
05水天需 爻辞
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、需于郊、利用恒、无咎、
初九(しょきゅう)、郊(こう)に需(ま)てり、用(もち)いて恒(つね)あるに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、
需は待つという意の卦である。
内卦の乾の三陽剛は、その「進む」という意の卦爻の性情により、共に進もうとするのだが、進もうとする先には外卦の坎の険難があり、進めない。
したがって、今は進むのを堪え、進めるときが至るのを待つしかない。
その待つに当たっての、初爻、二爻、三爻と、外卦の坎の険難の卦との遠近をもって、各爻辞が書かれた。
初九は、坎の険難の水から最も遠い場所でなので、郊という。
郊とは広遠の地にして、水辺から遠いところを指す。
また易は、二爻から五爻までを域内とし、初と上を域外とするのだが、郊は郊外という言葉があるように、域外を指す文字でもある。
だから、郊に需てり、という。
初九は内卦乾の「進む」の卦の一体に在って、陽剛にして不中であり、今は需の待つときだとしても、妄りに軽々しく進もうと欲する情がある爻である。
もし、そのまま自重せずに進むときには、必ず応爻の六四の険難に陥る。
だから、これを制し戒めて、恒を用いるに利ろし、という。
恒とは変動しないことである。
今、初九は、よく恒を守り、妄りに進み動かなければ、険難に陥るという害を免れるので、咎もないのである。
だから、咎无し、という。
初九と六四は陰陽相応じていて、普通の応の関係は相助け合うものだが、この卦この爻は、助け合うのではなく、却って険難に陥らせて害そうとするのである。
これを害応という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、需于沙、小言、終吉、
九二(きゅうじ)、沙(すな)に需(ま)つ、小(すこ)しく言(いうこと)あれども、終(お)わりには吉(きち)なり、
沙は郊に比べれば、やや水に近く、九二は初九よりひとつ坎の水の険難に近い。
だから、沙に需つ、という。
九二は、初九よりも坎の水の険難に近づいたわけだが、近づいたことで、少し傷みを被る可能性がある。
したがって、ちょっと忠告しておくのである。
だから、小しく言うことあれども、という。
しかし、そもそも九二の爻は、中の徳を得ているので、乾の進むの卦の体中に居るとしても、進むに専らではなく、よく時を待ち、災いに至らないようにする者である。
だから、最後には無事を得るので、終わりには吉なり、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三、需于泥、致寇至、
九三(きゅうさん)、泥(ひじりこ)に需(ま)つ、寇(あだ)の至(いた)ることを致(いた)す、
泥は水際の地であり、九三の爻は直ちに坎の水の険難に隣接しているので、その居場所は九二よりもひとつ危険である。
だから、泥に需つ、という。
寇とは、害が大きいことを言う。
九三は乾の進むの卦の極に居て、過剛不中である。
これは、進むことだけしか考えていない爻である。
しかも、僅かに一歩進んだだけで、忽ち六四の坎の険難に陥る場所であり、至極危険な爻である。
と言っても、その六四の害悪の寇は、向こうから来るわけではない。
すべて、九三が待ち切れずに、こちらから進んだときに、六四の寇を誘い来たすのである。
だから、寇の至ることを致す、という。
九三と六四は陰陽相比していて、普通の比の関係は相助け合うものだが、この卦この爻は、助け合うのではなく、初九と六四の害応のように、却って険難に陥らせて害そうとするのである。
これを害比という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━
六四、需于血、出自穴、
六四(りくし)、血(ち)に需(ま)つ、穴(あな)自(よ)り出(い)ず、
血とは、直ちに傷害を被る場所であることを指す。
六四はすでに坎の険難に陥り、傷害を被っている。
だから、血に需つ、という。
もとより六四は、陰柔不才にして、坎の険難を遁れ出るべき才力はない。
しかし、陰位に居る陰柔なので、その志は弱く、焦って動こうともせず、坎の穴の中で、時が過ぎるのを待っている者である。
待っていれば、いつか初九の陽剛が応じ来て、六四を救い出してくれる。
だから、穴自り出ず、という。
穴とは険悪の地の喩えである。
ところで、初九のときは六四を害応としたが、この六四の爻を主体に観ると、初九は相助けてくれる応なのである。
このように易は、主体として観る爻の違いにより、相対する爻との関係も異なってくるのであって、これを見極めないと、判断を誤るのである。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九五、需于酒食、貞吉、
