
27 山雷頤 爻辞
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○
初九、舍爾霊亀、観我朶頤、凶、
初九(しょきゅう)、爾(なんじ)の霊亀(れいき)を舍(す)てて、我(われ)を観(み)て頤(おとがい)を朶(た)る、凶(きょう)なり、
爾とは初九を指して言う。
我とは六四の爻からの言葉である。
この爻の辞は、六四の爻から初九に告げる形式になっている。
およそ爻の辞の中に、我と爾という言葉が並んであるのは、風沢中孚の九二の辞と、この山雷頤の初九だけである。
そして、この爻も中孚の九二も、ともにその応爻から告げている言葉である。
さて、亀というものは、至霊至奇にして、食を貪らず、犯し求めることも少なく、よく未然の吉凶を知り、北方玄武の神の象形四霊の一瑞として、自らよく養うところの徳が有る者である。
この頤の卦は、頤養の象なので、人を養う義と、人に養われる義との二途を兼ね具えている。
初九と上九とのニ陽剛は、陽実富盛にして人を養うところの者とし、ニ三四五の四陰爻は、陰虚貧乏にして人に養われるところの者とする。
もとより初九は、剛実にして、自らよく養うところの霊亀の徳が有るところの爻なのだが、その自己固有の剛実自養の徳を捨てて、却ってその応爻の六四陰虚の貧乏者に向かって養いを乞い求めている。
これによって六四の応爻は、初九に忠告する。
爾初九は霊亀の徳を具えていながら、自ら養うことを捨て、我六四陰虚の応爻の方を観て、頤を朶れ、口を開いて養いを乞い求めるが、それは鄙吝恥辱の至りのはずではないか?
陽剛にして自ら養うに足りる才能を有しながら、却って養いを陰爻に乞い求めるのは、自身の情欲に負け、天稟陽正の守りを失うことであって、凶である。
だから、爾の霊亀を舍てて、我を観て頤を朶る、凶なり、という。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━
六二、顛頤、払経、于邱頤、往凶、
六二(りくじ)、顛(さかしま)に頤(やしな)われんとす、経(つね)に払(もと)れり、邱(おか)に于(お)いて頤(やしな)われんとす、征(ゆ)くは凶(きょう)なり、
邱とは、上九の爻を指す。
今、頤養の時に当たって、六二の爻は陰虚なので、養いを初九の陽剛に比し求める。
しかし養いの道は、上より下に施し恵むのを常経とし、六二は上に在り、初九は下に居る。
これでは、上より下に施し恵む義に反し、却って転倒(さかしま)に養われようとしていることになる。
これば常経に悖ることである。
だから、顛に頤われんとす、経に払れり、という。
言を待たずとも、これは凶である。
そこで六四は、養いを上九の陽剛に求めようとする。
これなら、上下の常経の義にも、陰虚より陽実に求めるの義にも反しない。
しかし、上九の爻は、六二の応爻の位ではないので、六二を養う筋合いではない。
したがって、上九のところへ行っても、門前払いされるだけで、これも凶である。
だから、邱に于いて頤われんとす、往くは凶なり、という。
このように、上にも下にも、六二を養ってくれる者はいないのであって、養いを他に求めず、己の中正の道を守り、自ら勉め励むしかないのである。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━
六三、払頤、貞凶、十年勿用、无攸利、
六三(りくさん)、頤(やしな)いに払(もと)れり、貞(かた)くするは凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)も用(もち)いること勿(なか)れ、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、
今、頤養の時に当たっては、各自それぞれに口実を求めている。
口実とは、自分を養うための、正しい実のことで、食料も徳も含まれる。
この六三の爻は、陰柔不才不中不正にして内卦震動の卦の極に居るので、人事に在っては不中不正の志行にして、貧欲で目先の利益のためには妄りに動き騒ぎ、常経の務めには陰弱なるを以って怠けて養いを他人に乞い求める様子である。
これは、身を養うの正道に悖れる者である。
だから、頤いに払れり、という。
このように六三は、頤養の正道に悖り、自ら口実を求める大義にも背いているのであって、このような態度は早く悔い改めるべきである。
