
29 坎為水 爻辞
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○
初六、習坎、入于坎窞、凶、
初六(しょりく)、習坎(しゅうかん)なり、坎窞(かんたん)に入(い)れり、凶(きょう)なり、
習とは、雛鳥が羽の使い方を練習するためにバタバタ羽ばたくことであって、その様子から、同じことを重ね繰り返すことを意味する。
窞とは、坎の穴の中にあるさらに深い穴のことである。
今、坎の険(なや)みの時に当たって、初六は陰柔不中不正なので、道を失っている者である。
なおかつ上に応爻の助けもなく、自分の身は坎の険みの底に陥っている象義である。
険阻の重なった深い穴に陥り、その重なる穴の底に、さらにまたひとつの穴があり、転んで終にはその穴に陥ってしまい、険み苦しんでいる様子である。
もとよりその身は陰柔にして、自力でその穴から這い出す才力はなく、応爻の助けもないので、助けを求めても誰一人として救い出してくれる者はいない。
したがって、一歩も出ることはできない。
これは険みの至極である。
だから、習坎なり、坎窞に入れり、凶なり、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━
九二、坎有険、求小得、
九二(きゅうじ)、坎(かん)にあって険(なや)み有(あ)り、求(もと)めば小(すこ)しく得(え)ん、
坎は穴である。
上卦の坎を穴とし、下卦の坎を険みとする。
九二は下の坎の中間の一陽、すなわち下卦の中心である。
これは、坎の穴の中に陥って、その身に急切な険みが有る様子である。
だから、坎にあって険み有り、という。
そして、九二は上に応爻の助けはないので、坎の穴の険みを出て去ることはできない。
ただ、剛中の才が有るので、何かを求めれば、小しは得ることは有る。
としても、辛うじて身を保つことができるのみである。
だから、求めば小しく得ん、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━
六三、来之坎坎、険且枕、入于坎窞、勿用、
六三(りくさん)、来(きた)るも之(ゆ)くも坎坎(かんかん)たり、険(なや)みにあって且(か)つ枕(ささ)えたり、坎窞(かんたん)に入(い)れり、用(もち)いること勿(なか)れ、
来之とは、進むことと退くこと、といったことである。
枕は頭を支えるものであるように、ささえるという意味がある。
今、六三は、二つの坎の険みの間に在るとともに、陰柔不才なので、その志行は不中正な者である。
なおかつ応爻の助けもない。
そこで、まず自分の居所の険みを防ごうとして、進み往き、平坦な安処を求め欲するが、上卦の坎の険みが前に横たわっていて、進むことはできない。
また、退こうとしても、後ろもまた坎の険みの卦の中心の九二の陽剛が厳しく聳え立っていて、退くこともできない。
それならば、このまま六三の位置に止まって居ようかと考えるが、陽位に陰爻が居るというのは、これまた居心地が悪い。
したがって、六三は前後左右進退動止、悉く険難苦患である。
だから、来たるも之くも坎坎たり、険みにあって且つ枕えたり、坎窞に入れり、という。
このような時運の厄窮に出遇った者は、何事も諦め、一に苦を忍び険みを堪え、時を待つしかない。
少しでも何かしようと動けば、忽ち険み深く艱(くる)しみ重くなるだけである。
だから、用うる勿れ、と戒めていう。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六四、尊酒二簋、弐用缶、納約自牖、終无咎、
六四(りくし)、尊酒(そんしゅ)二簋(にき)あり、弐(そ)えるに缶(ほとぎ)を用(もち)う、約(やく)納(い)れること牖(まど)自(より)すとも、終(おわ)りに咎(とが)无(な)し、
尊とは酒器のこと。
簋とは料理を載せる器のこと。
尊酒二簋で、酒と料理の器が合計で二つということ。
弐は「そえる」と訓む。
缶とは質素な素焼きの容器。
六四は険難の世の宰相にして、柔正を得ている上に、九五の君とは陰陽正しく比しているので、よく君に承け仕える臣である。
しかし陰柔なので、この重なる坎の時の険みを救済し、乱を撥(はら)うまでの才力には乏しい。
したがって、ただ誠実だけを以って君に仕える爻である。
今は非常事態の坎の険みの時勢なので、平居無事太平の時のように、儀節を飾り、礼文を備えて、君上に仕えることは難しい。
時勢を鑑みて略せることは略してよい。
一尊一簋の酒食に、器は缶を用いるような薄礼小儀だとしても、至敬の誠実を以ってする時には、そのまま君上に薦めて構わない。
本来ならば、豪華にしなければいけないところだが、非常時はそんなことは言っていられない。
心がこもっていれば、質素でもかまわない。