九五(きゅうご)、酒食(しゅしょく)に需(ま)つ、貞(ただ)しくして吉なり、
酒は宴楽全般を指す。
食とは、身を養うことを指す。
九五は至尊の位置に在って剛健中正の徳はあるが、坎の険難の主爻でもある。
したがって、今は民衆に充分なことを施せない。
とすると、食を以って民を養い育て、酒を以って民を楽しませることが可能になるときを待つのが大事である。
だから、酒食に需つ、という。
そのときを待つのには、必ず貞正であることが大事である。
だから、貞しくして吉なり、という。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
上六、入于穴、有不速之客、三人来、敬之終吉、
上六(じょうりく)、穴(あな)に入(い)れり、速(まね)かざる客(きゃく)、三人(さんにん)来(き)たること有(あ)り、之(これ)を敬(けい)すれば終(おわ)りには吉(きち)なり、
上六は坎の険難の極に陥り居て、不中にして重陰である。
重陰とは、陰位に陰が居ることを言う。
だから、穴に入れり、という。
穴とは坎の険難のことである。
しかし上六は、需の全卦の終わりである。
需のときの義は、そろそろ尽きようとしている。
したがって、内卦の乾の三陽剛が、そのときを待ち得て進み来るのも近い。
だから、速かざる客三人来たること有り、という。
上六は重陰不中にして、坎の険難の極に陥って、陰弱にして自力で出ることができないが、幸いに九三に応じている。
その九三は今、応じているので、時を得て進み来て、これを救い出す。
もとより初九と九二とは上六の爻の応でも比でもないが、初二三は共に内卦乾の一体なので、九三が応として進み来て助ければ、初と二も共に連なり進んで相助けるのである。
したがって、上六はこの三人を敬すれば、終りには坎の険難から脱出できるのである。
だから、之を敬すれば終わりに吉、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
易の初歩的なことについては、
私のサイトの易学入門ページをご覧ください。
また、六十四卦それぞれの初心者向け解説は、オフラインでもできる無料易占いのページをご覧ください。占いながら各卦の意味がわかるようになっています。
なお易は、中国や日本だけではなく、遠くユダヤやローマにも多大な影響を及ぼしました。
聖書と易経を比較すれば容易にわかることなのですが、キリスト教は易の理論を巧みに利用して作られた宗教だったのです。
詳細は拙著『聖書と易学-キリスト教二千年の封印を解く』についてのページをご覧ください。
ちなみに表紙の右下のほうに白線で示しているのは、08水地比の卦象です。
キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━○
初九、需于郊、利用恒、无咎、
初九(しょきゅう)、郊(こう)に需(ま)てり、用(もち)いて恒(つね)あるに利(よ)ろし、咎(とが)无(な)し、
需は待つという意の卦である。
内卦の乾の三陽剛は、その「進む」という意の卦爻の性情により、共に進もうとするのだが、進もうとする先には外卦の坎の険難があり、進めない。
したがって、今は進むのを堪え、進めるときが至るのを待つしかない。
その待つに当たっての、初爻、二爻、三爻と、外卦の坎の険難の卦との遠近をもって、各爻辞が書かれた。
初九は、坎の険難の水から最も遠い場所でなので、郊という。
郊とは広遠の地にして、水辺から遠いところを指す。
また易は、二爻から五爻までを域内とし、初と上を域外とするのだが、郊は郊外という言葉があるように、域外を指す文字でもある。
だから、郊に需てり、という。
初九は内卦乾の「進む」の卦の一体に在って、陽剛にして不中であり、今は需の待つときだとしても、妄りに軽々しく進もうと欲する情がある爻である。
もし、そのまま自重せずに進むときには、必ず応爻の六四の険難に陥る。
だから、これを制し戒めて、恒を用いるに利ろし、という。
恒とは変動しないことである。
今、初九は、よく恒を守り、妄りに進み動かなければ、険難に陥るという害を免れるので、咎もないのである。
だから、咎无し、という。
初九と六四は陰陽相応じていて、普通の応の関係は相助け合うものだが、この卦この爻は、助け合うのではなく、却って険難に陥らせて害そうとするのである。
これを害応という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━○
初九━━━
九二、需于沙、小言、終吉、
九二(きゅうじ)、沙(すな)に需(ま)つ、小(すこ)しく言(いうこと)あれども、終(お)わりには吉(きち)なり、
沙は郊に比べれば、やや水に近く、九二は初九よりひとつ坎の水の険難に近い。
だから、沙に需つ、という。
九二は、初九よりも坎の水の険難に近づいたわけだが、近づいたことで、少し傷みを被る可能性がある。
したがって、ちょっと忠告しておくのである。
