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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

天雷无妄 爻辞

25 天雷无妄 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、无妄、往吉、

初九(しょきゅう)、无妄(むぼう)なれば、往(な)すこと吉(きち)なり、

初九は成卦の主爻にして剛正の徳を得ているので、妄(みだ)らなところのない者である。
これは実に无妄の主爻として相応しい者である。
このように、真実に无妄である者は、公正にしてその天性を乱すことはなく、何をするにしても天の道を以ってする。
したがって、どこに往き、何事を為すにしても、吉となるのである。
だから、无妄なれば、往すこと吉なり、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、不耕穫、不菑*畭、則利有攸往、
*畭は、正しくは余の下に田と書くのだが、JISにもユニコードにもないので、*畭で代用しておく。

六二(りくじ)、耕穫(こうかく)するに不(心あらず)、菑*畭(しよ)するに不(心あらざ)れば、則(すなわ)ち往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

耕穫は、耕し収穫すること。
菑(し)は休耕田、*畭(よ)は耕し始めて二年目の田=最も収穫が上がるときの田のこと。

さて、この爻の辞にある「不」の字は、無心という意である。
これは、この卦が无妄を意味するからである。
今、この六二は中正の徳を得て、初九の剛正の无妄の成卦の主爻と剛柔正しく比している。
これは、実に公正にして、无妄=みだらなところのない者である。
みだらなところがない、というのは、無心、無欲といったことである。
したがって、農業をするときも、公正で無心に耕穫するので、耕穫の結果として得られる利益については、始めから気にしない。
休耕田を復活させるにしても、耕して二年目の田を続けて使うにしても、それぞれの利益を予測したりはせず、淡々と作業をする。
だから、耕穫するに不(心あらず)、菑*畭するに不(心あらざ)れば、という。
これを人事について言うときは、何事をするにしても、天性公正自然にして、やるべきことをきちんとやるが、その結果がどうであろうと気にしないのであって、これこそ実に无妄と言うべき者である。
その无妄であることを以って物事を為すときは、自然と天性に適中しているものなので、どこへ往き何をしようと、何ら問題はないのである。
だから、則ち往く攸有るに利ろし、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、无妄之災、或繋之牛、行人之得、邑人之災、

六三(りくさん)、无妄(むぼう)の災(わざわ)いあり、或(ある人)牛(うし)を繋(つな)げり、行人(こうじん)の得(う)るは、邑人(ゆうじん)の災(わざわ)いなり、

およそ人が災害に遭うことは、すべて妄意妄行なるより起こるものであり、これは当然の定理にして、免れないことである。
しかし自らは无妄を心がけているからと安心してしまうのも、いささか早急である。
自らは无妄であっても、災いに遭うこともある。
これは天運の巡り合わせといったもので、偶然有ることである。
これが、无妄の災い、というものである。
今、この六三の爻は、陰柔不才、不正不中なので、この災いに罹ることが有るのである。
だから、无妄の災いあり、という。
例えば、ある人が来て、道端にある杭に牛を繋ぎ止めて、ちょっとその場を離れた。
すると、たまたま通りかかった別の行人=旅人が、その牛を杭から外して盗んでどこかへ連れて行ってしまった。
しばらくすると、牛を繋いだ人が戻って来て、牛がいないのに気付き、その邑(村)の人が盗んだのだろうと、邑人に濡れ衣を着せた。
牛を盗まれた人にとっても災難ではあるが、安易に牛から離れた自分の不注意もあることなので、自業自得だとも言えよう。
しかし、濡れ衣を着せられた邑人にしてみれば、何ら予測不可能なとんでもない災難である。
この邑人の受けた災難が、无妄の災い、である。


上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九四、可貞、无咎、

九四(きゅうし)、貞(ただ)しくす可(べ)し、咎(とが)无(な)し、

九四の爻は陽爻であり、上卦乾の進むの卦の一体中に居るが、不中不正である。
したがって、妄りに騒ぎ動こうとしやすいので、これを惧れ戒める。
だから、貞しく可し、という。
一に貞正の道を守り、騒ぎ動いて无妄の時を犯すようなことがなければ、咎もないものである。
だから、咎无し、という。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、无妄之疾、勿薬、有喜、

九五(きゅうご)、无妄(むぼう)にして疾(や)むことあり、薬(くすり)すること勿(なか)れ、喜(よろこび)有(あ)らん、

疾とは疾病のことにして、言わば災いということと同義である。
それをことさらに疾と言うのは、疾は癒えることが有ると教えるためである。
たとえば、一旦は无妄の災いが有っても、自然に消滅する、ということを知らせているのである。
そもそも九五は、中正なので、もとより无妄なるとろこの者である。
しかし、時には災難に出遇うことも有る。
これは无妄の災いにして、自ら引き起したわけではない。
例えば、堯(ぎょう)の代に七年の洪水が有り、殷(いん)の湯(とう)王のときに三年の旱魃が有り、周(しゅう)の文(ぶん)王が殷の紂(ちゅう)王により羑里(ゆうり)に囚われたことなどが、これに当たろう。
このような時には、あたふたと策を労するのではなく、一に正しきを守り、順受するのを道とするべきである。
病気ならば、あれこれ薬を飲むよりも、黙って寝ていればそのうち治る、といったところである。
だから、无妄にして疾むことあり、薬すること勿れ、喜び有らん、という。
これは疾と言って癒えるという字を省き、喜と言って憂うるという字を省いているのである。
したがって、詳細に言うのであれば、无妄にして疾むこと有りて憂はしけれども、妄りに薬すること勿るべし、自然に癒えて喜ぶこと有らん、ということである。
これを互文省略法という。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、无妄行、有眚、无攸利、

