
24 地雷復 爻辞
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○
初九、不遠復、无祇悔、元吉、
初九(しょきゅう)、遠(とお)からずして復(かえ)り、悔(くい)に祇(いた)ること无(な)し、元吉(げんきち)なり、
この卦は乾の初九の一陽剛が、坤の群陰の中から忽ち元の位に復るという義なので、六爻共に道に復ることの得失を以って辞が付けられ、教え戒めを示している。
初九は復の卦の最初なので、道に復る始めにして、速やかな者とする。
なおかつ陽明剛正なので、ひとたび過ちが有ったとしても、速やかに改めて道に復る者である。
だから、遠からずして復り、という。
遠からず、というのは、深からず、といった意味であり、一旦は過ちが有っても、道を去ってもすぐそばで迷っている程度なので、改心して道に復り戻るのも速やかなのである。
およそ人というものは、聖人でない限り、過失のひとつやふたつは必ず有るものである。
その過失があったとき、速やかに気付いて改めるのが賢いのであって、そうしていれば、大した問題もないものである。
それが、しばしば過ち、あるいは、過ったらなかなか改めないときは、大きな問題に発展したりして、後悔することにもなるのである。
今、この初九の爻は、過ちを繰り返さず、速やかに道に復るので、後悔するようなことにはならないで済むのである。
だから、悔に祇ること无し、という。
祇の字は至るという意である。
過ちがあっても速やかに道に復るから悔に至らないのであって、これこそ大善の吉の道である。
だから、元吉なり、という。
ところで、ここでは、悔无し、ではなく、悔に祇ること无し、と、いささかまどろっこしい言い方になっている。
これは、悔无し、が、最初から過ちのないことの義だからである。
過ちを犯したからこそ、悔いに至るか至らないかが問題になるのである。
要するに、悔に祇ること无し、は、一旦は道を履み違えて咎も有るけど、改めて正しい道に復るので、悔いに至ることはないのである。
過ったままならば問題だが、道に復るので、大なる咎には至らないのである。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━
六二、休復、吉、
六二(りくじ)、復(かえ)ることを休(よ)くす、吉(きち)なり、
休とは善良の義にして、称美の辞である。
六二の爻は中正を得て、初九成卦の主爻とは陰陽正しく比している。
これは道に復ることを善(よ)くする者である。
だから、復ることを休くす、吉なり、という。
なお、初九は単に正を得ているだけなのに元吉という辞があるのに対し、この六二は中正を得ている爻なのに、却って吉とだけある。
これは、両者に次のような違いからである。
初九は成卦の主にして卦中の唯一の陽の剛明なる爻であって、道に復ることの最初の者である。
六二は中正を得てはいるが陰柔にしてなおかつ成卦の主でもなく、道に復ることもまた初九の次である。
だから、初九には元吉とあり、六二には単に吉とだけあるのである。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━
六三、頻復、无咎、
六三(りくさん)、頻(しばしば)復(かえ)る、(あやう)けれども咎(とが)无(な)し、
六三は陰柔不才不中不正なので、しばしば道を履み違えて過失を生じる。
しかし、今は復のときであり、性善の徳が尽き亡びたわけでもないので、しばしばその過失を悔いて道に復る。
だから、頻復る、という。
しかし、しばしば過ちを犯すのは危険である。
としても、性善の徳を失わず、しばしばその過ちを悔いて道に復るので、咎は免れる。
だから、けれども咎无し、という。
上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
六四、中行独復、
六四(りくし)、中行(ちゅうこう)にして独(ひと)り復(かえ)る、
六四はニ爻から上爻までの五陰爻の中の、丁度真ん中の爻にして、ひとり初九成卦の主爻に正しく応じている。
したがって六四は、五陰の中に混じって居ても、他者に流されず、柔正を得て、よくひとり道に復る者である。
だから、中行にして独り復る、という。
上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
六五、敦復、无悔、
六五(りくご)、復(かえ)るに敦(あつ)し、悔(くい)无(な)し、
敦とは篤厚の義である。
今、復の卦の道に復る時に当たって、六五は柔中の徳が有り、君の位に居る。
これは、道に復ることの篤い君である。
だから、復るに敦し、という。
このようであれば、民を懐柔して国を治めるにおいて、悔が有ることはないものである。
だから、悔无し、という。
上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━
上六、迷復、凶、有災眚、用行師、終有大敗以其国君、凶、至于十年不克征、
上六(じょうりく)、復(かえ)るに迷(まよ)えり、凶(きょう)なり、災眚(さいせい)有(あ)らん、用(もち)いて師(いくさ)を行(や)らば、終(おわ)りに大敗(たいはい)有(あ)りて其(そ)の国君(こくくん)に以(およ)ばん、凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)に至(いた)るとも征(せい)すること克(あた)わじ、
この卦は道に復るということから卦名が付けられたのであって、六爻ともにその復ることの遅速得失を以って象義を為している。
