
09 風天小畜 爻辞
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、復自道、何其咎、吉、
初九(しょきゅう)、復(かえ)ること道(みち)自(よ)りす、何(なん)ぞ其(それ)咎(とが)あらん、吉(きち)なり、
復(かえ)るとは、その本来の居場所に復ることをいう。
初九は下卦乾の進むの卦の初めに在って、不中の爻であることから、平生は進むことに専らなる者であり、まず一番に進んで上卦に至ろうとする者である。
しかし、初九の応爻である六四は成卦の主爻にして、正位に居て、小畜の時を得ている爻である。
したがって六四は、よく天下の衆陽爻の妄りに進む者を畜(とど)め制する。
特に初九の爻とは、害応となってその勢いを畜めるのである。
要するに初九は、一旦は卦爻の情により、妄りに進もうとするが、やがて六四の害応が時を得て、手ぐすね引いて待ち構え、その勢いを止めようとしていることを明らかに察知し、中途より初九本来の位置にとって返すのである。
これは、初九の爻が、幸いにも正を得ていて、よく省み察して、己が進むことの、時を犯してはいけないことを悟り、よく自ら止まり守る資質を備えているからである。
これこそ吉の道である。
だから、復ること道自りす、何ぞ其咎あらん、吉なり、という。
なお、何ぞ其咎あらん、というのは、復ることを励ましているのである。
初九は過剛不中の爻にして、妄りに進むことに鋭敏なのである。
今、畜まるの時を犯して進めば、それこそ咎が有る。
せっかく進んでいるのに止まるのは辛いことではあるが、そこを、勇気を以って進むのを諦め、本位に復れば、その咎は消えるのである。
復ることに咎はなく、進むことにこそ咎があるのである。
だから、何ぞ其咎あらん、と、復ることを励ましているのである。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、牽復、吉、
九二(きゅうじ)、牽(ひ)かれて復(かえ)る、吉(きち)なり、
九二もまた下卦乾の剛健の卦の一体中に在り、陽爻の性により、進むところの者である。
しかし六四とは応でも比でもないので、六四から畜められるということはない。
これに対して、もうひとつの下卦乾の一体の爻の九三は、六四と害比の位なので、初九と同様に、六四に止められる。
要するに、九二を挟む初九と九三の二つの爻は、六四に厳しく止められるのである。
もとより初二三は、乾の進むの卦の同一体なので、共に連なって進む者である。
今、九二は六四によって制し止められることはないが、己に剛中の徳が有るので、初九が止められて本位に復るのを見て、自らも本位に復ろうと決断するのである。
だから、牽かれて復る、という。
そもそも九二は、剛中の徳を得ているので、過剛の失はなく、初爻が進めば共に進み、初爻が復れば共に復るのである。 だから、吉なり、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三、輿説輹、夫妻反目、
九三(きゅうさん)、輿(くるま)輹(とこしばり)を説(だっ)す、夫妻(ふさい)反目(はんもく)す、
※中州は、輹は通本には輻とあるが、輹の誤りだとしている。
輿とは車のことで、進み行くことに喩えている。
輹とは、輿の床板と車軸とを接続する台座部品のことで、葦皮で縛り束ねたものである。
この葦皮の縛り束ねが不十分だと、車軸が台座から外れてしまい、輿は動かなくなる。
今、九三は下卦乾の進むの卦の極にあって、過剛不中にして、進むことに勢いづいている者である。
これを、輿の轟き進む様子に喩える。
しかし、六四の畜めることの主爻に害比されて、厳しく進むことを制止させられる。
そもそも六四は、重陰不中ではあるが、成卦の主爻にして小畜の時を得ているので、九三が強引に進もうとして六四と争っても、九三は負けて進めない。
これは、輿の輹を外されるようなものである。
現代風に言えば、エンジンをかけていざアクセルを踏んで進もうとしているときに、タイヤを外されるようなことだろうが、ともあれ、そういうふうに、進もうとしても進めないときなのである。
だから、輿輹を説す、という。
説の字は、ここでは脱と道義の「外す」という意味である。
さて、卦をもって言うときには、乾の夫が、巽の妻に止められる様子である。
爻をもって言うときには、九三の夫が進もうとするのを、六四の妻が制し止める様子である。
易の通例では、応爻を夫妻とし、比爻もまた夫妻とする。
