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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

地天泰 爻辞

11 地天泰 爻辞

上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○

初九、抜茅茹、以其彙、征吉、

初九(しょきゅう)、茅(かや)を抜(ぬ)くに茹(じょ)たり、其(そ)の彙(たぐい)を以(ひき)ゆ、征(ゆ)きて吉(きち)なり、

初九は陽爻にして剛明の才徳が有り、正位を得て最下に居る。
その上、六四の執政大臣の爻と陰陽相応じている。
これは、要するに市井民間に在る賢者であって、六四応位の執政の大臣より薦め挙げられる者とする。
だからその象義を形容して、茅を抜くに茹たり、という。
茅とは、民間に在る賢者を譬えたのであって、茹とは、茅の根が相連なっている様子を指す。
一本の茅を抜こうとすると、地下茎で繋がっている周辺の茅も一緒に抜ける、ということである。
下卦の乾の三本の爻は、すべて陽爻である。
陽には、進むという意味がある。
したがって、九二、九三も、初九に引き連れられて進むのである。
このことを、茅が地下茎で繋がっていて、周辺の茅も一緒に抜ける様子に譬えたのである。

今、初九の賢者を挙げ用いるに当たっては、その同朋の九二、九三の賢者も、地下茎で繋がっている茅のように、併せて相薦め相率いて共に上に進め挙げるのである。
だから、其の彙を以ゆ、という。
そもそも今は泰のときであり、推挙されれば、同志の賢者と共に進み往き、仕官して吉なのである。
だから、往きて吉なり、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━

九二、包荒、用馮河、不遐遺、朋亡、得尚中行、

九二(きゅうじ)、荒(こう)を包(か)ね、馮河(ひょうが)を用(もち)い、遐(とお)きを遺(わす)れず、朋(ほう)すること亡(な)くば、中行(ちゅうこう)に尚(かな)うことを得(え)ん、

荒を包ねとは、中央に居ても辺境の荒野のことも常に忘れない姿勢のこと。
馮河を用いとは、冷たい氷が張った河川を歩いて渡ることを言い、安易な方に流されず、剛毅果断に物事を行うことに譬えている。
今、九二の爻は成卦の主にして、よく泰平を致す大臣であるとともに、もとより剛明の才徳が有り、しかも中を得ていて、六五の君には陰陽正しく応じている。
こうであれば、包容の大度量が有って、荒野の果ての辺境の小民のことまでも洩らすことなく撫育し、馮河を厭わない剛毅果断が有って、柔弱の風に流されることないものである。
だから、荒を包ね馮河を用い、という。

また、今は泰のときであり、四海は静謐にして、上下安寧である。
としても、九二は剛中の徳が有るので、泰平の中に堕落するのではなく、いつも遐(とお)い乱世のときの戒めを遺(わす)れず、武備厳重にして予防警戒をする。
その上、九二は六五の君位と陰陽正しく応じているので、その恩寵は隆盛にして、実に一人の下、万人の上に立つ者にして、天下富貴権威は一身に集まっている。
このような立場にあると、よくありがちなのは、その権威を傘に、私意私情に任せ、エコヒイキして特定の人たちだけを朋友とすることであるが、決してそういうことをせず、一に公明正大を心がけるのであれば、中の道を得られるのである。
中の道とは、過不及のない最も理想的な行いをいう。
だから、遐きを遺れず、朋すること亡くば、中行に尚うことを得ん、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━

九三、无平不陂、无往不復、艱貞无咎、勿恤其孚于食有福、

九三(きゅうさん)、平(たいら)かなるものとして陂(かたぶ)かざることなく、往(さ)るものとして復(かえ)らざることなし、艱(くる)しとて貞(ただ)しければ咎(とが)无(な)し、其(そ)の孚(まこと)を恤(うれ)うる勿(なか)れ、食(しょく)に于(お)けるがごとく、おわりには福(ふく)有(あ)らん、

