
30 離為火 爻辞
上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━
初九━━━○
初九、履錯然、敬之无咎、
初九(しょきゅう)、履(ふ)むこと錯然(さくぜん)たり、之(これ)を敬(けい)すれば咎(とが)无(な)し、
履とは、もともとは靴のことを指しているので、足で踏むことの義とし、履み行うことの意とする。
錯然とは、いろんなことが入り混じっていることである。
さて、離は心の卦である。
心というものは形がなく、その善悪の跡は、必ずその人が履み行った様子を観察しなければわからない。
そこで、心と言っても、宗教にありがちな心性空漠上のことには言及せず、行実の上についてのみ教訓を書いたのである。
まず、初爻は、卦の初めにして、人々が事を為す始めの位とする。
もとより初爻は足の位なので、履み行うことの始めである。
およそ人の履み行う事は千差万別にして、錯然として雑乱な事であっても、その良し悪しには道がある。
その履み行う人が、一によくその離の心を柔順にして、その麗(つ)き順がうところの道と事とを正しくし、その用い扱うところを柔順に正しくして、これを敬し、これを慎むときには、どのようなことでも咎はないものである。
だから、履むこと錯然たり、之を敬すれば咎无し、という。
上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━
六二━ ━○
初九━━━
六二、黄離、元吉、
六二(りくじ)、黄離(こうり)なれば、元吉(げんきち)なり、
黄とは中央の土の色なので、中の字の義を喩えたのであって、その中というのは忠信の義である。
離とは、卦名である。
さて、まずこの離の卦の象には、火、心、麗(つ)く、明、照、焚、智などがあるが、それらの衆義を悉くに兼ね具えているのが、この卦である。
したがって、この衆義をひとつに合わせて、離の字を以って卦名としたのである。
火についてこれを諭せば、剛強の道を用いて火を侮り、傲慢な取り扱いをするときには、忽ちに必ず焚き滅っするという凶害が有る。
逆に、柔順の道を用いて、敬い慎む取り扱いをするときには、必ず暗がりを照らし、生ものを煮炊きして食事を調えるという大利益が有る。
人の心の火も、これまた同様である。
忠信ならば身を修め家を齊(ととの)え、国天下をも治められるが、忠信ではないときは、身を喪ぼし、家を敗り、国天下をも滅っするものである。
また、離を智とし、麗くとすれば、その智にも麗くにも、それぞれ邪正善悪の二途がある。
これも審らかにわきまえることが大事である。
もとより六二の爻は、離の全卦の六爻の中にても、柔順中正の徳を得て、成卦の主爻となっている。
だから、黄離なれば、元吉なり、という。
この黄の字には、柔順中正忠信文明などの衆義衆徳を悉く具足しているのである。
元吉とは、大善の吉ということである。
したがって、占ってこの卦この爻を得て、その人に黄離の徳が具足しているのであれば、大善の吉であることは勿論である。
しかし、その人が黄離とは言えないような人物であるのなら、大悪の凶になるのである。
繰り返しになるが、黄離であって初めて元吉なのである。
上九━━━
六五━ ━
九四━━━
九三━━━○
六二━ ━
初九━━━
九三、日昃之離、不鼓缶而歌、則大耋之嗟凶、
九三(きゅうさん)、日(ひ)昃(かたむ)くの離(とき)なり、缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌(うた)わず、則(すなわ)ち大耋(だいてつ)のみ之(これ)を嗟(なげ)くは凶(きょう)なり、
日昃くの離とは、日が傾く時といったことである。
大耋とは、言うなれば超後期高齢者のことである。
この爻は内卦の極に居る。
これは、内卦の離の日がすでに終り、上卦の離の日に移ろうとするときであって、要するに、一日が終り、次の一日が来ようとする、という象なのである。
だから、日昃くの離なり、という。
これは、人の老が極まり、死に至ろうとするのに喩えているのである。
この時に遇い、この地に臨んでは、死生共に天命であると悟り、従容自得して、天を楽しみ命に委ねて、消息盈虚の道に安んじて、缶を鼓して歌い楽しむのがよい。