だから、尊酒二簋あり、弐えるに缶を用う、という。
さて、君上と何か約束を交わすことがあるときは、礼に則り正面玄関から入り、いろいろな手続きを経て、君上と会うものである。
しかし今は、非常大変なときである。
秘密緊急の約信を君辺に告げようとする場合には、無理して正面玄関から入る必要はない。
平常無事の時ならば、卑賤の匹夫さえも使わない牖=明り取り用の窓から出入りしても、何ら問題はない。
むしろ、正面から入り、面倒な手続きで時間ばかりかかるよりも、そういった窓を使ったほうが、速やかに約信を通じられるので、何かと好都合であろう。
ともあれ、非常不慮の事変に臨んでは、常経に構わず、機に臨み変に応じる度量が大事なのである。
非常事態が治まり終わらせることが第一であって、その目的に沿っているのであれば、礼を失っても咎はないものである。
だから、約を入るるに牖よりすとも、終りに咎无し、という。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
九五、坎不盈、祇既平、无咎、
九五(きゅうご)、坎(あな)盈(み)たしめ不(ざ)れ、既(すで)に平(たい)らかに祇(いた)れば、咎(とが)无(な)し、
九五は非常大険難の時に当たって君の位に居る。
下の九二の陽剛の大臣は、臣の位に居るとしても、九五とは陽同士なので、陰陽正しく応じてはいない。
そこで九二は、その陽剛の権勢を逞しくして、道に外れた志をも抱いている。
これを以って時の勢いがふたつに分かれて、世間大険難となったのである。
しかし九五は、剛健中正にして、よく険難を救済する才力が有る君であるので、共にこの乱を撥(はら)い、険みを救済する要道を教える。
乱を撥い険みを解くには、急速に功を成すのはよくない。
即功頓利に急ぐときは、必ず躓くものである。
としても、逆に寛慢遅滞なときは、禍害が大きくなる。
したがって、その七八分まで攻め詰めることは、疾風迅雷のように速やかに動くが、敢えてそれ以上は進まず、泰山の如くに静かに止まり、その二三分を余して、寛仁の大度量を施し、徳を以ってこれを懐柔する。
そうすれば、労せずしてその残した二三分も、自然に済い得るものである。
さて、この卦は重坎にして内外ともに水の象なので、水に即して喩えを書いている。
今、試みに水を取って、穴に注ぎ入れるとしよう。
強く注ぐときは、水面が激しく揺れてなかなか平らかにはならない。
しかし、注ぐの止めると、水勢は自ら次第に平らぎて、静かな水面になる。
要するに、物事は静かに止まった後に、公平を得られるのである。
だから、坎盈たしめ不れ、という。
これは、七八分で止めて、十分を求めないことが大事だと戒める義を、象に即して書いているのである。
もとより七八分で止めて過ぎないときには、満ち溢れることはない。
これは、人の疾病を攻めるときも同じである。
毒があれば、その毒を攻めなければならないが、七八分を除き去ることができたら、速やかに攻めることを止めて、後は食事などで元気の徳を蓄え養うのがよい。
それで残りの二三分の邪毒は、元気の陽徳に駆り立てられて、自然に消滅するものである。
無理に邪毒をすべて取り去ろうとすれば、それだけ身体に負担がかかり、身命が先に尽きてしまうこともある。
だから、既に平らかに祇れば、咎无し、という。
念のために付け加えておくが、これは江戸時代の医学に基づいた発言である。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上六、係用徽纆、寘于叢棘、三歳不得、凶、
上六(じょうりく)、係(かか)るに徽纆(きぼく)を用(もち)い、叢棘(そうきょく)に寘(お)く、三歳(さんさい)まで得(え)ず、凶(きょう)なり、
徽纆は縄のこと。
叢棘はトゲのある草木が生い茂った場所。
古代には、犯罪者は叢棘の中に置かれたという。
懲らしめるためである。
今、上六の爻は、陰暗不才にして、険みの極に居る。
およそ世間の人は、険難困窮の時に遇っても、その節操を凛々と貞正に保つ者は少ない。
多くは邪路に走り、姦徒に陥り、非難されるようなことでも、意外と簡単に手を出してしまう。
特にこの上六のように、もとより陰暗不才であれば、道を喪い罪を犯して、それが発覚して処罰される。
だから、係るに徽纆を用い、叢棘に寘く、という。
これは、身の険難に苦しむことが甚だしい様子でもある。
続く三歳の三とは多数の義である。
上六は陰暗不才にして、外に応爻の助けはないので、険難を脱出することは、永久に不可能である。
だから、三歳まで得ず、凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○
初六、習坎、入于坎窞、凶、
初六(しょりく)、習坎(しゅうかん)なり、坎窞(かんたん)に入(い)れり、凶(きょう)なり、
