fc2ブログ

明日に架ける橋

易のこと、音楽のこと、クルマのこと、その時どきの話題など、まぁ、気が向くままに書いています。

天水訟 爻辞

06天水訟 爻辞

上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━○

初六、不永所事、小有言、終吉、

初六(しょりく)、事(こと)とする所(ところ)を永(なが)くせざれば、小(すこ)しく言(いうこと)有(あ)れども、終(お)わりに吉なり、

この卦は、九五の君位の爻以外、すべて訟(うった)える側の者とする。
したがって、この初六の爻辞の中にある「事」というのは、訟えることを指す。
その初六は、坎の険難の底に陥り、その身は困窮している者であって、哀しみ嘆き、その状況を訟えたい意はあるのだが、陰柔不才の卑賤なので、上を畏れ官を恐れて、強いて訟えを遂げることを為し得ない。
要するに、訟えようとする情意は小さく、訟えると言うとやや大袈裟なので、事と言ったのであり、ちょっと不満を言ってみた程度のことである。
だから、事とする所を永くせざれば、という。
そんな些細なことでも、それを口に出して訟えれば、相手からは当然のこととして反論を言われ、自分もちょっと傷つくものである。
だから、小しく言有れども、という。
しかし、訟えを是が非でも遂げようとはせず、すぐ引っ込めるのであるから、それで事は穏便に済む。
だから、終わりに吉なり、という。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━○
初六━ ━

九二、不克訟、帰、而逋、其邑人三百戸无眚、

九二(きゅうじ)、訟(うった)えに克(か)たず、帰(かえ)る、而(しこう)して逋(のが)る、其(そ)の邑人(ゆうじん)三百戸(さんびゃくこ)眚(わざわ)い无(な)し、

この九二の爻は、訟の主謀、成卦の主爻、また内卦の主爻である。
これは衆を集めて徒党を組み、訟(うった)え出る張本人であって、剛中の才を以って進み行き、九五の爻と争い弁じる者である。
しかし、元来九五は上であり、君であり、中正にして乾の剛健厳律の主爻である。
この九二は下にあり、臣であり、不正にして坎の険難陥没の主爻である。
この両者を比較すれば、九二が九五に勝つのは極めて難しい。
だから、訟えに克たず、という。
そもそも九二は、その勢いも才力も、九五と対等だと思い込み、強いて冒し進んで訟え、九五と争うが、その義は立たず、その理は屈して、散々に敗北させられるのである。
敗北して九五のところから本位の二の位に帰っても、その本位にも居られず、逋(のが)れ逃亡することになる。
だから、帰る、而して逋る、という。

さて、九二は下卦坎の主爻であるわけだが、これを一邑(村)の長に擬えると、この訟はその邑を挙げてのものである。
邑の民衆の支援を得た九二は、強いて進んで九五に訟え争ったが、結局は敗北して帰り、さらには逃亡した。
その結果、訟えの首謀者はいなくなった。
首謀者がいなくなれば、その集団は何もできない。
したがって、支援した邑の民衆も、何もできなくなり、これ以上訟えることは止めた。
訟えることを止めれば、九五もそれ以上咎めない。
だから、其の邑人三百戸眚无し、という。
三百は多数の意であり、その邑全体が無事だということである。


上九━━━
九五━━━
九四━━━
六三━ ━○
九二━━━
初六━ ━

六三、食旧徳、貞、終吉、或従王事、无成、

六三(りくさん)、旧徳(きゅうとく)に食(は)む、貞(かた)くすれば(あやう)し、終(お)わりには吉(きち)なり、王事(おうじ)に従(したが)うこと或(あ)れど、成(な)すこと无(なか)れ、

六三は坎の険難の卦の極に居るので、その身に険難がある者とする。
その険難とは、坎を食禄とすれば、食禄費用が不足して困窮している様子だから、その不足を九五に訟え嘆こうとしているのである。
しかし、六三は陰柔にして才力がないので、進み犯すことを憚り、己が無能なることを省みて、訟えを思い止まる者である。
だから、旧徳に食む、という。
旧徳とは旧禄のことにして、祖先より承け伝えた世禄である。
なぜ、禄と言わずに徳と言うのかには、深く重い戒めを込めている。
平和な世の禄というものは、当人のではなく、その祖先の功徳によって賜っている俸給世禄である。
それを打ち忘れて六三の爻は、自身には徳も功もなく、妄りに加増を望んでいるのであって、だから制し戒めているのである。
もし、その志を改めずに、強いて加増を望み訟えれば、これは危うき道である。
だから、貞くすればし、という。
この貞は貞固の意である。
したがって、加禄を求め望むことを改め変じて、よく慎み、旧職を守るときには、無事なのである。
だから、終わりに吉なり、という。
そして、君命を受けて、事に任じられることがあるときは、直向にその役に従事するべきである。
仮に、よくその事を勤め得たとしても、決して自分のチカラだとは考えないことである。
まして、賞を乞い望むなどはもってのほかである。
臣は自身のために事をするのではなく、君命を畏み、忠勤に励むことこそが大事なのである。
だから、王事に従うこと或れども、成すこと无かれ、という。

