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明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

水地比 爻辞

08水地比 爻辞

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━○

初六、有孚比之、无咎、有孚盈缶、終吉、有他吝、

初六(しょりく)、孚(まこと)有(あ)って之(これ)に比(した)しめば、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)有(あ)って缶(ほとぎ)に盈(み)つれば、終(お)わりに吉(きち)なり、他(た)有(あ)れば吝(はずか)し、

この爻は比の卦の初めにして、人と親(した)しみ睦(むつ)む始めのときとする。
およそ人は、内に孚(まこと)なくて妄りに人と親もうとする者は、これ必ず利欲のための阿(おもね)り諂(へつら)い足恭(すうきょう)にして、道義に於いては甚だ以って咎有りとする。
初六はそもそも九五の爻の応ではないので、孚なくして比を求めるときは咎有ることを免れない。
だから、孚有って之に比しめば咎无し、という。
缶(ほとぎ)とは上古土器にして飾りのない質素な物であって、人の質朴正直にして偽り飾りないことに喩えたのである。
およそ人と交わり親しむの道は、孚を内に満たし、外を飾らないことを善とする。
だから、孚有って缶に盈つれば、という。
このように親しむのであればね終わりに吉となるものである。
だから、終わりに吉なり、という。
しかし、もし初六の爻に他の意があり、その孚がないときには、利欲のためだけに親しむことになる。
これは、吝(はずか)しいことである。
だから、他有れば吝し、という。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初六━ ━

六二、比之自内、貞吉、

六二(りくじ)、之(これ)に比(した)しむこと内(うち)自(より)す、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

之(これ)とは九五の一陽爻を指している。
内よりとは、内卦より外卦に応じることであって、さらには、六二の中正の臣は、九五の中正の君に、陰陽正しく応じている。
しかも今は、親しく比しむべきときなのだから、臣が君に正しく応じ和し親しむのであれば、何の悪いことはない。
だから、之に比しむこと内よりす、貞しくして吉なり、という。

上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初六━ ━

六三、比之匪人、

六三(りくさん)、之(これ)に比(した)しまんとすること人(ひと)に匪(あら)ず、

之(これ)とは九五の一陽爻を指している。
人に匪ずとは、六三すでに人たるところの道を失っているのである。
そもそもこの卦は一陽五陰にして、その五陰爻は、共にそれぞれ九五の一陽爻に親しみ比しむことを求めている。
これは、五陰一陽の卦の定情である。
しかしその応じるにも比するにも、六爻の位においてそれぞれその道の大義がある。
これを以って、中正応比承乗の六道を爻象の六大綱という。
今この五陰爻について、その道の義を述べるときには、まず初六は比の卦の初めの義にして九五の爻とは応比の位には当たらないとしても、朴素正直の孚信をもって親しむときには吉である、との義である。
もとより初九の爻は無位卑賤の者であって、卑賤の小人は、律義篤実を以って上に親しむので、自然に上より恩恵の吉をもたらされるのである。
卑賤陰柔の者は、上の恩沢の下に身を立てることが、定理だからである。
だから初六の爻の辞の中には、孚の字が二回も出てくるのであって、深く孚あるべきことを戒め教えているのである。
また、六二は臣の定位に居るわけだが、これはその正応の位に当たって自己中正の徳を得て、九五の君に親しむことは、当然の義にして、咎があるわけない道である。
しかし阿(おもね)り諂(へつら)いに流れることを怖れ、貞正であってこそ吉であると戒め示しているのである。
また、六四の爻は、執政の大臣の位にして、実に九五の君の爻とは陰陽正しく比していて、なおかつ柔正の徳を以って九五の君と正しく親比和合している。
これもまた咎があることはない道だが、やはり柔であるがために、安易に巽順してしまう傾向を否めないので、貞正ならば吉だと戒めているのである。
また、上六の爻も九五と比の位に当たっているわけだが、これも、九五の一陽爻と陰陽相比しているという点では、咎のない者である。
しかし上六の爻は、不中であるとともに全卦の極に居るので、首(はじめ)无し、凶なり、という責める言葉がある。
さて、これらの様子を踏まえて、六三に戻ろう。
六三は、まず内卦の極に居る。
これは人臣の首(かしら)に居るので、身分が有って職守が有る者である。
しかし九五とは応も比もない。
そこを強いて九五に親しもうとするのは、比の正しい道を失っているのであって、大いに咎の有るところである。
なおかつ六三の爻は、陰柔不才であるとともに不中不正である。
その上、内卦の坤の純陰暗昧の卦の極に居る者である。
これは単に人と親しんで利を得ようと貪る者にして、親比するべき正しい道を知らない者である。
心に一点の孚もなく、巧言令色足恭佞媚して、強いて親比を貪る小人である。
だからこれを斥け責めて、人に匪ず、という。
これは呵責罵詈の極にして、これより大なる恥はないのである。
君子ならば、親比の正しい道をよく慎み択び、決して人に匪ずの責を受けないよう勉めるべきである。


