れて踏み出すものである。
だから、咸じて其れ拇なり、という。
なお、この爻には吉凶の辞がないが、それは、初爻が咸の初めにして、まず最初に少し咸じただけだからである。
その咸じたことの善悪によって、吉凶を異にするので、ここでは予めに吉凶の辞を書いていないのである。
今はまだ善なのか悪なのか判然としないレベルで咸じただけである。
例えば、声をかけられて振り向いただけ、といったようなものである。
良い話があるなのか、悪い話なのか、あるいは・・・???
それが明らかにならなければ、善悪吉凶はわからないものである。
上六━ ━
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初六━ ━
六二、咸其腓、凶、居吉、
六二(りくじ)、咸(かん)じて其(そ)れ腓(こむら)なり、凶(きょう)なり、居(お)れば吉(きち)なり、
初を拇(ぼ=足の親指)とし、三を股(もも)とし、二はその中間に在る。
これは腓(こむら)の位である。
六二は陰柔にして、上の九五と陰陽正しく応じている。
これは、九五に咸じて、他の志を持つべきではない爻である。
しかし咸というものは、そもそもが情欲意念から発するのであって、なおかつ六二は陰柔にして節操が弱く、遠くに咸じることは日夜に疎くなり、近くに馴れ親しみ咸じやすい。
かくして、遂に六二の陰爻は、まず比爻の九三の陽爻に比し咸じてしまう。
これを以って、九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まるのだが、その様子はまさに股と腓が共に動き止まるが如くである。
これを人事に当てれば、その人に定まった志念などなく、卓立した見識もなく、ただ他人に就いて進退動止する者とする。
苦楽是非もすべて他人任せで気概節操のない惰夫であり、このような態度で行動するのが凶であることは、言うまでもない。
だから、咸じて其れ腓なり、凶なり、という。
しかし、今日よりこのような態度を戒め改め、まず、自らよく物事に主宰たる見識を張り立て、志を堅固に定め、妄りに動かないようにすれば、吉を得られるものである。
だから、居れば吉なり、という。
居るとは、九三に比し咸じるという不正の動きを止めて、九五正応に咸じるようにしなさい、という義を込めての垂戒である。
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九三、咸其股、執其随、往吝、
九三(きゅうさん)、咸(かん)じて其(そ)れ股(もも)なり、執(しっ)して其(そ)れ随(した)がう、往(ゆ)くは吝(はずか)し、
九三は腓(こむら)の上に居る。
これは股(もも)の位置である。
この爻は、上に上六の応爻があれば、宜しくこれに咸じるべきことが正しい道だが、近くに咸じやすいので、上六の遠くには疎くして、近い六二に咸じ比す。
これは九三が過剛不中なためである。
だから、咸じて其れ股なり、という。
股もまた、足に随がって動き止まるものなので、進退共に足によるところの者である。
およそ陽が求め咸じるところの者は陰である。
九三に最も近いのは六二である。
したがって九三は、この六二の陰爻に咸じ、これに執着し、束縛されて、六二が動けば共に動き、六二が止れば共に止る。
これは、まったく内に自守堅確の貞操なく、進退共に外見聞の情欲に執着して随う様子である。
自身の天稟の明徳を捨てて、陰暗な情欲に服従し、上位に在る身を以って、下位の六二に随がうのである。
要するに、己に如かざる者に服従するのである。
これは鄙吝醜辱の極である。
だから、執して其れ随がう、往くは吝し、という。
上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━
九四、貞吉、悔亡、憧憧往来、朋従爾思、
九四(きゅうし)、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、悔(く)い亡(ほろ)びん、憧憧(しょうしょう)として往来(おうらい)せば、朋(とも)爾(なんじ)が思(おも)いに従(した)がわんのみ、
三の爻を股に当てれば、四は必ず腹か胸の位である。
しかしこの爻の辞には、胸とも腹とも言わず、心の義を以って書いている。
これは、胸や腹が心の居場所だとしてのことである。
さて、その心というものは、内に位置して形のないものなので、見ることも捉えることもできない。
したがって、思いと言って、その義を表現しているのである。
その思いというものは、心の発現するところにして、心の作用である。
その心の体は寂然不動であり、心の用は咸じて遂に通じるものである。
したがって、その心の作用に至っては、億兆無量にして善悪邪正、明暗浄穢、混沌錯雑にして、ひと呼吸の間に、千転万変、起滅跡なくして、決して予めに思い議することも、計算することもできない。