それでも、何も気にせず、尚も強いて養われることを乞い求めるのであれば、それは耳を伏せ、尾を垂れて、人の顔色を覗い、憐れみを乞い求めるわけであって、鄙吝醜態の極みにして不義、破廉恥の至りである。
だから、貞くするは凶なり、という。
こんなことをいくらしていても、結局は何も得られないものである。
だから、大いに永く警めて、十年も用いること勿れ、利ろしき攸无し、という。
なお、六三は上九と陰陽正しく応じていて、六三は陰虚貧乏の爻、上九は陽実富豪の爻、六三は下に居り、上九は上位に在る。
とすると、上九に養いを求めても、問題はないようにも思える。
確かに、陰柔貧虚ながらも平素は真面目に務めているのが、ある日突然災害に遭ったり、病気や事故などで急な出費があるときは、求めてもかもわない。
しかし六三は、陰柔の嗜欲が深く、内卦の極に居るので、贅沢が甚だしく、他人を侮り、勝つことを好む反面、仕事はいい加減で、一攫千金の夢を見ているような、言わば遊び人である。
上九に求めているのは、その遊ぶ金である。
したがって、上九に養いを求めるのは大問題だと言っているのである。
そもそも他人に遊ぶ金を無心するのは、とんでもないことである。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
六四、顛頤、吉、虎視眈々、其欲遂遂、无咎、
六四(りくし)、顛(さかしま)に頤(やしな)わる、吉(きち)なり、虎視眈々(こしたんたん)其(そ)の欲(よく)遂遂(ちくちく)たれば、咎(とが)无(な)し、
頤養の時に当たって、六四は柔正にして、初九剛正の賢者の爻と陰陽相応じている。
だから、顛に頤わる、という。
六四は執政大臣の位に居るわけだが、陰柔にして才力に乏しいので、そんな己を憂い、賢者を得て、以って政事を輔佐させて、国家を治めようと欲する。
初九は最下に居る卑夫の爻だが、陽剛にして正位を得ているので賢徳な者である。
そこで六四は、初九に政事の輔佐をさせようと欲する。
これが顛に頤われる内容であって、このようであるのなら、顛であっても、咎は無く、むしろ却って吉である。
だから、吉なり、という。
そもそも六四大臣の爻の、その不足とするところは、陰柔であるがゆえに威重を失っていることである。
その対策としては、まず、下に在る賢者を求め得て、国家の政事を輔佐させ、六四自身は沈黙荘重にすることで執政大臣の威厳を高くする。
その上で、虎が眈々として物を視るように、近くを視る如くでありながらその志は遠くに在るという大度の器量を弘大にし、その養うところは遂遂と篤実重厚にする。
そうすることで、庶民はよく服し化し、至治の善政となるのである。
だから、虎視眈々、其の欲遂遂たれば、咎无し、という。
其の欲とは、私欲利欲の類ではなく、志弘く賢者を得て、自身の才力不足を補い、徳を養い、民を服させて、国家の至治を願い望むという欲を言う。
上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
六五、払経、居貞吉、不可渉大川、
六五(りくご)、経(つね)に払(もと)れり、貞(つね)に居(い)れば吉(きち)なり、大川(たいせん)を渉(わた)る不可(べからず)、
そもそも人君の任は、広く遍く万民を撫育教化するに在る。
そこで、民の父母と形容される。
ことさらこれを天子と称するのは、天を父として仰ぎ戴き、その天の父の道に遵い則り、下は万民を子として撫育教化するという義があるからである。
その余の公侯たる国君や諸々の民の上たるところの者は、みなこれに準じ倣うべきこと勿論である。
しかし今、この六五の君は、頤養の時に当たって、自家が陰虚なので、遍く万民を養うことができず、却って養いを上九陽剛の賢者に求める。
だから、経に払れり、という。
経とは君道の常道大経を言う。
さて、この卦は頤養の象義であるわけだが、全卦中にてただ初九と上九の爻のみが、陽剛富実である。
そこで、この初上の両陽剛はよく人を養う才徳が有るものとする。
したがって、時の勢いは、自然にこの両陽剛に属す。
これに対して、六五の君の爻は、中を得ているとしても、陰柔なので威福は薄い。
しかも、その君徳を輔弼するべきところのニと四との両大臣も共に陰弱なので、その任に堪えられず、共に初九の陽剛に比し応じ、頼ってしまう。