上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

六四、外比之、貞吉、

六四(りくし)、外(そと)にあって之(これ)に比(した)しむ、貞(ただ)しくして吉(きち)なり、

外とは外卦のことをいう。
元来この卦は比を以って名としている。
そもそも五陰爻の中で、九五一陽剛の君の爻と陰陽正しく比するところの位を得ているのは、この六四のみである。
これは、外卦に在って正しく親比する主爻であることを示しているのであって、六二の中正を以って九五の一陽剛の正応として内卦の主となっていることに対する言葉である。
之とは九五の爻を指している。
六四は外卦にあって正しく比の位に当たっている、ということを、外にあって之に比しむ、と表現しているのである。
そもそも六四は宰相執政の位に居て、親比するべきの時に当たって柔正の徳を得て正比の位に在って九五の君と正比和輔している。
したがって、悔吝があるようなことはない。
しかし比の時に比の位に遇っているので、親比することばかりに執着し、ややもすると巽順足恭に流れやすいので、それを怖れ戒めて、貞正にすれば吉だと示している。
だから、貞しくして吉なり、という。


上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

九五、顕比、王用三駆、失前禽、邑人不誡、吉、

九五(きゅうご)、比(ひ)を顕(あきら)かにす、王(おう)三駆(さんく)を用(もち)い、前禽(ぜんきん)を失(うしな)う、邑人(ゆうじん)誡(いまし)めざれども吉(きち)なり、

九五は剛健中正の徳が有り、尊位に在る。
これは一人を以って万邦を撫育する大公至正至明至仁にして、天下の人々と親比するところの君の道の聖徳を備えている者である。
だから、比を顕かにす、という。
これは、親比和睦の道を以って、天下に顕明であることである。
もとより農業のために禽獣を捕獲することは、王政の大礼にして、逸遊荒楽ではない。
しかも、その狩のための囲みを一面だけ解き、禽獣が自ら逃れることができるようにして、禽獣が尽きるまでの捕獲はしないという大仁心の至りである。
だから、王三駆を用い、前禽を失う、という。
三駆とは、三方向から囲い込み、前方の一面は開けておくことである。
そうすることで、前方へ逃げて行く禽獣だけは追いかけないのである。
このようであってこそ、君上の仁徳は四海に満ち溢れ、禽獣にさえも及び、天下の風俗篤実敦厚にして、農民は畔を譲り合い、商人は価格を誠実にし、天候に従い百穀豊饒にして家々は衣食足りて泰平を楽しむ。
飢えて寒い思いをする民がいなければ、盗賊が起こることもないのであって、これこそ治世の盛徳である。
だから、この義を以って、邑人誡めざれども吉なり、という。
誡めずというのは、風俗敦厚の至りにして、警戒防御する苦悩が必要ない様子であって、誡めなくても、上手く行く、ということである。