だから、小しく言うことあれども、という。
しかし、そもそも九二の爻は、中の徳を得ているので、乾の進むの卦の体中に居るとしても、進むに専らではなく、よく時を待ち、災いに至らないようにする者である。
だから、最後には無事を得るので、終わりには吉なり、という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━
九三━━━○
九二━━━
初九━━━
九三、需于泥、致寇至、
九三(きゅうさん)、泥(ひじりこ)に需(ま)つ、寇(あだ)の至(いた)ることを致(いた)す、
泥は水際の地であり、九三の爻は直ちに坎の水の険難に隣接しているので、その居場所は九二よりもひとつ危険である。
だから、泥に需つ、という。
寇とは、害が大きいことを言う。
九三は乾の進むの卦の極に居て、過剛不中である。
これは、進むことだけしか考えていない爻である。
しかも、僅かに一歩進んだだけで、忽ち六四の坎の険難に陥る場所であり、至極危険な爻である。
と言っても、その六四の害悪の寇は、向こうから来るわけではない。
すべて、九三が待ち切れずに、こちらから進んだときに、六四の寇を誘い来たすのである。
だから、寇の至ることを致す、という。
九三と六四は陰陽相比していて、普通の比の関係は相助け合うものだが、この卦この爻は、助け合うのではなく、初九と六四の害応のように、却って険難に陥らせて害そうとするのである。
これを害比という。
上六━ ━
九五━━━
六四━ ━○
九三━━━
九二━━━
初九━━━
六四、需于血、出自穴、
六四(りくし)、血(ち)に需(ま)つ、穴(あな)自(よ)り出(い)ず、
血とは、直ちに傷害を被る場所であることを指す。
六四はすでに坎の険難に陥り、傷害を被っている。
だから、血に需つ、という。
もとより六四は、陰柔不才にして、坎の険難を遁れ出るべき才力はない。
しかし、陰位に居る陰柔なので、その志は弱く、焦って動こうともせず、坎の穴の中で、時が過ぎるのを待っている者である。
待っていれば、いつか初九の陽剛が応じ来て、六四を救い出してくれる。
だから、穴自り出ず、という。
穴とは険悪の地の喩えである。
ところで、初九のときは六四を害応としたが、この六四の爻を主体に観ると、初九は相助けてくれる応なのである。
このように易は、主体として観る爻の違いにより、相対する爻との関係も異なってくるのであって、これを見極めないと、判断を誤るのである。
上六━ ━
九五━━━○
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
九五、需于酒食、貞吉、
九五(きゅうご)、酒食(しゅしょく)に需(ま)つ、貞(ただ)しくして吉なり、
酒は宴楽全般を指す。
食とは、身を養うことを指す。
九五は至尊の位置に在って剛健中正の徳はあるが、坎の険難の主爻でもある。
したがって、今は民衆に充分なことを施せない。
とすると、食を以って民を養い育て、酒を以って民を楽しませることが可能になるときを待つのが大事である。
だから、酒食に需つ、という。
そのときを待つのには、必ず貞正であることが大事である。
だから、貞しくして吉なり、という。
上六━ ━○
九五━━━
六四━ ━
九三━━━
九二━━━
初九━━━
上六、入于穴、有不速之客、三人来、敬之終吉、
上六(じょうりく)、穴(あな)に入(い)れり、速(まね)かざる客(きゃく)、三人(さんにん)来(き)たること有(あ)り、之(これ)を敬(けい)すれば終(おわ)りには吉(きち)なり、
上六は坎の険難の極に陥り居て、不中にして重陰である。
重陰とは、陰位に陰が居ることを言う。
だから、穴に入れり、という。
穴とは坎の険難のことである。
しかし上六は、需の全卦の終わりである。
需のときの義は、そろそろ尽きようとしている。
したがって、内卦の乾の三陽剛が、そのときを待ち得て進み来るのも近い。
だから、速かざる客三人来たること有り、という。
上六は重陰不中にして、坎の険難の極に陥って、陰弱にして自力で出ることができないが、幸いに九三に応じている。
その九三は今、応じているので、時を得て進み来て、これを救い出す。
もとより初九と九二とは上六の爻の応でも比でもないが、初二三は共に内卦乾の一体なので、九三が応として進み来て助ければ、初と二も共に連なり進んで相助けるのである。
したがって、上六はこの三人を敬すれば、終りには坎の険難から脱出できるのである。
だから、之を敬すれば終わりに吉、という。
ここに書いているのは、江戸後期の名著、眞勢中州の『周易釈故』より抜粋し、現代語で意訳したものです。
漢字は原則として新字体で表記しています。
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キリスト教のシンボル十字架と中心教義の「愛」は、08水地比の卦象がもらたす意味と一致しているのです。
(C) 学易有丘会