六十四卦の中には、内卦と外卦とを以って時を分かち、その時運を論ずる卦が四つある。
この地天泰と天地否、水火既済と火水未済である。
そこで、この地天泰の場合は、内卦乾の三陽爻の時を、泰中の泰と称し、外卦坤の三陰爻の時を泰中の否と呼ぶ。

さて、九三は内卦の終りなので、泰中の泰の時が、まさに尽きようとしているのである。
次の六四は外卦の始まりにして、泰中の否に移るところである。
したがって、三と四との両爻に於いては、気運時命の変遷を示しているのである。

今、九三は内卦の極に居いる。
泰中の泰の時がすでに尽きて、泰中の否の時が来ようとしている。
この気運時命の変遷することは、譬えば、平らかなものがやがては傾き、往く者がやがては還り来るようなものである。
だから、平かなるものとして陂かざることなく、往るものとして復らざることなし、という。

もとより消長盈虚の義は、天道の自然にして、人力の及ぶところではない。
しかし、よく天地の道に則り、よく艱難労苦して、自ら反省して修める功を績み、欺くことのないように徳を盛んにして、貞正にして道を践み行うときには、そうせずに自然に任せているときよりも、泰のときを永く持ち守るのであって、これこそが否のときに行かないようにするための秘訣でもある。
そして、このように自己を慎むときには、その咎も免れるのである。
だから、艱しとて貞しければ咎无し、という。

このような改革転変の時運に当たっては、自分は正しく誠を尽くしていても、他人からは、その誠心を信じられないものである。
それを覚悟し、憂い悶えることなく、さらに誠を尽くして事に当たるのがよい。
このようであれば、やがてその誠も通じ、ついには福を得るに至るものである。
要するに、今の状況は、日食や月食のようなものである。
日食や月食のときは、しばらくは陰晦になったとしても、時が過ぎれば必ずまた明るくなる。
だから、其の孚を恤うる勿れ、食に于けるがごとく、おわりには福有らん、という。


上六━ ━
六五━ ━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六四、翩翩、不富、以其鄰、不戒以孚、

六四(りくし)、翩翩(へんへん)たり、富(と)まざるをもって、其(そ)の鄰(となり)を以(ひき)ゆ、戒(いまし)めざれども以(も)って孚(まこと)あり、

この六四の爻に至っては、すでに泰中の否に遷るときであり、気運の傾く始めであって、上卦坤の三陰爻がその虚に乗じて連なり飛んで下り来るときである。
その坤の三陰爻が下り来るときには、忽ちに否の卦象の義となる。
坤の三陰は卑賤の小人である。
したがって、今、時運が傾くときであるがゆえに、徒党を組んで乱を起こそうと企む。
その陰邪小人が時を得て乱を起こそうと準備する様子を、鳥が飛び立つ前に羽づくろいしている様子に擬える。
だから、翩翩たり、という。
翩翩とは、鳥が羽づくろいをしている様子のことである。

その坤の三小人は、小人であるがゆえに、陰虚貧窮にして、富を持っていない者である。
今、六四は、その首唱者となって、六五と上六の二つの近隣の爻を率いて乱を起こそうと謀るのである。
だから、富まざるをもって、其の鄰を以ゆ、という。

およそ小人が乱を起こそうとするときは、その邪志姦情は誰でも似たり寄ったりである。
したがって、互いに規則を決めなくても、信頼に基づいた約束があるかのように、同調して行動するものである。
だから、戒めざれども以って孚あり、という。


上六━ ━
六五━ ━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

六五、帝乙帰妹、以祉元吉、

六五(りくご)、帝乙(ていいつ)妹(いも)を帰(とつ)がしむ、以(も)って祉(さいわい)あり、元吉(げんきち)なり、

帝乙とは、殷の紂王の父である。
六五は陰爻にして尊位に在って、九二の陽剛に陰陽正しく応じている。
これは、六五の皇女を九二の臣に降嫁させる象とも言える。
だから、帝乙妹を帰がしむ、という。
妹は長女以外の娘を指す。
帰の字には、昔は嫁ぐという意味があった。