上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初六━ ━

上六、比之无首、凶、

上六(じょうりく)、之(これ)に比(した)しむるに首(はじめ)无(な)し、凶(きょう)なり、

之とは九五を指す。
首(はじめ)とは、始めということである。
上六は陰柔不中にして、比の卦極に居る。
これは九五の君に阿(おもね)り諂(へつら)いして、比同する小人である。
小人が君に奉仕するは、君を利用して自らの利益を貪ることを目的としているだけである。
始めより道義などというようなことは考えていない。
そのようなことを続けていれば、いつか凶となる。
だから、之に比しむるに首无し、凶なり、という。


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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水上 薫

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ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会



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水地比

08 水地比(すいちひ)
suichi.gif 坤下坎上(こんか かんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、kansui-n.gif坎(かん)を重ねた形。

比は親しみ輔(たす)け合うという意。
この卦は、坎の水が坤の地の上にあるが、水が地の上にあるときは、水は地にしみ込み馴染み、その居所とし、水がしみ込んだ土は植物を育む。
これは、水と土が互いに輔け合い、親しんでいる様子である。
だから比と名付けられた。
また、九五の君位の一陽爻が五陰爻と親しみ、五陰爻はこの一陽の君に親しみ従う様子でもある。
だから比と名付けられた。

卦辞
比、吉、原筮、元永貞、无咎、不寧方来、後夫凶、
比は、吉(きち)なり、原(たず)ね筮(わか)って、元(おお)いに永(なが)く貞(つね)あれば、咎(とが)无(な)し、いまだ寧(やす)からざりしも方(まさ)に来(き)たらんとす、後(おく)れる夫(ひと)は凶(きょう)なり、

比は親したみ輔け合うことだが、このように接すればこそ、人間関係は円滑になるものである。
だから、比は吉なり、という。
原筮とは、根本を究め択び分ける、という意。
『論語』に「益者三友、損者三友」とあるように、世の中には親しむべき人と、親しむべきではない人がいる。
いつも、それをよく見極め、親しむべき人を択び分けて親しむように心がけていれば、困った人と係わり合いを持つこともなく、咎められることもないものである。
だから、原ね筮って元いに永く貞あれば咎无し、という。
そして、そういう人間関係を作っておけば、最初は遠巻きに見ていて邪な心を持った人たちも、やがては感化され、心を入れ変えて、こちらにし親しみを持ってやって来るものである。
だから、いまだ寧からざりしも方に来たらんとす、という。
しかし、みんながそうして親しみ和していても、ひとりだけ我を張り、ソッポを向いているといった人が、世の中にはいる。 そういう人は、結局は和に加われず孤独になるだけである。
だから、後れる夫は凶なり、という。
夫とは、一般的な人のこと。


彖伝(原文と書き下しのみ)
比、輔也、柔輔剛也、
比(ひ)は、輔(たす)ける也(なり)、柔(じゅう)が剛(ごう)を輔(たす)ける也(なり)、

比、吉、下順従也、原筮、元永貞、无咎、以剛中也、
比(ひ)は、吉(きち)なるなりとは、下(しも)順従(じゅんじゅう)する也(なり)、原(たづ)ね筮(わか)って、元(おお)いに永(なが)く貞(つね)あれば、咎(とが)无(な)しとは、剛中(ごうちゅう)なるを以(も)って也(なり)、

不寧方来、上下応也、後夫凶、其道窮也、
不(いま)だ寧(やす)からざると方(まさ)に来(き)たらんとすとは、上下(じょうげ)応(おう)じれば也(なり)、後(おく)るる夫(ひと)は凶(きょう)なりとは、其(そ)の道(みち)窮(きゅう)すれば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
地上有水、比、先王以建万国親諸侯、
地上(ちじょう)に水(みず)が有(あ)るは、比(ひ)なり、先王(せんおう)以(も)って万国(ぱんこく)を建(た)て諸侯(しょこう)を親(した)しむ、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。


☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
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