徒に自身が老いたことを憂い歎いても、何の利益もない。
それこそ至愚の極みである。
だから、缶を鼓して歌わず、則ち大耋のみ之嗟くは凶なり、という。
上九━━━
六五━ ━
九四━━━○
九三━━━
六二━ ━
初九━━━
九四、突如、其来如、焚如、死如、棄如、
九四(きゅうし)、突如(とつじょ)たり、其(そ)れ来如(らいじょ)たり、焚如(ふんじょ)たり、死如(しじょ)たり、棄如(きじょ)たり、
離は火の卦である。
九四の爻は、下卦が終わって、すでに上卦に移った始めである。
九四もまた陽爻にして不中正である。
したがって、その性は烈火の如くにして、突如として衝き上がる。
下卦の火が、忽ち上卦に衝き上がり、燃え広がる如くである。
これは、火を以って言えば、下卦より上卦に衝き上がることである。
また、爻を以って言えば、三より四に衝き上がることである。
突然思いがけず、衝き上がって来るのである。
だから、突如たり、其れ来如たり、という。
そして九四は、内外二つの火の間に挟まっているので、焚(や)き立てられる患いがある。
焚き立てられたら死に、死んだら灰となって棄てられる・・・。
九四は陽剛にして不中正の志行があり、その性は陽剛烈火の如くであり、さらには上下二つの火の間に居るので、その凶害は甚だしい。
だから、焚如たり、死如たり、棄如たり、と重ねて深く戒める。
上九━━━
六五━ ━○
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初九━━━
六五、出涕沱若、戚嗟若、吉、
六五(りくご)、涕(なみだ)を出(いだ)すこと沱若(たじゃく)たり、戚(うれ)いいたむこと嗟若(さじゃく)たれば、吉(きち)なり、
沱若とは涙がどんどん流れる様子。
六五は柔中の徳が有り、尊位に居るわけだが、下に応じ助けてくれる忠臣はなく、孤独にして九四と上九との二陽の剛強者の間に麗=付いている。
これは甚だ危険で惧(おそ)れるべき勢いである。
しかし、そもそも離明の主にして、よく時の勢いを知ることに明らかなので、常に恐惧慎戒して、涙を流すのである。
このように、平生に憂い慮って慎み戒めるときには、自然にその危険な害を免れて吉に至るものである。
だから、涕を出すこと沱若たり、戚いいたろこと嗟若たり、吉なり、という。
上九━━━○
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初九━━━
上九、王用出征、有嘉、折首、獲匪其醜、无咎、
上九(じょうきゅう)、王(おう)用(もち)いて出(い)でて征(せい)す、嘉(よ)きこと有(あ)り、首(かしら)を折(た)つ、獲(えもの)其(そ)の醜(みにく)いに匪(あら)ざれば、咎(とが)无(な)し、
王とは、六五の爻を指している。
首とは上九の爻を指していて、首領魁首などの義である。
上九の爻は、卦の極に居て、陽剛にして不中不正であり、さらには二五君臣位の外に在る。
これは、遠方に居て、王化に順い服すことなく、自身の剛強を以って我威を振るって人民を残害する横逆者である。
そこで、六五の王は、出でて、上九を征伐する。
だから、王用いて出でて征す、という。
六五柔中の君徳を以って、上九剛強の不中不正な者を征伐するのである。
これは有道を以って不道を征することである。
六五は天に順い人に応じる仁義の師なので、必ずや大いに嘉悦=よろこばしいことが有る。
そのよろこばしいこととして、その魁首を誅戮することを得るのである。
だから、嘉きこと有り、その首を折つ、という。
上九の爻は、人の身に配当するときには首とする。
したがって象を兼ね合わせて、首を折つ、という。
さて、六五陰弱なる者が上九の陽剛を獲にすることは、陰が陽を征することになるが、だとしても、決して醜いことではない。
有道を以って無道を誅し、仁を以って不仁を征するものである。
とすれば、侵奪の咎などあるはずがない。
だから、獲其の醜いに匪ざれば、咎无し、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