上九(じょうきゅう)、无妄(むぼう)のときに行(おこな)えば、眚(わざわ)い有(あ)り、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

上九の爻は无妄の時にして无妄の極に居る。
これは公正にして徳を修めるべき者である。
しかし、不中不正にして乾の進むの卦の極に居るので、妄りに動き進んで无妄の時を犯し、貞節の戒めに背き、正しくない咎を履む。
したがって、自ら災難を招くのである。
だから、无妄のときに行えば、眚い有り、という。
これは凶害の甚だしいことであり、戒めないといけない。
だから、利ろしき攸无し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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天雷无妄

25 天雷无妄(てんらいむぼう)
tenrai.gif无妄 震下乾上(しんか けんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

无妄とは、妄(みだら)では无(な)い、妄想、妄念ではなく、天性自然のあるがまま、至誠至実といった意。
この卦は乾を天、震を動くとすれば、天の動き、すなわち天道の運行ということになる。
天道の運行には意志はないので、妄であろうはずがない。
だから无妄と名付けられた。
人間社会に於いて言えば、天道のように無心で動くことが大切なときである。
また、来往生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否は、乾と坤と相対して、天地がその位置を定めている形であるが、三才(天地人)の大義を備えてはいない。
そこで初九の一陽の人が、卦の外よりやって来て正位を得て成卦の主爻となり、震の長男の祭主となったのである。
これにより、天地人の三才の大義が備わったことになり、これこそ、天性自然にして内に主となる者、である。
だから无妄と名付けられた。
また、天の下に雷が行く様子でもある。
天も動き、雷も動くものだが、その動くことは無為自然である。無為自然に動くことは、真誠性正ということである。
だから无妄と名付けられた。

ところで、このように无妄とは、ミダラではないのだから、真正である、と言っても差し支えないはずだ。
しかし、なぜ真正と言わず、回りくどく无妄としたのだろうか。
それは、易が儒教のモノだからなのだ。
論語は儒教の入門書、易経は奥義書といった位置付けである。
その儒教では、真と呼べるものは何ひとつないと考えていて、そのため、儒教の典籍には、真という字は一度も出てこないのである。
老荘などには真の字が出てきて、その道の至極を説くときに、それを真(真理)と呼ぶ。
しかし、真が本当に真であるか否かは、合理的に説明ができないものである。
儒教は思想、哲学、宗教といったものではなく、言うなれば社会を安泰にするための学問なのである。
学問であるのなら、それは仮説の積み重ねでしかないわけであり、それを真理だとするわけにはいかない。
真理という言葉を持ち出せば、そこで学問的考察はストップしてしまい、それが真理だと信じる必要が出てくる。
真理を信じるのは学問ではなく宗教である。
だから、真の字は使わず、ここでも敢えて无妄としたのである。

卦辞
无妄、元亨、利貞、其匪正有眚、不利有攸往、

无妄(むぼう)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただし)きに利(よ)ろし、其(そ)れ正(ただ)しきに匪(あら)ざれば眚(わざわ)い有(あ)り、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしからず、

ものごとは无妄すなわち無為無心で行えば、大いに通じるのは言うまでもない。
また、乾を健やかとして、震を動くとすれば、健やかにして動く様子となるが、このようであれば、これもまた大いに亨通するものである。
だから、元いに亨る、という。
そもそも天雷无妄は天性の卦である。
天性とは天の性すなわち天の秩序正しい運行であり、簡単に言うと貞正ということである。
だから、貞しきに利ろし、という。
これが私欲をもって行動すれば、貞正ではないのだから、亨ることもなく、眚いが有る。
だから、其れ正しきに匪ざれば眚い有り、という。
そして、往く攸というのは、希望であり願いでり求めるところである。
希望や願いや求めるところは、要するに私欲から出ていることである。
无妄は無為無心にして、私欲を持たないことである。
だから、往く攸有るに利ろしからず、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
无妄、剛自外来、而為主於内、
无妄(むぼう)は、剛(ごう)外(そと)より来(き)て、而(しこう)して内(うち)に主(しゅ)為(た)り、

動而健、剛中而応、
動(うご)いて而(しこう)して健(すこや)かに、剛(ごう)中(ちゅう)にして而(しこう)して応(おう)あり、

大亨以正、天之命也、
大(おお)いに亨(とお)るに正(ただ)しきを以(も)ってするは、天(てん)之(の)命(めい)なれば也(なり)、

其匪正有眚、不利有攸往、无妄之往、何之矣、天命不佑行矣哉、
其(そ)の正(ただ)しきに匪(あら)ざれば眚(わざわ)い有(あ)り、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしからず、无妄(むぼう)のときに之(こ)れ往(せい)することありとも、何(いず)くにか之(ゆ)かんや、天命(天命)佑(たす)けざれば行(おこな)はれんや、

象伝(原文と書き下しのみ)
天下雷行无妄、先王以茂対時育万物、
天(てん)の下(した)に雷(かみなり)行(ゆ)くは无妄(むぼう)なり、先王(せんおう)以(も)って茂(さかん)に時(とき)に対(たい)して万物(ばんぶつ)を育(いく)せり、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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