原則的には、応爻は正式な婚姻関係、比爻を愛人関係とするが、そういった区別なく、応爻も比爻も一般的に夫妻とする場合もある。
この卦の九三と六四は比爻の関係にあるが、区別なく一般的に夫妻=男女関係とする。
何れにしても、九三と六四は、陰陽相和せずして、夫妻睦まじくない様子である。
九三の夫は、過剛不中なので、何がなんでも進もうとする。
六四の妻は、重陰不中なので、何がなんでも止めようとする。
互いに相手の意見を受け入れる余裕はないのである。
したがって、互いに喧嘩腰になり、反目するのである。
だから、夫妻反目す、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━
六四、有孚、恤去出、无咎、
六四(りくし)、孚(まこと)有(あ)れば、恤(うれ)い去(さ)り(おそ)れ出(い)ず、咎(とが)无(な)し、
孚とは忠信にして、道にかなっていることである。
恤いれは、憂患の甚だしいことである。
去る、出るは、憂患を間逃れることを言う。
六四は成卦の主として、僅かに一陰の微弱なるを以って、下三本と上二本の計五陽の強きを制止しようとするものである。
六四は小畜の時に遇い、柔正の信を以って止めるとしても、弱きを以って強に立ち向かい、少なきを以って陽の多きに立ち向かうのだから、傷害の恐れがある。
しかし五陽の進むは道に背き、六四の止めるは義に合うことである。
したがって、一旦は五陽も敵対して争うとしても、終わりには六四に止められるのである。
ただしこれは、六四の力を以って止め得たのではなく、六四の孚信を尽くし、誠実を致す様子に感じて、五陽爻が自ら止まったのである。
だから、孚有れば恤い去りれ出ず、という。
一般に、弱きが強きを制し、陰が陽を制するのは、咎のあることである。
しかし今、六四は小畜の止めるの時を得て、自己の孚信を尽くし、道理を以って止めるので、五陽爻の剛強なる者たちも、自然に感じ和して止まるを得るのである。
これが、六四が咎を間逃れる所以である。
だから、咎无し、という。
上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九五、有孚、恋如、富以其鄰、
九五(きゅうご)、孚(まこと)有(あ)って、恋如(れんじょ)たり、富(とみ)て其(そ)の鄰(となり)を以(たす)く、
九五は陽爻を以って六四の陰爻に比している。
陰陽の相求め合うことは、卦爻の性情である。
今、九五は六四と同じ卦の中に連なり、隣り合っている。
これは九五が六四に信有って、専らにつきまとう様子である。
だから、孚有って恋如たり、という。
もとより九五は君位に在って、陽実の富貴であることを以って、六四の陰虚貧乏の不足を助けるものである。
だから、富て其の鄰を以く、という。
鄰とは、六四のことである。
なお、九五は君位の爻である。
とすれば、六四は臣の爻なのだから、六四を指して臣というべきであるが、ここでは、鄰と言っている。
これは、九五の君徳を貶めて不満としているのである。
そもそも君上は、天下億兆の民の父母として、仁愛恩沢を四海に遍く及ぼすべき者である。
しかし今、六四の一臣にのみ恋如として目をかけているのである。
これでは偏っている。
そこで、六四を鄰と言い、市井の人の如くして、その君徳の欠如している部分を戒めているのである。
上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
上九、既雨既処、尚徳載、婦貞厲、月幾望、君子征凶、
上九(じょうきゅう)、既(すで)に雨(あめ)ふり既(すで)に処(お)る、徳(とく)載(みつ)るを尚(たっ)とぶ、婦(ふ)貞(かたくな)なれば厲(あやう)し、月(つき)望(ぼう)に幾(ちか)し、君子(くんし)征(ゆ)くは凶(きょう)なり、
まず注意したいのは、この上九の爻は、小畜の卦の極にして止まるの至極のところとするのではない、ということである。
これは、地水師、火天大有、地天泰、天地否などの上爻と同例である。
さて、陰を以って陽を止めるときには、密雲はすれども未だ親和しないので、雨にはならない。
としても、この小畜の卦の極に至っては、最早止めるところも極まり熟し、陰陽の情もよく相和して、雨を降らせるときなのである。
卦辞の初めに「亨る」とあるのは、この爻この時の事なのである。
既に雨が降るとは、衆陽爻の心が解けて、六四の止めを聞き入れ、皆相和し止まって、各そのところに安んじ居ることである。
