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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

沢風大過 爻辞

28 沢風大過 爻辞

上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━○

初六、藉用白茅、无咎、

初六(しょりく)、藉(し)くに白茅(はくぼう)を用(もち)ゆ、咎(とが)无(な)し、

藉くとは、祭壇に敷物を敷くこと、白は清潔の義である。
初六は、大過の卦の初めに在って、人を敬うことを、神を尊ぶが如くにする者である。
これは、人を敬うに大いに過ぎていることである。
そもそも、今は大過の時に当たっているので、六爻ともに、何かが大いに過ぎている。
初六は最下に在り、陰柔卑賤の爻なので、人を敬い尊ぶことに過ぎる象が有る。
これを、礼節を得、和の中に適う者と比較するときには、敬うに過ぎている失は有るが、亢(たか)ぶり傲(ほこ)って、人を侮り軽んじる者と比較すれば、千万勝っている。
まして、人を侮り軽んずることは、大いに咎有るの道である。
今、この初六は、敬う気持ちが過ぎて、人をもてなす敷物に、祭壇に使う白くて清潔な茅を使うだけである。
それに何の咎があるだろうか。
だから、藉くに白茅を用ゆ、咎无し、という。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━○
初六━ ━

九二、枯楊生梯、老夫得其女妻、无不利、

九二(きゅうじ)、枯楊(かれやなぎ)梯(ひこばえ)を生(しょう)ず、老夫(ろうふ)其(そ)の女妻(じょさい)を得(え)たり、利(よ)ろしからざる无(な)し、

この卦は兌の沢の中に巽の木が在る象である。
また、巽は柔木とする。
楊は柔木(柔らかい木)にして、水を好む木である。
したがって、象を楊に取る。
草木の性は陰潤の水の養いの過ぎるにも枯れ、陽燥の水の養い不足なるにも枯れるものである。
今、この卦は四陽ニ陰なので、陽が大いに過ぎている。
これを草木に取れば、陽燥に過ぎて乾き枯れる義が有る。
なおかつこの卦は、もとより陽に過ぎている。
しかし、この九二の爻は、内卦の中の徳を得ているので、過ぎていない、という義が有るとともに、初六の陰柔の比爻の浸潤の助けを得て、剛柔相適い、相済(ととの)い、ほとんど宜しきを得ているので、大過の過失を補う、という義が有る。
そこで、象に則して直ちに言えば、九二の枯れた陽が、初六の陰の根の助けを得て、再び陽の梯を生じる義である。
だから、枯楊梯を生ず、という。
およそ草木の中で、すでに乾枯しているに、そこから梯を生じて復活するのは、楊のみである。

さて、これを人事について言えば、一旦喪い果てることが、再び復活するという義である。
もとより九二は陽剛にして夫である。
初六は陰柔にして妻である。
初とニと陰陽正しく比している。
したがって、これを夫婦とする。
なおかつこの辞には女妻とある。
女とは、未だ嫁いでない者の称にして、言うなれば少女の義である。
この卦は大過の時なので、夫は老夫、妻は女妻と言う。
これは夫の年齢が、遥かに妻に過ぎている様子である。
爻象を以って見れば、九二は初六より一段上である。
これは加倍の長である。
その上に大過の時の義を兼ね合わせる。
だから、老夫、其の女妻を得たり、という。

老夫が少女と結婚するのは、常識を大いに過ぎているということもあり、躊躇することもあるだろう。
しかし、九二の夫が初六の妻の助けを得ることは、枯楊が水の潤おいの助けを得て、梯を生じるようなものであって、この夫婦にもついには子が生まれ、その血は脈々と受け継がれていくのである。
要するに、結婚の目的は子孫を残すことであって、老夫と少女のカップルであってもその目的は達成できるのだから、世間的な評価は関係ない。
本人同士が望むのであれば、躊躇せず、積極的にその話を進めて、何ら問題はない。
だから、利ろしからざる无し、と、背中を強く押す。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━
九三━━━○
九二━━━
初六━ ━

九三、棟橈、凶、

九三(きゅうさん)、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、凶(きょう)なり、

卦辞に棟と言うのは、全卦を棟の象に取ってのことである。
爻辞では、この九三に、棟橈む、九四に、棟隆んなり、と、この両爻の辞だけに、棟と言う。
これは、全卦の棟のその中間を取ってのことである。
今、この大過の時、過陽の卦に在って、九三は陽爻を以って陽位に居り、なおかつ不中である。
そもそも棟というのは、そこにかかる力が、棟が持っている力を過ぎれば、必ずその任に堪えず、橈み、さらに重さが甚だしければ折れることもある。
これを人事に擬えるときは、国家が背負っている重さに耐え切れず、まさに傾き覆るに至ろうとする時勢である。
とすれば、凶であることは言うまでもない。
だから、棟橈めり、凶なり、という。