このうちの初九は、陽明剛正にして卦の初めに居るので、道に復ることが至って速やかな者であって、このようであるのなら、仁と称され、道と誉められよう。
一方、この上六は、陰暗柔弱にして卦の終りに居るので、道に復ることが至って遅く迷い、遂にはその身を終わるまでも復ることを知らない者とである。
このように初九と上六とは、反対にして、初九は復ることの速やかなることを以って元吉とし、上九は復ることが遅いことを以って、凶とする。
もとより上六は、始めより終りまで、道も仁も知らないのであって、暗い中に始まり、迷いの中に終わる者である。
少しでも仁や道を知っていれば、このような状態を悔い改めようとの念も有るところだが、情欲の海に沈み、暗昧の中を迷い行き、道も義も知らずに生涯を終わる者である。
だから、復るに迷えり、凶なり、という。
そして、爻辞のこれより下の部分は、この、復るに迷えり、の結末を書いているのである。
およそ凶害が来ることは、その形状は種々あるとしても、道を失ってのことより大なるはない。
その道を失う者には、天の災いと人の眚が並び至るものである。
だから、災眚有らん、という。
眚とは自らが原因となって引き起こす災難のことである。
さて、戦争を行うときの道は、公の道を以って私情なるを征し、大義を以って不義なるを伐し、順を以って逆を討ち、正しきを以って邪を誅することである。
このようであるのなら、天も順(した)がい人も順がうので、令も行われて衆人も服し従う。
その結果として、よく暴を除き、残を撥(はら)い、敵に克ち、乱を治めることを得るものである。
今、この上六は、大にこれに反している。
まず、自己はすでに道を失い、陰柔暗昧の志行にして、却って無道不義の軍隊を興そうとしている。
これは天に逆らい人に背いているのである。
このようなときには、令も行われず、人民も服せず、その軍隊は必ず大に敗退するものである。
その敗退は、徒に軍隊を喪うのみではない。
必ずやその国君の位にも及ぶものである。
だから、用いて師を行らば、大敗有りて其の国君に以ばん、凶なり、という。
国君とは、その君の国と自身とを共に指すのであって、国を喪い宗廟社稷をも滅するこを戒めているのである。
そのような戦争なのだから、何年費やしても勝てるわけがない。
だから、十年に至るとも征すること克わじ、という。
十とは極数の名にして、日を積み年を重ねて十年の久しきに至るとも、終りに軍功を成し得ることはできない、ということである。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上六━ ━
六五━ ━
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初九━━━○
初九、不遠復、无祇悔、元吉、
初九(しょきゅう)、遠(とお)からずして復(かえ)り、悔(くい)に祇(いた)ること无(な)し、元吉(げんきち)なり、
この卦は乾の初九の一陽剛が、坤の群陰の中から忽ち元の位に復るという義なので、六爻共に道に復ることの得失を以って辞が付けられ、教え戒めを示している。
初九は復の卦の最初なので、道に復る始めにして、速やかな者とする。
なおかつ陽明剛正なので、ひとたび過ちが有ったとしても、速やかに改めて道に復る者である。
だから、遠からずして復り、という。
遠からず、というのは、深からず、といった意味であり、一旦は過ちが有っても、道を去ってもすぐそばで迷っている程度なので、改心して道に復り戻るのも速やかなのである。
およそ人というものは、聖人でない限り、過失のひとつやふたつは必ず有るものである。
その過失があったとき、速やかに気付いて改めるのが賢いのであって、そうしていれば、大した問題もないものである。
それが、しばしば過ち、あるいは、過ったらなかなか改めないときは、大きな問題に発展したりして、後悔することにもなるのである。
今、この初九の爻は、過ちを繰り返さず、速やかに道に復るので、後悔するようなことにはならないで済むのである。
だから、悔に祇ること无し、という。
祇の字は至るという意である。
過ちがあっても速やかに道に復るから悔に至らないのであって、これこそ大善の吉の道である。
だから、元吉なり、という。
ところで、ここでは、悔无し、ではなく、悔に祇ること无し、と、いささかまどろっこしい言い方になっている。
これは、悔无し、が、最初から過ちのないことの義だからである。
過ちを犯したからこそ、悔いに至るか至らないかが問題になるのである。
要するに、悔に祇ること无し、は、一旦は道を履み違えて咎も有るけど、改めて正しい道に復るので、悔いに至ることはないのである。
過ったままならば問題だが、道に復るので、大なる咎には至らないのである。
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初九━━━
六二、休復、吉、
六二(りくじ)、復(かえ)ることを休(よ)くす、吉(きち)なり、
休とは善良の義にして、称美の辞である。
六二の爻は中正を得て、初九成卦の主爻とは陰陽正しく比している。
これは道に復ることを善(よ)くする者である。
だから、復ることを休くす、吉なり、という。
なお、初九は単に正を得ているだけなのに元吉という辞があるのに対し、この六二は中正を得ている爻なのに、却って吉とだけある。
これは、両者に次のような違いからである。
初九は成卦の主にして卦中の唯一の陽の剛明なる爻であって、道に復ることの最初の者である。
六二は中正を得てはいるが陰柔にしてなおかつ成卦の主でもなく、道に復ることもまた初九の次である。
だから、初九には元吉とあり、六二には単に吉とだけあるのである。
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六五━ ━