だから、既に雨ふり既に処る、という。
六四の一陰は微弱であっても、その孚信充実の徳が満ちているので、衆陽爻は相感じ相和して、自ら止まり処るのである。
だから、陰の徳を褒めて、徳戴るを尚ぶ、という。
ここまでは、小畜全卦の成功の象義を明らかにしているのである。
次の婦貞厲は、この卦一陰の特義を以って、象を為しているので、主として婦妻の道について垂戒する。
婦とは上卦の巽の陰卦の象について言うものであって、陰の徳は婦の徳であることを示しているのである。
貞とは、ここでは貞固の意味であって、固執の義にして改めないことを言う。
その意は、例えば、妻が夫の過失を制し止め、臣が君の非を制し諌めるとも、そもそも制し止める相手は夫であり君である。
その妻や臣の心に孚信があって、過失や非義を視るに忍びず、止むを得ず道理を以って諌め止めるのであってこそ、その夫や君はその道理と孚に感じ和して、自ら止まるのである。
したがって、その妻や臣は、過言苦争の不敬無礼を惧れ畏こみ慎んで意見するべきである。
しかし、それで夫や君が聞き入れたとしても、その妻その臣として、自ら功を成したと誇って徳とし、これ以後も、また何かあれば制し止めようなどと思うときは、これは危うくして凶の道である。
以上の戒めを込めて、婦貞なれば厲し、という。
続く月幾望は、月は大陰の精であり、望は満月のことであって、陰徳の盛んな様子を喩えたのである。
これは上の、徳戴るを尚ぶ、と異辞同義である。
君子とは学者を指していて、これは上の婦が指すことを、別の角度から言ったのである。
婦とは陰爻の象を以って言い、君子とは道義について言ったのである。
征くは凶なり、とは、貞なれば厲し、と同義である。
一旦は、君と夫との過ちを諌め止めるとしても、その成功に乗じ、しばしば諌め止めようとすることは、凶を取る道である。 だから、征くは凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、復自道、何其咎、吉、
初九(しょきゅう)、復(かえ)ること道(みち)自(よ)りす、何(なん)ぞ其(それ)咎(とが)あらん、吉(きち)なり、
復(かえ)るとは、その本来の居場所に復ることをいう。
初九は下卦乾の進むの卦の初めに在って、不中の爻であることから、平生は進むことに専らなる者であり、まず一番に進んで上卦に至ろうとする者である。
しかし、初九の応爻である六四は成卦の主爻にして、正位に居て、小畜の時を得ている爻である。
したがって六四は、よく天下の衆陽爻の妄りに進む者を畜(とど)め制する。
特に初九の爻とは、害応となってその勢いを畜めるのである。
要するに初九は、一旦は卦爻の情により、妄りに進もうとするが、やがて六四の害応が時を得て、手ぐすね引いて待ち構え、その勢いを止めようとしていることを明らかに察知し、中途より初九本来の位置にとって返すのである。
これは、初九の爻が、幸いにも正を得ていて、よく省み察して、己が進むことの、時を犯してはいけないことを悟り、よく自ら止まり守る資質を備えているからである。
これこそ吉の道である。
だから、復ること道自りす、何ぞ其咎あらん、吉なり、という。
なお、何ぞ其咎あらん、というのは、復ることを励ましているのである。
初九は過剛不中の爻にして、妄りに進むことに鋭敏なのである。
今、畜まるの時を犯して進めば、それこそ咎が有る。
せっかく進んでいるのに止まるのは辛いことではあるが、そこを、勇気を以って進むのを諦め、本位に復れば、その咎は消えるのである。
復ることに咎はなく、進むことにこそ咎があるのである。
だから、何ぞ其咎あらん、と、復ることを励ましているのである。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、牽復、吉、
九二(きゅうじ)、牽(ひ)かれて復(かえ)る、吉(きち)なり、
九二もまた下卦乾の剛健の卦の一体中に在り、陽爻の性により、進むところの者である。
しかし六四とは応でも比でもないので、六四から畜められるということはない。
これに対して、もうひとつの下卦乾の一体の爻の九三は、六四と害比の位なので、初九と同様に、六四に止められる。
要するに、九二を挟む初九と九三の二つの爻は、六四に厳しく止められるのである。
もとより初二三は、乾の進むの卦の同一体なので、共に連なって進む者である。
今、九二は六四によって制し止められることはないが、己に剛中の徳が有るので、初九が止められて本位に復るのを見て、自らも本位に復ろうと決断するのである。