ただし、その心の主が正しく寂然である時には、その駆馳(はせひき)するところの意は、自然に誠となるものである。
心正しく意が誠になる時には、その作用である思い咸じるところのものも、自然に正中の道理に符合するものである。
だから、この義を教えて、貞しくして吉、悔い亡びん、という。
この貞の字は、貞正の本義であることは勿論にして、貞恒貞固の義をも兼ね備えている。
貞正の正の字は、一に止と書くから、一に従い、止まるに従う、ということである。
一とは天の公の義、その天の公の道に従い止まって、少しも私がないことを正と言う。
貞恒の恒とは、正字体では恆と書き(偏の忄は心、旁は二の間に舟に似た形がある)、忄=心に従い、二に従い、舟に従うということである。
二は天地陰陽の二気、舟は二気の運行を象っている。
二気の運行は万古から間断なく続いている。
したがって、心を取り守ることが、二気の運行のように間断ないのが、恒の徳である。
貞固の固は、堅固節操の義にして、凛乎として動揺せず、確乎として気を抜かないことである。
この爻辞の貞の字には、この三義三徳を合わせ具えているのである。
要するに、心の本原が貞正なときには、その咸じるところは即ち天性の自然に発して、少しも人為の妄想の交わることはないので、悔いもないのである。
憧憧とは、行って絶えない様子である。
したがって、意思が定まらない義とする。
往来とは、進退というのとほぼ同義であり、憧憧として往来せば、思慮工夫を以って咸を求めることを喩えたものである。
そもそも、咸の道というものは、天地自然の無垢な状態のままに咸じることである。
それを今、思慮工夫を以って咸を求めようとしている。
これでは、自身の知識思慮の及ばないことについては、何も咸じられない。
例えば、おカネに執着している人が、おカネにはいろんなことを咸じるとしても、自然の美しさには何も咸じないか、おカネに換算しての価値しか咸じないように。
このように思慮工夫を以って咸じるときは、その範囲がとても狭いのであって、人事で言えば、僅かに自身の朋類のみが思い従い咸じ、その他の人々には、全く通じることも咸じることもないのである。
いわゆる、内輪受けはするが、世間的には評価されない、ということである。
だから、憧憧として往来せば、朋爾が思いに従わんのみ、という。
爾とは九四を指し、朋とは九四の応爻の初六を指す。
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九五、咸其*晦、无悔、
九五(きゅうご)、咸(かん)じて其(そ)れ*晦(ばい)なり、悔(く)い无(な)し、
*晦は、正しくは月毎=にくづきに毎と書くのだが、この字はJIS規格及びユニコードにないので、やむを得ず*晦で代用しておく。
*晦(ばい)とは、心と口の中間に在る想像上の場所であって、九四の心で咸じ、その咸じたことを上六の口から声に出して言おうと欲する間のことである。
その咸じることの邪と正とは、九四の心の在り方によるのであって、この九五の*晦(ばい)が与るところではない。
九五の*晦(ばい)は、心と口との中間にして、咸じることなく声を発することもない位である。
したがって、善悪是非共に、九五は関与せず、例えその九四が咸じたことが悪いことであっても、悔いることもないのである。
だから、咸じて其れ*晦なり、悔い无し、という。
ただし、九五は剛健中正の君位である。
とすると、その君が、自身の心の安らぎのみを楽しみ、天下億兆の飢寒に無関心な様子でもある。
側近がしっかりしていれば、それでも問題はないが、このような君は、君徳が薄く小さいわけである。
今はそれでよくても、将来何があるかはわからないものである。
もっと君徳を大きくするよう修養しなければいけない。
上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初六━ ━
上六、咸其輔頬舌、
上六(じょうりく)、咸(かん)じて其(そ)れ輔頬舌(ふきょうぜつ)なり、
輔頬舌とは、要するに口を動かすことである。
上六は首の位にして、兌の口の主爻に当たっている。
元来陰柔不中にして、全卦咸の極に居て、兌口の主なのだから、佞弁利口を以って咸を求める者である。
だから、咸じて其れ輔頬舌なり、という。
佞弁利口(ねいべんりこう=おもねりへつらいの言葉ばかりを並べて話をすること)を以って人を悦ばせ、知計を以って咸を求めることは、小人の常套手段にして、君子の大いに憎み賤しむところである。
したがって、君子への警鐘を込めて、その蔑みから敢えて口とはせず、輔頬舌と書いたのである。
凶とは書いてないが、これが凶であることは、当然である。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