上九━━━
九五━━━
九四━━━○
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━


九四、不克訟、復即命渝、安貞吉、

九四(きゅうし)、訟(うった)えに克(た)えず、復(かえっ)て命(めい)に即(つ)き渝(あらた)めて、貞(つね)に安(やす)んじれば吉(きち)なり、

この九四もまた、九五の君に訟えようと欲することがある者である。
しかし、九四は上卦乾の一体に在って、九五の君に近接している爻なので、朝夕覿面に、九五の君の剛健中正にして威厳荘重な様子を見ている。
とすると、己は不中不正であるのだから、その訟えに利がないことはよくわかる。
これは、訟えを自重するしかない。
だから、訟えに克えず、という。
そうであるのなら、九四は道に復(かえ)って天命に即(つ)き、志を正しきに改め変じて、一に君上に従い順(したが)うのがよい。
だから、復って命に即き渝めて、という。
さて、九四が志を改め道に復るに当たっては、変革のない貞恒の臣の大道を安んじ守ることを吉とする。
だから、貞に安んじれば吉なり、という。


上九━━━
九五━━━○
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

九五、訟元吉、

九五(きゅうご)、訟(うった)えをきく、元吉(げんきち)なり、

九五は剛健中正にして、よく天下の訟えを聴くところの明決の主爻である。
訟えを聴き定める君は、まず剛でなくてはいけない。
剛でないときは、威厳が軽い。
また、中でなければ偏私の弊害が生じる。
正しくないときには、邪曲に覆われ暗まされる。
しかし今、この九五の爻は、剛中正の三徳をきちんと具えている。
なおかつ陽爻なので明にして、乾の卦の中に在るを以って、決断敏利である。
その上、九五が陰に変じて、上卦の乾が離となれば、離明の徳を得て聡明にして文徳が盛んな様子となる。
このように九五は、訟えを聴く君としての資質を悉く備えているのである。
だから、訟えをきく、元吉なり、という。
元吉とは大善の吉ということである。

なお、九五の爻の義は、訟の卦全体の義を以って言えば、上卦乾の厳格の主であることを以って、下の者がこれに困(くるし)み、止むを得ず訟えることになる主爻とする。
これが、六爻の義を以って言うときには、剛健中正の徳が有り、よく訟えを聴く公正文明の君上とする。
これは卦と爻の分別のポイントである。
基本として言えば、卦は陰陽の交わり和する徳を以って論じ、爻は中正の徳を以って主とするものなのである。


上九━━━○
九五━━━
九四━━━
六三━ ━
九二━━━
初六━ ━

上九、或錫之鞶帯、終朝三褫之、

上九(じょうきゅう)、これが鞶帯(はんたい)を錫(たま)わること或(あ)り、終朝(しゅうちょう)に三(みた)び之(これ)を褫(うば)わる、

上九は陽剛を以って訟の卦の極に居る。
また、上卦乾剛の卦の極に当たってもいる。
これは、己の才力を振りかざして訟えを起こし、必ず勝つことを貪る者である。
事の是非を顧みずに勝とうと貪る者は、得てして自分に都合のよいように、真実を歪曲して欺くものである。
上九は、そうやって手段を選ばずに訟えに勝つので、上より鞶帯を錫わり、恩寵を受けるのである。
だから、これが鞶帯を錫わること或り、という。
鞶帯とは、衣服を飾る帯のことである。
しかし、そういった邪知姦才を以って勝ち取っても、すぐにその邪謀は露見し、忽ち錫わった鞶帯も取り上げられる辱めを蒙るものである。
だから、終朝に三たび之を褫わる、という。
終朝とは、朝が終わるときのことであって、ある朝、訟えに勝ち、鞶帯を錫わっても、その朝が終わるまでには姦計が露見して、取り上げられてしまう、ということである。

ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

商品詳細を見る

ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会



PageTop

天水訟

06 天水訟(てんすいしょう)
tensui.gif 坎下乾上(かんか けんじょう)

八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、<kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

訟は訴えるという意。
乾を剛強として坎を苦しむとすれば、上の為政者の剛強な政策に下の民衆が苦しんでいる様子。
こんなことでは、下の民衆はその苦しみを上に嘆き訴えるしかない。
だから訟と名付けられた。
また、上卦の乾の天の気は上り、下卦の坎の水の性は下るものである。
また、乾の天体(太陽や月など)は東から西へ巡り、天の下の坎すなわち雲は西から東へ流れる。
これは、上と下の者が、目的が異なり、心を通わせることができない様子である。
心が通わなければ、命令される立場の下の者は、上の者に不平を訴えるしかない。
だから訟と名付けられた。
また、外卦を相手とし、内卦を自分とすれば、相手は乾で健やかで、自分は坎で険難を抱えている。
険難を抱えていれば、どう頑張っても健やかな人のペースに合わせることはできない。
これでは、止むを得ず、自分の苦しみを相手に訴えようと考える。
だから訟と名付けられた。
また、全卦をひとりの人間として観る場合は、内に坎の険難の姦謀を秘め、外は乾の剛強で健やかに装う者となる。
このような人は、自分に都合がよくなるようにと、よく不平不満を訴えるものである。
だから訟と名付けられた。