だから、牽かれて復る、という。
そもそも九二は、剛中の徳を得ているので、過剛の失はなく、初爻が進めば共に進み、初爻が復れば共に復るのである。 だから、吉なり、という。
上九━━━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三、輿説輹、夫妻反目、
九三(きゅうさん)、輿(くるま)輹(とこしばり)を説(だっ)す、夫妻(ふさい)反目(はんもく)す、
※中州は、輹は通本には輻とあるが、輹の誤りだとしている。
輿とは車のことで、進み行くことに喩えている。
輹とは、輿の床板と車軸とを接続する台座部品のことで、葦皮で縛り束ねたものである。
この葦皮の縛り束ねが不十分だと、車軸が台座から外れてしまい、輿は動かなくなる。
今、九三は下卦乾の進むの卦の極にあって、過剛不中にして、進むことに勢いづいている者である。
これを、輿の轟き進む様子に喩える。
しかし、六四の畜めることの主爻に害比されて、厳しく進むことを制止させられる。
そもそも六四は、重陰不中ではあるが、成卦の主爻にして小畜の時を得ているので、九三が強引に進もうとして六四と争っても、九三は負けて進めない。
これは、輿の輹を外されるようなものである。
現代風に言えば、エンジンをかけていざアクセルを踏んで進もうとしているときに、タイヤを外されるようなことだろうが、ともあれ、そういうふうに、進もうとしても進めないときなのである。
だから、輿輹を説す、という。
説の字は、ここでは脱と道義の「外す」という意味である。
さて、卦をもって言うときには、乾の夫が、巽の妻に止められる様子である。
爻をもって言うときには、九三の夫が進もうとするのを、六四の妻が制し止める様子である。
易の通例では、応爻を夫妻とし、比爻もまた夫妻とする。
原則的には、応爻は正式な婚姻関係、比爻を愛人関係とするが、そういった区別なく、応爻も比爻も一般的に夫妻とする場合もある。
この卦の九三と六四は比爻の関係にあるが、区別なく一般的に夫妻=男女関係とする。
何れにしても、九三と六四は、陰陽相和せずして、夫妻睦まじくない様子である。
九三の夫は、過剛不中なので、何がなんでも進もうとする。
六四の妻は、重陰不中なので、何がなんでも止めようとする。
互いに相手の意見を受け入れる余裕はないのである。
したがって、互いに喧嘩腰になり、反目するのである。
だから、夫妻反目す、という。
上九━━━
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六四━ ━○
九三━━━
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初九━━━
六四、有孚、恤去出、无咎、
六四(りくし)、孚(まこと)有(あ)れば、恤(うれ)い去(さ)り(おそ)れ出(い)ず、咎(とが)无(な)し、
孚とは忠信にして、道にかなっていることである。
恤いれは、憂患の甚だしいことである。
去る、出るは、憂患を間逃れることを言う。
六四は成卦の主として、僅かに一陰の微弱なるを以って、下三本と上二本の計五陽の強きを制止しようとするものである。
六四は小畜の時に遇い、柔正の信を以って止めるとしても、弱きを以って強に立ち向かい、少なきを以って陽の多きに立ち向かうのだから、傷害の恐れがある。
しかし五陽の進むは道に背き、六四の止めるは義に合うことである。
したがって、一旦は五陽も敵対して争うとしても、終わりには六四に止められるのである。
ただしこれは、六四の力を以って止め得たのではなく、六四の孚信を尽くし、誠実を致す様子に感じて、五陽爻が自ら止まったのである。
だから、孚有れば恤い去りれ出ず、という。
一般に、弱きが強きを制し、陰が陽を制するのは、咎のあることである。
しかし今、六四は小畜の止めるの時を得て、自己の孚信を尽くし、道理を以って止めるので、五陽爻の剛強なる者たちも、自然に感じ和して止まるを得るのである。
これが、六四が咎を間逃れる所以である。
だから、咎无し、という。
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初九━━━
九五、有孚、恋如、富以其鄰、
九五(きゅうご)、孚(まこと)有(あ)って、恋如(れんじょ)たり、富(とみ)て其(そ)の鄰(となり)を以(たす)く、