その結果六五の君は、陰弱孤立となり、その勢いはく、その志も確かなものではなく、ややもすれば変動する恐れが有る。
もしこの時に、君の志がひとたび変動するときには、忽ち君の位を喪うことも憂慮される。
とすれば、一に貞常の道を守って、固く動かないことが良策である。
しかし、幸いにも、六五の君は上九の賢者が比爻である。
専らこの上九に順がい降って、以って常を守って動かなければ、これは吉の道である。
だから、貞に居れば吉なり、という。
また、六五は上卦艮の止まるの卦の一体中に居るので、止まることに執着し、思い切って進み行くようなことは不可能である。
このような心構えでは、大きな川を渡るのは無理である。
だから、大川を渉る不可、という。
かつて、東京の隅田川は大川(おおかわ)とも呼ばれたが、ここで言う大川は、黄河のようなとんでもない大きな川のことである。
古代には、そんな黄河のような大きな川を渡るのは、一大決心がいることだった。
橋もなければ、船も転覆の恐れがある。
したがって、易ではよく、大事業の比喩として、大川を渉る、という言葉が使われる。
上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
上九、由頤、吉、利渉大川、
上九(じょうきゅう)、由(よ)って頤(やしな)わる、(あや)うけれども吉(きち)なり、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、
この卦はニ奇四偶にして、初九と上九の両爻が陽明実富を以って、中爻の四陰柔貧虚の者を養う様子である。
ニ奇四偶というのは、ニ陽四陰ということを言い換えたもので、奇は奇数、偶は偶数のことであり、陽は奇数、陰は偶数ということから、そう言うのである。
さて、初上両陽剛の中でも、下に居る者は養いを致すにも自然にその力を為し難く、上に在る者はその勢いでよく人を養うことを為すものである。
これは、その位と虚と勢いとの定理必然である。
したがって、衆陰はみなこの上九に由って養われることになるのである。
だから、由って頤わる、という。
この上九は成卦の主であり、爻に在っては上九が人を養う主である。
由の字は、成卦の主爻の辞に使われる字である。
雷地予の九四の由予と同様である。
上九は遍く人を養うので、その任は重く、その責は深い。
任が重く、責が深いのは、危険なことでもある。
しかし、人を養う大道大義であるので、終りには吉となることを得るものである。
だから、けれども吉なり、という。
また、六五の爻は、艮の止まるの卦の体中に居て、進むことができなかったので、大川を渉る不可、とあったわけだが、今この上爻に至っては、艮の塞がりも忽ちに変じて、開通するときである。
だから、大川を渉るに利ろし、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○
初九、舍爾霊亀、観我朶頤、凶、
初九(しょきゅう)、爾(なんじ)の霊亀(れいき)を舍(す)てて、我(われ)を観(み)て頤(おとがい)を朶(た)る、凶(きょう)なり、
爾とは初九を指して言う。
我とは六四の爻からの言葉である。
この爻の辞は、六四の爻から初九に告げる形式になっている。
およそ爻の辞の中に、我と爾という言葉が並んであるのは、風沢中孚の九二の辞と、この山雷頤の初九だけである。
そして、この爻も中孚の九二も、ともにその応爻から告げている言葉である。
さて、亀というものは、至霊至奇にして、食を貪らず、犯し求めることも少なく、よく未然の吉凶を知り、北方玄武の神の象形四霊の一瑞として、自らよく養うところの徳が有る者である。
この頤の卦は、頤養の象なので、人を養う義と、人に養われる義との二途を兼ね具えている。
初九と上九とのニ陽剛は、陽実富盛にして人を養うところの者とし、ニ三四五の四陰爻は、陰虚貧乏にして人に養われるところの者とする。
もとより初九は、剛実にして、自らよく養うところの霊亀の徳が有るところの爻なのだが、その自己固有の剛実自養の徳を捨てて、却ってその応爻の六四陰虚の貧乏者に向かって養いを乞い求めている。
これによって六四の応爻は、初九に忠告する。
爾初九は霊亀の徳を具えていながら、自ら養うことを捨て、我六四陰虚の応爻の方を観て、頤を朶れ、口を開いて養いを乞い求めるが、それは鄙吝恥辱の至りのはずではないか?