なお、上六と陰陽相応じている。
これは陰陽が相助け合う義に取るのが普通だが、棟を以って言うと、上にある応爻は、九四や九五とともに、九三が負い載せている者であって、九三を助ける者ではない。
むしろ、却って九三に重みを増しているだけである。
したがって、上九は応爻ではあるが、実際には何の助けにもならないのである。


上六━ ━
九五━━━
九四━━━○
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九四、棟隆、吉、有它吝、

九四(きゅうし)、棟(むなぎ)隆(さか)んなり、吉(きち)なり、它(た)有(あ)れば吝(はずか)し、

九三と九四は共に陽剛にして、同じく大過の四陽排列するところの爻である。
しかし、九三では、棟橈めり、この九四では、棟木隆んなり、と言い、その義は大いに相反する。
どう違うのか。
九三は、過陽の卦に在って、陽爻を以って陽位に居て、なおかつ不中である。
対するこの九四は、陽剛にして陰の位に居るので、卦としては過陽だが剛に過ぎる過失が少ない。
その上、初六の陰爻に応じ、剛柔相適って宜しきを得ている。
したがって、棟隆んなるに至るのである。
隆とは、地形豊盛にして、中央が高いことを言う。
これは、棟の中間が上に反(そ)っていることである。
橈みそうに重みがかかている棟を、上に反るように隆んにするには、下から柱を以って助けることである。
その柱の助けが初六の応爻である。
初六は下に居り、九四は上に在り、初六の陰の柱、下より九四の棟に応じてこれを支え助けて、上へ反り隆んにさせる。
これは上六が九三に応じて、却って上より重さを増すのとは相反することである。
これを以って三は橈み、四は隆んになるのである。
さて、この旨を人事について言えば、およそ人の君となり父となろうとする者の下に、その君や父を諌めることができる忠信の臣や子が有るときには、その国や家の基礎は堅固安泰となるものである。
したがって、このようであってこそ、吉なのである。
だから、棟隆んなり、吉なり、という。
これがもし、九四に他の思惑があり、初六の助けを捨てて用いないときには、必ず棟は橈み、ついには折れてしまうような凶が有り、後世までも辱められ、吝(わら)い者になるというものである。
だから、它有れば吝し、という。
它とは、応爻ではないその他の者を指すのであって、水地比の初六に、它有れば吝し、とあるのと同類の表現である。


上六━ ━
九五━━━○
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

九五、枯楊生華、老婦得其士夫、无咎无誉、

九五(きゅうご)、枯楊(かれやなぎ)華(はな)を生(しょう)ず、老婦(ろうふ)其(そ)の士夫(しふ)を得(え)たり、咎(とが)も无(な)く誉(ほま)れも无(な)し、

枯れた楊の義は、すでに九二にて解説したとおりである。
この九五は、上六の比爻にして、上六より陰の助けを得るのであって、華は上に開くものである。
九二の梯を生じるとは、初六の陰の助けを根に得るからこそのことであるが、この九五の場合は、下に助けはなく、ただ上六の上より助けがあるのみである。
これは、例えば根を断った楊が、上から雨露の潤いを得て、たまたま花を咲かせたようなものである。
だから、枯楊、華を生ず、という。
しか、一旦は花を咲かせる勢いはあっても、下の根よりの助けはないので、久しからず花は凋(しぼ)み落ちる。

さて、老婦とは上六の爻を指し、士夫とは九五の爻を指す。
ここで言う士とは、未婚の者の称にして、要するに若い男性のことである。
九五と上六とは、上六の陰を以って上に居るので、これを老婦と言い、九五の陽を以って下に居るので、これを士夫と言う。
これもまた大過の義である。
そして、五と上と陰陽相比するので夫婦とするわけだが、九二と初九との関係と、この九五と上九との関係には、次のような違いがある。
九二の老夫が女妻を得ることは、常識相応ではないが、枯れた楊に梯が生じるように、子孫の継続が期待できるという点では、喜ばしいことである。
しかし、老婦が士夫を得たとしても、老婦では妊娠不可能である。
したがって、枯れた楊に華を生じるだけのように、子孫の継続は期待できない。
これでは、得ることも失うこともない。
本人同士がそれでよいのならそれでよいが・・・。
だから、老婦其の士夫を得たり、咎も无く誉れも无し、という。


上六━ ━○
九五━━━
九四━━━
九三━━━
九二━━━
初六━ ━

上六、過渉滅項、凶、无咎、

上六(じょうりく)、渉(わた)るに過(す)ぎ項(いただき)を滅(め)っす、凶(きょう)、咎(とが)无(な)し、

この卦は似体の大坎の象である。
これは水の象義であるとともに、上卦は沢水なので、水を渉るの義に取って辞を書いたのである。
この爻は大過の卦の極なので、歩いて渡れないほどに、水の量が多過ぎ、満ち溢れている様子である。
川の水が渉れる水量を大いに過ぎていれば、険阻艱難であって、誰しもが二の足を踏む。
衆人には大いに過ぎて渉れなくても、勇気を出して果敢に水を渉れば、頭までも水中に没して危険である。
まさに自殺行為である。
だから、渉るに過ぎ項を滅す、凶なり、という。
項とは首から上の部分のことであり、上爻を首とし、その首が上卦兌沢の中に没する象である。
これは実に身命を滅する凶事であることは勿論だが、それでも必ず渉らなければならない時ならば、身命を滅するとしても、道義においては咎はないものである。
例えば、武士が戦場に臨み、君主の一大事の時に当たって、手足身首が処を異にする凶であっても、道義にあっては咎无しとするが如くである。
要するに、自分の命を捨てて、守るべき者を守る、といったときである。
だから、咎无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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沢風大過