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初九━━━
六三、頻復、无咎、
六三(りくさん)、頻(しばしば)復(かえ)る、(あやう)けれども咎(とが)无(な)し、
六三は陰柔不才不中不正なので、しばしば道を履み違えて過失を生じる。
しかし、今は復のときであり、性善の徳が尽き亡びたわけでもないので、しばしばその過失を悔いて道に復る。
だから、頻復る、という。
しかし、しばしば過ちを犯すのは危険である。
としても、性善の徳を失わず、しばしばその過ちを悔いて道に復るので、咎は免れる。
だから、けれども咎无し、という。
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六五━ ━
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初九━━━
六四、中行独復、
六四(りくし)、中行(ちゅうこう)にして独(ひと)り復(かえ)る、
六四はニ爻から上爻までの五陰爻の中の、丁度真ん中の爻にして、ひとり初九成卦の主爻に正しく応じている。
したがって六四は、五陰の中に混じって居ても、他者に流されず、柔正を得て、よくひとり道に復る者である。
だから、中行にして独り復る、という。
上六━ ━
六五━ ━○
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初九━━━
六五、敦復、无悔、
六五(りくご)、復(かえ)るに敦(あつ)し、悔(くい)无(な)し、
敦とは篤厚の義である。
今、復の卦の道に復る時に当たって、六五は柔中の徳が有り、君の位に居る。
これは、道に復ることの篤い君である。
だから、復るに敦し、という。
このようであれば、民を懐柔して国を治めるにおいて、悔が有ることはないものである。
だから、悔无し、という。
上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
六三━ ━
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初九━━━
上六、迷復、凶、有災眚、用行師、終有大敗以其国君、凶、至于十年不克征、
上六(じょうりく)、復(かえ)るに迷(まよ)えり、凶(きょう)なり、災眚(さいせい)有(あ)らん、用(もち)いて師(いくさ)を行(や)らば、終(おわ)りに大敗(たいはい)有(あ)りて其(そ)の国君(こくくん)に以(およ)ばん、凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)に至(いた)るとも征(せい)すること克(あた)わじ、
この卦は道に復るということから卦名が付けられたのであって、六爻ともにその復ることの遅速得失を以って象義を為している。
このうちの初九は、陽明剛正にして卦の初めに居るので、道に復ることが至って速やかな者であって、このようであるのなら、仁と称され、道と誉められよう。
一方、この上六は、陰暗柔弱にして卦の終りに居るので、道に復ることが至って遅く迷い、遂にはその身を終わるまでも復ることを知らない者とである。
このように初九と上六とは、反対にして、初九は復ることの速やかなることを以って元吉とし、上九は復ることが遅いことを以って、凶とする。
もとより上六は、始めより終りまで、道も仁も知らないのであって、暗い中に始まり、迷いの中に終わる者である。
少しでも仁や道を知っていれば、このような状態を悔い改めようとの念も有るところだが、情欲の海に沈み、暗昧の中を迷い行き、道も義も知らずに生涯を終わる者である。
だから、復るに迷えり、凶なり、という。
そして、爻辞のこれより下の部分は、この、復るに迷えり、の結末を書いているのである。
およそ凶害が来ることは、その形状は種々あるとしても、道を失ってのことより大なるはない。
その道を失う者には、天の災いと人の眚が並び至るものである。
だから、災眚有らん、という。
眚とは自らが原因となって引き起こす災難のことである。
さて、戦争を行うときの道は、公の道を以って私情なるを征し、大義を以って不義なるを伐し、順を以って逆を討ち、正しきを以って邪を誅することである。
このようであるのなら、天も順(した)がい人も順がうので、令も行われて衆人も服し従う。
その結果として、よく暴を除き、残を撥(はら)い、敵に克ち、乱を治めることを得るものである。
今、この上六は、大にこれに反している。
まず、自己はすでに道を失い、陰柔暗昧の志行にして、却って無道不義の軍隊を興そうとしている。
これは天に逆らい人に背いているのである。
このようなときには、令も行われず、人民も服せず、その軍隊は必ず大に敗退するものである。
その敗退は、徒に軍隊を喪うのみではない。
必ずやその国君の位にも及ぶものである。
だから、用いて師を行らば、大敗有りて其の国君に以ばん、凶なり、という。
国君とは、その君の国と自身とを共に指すのであって、国を喪い宗廟社稷をも滅するこを戒めているのである。
そのような戦争なのだから、何年費やしても勝てるわけがない。
だから、十年に至るとも征すること克わじ、という。
十とは極数の名にして、日を積み年を重ねて十年の久しきに至るとも、終りに軍功を成し得ることはできない、ということである。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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(C) 学易有丘会