陽剛にして自ら養うに足りる才能を有しながら、却って養いを陰爻に乞い求めるのは、自身の情欲に負け、天稟陽正の守りを失うことであって、凶である。
だから、爾の霊亀を舍てて、我を観て頤を朶る、凶なり、という。
上九━━━
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初九━━━
六二、顛頤、払経、于邱頤、往凶、
六二(りくじ)、顛(さかしま)に頤(やしな)われんとす、経(つね)に払(もと)れり、邱(おか)に于(お)いて頤(やしな)われんとす、征(ゆ)くは凶(きょう)なり、
邱とは、上九の爻を指す。
今、頤養の時に当たって、六二の爻は陰虚なので、養いを初九の陽剛に比し求める。
しかし養いの道は、上より下に施し恵むのを常経とし、六二は上に在り、初九は下に居る。
これでは、上より下に施し恵む義に反し、却って転倒(さかしま)に養われようとしていることになる。
これば常経に悖ることである。
だから、顛に頤われんとす、経に払れり、という。
言を待たずとも、これは凶である。
そこで六四は、養いを上九の陽剛に求めようとする。
これなら、上下の常経の義にも、陰虚より陽実に求めるの義にも反しない。
しかし、上九の爻は、六二の応爻の位ではないので、六二を養う筋合いではない。
したがって、上九のところへ行っても、門前払いされるだけで、これも凶である。
だから、邱に于いて頤われんとす、往くは凶なり、という。
このように、上にも下にも、六二を養ってくれる者はいないのであって、養いを他に求めず、己の中正の道を守り、自ら勉め励むしかないのである。
上九━━━
六五━ ━
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六三━ ━○
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初九━━━
六三、払頤、貞凶、十年勿用、无攸利、
六三(りくさん)、頤(やしな)いに払(もと)れり、貞(かた)くするは凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)も用(もち)いること勿(なか)れ、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、
今、頤養の時に当たっては、各自それぞれに口実を求めている。
口実とは、自分を養うための、正しい実のことで、食料も徳も含まれる。
この六三の爻は、陰柔不才不中不正にして内卦震動の卦の極に居るので、人事に在っては不中不正の志行にして、貧欲で目先の利益のためには妄りに動き騒ぎ、常経の務めには陰弱なるを以って怠けて養いを他人に乞い求める様子である。
これは、身を養うの正道に悖れる者である。
だから、頤いに払れり、という。
このように六三は、頤養の正道に悖り、自ら口実を求める大義にも背いているのであって、このような態度は早く悔い改めるべきである。
それでも、何も気にせず、尚も強いて養われることを乞い求めるのであれば、それは耳を伏せ、尾を垂れて、人の顔色を覗い、憐れみを乞い求めるわけであって、鄙吝醜態の極みにして不義、破廉恥の至りである。
だから、貞くするは凶なり、という。
こんなことをいくらしていても、結局は何も得られないものである。
だから、大いに永く警めて、十年も用いること勿れ、利ろしき攸无し、という。
なお、六三は上九と陰陽正しく応じていて、六三は陰虚貧乏の爻、上九は陽実富豪の爻、六三は下に居り、上九は上位に在る。
とすると、上九に養いを求めても、問題はないようにも思える。
確かに、陰柔貧虚ながらも平素は真面目に務めているのが、ある日突然災害に遭ったり、病気や事故などで急な出費があるときは、求めてもかもわない。
しかし六三は、陰柔の嗜欲が深く、内卦の極に居るので、贅沢が甚だしく、他人を侮り、勝つことを好む反面、仕事はいい加減で、一攫千金の夢を見ているような、言わば遊び人である。
上九に求めているのは、その遊ぶ金である。
したがって、上九に養いを求めるのは大問題だと言っているのである。
そもそも他人に遊ぶ金を無心するのは、とんでもないことである。
上九━━━
六五━ ━
六四━ ━○
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初九━━━
六四、顛頤、吉、虎視眈々、其欲遂遂、无咎、
六四(りくし)、顛(さかしま)に頤(やしな)わる、吉(きち)なり、虎視眈々(こしたんたん)其(そ)の欲(よく)遂遂(ちくちく)たれば、咎(とが)无(な)し、
頤養の時に当たって、六四は柔正にして、初九剛正の賢者の爻と陰陽相応じている。
だから、顛に頤わる、という。
六四は執政大臣の位に居るわけだが、陰柔にして才力に乏しいので、そんな己を憂い、賢者を得て、以って政事を輔佐させて、国家を治めようと欲する。
初九は最下に居る卑夫の爻だが、陽剛にして正位を得ているので賢徳な者である。
そこで六四は、初九に政事の輔佐をさせようと欲する。
これが顛に頤われる内容であって、このようであるのなら、顛であっても、咎は無く、むしろ却って吉である。