もとより六五は、定位の主にして実に泰平の治を愛する君である。
九二は成卦の主にして、下に在ってよく六五の君を補佐して天下を泰平至治とする大臣である。
今、泰中の否のときにあって、六五の君が、よく九二剛中の賢臣に応じて委ね任せて、その寵遇の篤く信あることを示すのには、例えば、娘を九二の卑しい者に降嫁させるのがよい、ということである。
大事な娘を賢良の臣に降嫁させ、大臣に親しみ任せる。
この如くに至るときにこそ、この泰中の否のときにあっても、泰平の至治を保つことができるのである。
だから、以って祉あり、元吉なり、という。


上六━ ━○
六五━ ━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━

上九、城復于隍、勿用師、自邑告命、貞吝、

上九(じょうりく)、城(しろ)隍(ほり)に復(かえ)る、師(いくさ)を用(もち)うる勿(なか)れ、邑(ゆう)自(よ)り告命(こくめい)すとも、貞(かた)くすれば吝(はずか)し、

上九は、泰の全卦の終りにして、まさに否に遷ろうとするときである。
今は泰中の否であるが、もう一歩進めば完全なる否のときになるのである。
だから、このときの時運の変遷をもって書いている。

城は土を築いて成るものである。
隍は土を掘って成るものである。
今、泰の時運はすでに去り、否の気運がまさに来ようとしている。
それは、言うなれば、高く堅く築かれた城が、忽ち深く低い隍に反覆変革することである。
もとより事物の盛衰成敗は、実にあざなえる縄のごとくである。
だから、その時運を諭し示して、城隍に復る、という。

およそ時運すでに衰え、天命が革まろうとするときは、必ず上は政治に怠り、驕りに長じ、下は諂い欺き、賄賂が公然と横行し、規律や規則はないがしろにされ、上下の情意は遥かに隔たり、人の和がなくなり、情が通じない至極となり、忽ちに逆乱が起こるものである。
要するに、人の和が一番大事で、それが崩れると乱れが起きるのである。
したがって、軍隊においても、人の和を以って第一とする。
『孟子』公孫丑章句下にも「天の時は、地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」とあるではないか。

今、否の気運が間近なのだから、君と民と上下の情が遠ざかること、ほとんど世を隔てるがごとくであって、人心は和しない。
まるで、氷と炭とが、形状は似ていても、作用は相背くが如くである。
このようなときに、強いて軍隊を出して用いる時には、必ず砂上の楼閣のように、すぐ敗れ崩れるものである。
だから、これを戒めて、師を用うる勿れ、という。
師とは師団という言葉があるように、軍隊のことを指している。

そもそも礼楽征伐の命令は天子より出る所のものである。
それが、天子を差し置いて、諸侯より出れば、それは道なきの政である。
また、諸侯の下の、大夫より出れば亡びる兆しである。
況や、辺境の小邑=小さな村より上国に向かって告命=命令を出すに至るのであれば、これは君徳のすでに衰え、威厳は廃れ失い国脈ほとんど絶せんとするところの大凶の徴である。
このような状況のときに、君上は、尚も固執に常例先格などの迂遠なる論を持ち出し、その小邑からの告命を斥けるのがよいのだろうか?
いや、そういうことに縛られず、臨機応変に対処しないといけない。
もとより君上たる者は、進退変通の幾を知らなければ、わが身の滅亡のみではなく、宗廟社稷をも覆し、さらには、遠い後の世までにも歴史に残り謗られる。
これは、吝の極である。
だから、邑自り告命すとも、貞(かた)くするは吝し、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。

(C) 学易有丘会


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地天泰

11 地天泰(ちてんたい)
chiten.gif 乾下坤上(けんか こんじょう)