習とは、雛鳥が羽の使い方を練習するためにバタバタ羽ばたくことであって、その様子から、同じことを重ね繰り返すことを意味する。
窞とは、坎の穴の中にあるさらに深い穴のことである。
今、坎の険(なや)みの時に当たって、初六は陰柔不中不正なので、道を失っている者である。
なおかつ上に応爻の助けもなく、自分の身は坎の険みの底に陥っている象義である。
険阻の重なった深い穴に陥り、その重なる穴の底に、さらにまたひとつの穴があり、転んで終にはその穴に陥ってしまい、険み苦しんでいる様子である。
もとよりその身は陰柔にして、自力でその穴から這い出す才力はなく、応爻の助けもないので、助けを求めても誰一人として救い出してくれる者はいない。
したがって、一歩も出ることはできない。
これは険みの至極である。
だから、習坎なり、坎窞に入れり、凶なり、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━
九二、坎有険、求小得、
九二(きゅうじ)、坎(かん)にあって険(なや)み有(あ)り、求(もと)めば小(すこ)しく得(え)ん、
坎は穴である。
上卦の坎を穴とし、下卦の坎を険みとする。
九二は下の坎の中間の一陽、すなわち下卦の中心である。
これは、坎の穴の中に陥って、その身に急切な険みが有る様子である。
だから、坎にあって険み有り、という。
そして、九二は上に応爻の助けはないので、坎の穴の険みを出て去ることはできない。
ただ、剛中の才が有るので、何かを求めれば、小しは得ることは有る。
としても、辛うじて身を保つことができるのみである。
だから、求めば小しく得ん、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━
六三、来之坎坎、険且枕、入于坎窞、勿用、
六三(りくさん)、来(きた)るも之(ゆ)くも坎坎(かんかん)たり、険(なや)みにあって且(か)つ枕(ささ)えたり、坎窞(かんたん)に入(い)れり、用(もち)いること勿(なか)れ、
来之とは、進むことと退くこと、といったことである。
枕は頭を支えるものであるように、ささえるという意味がある。
今、六三は、二つの坎の険みの間に在るとともに、陰柔不才なので、その志行は不中正な者である。
なおかつ応爻の助けもない。
そこで、まず自分の居所の険みを防ごうとして、進み往き、平坦な安処を求め欲するが、上卦の坎の険みが前に横たわっていて、進むことはできない。
また、退こうとしても、後ろもまた坎の険みの卦の中心の九二の陽剛が厳しく聳え立っていて、退くこともできない。
それならば、このまま六三の位置に止まって居ようかと考えるが、陽位に陰爻が居るというのは、これまた居心地が悪い。
したがって、六三は前後左右進退動止、悉く険難苦患である。
だから、来たるも之くも坎坎たり、険みにあって且つ枕えたり、坎窞に入れり、という。
このような時運の厄窮に出遇った者は、何事も諦め、一に苦を忍び険みを堪え、時を待つしかない。
少しでも何かしようと動けば、忽ち険み深く艱(くる)しみ重くなるだけである。
だから、用うる勿れ、と戒めていう。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
六四、尊酒二簋、弐用缶、納約自牖、終无咎、
六四(りくし)、尊酒(そんしゅ)二簋(にき)あり、弐(そ)えるに缶(ほとぎ)を用(もち)う、約(やく)納(い)れること牖(まど)自(より)すとも、終(おわ)りに咎(とが)无(な)し、
尊とは酒器のこと。
簋とは料理を載せる器のこと。
尊酒二簋で、酒と料理の器が合計で二つということ。
弐は「そえる」と訓む。
缶とは質素な素焼きの容器。
六四は険難の世の宰相にして、柔正を得ている上に、九五の君とは陰陽正しく比しているので、よく君に承け仕える臣である。
しかし陰柔なので、この重なる坎の時の険みを救済し、乱を撥(はら)うまでの才力には乏しい。
したがって、ただ誠実だけを以って君に仕える爻である。
今は非常事態の坎の険みの時勢なので、平居無事太平の時のように、儀節を飾り、礼文を備えて、君上に仕えることは難しい。
時勢を鑑みて略せることは略してよい。
一尊一簋の酒食に、器は缶を用いるような薄礼小儀だとしても、至敬の誠実を以ってする時には、そのまま君上に薦めて構わない。
本来ならば、豪華にしなければいけないところだが、非常時はそんなことは言っていられない。
心がこもっていれば、質素でもかまわない。
だから、尊酒二簋あり、弐えるに缶を用う、という。
さて、君上と何か約束を交わすことがあるときは、礼に則り正面玄関から入り、いろいろな手続きを経て、君上と会うものである。
しかし今は、非常大変なときである。