だから、吉なり、という。
そもそも六四大臣の爻の、その不足とするところは、陰柔であるがゆえに威重を失っていることである。
その対策としては、まず、下に在る賢者を求め得て、国家の政事を輔佐させ、六四自身は沈黙荘重にすることで執政大臣の威厳を高くする。
その上で、虎が眈々として物を視るように、近くを視る如くでありながらその志は遠くに在るという大度の器量を弘大にし、その養うところは遂遂と篤実重厚にする。
そうすることで、庶民はよく服し化し、至治の善政となるのである。
だから、虎視眈々、其の欲遂遂たれば、咎无し、という。
其の欲とは、私欲利欲の類ではなく、志弘く賢者を得て、自身の才力不足を補い、徳を養い、民を服させて、国家の至治を願い望むという欲を言う。
上九━━━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
六五、払経、居貞吉、不可渉大川、
六五(りくご)、経(つね)に払(もと)れり、貞(つね)に居(い)れば吉(きち)なり、大川(たいせん)を渉(わた)る不可(べからず)、
そもそも人君の任は、広く遍く万民を撫育教化するに在る。
そこで、民の父母と形容される。
ことさらこれを天子と称するのは、天を父として仰ぎ戴き、その天の父の道に遵い則り、下は万民を子として撫育教化するという義があるからである。
その余の公侯たる国君や諸々の民の上たるところの者は、みなこれに準じ倣うべきこと勿論である。
しかし今、この六五の君は、頤養の時に当たって、自家が陰虚なので、遍く万民を養うことができず、却って養いを上九陽剛の賢者に求める。
だから、経に払れり、という。
経とは君道の常道大経を言う。
さて、この卦は頤養の象義であるわけだが、全卦中にてただ初九と上九の爻のみが、陽剛富実である。
そこで、この初上の両陽剛はよく人を養う才徳が有るものとする。
したがって、時の勢いは、自然にこの両陽剛に属す。
これに対して、六五の君の爻は、中を得ているとしても、陰柔なので威福は薄い。
しかも、その君徳を輔弼するべきところのニと四との両大臣も共に陰弱なので、その任に堪えられず、共に初九の陽剛に比し応じ、頼ってしまう。
その結果六五の君は、陰弱孤立となり、その勢いはく、その志も確かなものではなく、ややもすれば変動する恐れが有る。
もしこの時に、君の志がひとたび変動するときには、忽ち君の位を喪うことも憂慮される。
とすれば、一に貞常の道を守って、固く動かないことが良策である。
しかし、幸いにも、六五の君は上九の賢者が比爻である。
専らこの上九に順がい降って、以って常を守って動かなければ、これは吉の道である。
だから、貞に居れば吉なり、という。
また、六五は上卦艮の止まるの卦の一体中に居るので、止まることに執着し、思い切って進み行くようなことは不可能である。
このような心構えでは、大きな川を渡るのは無理である。
だから、大川を渉る不可、という。
かつて、東京の隅田川は大川(おおかわ)とも呼ばれたが、ここで言う大川は、黄河のようなとんでもない大きな川のことである。
古代には、そんな黄河のような大きな川を渡るのは、一大決心がいることだった。
橋もなければ、船も転覆の恐れがある。
したがって、易ではよく、大事業の比喩として、大川を渉る、という言葉が使われる。
上九━━━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
上九、由頤、吉、利渉大川、
上九(じょうきゅう)、由(よ)って頤(やしな)わる、(あや)うけれども吉(きち)なり、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、
この卦はニ奇四偶にして、初九と上九の両爻が陽明実富を以って、中爻の四陰柔貧虚の者を養う様子である。
ニ奇四偶というのは、ニ陽四陰ということを言い換えたもので、奇は奇数、偶は偶数のことであり、陽は奇数、陰は偶数ということから、そう言うのである。
さて、初上両陽剛の中でも、下に居る者は養いを致すにも自然にその力を為し難く、上に在る者はその勢いでよく人を養うことを為すものである。
これは、その位と虚と勢いとの定理必然である。
したがって、衆陰はみなこの上九に由って養われることになるのである。
だから、由って頤わる、という。
この上九は成卦の主であり、爻に在っては上九が人を養う主である。
由の字は、成卦の主爻の辞に使われる字である。
雷地予の九四の由予と同様である。
上九は遍く人を養うので、その任は重く、その責は深い。
任が重く、責が深いのは、危険なことでもある。
しかし、人を養う大道大義であるので、終りには吉となることを得るものである。
だから、けれども吉なり、という。
また、六五の爻は、艮の止まるの卦の体中に居て、進むことができなかったので、大川を渉る不可、とあったわけだが、今この上爻に至っては、艮の塞がりも忽ちに変じて、開通するときである。
だから、大川を渉るに利ろし、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