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初九、履錯然、敬之无咎、
初九(しょきゅう)、履(ふ)むこと錯然(さくぜん)たり、之(これ)を敬(けい)すれば咎(とが)无(な)し、
履とは、もともとは靴のことを指しているので、足で踏むことの義とし、履み行うことの意とする。
錯然とは、いろんなことが入り混じっていることである。
さて、離は心の卦である。
心というものは形がなく、その善悪の跡は、必ずその人が履み行った様子を観察しなければわからない。
そこで、心と言っても、宗教にありがちな心性空漠上のことには言及せず、行実の上についてのみ教訓を書いたのである。
まず、初爻は、卦の初めにして、人々が事を為す始めの位とする。
もとより初爻は足の位なので、履み行うことの始めである。
およそ人の履み行う事は千差万別にして、錯然として雑乱な事であっても、その良し悪しには道がある。
その履み行う人が、一によくその離の心を柔順にして、その麗(つ)き順がうところの道と事とを正しくし、その用い扱うところを柔順に正しくして、これを敬し、これを慎むときには、どのようなことでも咎はないものである。
だから、履むこと錯然たり、之を敬すれば咎无し、という。
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六二、黄離、元吉、
六二(りくじ)、黄離(こうり)なれば、元吉(げんきち)なり、
黄とは中央の土の色なので、中の字の義を喩えたのであって、その中というのは忠信の義である。
離とは、卦名である。
さて、まずこの離の卦の象には、火、心、麗(つ)く、明、照、焚、智などがあるが、それらの衆義を悉くに兼ね具えているのが、この卦である。
したがって、この衆義をひとつに合わせて、離の字を以って卦名としたのである。
火についてこれを諭せば、剛強の道を用いて火を侮り、傲慢な取り扱いをするときには、忽ちに必ず焚き滅っするという凶害が有る。
逆に、柔順の道を用いて、敬い慎む取り扱いをするときには、必ず暗がりを照らし、生ものを煮炊きして食事を調えるという大利益が有る。
人の心の火も、これまた同様である。
忠信ならば身を修め家を齊(ととの)え、国天下をも治められるが、忠信ではないときは、身を喪ぼし、家を敗り、国天下をも滅っするものである。
また、離を智とし、麗くとすれば、その智にも麗くにも、それぞれ邪正善悪の二途がある。
これも審らかにわきまえることが大事である。
もとより六二の爻は、離の全卦の六爻の中にても、柔順中正の徳を得て、成卦の主爻となっている。
だから、黄離なれば、元吉なり、という。
この黄の字には、柔順中正忠信文明などの衆義衆徳を悉く具足しているのである。
元吉とは、大善の吉ということである。
したがって、占ってこの卦この爻を得て、その人に黄離の徳が具足しているのであれば、大善の吉であることは勿論である。
しかし、その人が黄離とは言えないような人物であるのなら、大悪の凶になるのである。
繰り返しになるが、黄離であって初めて元吉なのである。
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九三、日昃之離、不鼓缶而歌、則大耋之嗟凶、
九三(きゅうさん)、日(ひ)昃(かたむ)くの離(とき)なり、缶(ほとぎ)を鼓(こ)して歌(うた)わず、則(すなわ)ち大耋(だいてつ)のみ之(これ)を嗟(なげ)くは凶(きょう)なり、
日昃くの離とは、日が傾く時といったことである。
大耋とは、言うなれば超後期高齢者のことである。
この爻は内卦の極に居る。
これは、内卦の離の日がすでに終り、上卦の離の日に移ろうとするときであって、要するに、一日が終り、次の一日が来ようとする、という象なのである。
だから、日昃くの離なり、という。
これは、人の老が極まり、死に至ろうとするのに喩えているのである。
この時に遇い、この地に臨んでは、死生共に天命であると悟り、従容自得して、天を楽しみ命に委ねて、消息盈虚の道に安んじて、缶を鼓して歌い楽しむのがよい。
徒に自身が老いたことを憂い歎いても、何の利益もない。