八卦のkenten-n.gif乾(けん)の上に、konchi-n.gif坤(こん)を重ねた形。

泰とは安泰といった意。
この卦は、乾坤の二卦を天地の実体として観るときには、天地が逆さまになっている様子だが、そんなことは現実には有り得ない。
したがって、乾を天の気、坤を地の気とし、天の気が下降し、地の気が上昇した様子とする。
天の気が下降し、地の気が上昇するとは、陰陽の二気が交わり和することである。
陰陽の二気が交わり和するというのは、自然界では雨が降ることであり、雨が降れば草木百物が生育する。 このようであれば、自然は安泰である。
だからこの卦は泰と名付けられた。
また、乾を君、地を臣とすれば、臣が君の心をよく知り、敬服して従い、君も臣の心をよく知り、信愛して任せている様子となるが、君臣の心が交わり和すれば国家も安泰である。
だから泰と名付けられた。
また、内卦の乾を健やかとし、外卦の坤を柔順とすれば、健やかさに判断し、物事に柔軟に対応している様子であり、このようであれば物事は安泰に進む。
だから泰と名付けられた。
また、内卦の乾を君子とし、外卦の坤を小人とすれば、君子が内に在って国政を執り、小人は外に在って国事に服し従う様子であり、このようであれば国家は安泰である。
だから泰と名付けられた。
また、十二消長で言えば、地雷復で生じた陽気が半分を占めるまでになったところである。
したがって、陽を君子の道、陰を小人の道とすれば、君子の道が小人の道を消滅させるだけの力を得た様子である。
君子の道を尊ぶ気風が小人の邪な道に流れる気風を凌ぐ力があれば、世の中は安泰である。
だから泰と名付けられた。
なお、この卦は、次の天地否と反対の卦なので、互いにその意味を照らし合わせてみると面白いだろう。

卦辞
泰、小往大来、吉亨、
泰(たい)は、小(しょう)往(ゆ)き大(だい)来(き)たる、吉(きち)にして亨(とお)る、

往くとは、こちらから行くことであって、来たるとは、向こうから来ることである。
小とは少ない、大とは大きいである。
十二消長で言えば、陰の小なる者が卦外へ行き、その数が減り、陽の大なる者が卦内に来て、その数が増えているときである。
だから、小往き大来たる、という。
少ない投資で大きく儲けられる、という意味に取ってもよいだろう。
陰陽が交わり和することは、この上なく喜ばしいことであり、そこからいろいろなものが生まれる。
お互いに相手の心を知り、相手と交わり和するのは、人間関係の基本でもある。
交わり和すれば、どのようなことも可能になる。
しかし、互いが我を張り合い、交わり和さなければ、どんなに頑張っても結局は不可能になってしまう。
だからこそ、この泰の心がけで物事をやれば、何事も吉にして亨るのである。


彖伝(原文と書き下しのみ)
泰、小往大来、吉亨、則是天地交而万物通也、
泰(たい)は、小(しょう)往(ゆ)き大(だい)来(きた)る、吉(きち)にして亨(とお)るとは、則(すなわ)ち天地(てんち)が交(まじわ)って而(しこう)して万物(ばんぶつ)通(つう)じる也(なり)

上下交、而其志同也、
上下(じょうげ)交(まじわ)って、而(しこう)して其(そ)の志(こころざし)同(おな)じき也(なり)、

内陽而外陰、内健而外順、内君子而外小人
内(うち)陽(よう)にして外(そと)陰(いん)なり、内(うち)健(すこや)かにして外(そと)順(したが)う、内(うち)君子(くんし)にして外(そと)小人(しょうじん)なり、

君子道長、小人道消也、
君子(くんし)の道(みち)は長(ちょう)じ、小人(しょうじん)の道(みち)は消(しょう)する也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天地交、泰、后以裁成天地之道、輔相、天地之義、以左右民、
天地(てんち)が交(まじわ)るは、泰(たい)なり、后(きみ)以(も)って天地之道(てんちのみち)を裁成(さいせい)し、天地之義(てんちのぎ)を輔相(ほそう)して、以(も)って民(たみ)を左右(さゆう)すべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。


☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

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