卦辞
訟、有孚窒、中吉、終凶、利見大人、不利渉大川、
訟は、孚(まこと)有(あ)れども窒(ふさ)げられる、(おそ)れて中(ちゅう)すれば吉(きち)、終(お)えれば凶(きょう)、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしからず、

訴えるときは、相手に対して、正当な不満だけではなく、得てして憎しみだけが増幅し、感情的になってしまうものだ。
しかし、相手は乾であり剛健であり理性的である。
自分の心に孚=誠実で有るとしても、それは感情的になっているだけなので、相手に見透かされ、訴えを真剣には聞いてもらえず、窒げられるのが関の山だ。
だから、孚有れども窒げられる、という。
そんなときは、畏れ慎み、中を得ることを、心がけるのが大事だ。
中を得るとは、この場合は相手の言い分と自分の言い分を客観的に判断し、ほどほどで訴えを取り下げるということ。
どうしても相手に要求のすべてを飲ませようとゴネ続ければ、交渉決裂で、自分はそこに居られなくなるだろう。
だから、れて中すれば吉、終えれば凶、という。

また、来往生卦法で観る場合は、この卦は天地否より来たものとする。
否卦のときは、上卦は乾で剛健、下卦は坤で柔弱であり、上卦は外にして君、下卦は内にして民であり、上卦は相手、下卦は自分、上卦の乾の天は陽で上昇の気、下卦の坤の地は陰で下降の気である。
これは、君と民、相手と自分が、互いに背き行き違うことを意味する。
このような状況に乗じて、上卦の外より一陽爻が来て、下卦の民衆の中心に位置して九二となり、険難を意味する坎となり、上卦の君と対峙して、成卦の主爻となった。
したがって、これまで上下の意志の疎通がなかったことが、今回の訴えの原因である。

とにかく、訴えを起すには、理非曲直を明らかに判断できる明徳の君子=大人でなければ、上手く行かないものである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

さて、そもそもこの卦は、上下が行き違っているのであって、天空の下の雲が激しく動いているような状況である。
嵐を予感させるときである。
波風も強く、大川や海を渡るのは極めて危険である。
だから、大川を渉るに利ろしからず、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
訟、上剛下険、険而健訟、
訟(しょう)は、上(かみ)剛(ごう)にして下(しも)険(けん)なり、険(けん)にし而(しこう)して訟(しょう)を健(すこや)にしてよくおこす、

訟、有孚窒、中吉、剛来而得中也、
訟(しょう)は、孚(まこと)有(あ)れども窒(ふさ)げらる、(おそ)れて中(ちゅう)すれば吉(きち)なりとは、剛(ごう)来(き)たりて而(しこう)して中(ちゅう)を得(え)れば也(なり)、

終凶、訟不可成也、利見大人尚中正也、
終(お)えれば凶(きょう)なりとは、訟(うったえ)は成(な)しとげる不可(べからざ)れとなり、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろしとは中正(ちゅうせい)を尚(たっと)べば也(なり)、

不利渉大川、入于淵也、
大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしからずとは、淵(ふち)に入(い)れば也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
天与水違行訟、君子以作事謀始、
天(てん)与(と)水(みず)が違(ちが)い行(ゆ)くは訟(しょう)なり、君子(くんし)以(も)って事(こと)を作(な)すには始(はじ)めを謀(はか)るべし、


ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。


☆ 旧約聖書~天地創造との一致 ☆

ところで、キリスト教の『旧約聖書』冒頭には、神が六日間でこの世界を造った、という神話がありますが、この場面での神の行動は、六十四卦の序次の順と同じなのです。
第一日目は、序次最後の64火水未済と、序次冒頭の01乾為天、02坤為地、03水雷屯、04山水蒙の計5卦の意味するところと一致します。
第二日目は、続く05水天需、06天水訟、
第三日目は、続く07地水師、08水地比、
第四日目は、続く09風天小畜、10天沢履、
第五日目は、続く11地天泰、12天地否、
第六日目は、続く13天火同人、14火天大有、
の意味するところと一致します。

これは単なる偶然の一致でしょうか?
あるいは、易はすべてを見通していて、どんなことでも易経の卦辞や爻辞のとおりに動くからでしょうか?
いや、そんなことはありません。
だから、未来を知るためには、筮竹で占うことが必要なのです。
では、このキリスト教との一致はどういうことなのでしょうか?
それは、『聖書』の物語が、易の理論を利用して作られたものだったからに他なりません。
・・・と、これだけを取り上げて言っても、説得力は弱いでしょう。
しかし『聖書』に書かれた物語は、ほかにもいろんなことが易の理論と共通していて、それらは六十四卦の序次によって幾何学的に繋がっているのです。
易を知らなければ、神学者や聖書研究者がいくら頑張っても、まったくわからないことでしょう。
しかし、易を少しでも知っていれば、誰でも容易にわかることなのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く聖書と易学―キリスト教二千年の封印を解く
(2005/04)
水上 薫

商品詳細を見る

ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。

(C) 学易有丘会


PageTop