それこそ至愚の極みである。
だから、缶を鼓して歌わず、則ち大耋のみ之嗟くは凶なり、という。
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初九━━━
九四、突如、其来如、焚如、死如、棄如、
九四(きゅうし)、突如(とつじょ)たり、其(そ)れ来如(らいじょ)たり、焚如(ふんじょ)たり、死如(しじょ)たり、棄如(きじょ)たり、
離は火の卦である。
九四の爻は、下卦が終わって、すでに上卦に移った始めである。
九四もまた陽爻にして不中正である。
したがって、その性は烈火の如くにして、突如として衝き上がる。
下卦の火が、忽ち上卦に衝き上がり、燃え広がる如くである。
これは、火を以って言えば、下卦より上卦に衝き上がることである。
また、爻を以って言えば、三より四に衝き上がることである。
突然思いがけず、衝き上がって来るのである。
だから、突如たり、其れ来如たり、という。
そして九四は、内外二つの火の間に挟まっているので、焚(や)き立てられる患いがある。
焚き立てられたら死に、死んだら灰となって棄てられる・・・。
九四は陽剛にして不中正の志行があり、その性は陽剛烈火の如くであり、さらには上下二つの火の間に居るので、その凶害は甚だしい。
だから、焚如たり、死如たり、棄如たり、と重ねて深く戒める。
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六五━ ━○
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六五、出涕沱若、戚嗟若、吉、
六五(りくご)、涕(なみだ)を出(いだ)すこと沱若(たじゃく)たり、戚(うれ)いいたむこと嗟若(さじゃく)たれば、吉(きち)なり、
沱若とは涙がどんどん流れる様子。
六五は柔中の徳が有り、尊位に居るわけだが、下に応じ助けてくれる忠臣はなく、孤独にして九四と上九との二陽の剛強者の間に麗=付いている。
これは甚だ危険で惧(おそ)れるべき勢いである。
しかし、そもそも離明の主にして、よく時の勢いを知ることに明らかなので、常に恐惧慎戒して、涙を流すのである。
このように、平生に憂い慮って慎み戒めるときには、自然にその危険な害を免れて吉に至るものである。
だから、涕を出すこと沱若たり、戚いいたろこと嗟若たり、吉なり、という。
上九━━━○
六五━ ━
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初九━━━
上九、王用出征、有嘉、折首、獲匪其醜、无咎、
上九(じょうきゅう)、王(おう)用(もち)いて出(い)でて征(せい)す、嘉(よ)きこと有(あ)り、首(かしら)を折(た)つ、獲(えもの)其(そ)の醜(みにく)いに匪(あら)ざれば、咎(とが)无(な)し、
王とは、六五の爻を指している。
首とは上九の爻を指していて、首領魁首などの義である。
上九の爻は、卦の極に居て、陽剛にして不中不正であり、さらには二五君臣位の外に在る。
これは、遠方に居て、王化に順い服すことなく、自身の剛強を以って我威を振るって人民を残害する横逆者である。
そこで、六五の王は、出でて、上九を征伐する。
だから、王用いて出でて征す、という。
六五柔中の君徳を以って、上九剛強の不中不正な者を征伐するのである。
これは有道を以って不道を征することである。
六五は天に順い人に応じる仁義の師なので、必ずや大いに嘉悦=よろこばしいことが有る。
そのよろこばしいこととして、その魁首を誅戮することを得るのである。
だから、嘉きこと有り、その首を折つ、という。
上九の爻は、人の身に配当するときには首とする。
したがって象を兼ね合わせて、首を折つ、という。
さて、六五陰弱なる者が上九の陽剛を獲にすることは、陰が陽を征することになるが、だとしても、決して醜いことではない。
有道を以って無道を誅し、仁を以って不仁を征するものである。
とすれば、侵奪の咎などあるはずがない。
だから、獲其の醜いに匪ざれば、咎无し、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


