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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

天地否 爻辞

12 天地否 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、抜茅茹、以其彙、貞吉、

初六(しょりく)、茅(かや)を抜(ぬ)くに茹(じょ)たり、其(そ)の彙(たぐい)を以(ひき)ゆ、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

この卦もまた気運の変遷をもって、内外の時を分けている。
下卦坤陰三爻を否中の否とし、上卦乾の三爻を否中の泰とする。
その義は泰卦の解説と同様である。

さて、坤の三陰が相連なることは、なお泰の乾の三陽が相連なるがごとくである。
だから、茅を抜くに茹たり、と、泰の初九と同じ言葉を使うのである。
その泰の初九は、上の六四の爻に陰陽相応じるをもって、六四執政のために挙げ薦められるという義を帯び、かつ泰の時であるのだから、乾の三陽爻の君子なれば、往きて仕えて吉なるの道である。
しかし今、否の初六は陰柔卑賤の小人であって、挙げ薦められるという義はない。
元来坤の三陰柔の小人なのだから、その同類の卑賤者を率いて柔順に、よく上の言いつけに従って、上の言うとおりに力を尽くし、己の分を守ることである。
そうであるのなら、貞正な時には吉である、という義をもって、其の彙を以ゆ、貞しくして吉なり、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、包承、小人吉、大人否、亨、

六二(りくじ)、包(かね)られて承(う)けたり、小人(しょうじん)は吉(きち)なり、大人(たいじん)は否(ひ)なり、亨(とお)る、

六二は柔順中正にして、九五の爻に応じている。
とは言っても、己は陰柔不才なので、この否の時に当たって天下の否塞を救い、騒乱を払い収めるような力量はない。
下は上に従い、臣は君に承(う)け、陰は陽に包ねられるものだから、とにかく上に承け従うを第一とする。
だから、包られて承けたり、という。
これは卦象によって義を示したものである。

さて、今は否中の否だとしても、小人卑夫の分際では、どうすることもできない。
したがって、小人ならば、中正の道に従って柔順にして、上に承け従うことこそが、吉の道なのである。
だから、小人は吉なり、という。
しかし大人であるのなら、否を救い乱を払い治めるべきの任がある。
としても、否中の否のときだから、容易にそんなことはできない。
また、爻について観るときには、中正だとしても陰柔不才にして、乱を払い治め、否を通すべき力量はあろうはずがない。
だから、大人は否なり、という。
ただし、いつまでも否塞の状態が続くわけではない。
六二は中正の道を守って、上に従って時を待っていれば、自然に通じる時が来るものである。
だから、何れその通じる時が来るという意味で、亨る、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、包羞、

六三(りくさん)、包(かね)られて羞(は)ず、

六三は内卦の極に居る。
ここは人臣の極位であって、爵禄ともに軽くない重臣である。
今、天下は否塞の時に遇っているのだから、重臣であるのなら、身を粉にしてその否を救い、乱を払い治め、宗廟社稷を安泰ならしめるべき任がある。
まして、内卦の極に在るのだから、否中の否はすでに終わって、漸く否中の泰に向かう兆しがある。
このときに当たっては、有能な者であれば、非常の大手段を尽くして天下の乱を払い治め、否を救うものである。
しかし六三は、陰柔不才にして不中不正の爻であり、そんな大手段など期待されても、とても不可能である。
だから、包られて羞ず、という。
羞ずとは、世禄の臣でありながら、その職任に堪えない恥辱をいう。


上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九四、有命无咎、疇離祉、

九四(きゅうし)、命(めい)有(あ)れば咎(とが)无(な)し、疇(たぐい)祉(さいわい)に離(つ)く、

九四は、否中の否の時はすでに尽きて、否中の泰に移る時なので、気運の変遷をもって爻辞を書いている。
否中の否のときに行動を起こすのであれば、時を得ていないのであるから、それこそ咎がある。
しかし今、否中の泰の時に移ったのである。
したがって、このときに、天命を得た英勇があるのであれば、乱を払い治め、否を救うことに、咎があろうはずがない。
だから、命有れば咎无し、という。
ここに、ことさら咎无しというのは、そもそも、否を救い、乱を払い治めるためには、武力行使も必要だからである。
天命を得ず、安易に武力を行使するのならば咎もあろう。
しかし今、天命を得て、民のために、否を救い、乱を払い治めるために、止むを得ずして武力を行使するのである。
したがって、武力行使をしても咎がないことを、強調しているのである。

そもそも天下の否を救い、乱を払い治めることは、単一の祉福(さいわい)のみではなく、その疇(たぐい)=関連する人倫その他悉く、その祉福に付着くするものである。
だから、疇祉に離く、という。
なお、周易が出来た頃は、離の字は「はなれる」ではなく、「付着する」という意味だった。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五、休否、大人吉、其亡其亡、繋于苞桑、

九五(きゅうご)、否(ひ)を休(やす)む、大人(たいじん)は吉(きち)なり、其(そ)れ亡(ほろ)びん其(そ)れ亡(ほろ)びんとして、苞桑(ほうそう)に繋(かか)るべし、

九五は否中の泰の中位に在って、否も殆ど尽きようとする時に向かっている。
もとより九五は、剛健中正の徳が有り、否を救い、乱を払い治める英勇の君上である。
だから、否の気運を終息させるという意味で、否を休む、という。
そして、そもそもこれは、大人君子の志を得て、功を成すべき時であるのだから、大人は吉、という。
要するに、六二の爻の否中の否の時とは反対なのである。