28 沢風大過(たくふうたいか)
takufu.gif大過 巽下兌上(そんか だじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

大過とは、大いに過ぎる、大なる者が過ぎる、ということ。
易では、陽を大、陰を小とするのだが、この卦は四陽二陰にして、陽爻が陰爻よりその数が過ぎている。
だから大過と名付けられた。
なお、四陽二陰の卦は、他に雷天大壮、天山遯をはじめ、いくつかあるが、それならなぜ、ことさらにこの卦だけ大過というのか、ということになるが、それは、内外主客をもって、卦の形を判断するからである。
そもそも主は内にして、客は外に位置するものである。
したがって、主を陽とし、客を陰とすれば、この卦は四陽が主として内にあり、二陰が客として外にあるわけである。
とすると、主が客よりも大いに過ぎている。
だから大過と名付けられた。
逆に、雷山小過の場合は、二陽が内に主としてあり、四陰が外に客としてあるが、これは客の小なる陰が主の陽なる大よりも過ぎているから、小過と名付けられたのである。
念のために付け加えると、陰は主となるべきものではないので、陰が内にある山雷頤や風沢中孚は、大小過と名付けられなかったのである。

もとより主には勢いがあり、客には勢いはないのは、兵家の主戦客戦という語にもあるとおりである。
この卦は、勢いのある主たる陽剛が、勢いのない客たる陰柔に過ぎている。
対する雷山小過の場合は、客の勢いのない陰柔が、主の勢いのある陽剛に過ぎているわけだが、客は過ぎているとしても、そもそもが勢いのない者だから、大いに過ぎるとは言えないので、小過と名付けられたのである。

また、この卦は、兌を沢、巽を木とすれば、沢が木を滅ぼすという意もある。
沢は水草が集まり蓄えられている場所であり、本来は木を潤養するところである。
しかしこの卦にあっては、巽の木は、兌の沢の中に入って滅没している。
これは、その潤養が却って大いに過ぎた様子である。
だから大過と名付けられた。
また、兌を悦ぶとし、巽を従うとすれば、悦んで従う様子である。
心に悦楽して従事するときは、その事は必ず大いに過ぎるものである。
だから大過と名付けられた。
また、兌を少女とし、巽を長女とすれば、この卦は少女が長女の上に位置している。
これを少女について言えば、長女を凌ぐことが過ぎているのであって、長女について言えば、少女に譲ることが過ぎている様子である。
これもまた、大過と名付けられた所以である。

卦辞
大過、棟橈、利有攸往、亨、

大過(たいか)なれば、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

棟とは、屋根を支える大事な木なので、材木の中でも、その材質が傑出大過なものを選んで使うものである。
しかしその棟も、多くの木材を載せ負うと、材力の分に大いに過ぎ、橈んでしまう。
これは、人事に於いても同様である。
人それぞれ能力には限度があり、その人の能力を大いに過ぎる仕事を任されれば、棟が橈んでしまうように、その任に堪えられず、失敗を招いてしまう。
だから、大過なれば棟橈めり、という。

そもそも天運には窮通があり、時勢にも過不及がある。
君子ならば、それを弁え知る必要がある。
今、大過のときに当たって、その任に居り、その職を掌ろうとする者は、必ず大いに過ぎる非常な大材力大手段がないときは、その事を遂げるのは難しい。
しかし、その大いに過ぎる大材力大手段があれば、しかる後には、物事を成すことは可能である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
そして、しかる後に事物は遂げ成るから、亨る、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
大過、大者過也、棟撓、本来弱也、
大過(たいか)は、大(だい)なる者(もの)の過(過)すぎたる也(なり)、棟(ムネ)撓(たわ)むとは、本末(ほんまつ)の弱(よわ)ければ也(なり)、

剛過、而中、巽而説、利有攸往、行乃亨也、大過之時大矣哉
剛(ごう)過(す)ぎたれども、而(しか)も中(ちゅう)にして、巽(ととの)って而(しこう)して説(よろこ)ぶをもって、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、行(おこな)えば乃(すなわ)ち亨(とお)るとなり、大過(たいか)之(の)時大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢滅木、大過、君子以独立而不懼、遯世无悶、
沢(さわ)が木(き)を滅(め)っするは、大過(たいか)なり、君子(くんし)以(も)って独立(どくりつ)して而(しこう)して懼(おそ)れず、世(よ)を遯(のが)れても悶(いきどお)ること无(な)かるべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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