秘密緊急の約信を君辺に告げようとする場合には、無理して正面玄関から入る必要はない。
平常無事の時ならば、卑賤の匹夫さえも使わない牖=明り取り用の窓から出入りしても、何ら問題はない。
むしろ、正面から入り、面倒な手続きで時間ばかりかかるよりも、そういった窓を使ったほうが、速やかに約信を通じられるので、何かと好都合であろう。
ともあれ、非常不慮の事変に臨んでは、常経に構わず、機に臨み変に応じる度量が大事なのである。
非常事態が治まり終わらせることが第一であって、その目的に沿っているのであれば、礼を失っても咎はないものである。
だから、約を入るるに牖よりすとも、終りに咎无し、という。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
九五、坎不盈、祇既平、无咎、
九五(きゅうご)、坎(あな)盈(み)たしめ不(ざ)れ、既(すで)に平(たい)らかに祇(いた)れば、咎(とが)无(な)し、
九五は非常大険難の時に当たって君の位に居る。
下の九二の陽剛の大臣は、臣の位に居るとしても、九五とは陽同士なので、陰陽正しく応じてはいない。
そこで九二は、その陽剛の権勢を逞しくして、道に外れた志をも抱いている。
これを以って時の勢いがふたつに分かれて、世間大険難となったのである。
しかし九五は、剛健中正にして、よく険難を救済する才力が有る君であるので、共にこの乱を撥(はら)い、険みを救済する要道を教える。
乱を撥い険みを解くには、急速に功を成すのはよくない。
即功頓利に急ぐときは、必ず躓くものである。
としても、逆に寛慢遅滞なときは、禍害が大きくなる。
したがって、その七八分まで攻め詰めることは、疾風迅雷のように速やかに動くが、敢えてそれ以上は進まず、泰山の如くに静かに止まり、その二三分を余して、寛仁の大度量を施し、徳を以ってこれを懐柔する。
そうすれば、労せずしてその残した二三分も、自然に済い得るものである。
さて、この卦は重坎にして内外ともに水の象なので、水に即して喩えを書いている。
今、試みに水を取って、穴に注ぎ入れるとしよう。
強く注ぐときは、水面が激しく揺れてなかなか平らかにはならない。
しかし、注ぐの止めると、水勢は自ら次第に平らぎて、静かな水面になる。
要するに、物事は静かに止まった後に、公平を得られるのである。
だから、坎盈たしめ不れ、という。
これは、七八分で止めて、十分を求めないことが大事だと戒める義を、象に即して書いているのである。
もとより七八分で止めて過ぎないときには、満ち溢れることはない。
これは、人の疾病を攻めるときも同じである。
毒があれば、その毒を攻めなければならないが、七八分を除き去ることができたら、速やかに攻めることを止めて、後は食事などで元気の徳を蓄え養うのがよい。
それで残りの二三分の邪毒は、元気の陽徳に駆り立てられて、自然に消滅するものである。
無理に邪毒をすべて取り去ろうとすれば、それだけ身体に負担がかかり、身命が先に尽きてしまうこともある。
だから、既に平らかに祇れば、咎无し、という。
念のために付け加えておくが、これは江戸時代の医学に基づいた発言である。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━
上六、係用徽纆、寘于叢棘、三歳不得、凶、
上六(じょうりく)、係(かか)るに徽纆(きぼく)を用(もち)い、叢棘(そうきょく)に寘(お)く、三歳(さんさい)まで得(え)ず、凶(きょう)なり、
徽纆は縄のこと。
叢棘はトゲのある草木が生い茂った場所。
古代には、犯罪者は叢棘の中に置かれたという。
懲らしめるためである。
今、上六の爻は、陰暗不才にして、険みの極に居る。
およそ世間の人は、険難困窮の時に遇っても、その節操を凛々と貞正に保つ者は少ない。
多くは邪路に走り、姦徒に陥り、非難されるようなことでも、意外と簡単に手を出してしまう。
特にこの上六のように、もとより陰暗不才であれば、道を喪い罪を犯して、それが発覚して処罰される。
だから、係るに徽纆を用い、叢棘に寘く、という。
これは、身の険難に苦しむことが甚だしい様子でもある。
続く三歳の三とは多数の義である。
上六は陰暗不才にして、外に応爻の助けはないので、険難を脱出することは、永久に不可能である。
だから、三歳まで得ず、凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
![]() | 聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く (2005/04) 水上 薫 商品詳細を見る |
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