さて、六二では、大人は否なり、とし、この九五では、大人は吉なり、という。
また、六二の時は、否中の否だが、最後に「亨る」と付け加えてある。
これは、志行堅固にして、この九五の時を待ち、九五とともに否を救い、乱を払い治めれば、そのときに亨る、という義である。
しかし、このような時勢に向かっているとしても、今、直ちに否の全卦が終わるわけではない。
まだまだ一歩間違えば、忽ち否中の否へ陥ち入る危険がある。
とすると、常に惧れ謹んで、このままだとそのうち滅亡する可能性もある、と、戦々兢々として警戒するべきである。
喩えば、苞(茅の一種)や桑の細い枝に、重い物をぶら下げるときのように、慎重な上にも慎重に、危ぶみ省みながら行うのが大事である。
このようであればこそ、否を救い得て、泰通の時に至るものなのである。
だから、其れ亡びん其れ亡びんとして、苞桑に繋るべし、という。

※なお、苞桑は「桑の根」という意味の熟語でもあるが、中州は上記のように解釈している。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上九、傾否、先否、後喜、

上九(じょうきゅう)、否(ひ)を傾(かたぶ)く、先(さき)には否(ふさ)がり、後(のち)には喜(よろこ)ぶ、

この爻は否の終りにして、否もすでに傾き尽くして、まさに泰通に至ろうとするときである。
だから、否を傾く、という。
しかし、天下の否は、自ら傾き尽きるものではない。
乱を治め、否を救うのは、天命を得た大人である。
したがって、人力を尽くして心を用い、その後に安泰に至る、ということである。
ともあれ、これまでは否塞の乱世に憂い苦しんでいたのが、これより後は、否もすでに傾き尽くして泰通安寧の世に向かうのであって、楽しみ喜ぶときである。
だから、先には否なり、後には喜ぶ、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


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天地否

12 天地否(てんちひ)
tenchi.gif 坤下乾上(こんか けんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

否とは閉塞否定といった意。
前卦地天泰とはまったく逆の形であり意味である。
この卦も地天泰同様、乾を天の気、坤を地の気とするが、上にある天の気が上昇、下にある地の気が下降だから、意味は逆になる。
要するに、陰陽の気が交わらないのだ。
陰陽の気が交わらなければ雨は降らず、草木百物は育たない。
このような状態を否塞という。
だから否と名付けられた。
また、上にある者がことさら上にあることを主張し、下にある者がことさら下にあることを主張し、上下が対立しているのだ。
君臣が心を一つにするのではなく、双方が共に相手の言い分を否定するだけで、決して譲り合わないのである。
だから否と名付けられた。
また、夫婦で言えば、乾の夫と坤の妻が、自己主張ばかりで相手の気持ちを汲もうとしない様子である。
夫婦が互いに相手を思いやり、心を通わせてこそ、結婚生活は上手く行き、子孫繁栄にも恵まれるというものだが、これではそういう明るい未来は否定され、離婚が待ち構えているだけである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤は柔弱、外卦の乾は剛健とすれば、優柔不断で自分自身の考えが曖昧なのに、物事はその場の思いつきで威圧的に決め付けてしまう様子である。
これでは何事も失敗するばかりである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤を小人、外卦の乾を君子とすれば、小人が国政を弄び、君子たる資質を備えた人間が外に左遷されている様子。
これでは必ずその国は傾き凋落する。
だから否と名付けられた。
また、十二消長で言えば、天風姤で生じた陰気が半分を占めるまでになったところである。
したがって、陽を君子の道、陰を小人の道とすれば、小人の道が幅を利かせ、君子の道が尊ばれなくなってきた様子。 これでは世の中は混迷する一方で、先行きは不透明である。
だから否と名付けられた。

卦辞
否、大往小来、不利君子貞、
否(ひ)は、大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(き)たる、君子(くんし)の貞(かた)くなしきに利ろしからず、

前卦地天泰とは逆に、こちらから出て行くのは大、入り来るのは小である。
十二消長で言えば、陽の大なる者が卦外へ行き、その数を減らし、陰の小なる者が卦内に来て、その数を増やしているときである。
だから、大往き小来たる、という。
大きく投資しても、儲けは少ない、という意味に取ってもよいだろう。
とにかく陰陽が交わらなければ、何も生まれないのだから、これは大凶である。
君子ならば、小人の道が盛んになろうとする兆しを見極め、原理原則に捉われず、小人から害されないように、時が過ぎるのを待つのが得策だろう。


彖伝(原文と書き下しのみ)
否、大往小来、不利君子貞、則是天地不交、而万物不通也、
否(たい)は、大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(きた)る、君子(くんし)の貞(かた)くなしきに利(よ)ろしからずとは、則(すなわ)ち是(これ)天地(てんち)が交(まじわ)らずして、而(しこう)して万物(ばんぶつ)が通(つう)ぜざれば也(なり)、

上下不交、而天下无道、
上下(じょうげ)交(まじわ)らず、而(しこう)して天下(てんか)に道(みち)无(な)き也(なり)、

内陰而外陽、内柔而外剛、内小人而外君子
内(うち)陰(いん)にして外(そと)陽(よう)なり、内(うち)柔(じゅう)かにして外(そと)剛(ごう)う、内(うち)小人(しょうじん)にして外(そと)君子(くんし)なり、

小人道長、君子道消也、
小人(しょうじん)の道(みち)は長(ちょう)じ、君子(くんし)の道(みち)は消(しょう)する也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天地不交、否、君子以倹徳辟難、不可栄以禄、
天地(てんち)が交(まじわ)ざるは、否(ひ)なり、君子(くんし)以(も)って徳(とく)を倹(つつまし)やかにし難(なや)みを辟(さ)け、栄(えい)するに禄(ろく)を以(も)って不可(すべからざ)るべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。


☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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