九五は陽爻を以って六四の陰爻に比している。
陰陽の相求め合うことは、卦爻の性情である。
今、九五は六四と同じ卦の中に連なり、隣り合っている。
これは九五が六四に信有って、専らにつきまとう様子である。
だから、孚有って恋如たり、という。
もとより九五は君位に在って、陽実の富貴であることを以って、六四の陰虚貧乏の不足を助けるものである。
だから、富て其の鄰を以く、という。
鄰とは、六四のことである。
なお、九五は君位の爻である。
とすれば、六四は臣の爻なのだから、六四を指して臣というべきであるが、ここでは、鄰と言っている。
これは、九五の君徳を貶めて不満としているのである。
そもそも君上は、天下億兆の民の父母として、仁愛恩沢を四海に遍く及ぼすべき者である。
しかし今、六四の一臣にのみ恋如として目をかけているのである。
これでは偏っている。
そこで、六四を鄰と言い、市井の人の如くして、その君徳の欠如している部分を戒めているのである。
上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
上九、既雨既処、尚徳載、婦貞厲、月幾望、君子征凶、
上九(じょうきゅう)、既(すで)に雨(あめ)ふり既(すで)に処(お)る、徳(とく)載(みつ)るを尚(たっ)とぶ、婦(ふ)貞(かたくな)なれば厲(あやう)し、月(つき)望(ぼう)に幾(ちか)し、君子(くんし)征(ゆ)くは凶(きょう)なり、
まず注意したいのは、この上九の爻は、小畜の卦の極にして止まるの至極のところとするのではない、ということである。
これは、地水師、火天大有、地天泰、天地否などの上爻と同例である。
さて、陰を以って陽を止めるときには、密雲はすれども未だ親和しないので、雨にはならない。
としても、この小畜の卦の極に至っては、最早止めるところも極まり熟し、陰陽の情もよく相和して、雨を降らせるときなのである。
卦辞の初めに「亨る」とあるのは、この爻この時の事なのである。
既に雨が降るとは、衆陽爻の心が解けて、六四の止めを聞き入れ、皆相和し止まって、各そのところに安んじ居ることである。
だから、既に雨ふり既に処る、という。
六四の一陰は微弱であっても、その孚信充実の徳が満ちているので、衆陽爻は相感じ相和して、自ら止まり処るのである。
だから、陰の徳を褒めて、徳戴るを尚ぶ、という。
ここまでは、小畜全卦の成功の象義を明らかにしているのである。
次の婦貞厲は、この卦一陰の特義を以って、象を為しているので、主として婦妻の道について垂戒する。
婦とは上卦の巽の陰卦の象について言うものであって、陰の徳は婦の徳であることを示しているのである。
貞とは、ここでは貞固の意味であって、固執の義にして改めないことを言う。
その意は、例えば、妻が夫の過失を制し止め、臣が君の非を制し諌めるとも、そもそも制し止める相手は夫であり君である。
その妻や臣の心に孚信があって、過失や非義を視るに忍びず、止むを得ず道理を以って諌め止めるのであってこそ、その夫や君はその道理と孚に感じ和して、自ら止まるのである。
したがって、その妻や臣は、過言苦争の不敬無礼を惧れ畏こみ慎んで意見するべきである。
しかし、それで夫や君が聞き入れたとしても、その妻その臣として、自ら功を成したと誇って徳とし、これ以後も、また何かあれば制し止めようなどと思うときは、これは危うくして凶の道である。
以上の戒めを込めて、婦貞なれば厲し、という。
続く月幾望は、月は大陰の精であり、望は満月のことであって、陰徳の盛んな様子を喩えたのである。
これは上の、徳戴るを尚ぶ、と異辞同義である。
君子とは学者を指していて、これは上の婦が指すことを、別の角度から言ったのである。
婦とは陰爻の象を以って言い、君子とは道義について言ったのである。
征くは凶なり、とは、貞なれば厲し、と同義である。
一旦は、君と夫との過ちを諌め止めるとしても、その成功に乗じ、しばしば諌め止めようとすることは、凶を取る道である。 だから、征くは凶なり、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
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なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
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